あなたがここにいてほしい

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梗 概

あなたがここにいてほしい

 2075年、二子玉川。元陸上選手で営業出身の六十五歳の男は、飼い犬・レモンを救おうとして負った事故で車椅子生活となった。家事と自治会事務を淡々と回し、給付とわずかな収入で家計を律することに静かな誇りを置く。社内結婚の妻はパートの傍ら自警団に所属し、「何も起きない一日」を守るため、検問や停電訓練が常態化した町を巡回する。多摩川の向こう、反社会勢力の支配下にある川崎第三区では赤い点滅が増え、二子玉川側の見張り台の白灯と対照をなす。家には、パンデミックで亡くなった一人娘・愛(アイ)の写真と、娘が名づけた犬・レモンの記憶が残る。

 男は娘の残したアカウント〈アイ〉で「令和VR/渋谷2050」にログインする。アイの没年齢のままアイの死んだ2050年の渋谷を走り、匂いと温度と段差を確かめながら、アイの失われた生の続きを結び直す。一方で、匿名の相手の欲望を満たす仕事で生活費を稼ぐ男。利得と罪責が同じ鏡面に立ち、鏡の「アイ」が自分を見返すたび胸が冷える。

 ある日、〈ユウ〉というアカウントからフレンド申請が届く。二人は歩幅を合わせて走り、一本の映画を観る。やり取りは簡潔だ——「守るって何?」「一緒にいること」。その言葉は、現実で男が妻に告げたプロポーズ「君を守る」と重なり、喪失で乱れていた呼吸が整っていく。

 現実では、妻が自警団の団長を伴って帰宅。団長は男の車椅子を補強するとともに、光音警告(緑)・発射(赤)の装置を取り付ける。若い団長に妻が寄せる信頼に男は嫉妬し、同時に自己嫌悪に沈む。それでも彼は、風を読む身体の記憶で妻の動線を支え、家計と防備を先回りで整え続ける——自分にできる「守り」として。

 夜、招集コード〈橋下B〉。短いサイレンと無線。妻は「家にいて」と出ていくが、男の端末にも緊急の帯が走る。東風。男は車椅子で現場へ向かう。土手を下り、盾と腕章が散る広場の縁で、姿は見えなくとも妻の位置を「そこにいる」と読む。暴漢のヘルメットが光る。男はカバーを払って緑、続けて赤。前輪を上げて段差を滑り、橋脚の影が切り替わる刹那、誓いは現在形になる——君を守る。

 事後、夫婦は腹を割って決める。家を売り、田舎で静かに暮らし直そう。日曜にはレモン色の花と白い小花を持ち、娘・愛の墓へ行く。

 VRでは〈アイ〉が〈ユウ〉に告げる。「この世界からログアウトする」。〈ユウ〉は「それがいい。わたしも消える」と寄り添い、二人だけが知る言葉を耳許で返す——君を守る。互いの正体は明かさないまま、再会の約束だけを残す。「日曜、レモン、あの子のところで」。男は〈アイ〉のアカウントを削除する。

 喪は終わらない。喪とともに生き直すために。

文字数:1110

内容に関するアピール

 幸せ家族の50年後を想像しました。主人公は学生時代陸上部、大手企業に就職し営業職として活躍した男です。妻とは社内恋愛で結婚し、かわいい娘にも恵まれました。二子玉川に新築マンションを買い、こつこつローンを返しながら、犬も加えた四人で、時には多摩川の河川敷を散策する。典型的な幸せ家族です。

 時が経ち、全てが変わってしまいます。2075年、世の中は不穏な空気でみたされています。マンションの前で車に轢かれそうになった犬を助けようとして車椅子生活となった主人公。自警団に属し、銃の扱いに手慣れてしまった妻。食卓にはパンデミックで亡くなった娘と犬の写真。

 主人公は娘が残したアカウントを使い、娘が死んだ2050年の渋谷VRにアクセスし、娘になりすまし娘を生かし続けています。

 ごく普通の人々のありそうな未来を、喪失を乗り超え今を生き直す物語に仕立てました。タイトルはピンクフロイドの楽曲名です。

文字数:394

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あなたがここにいてほしい

走っていた。
 センター街の空気が首筋を冷やす。路地に白い花。土の匂いが鼻の奥まで来て、舌の先がほどける。靴紐を結び直す。きつくもしない、ゆるくもしない。
 レモン色のワンピースがガラスに揺れる。肩が自由になれそう。目だけで連れていく。試香紙を一枚。アルコールが飛ぶのを待つ。遅れてくる甘さで、胸が長くなる。角のスタンドでレモンソーダをSサイズで、紙コップ二つ。
「友だちと?」
「ううん、未来のわたしと」
 紙コップ二つに半分こ——今日の印。

「今日の髪、好き」通りすがりの女の子。
「風が整えてくれたよ」と、わたし。

 デッキの手すりは昼の熱を抱いていて、掌が落ち着く。下を覗くと、タクシーの屋根が蜂蜜色で並び、信号のカウントが几帳面に減る。写真は撮らない。体で記録する。
 画面が震える。泡みたいなメッセージが起きては沈む。今日は拾わない。
 息を吸う。置く。進む。立ち止まる。スクランブルの手前で髪をまとめる。新しいゴムの粉っぽさが指に残る。大きなサイネージがLEDの花吹雪を撒き散らし、色の粒が空気に混ざる。肩に花びらが落ちた気がして軽くなる。

 ——ナギはここで生きている。

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 ゴーグルを外す。
 額にバンドの跡。頬の汗は冷えていた。
 車椅子に深く座り直す。肘掛けの合成皮革が手の温度を吸う。脚は静かだ。重さはあるが、意思はとうにない。
 机の上にゴーグルを置き、レンズを布で拭く。指紋が消える。樹脂の匂い。アシストモーターを入れる。スティックに触れる。椅子が動き出す。仕事部屋から廊下へ。壁の角に古い擦り跡。曲がりながら、自分の歩幅を思い出す。
 キッチンの灯をつける。流しに伏せたコップ。水滴はない。冷蔵庫の扉に、「2075年度 臨時検問運用 第4改/二子玉川自治会」の張り紙。視線を外す。喉が乾く。蛇口からコップへ水を入れ、ひと口だけ飲む。下唇がガラスの縁で冷える。
 テーブルの角に妻の座り癖。椅子が斜めを向いている。配給の袋がひとつ。麦のブロックと野菜の名札。開けない。彼女が戻ってからでいい。
 壁の時計は遅れない。彼女が帰ってくる時間へ。
 カーテンを開けた。対岸の川崎の様子を伺う。いつの間にか習慣になってしまった。
 食器棚の上に写真立て。凪の笑顔とレモンの瞳。赤い服と首輪の白。給気口の低い流れ、冷蔵庫の循環。鍵の開く音。
「お父さん、ただいまー」
 妻はガンケースをテーブルに置いた。黒い樹脂。ファスナーが走り、切り抜かれたウレタンの輪郭が開く。払い下げの拳銃と空のマガジン、弾丸の箱、油瓶、ブラシ、布。許可番号の札。妻は脱いだ戦術ベストを椅子にかけた。
「今日は何もなかった」
 金属とオイルの匂いが言葉に混じる。妻はスライドを引き、銃を電球の光にかざした。
「風は東。お父さんの“風メモ”、今日も大当たりでした」
「そうか」
 妻は溝を拭い、ばねを押して戻す。音は尖らない。
「団長、来週また来るって。椅子の装備、試すよ。いい?」
「任せる」
 妻はスライドとフレームを合わせ、指で角度を整える。安全装置の位置を一度だけ目で確かめ、空のマガジンを差し込んで抜く。また差す。確認は声にしない。呼吸の短い整いが合図だった。
「プリンあるよ。半分こする?」
 冷蔵庫からプリン。スプーンですくって私の口許に。昔からの順番だ。私はひと口もらい、甘さを喉に沈めた。妻はもう一方の手で、私の口の端を指先で示す。私は拭う。
「日曜、川に行こう。お父さんの得意な風の授業、わたし受けたい」
「授業というほどのものじゃない」
「そういうとこ、好き」
 妻は拳銃をウレタンの窪みに戻し、ガンケースを閉じる。ファスナーが走り、樹脂が凹んで、すぐ戻った。

      ***

 寝室の灯は低い。
 妻は洗面器を持ってきて、タオルを沈め、しぼった。湯の匂い。石鹸の香り。
「お父さん、腕、上げられる?」
「上げる」
 脇、肩、胸。温かい布が通り、冷える前に次の面で追いかけてくる。体を前に倒し、妻の手で支えられながら背中まで。古い擦り傷のケロイドに触れる。痛みはない。腹、腰、腿。脚は重い。重さだけ。
「この匂い、飽きたら言って。別の買ってくる」
「今のでいい」
 パジャマの袖が指に迷うと、妻が爪先で袖を誘導する。ボタンがひとつずれて、彼女が直す。骨盤の下に手を入れる。手順は体に入っている。
「痛くない?」
「大丈夫だ」
 足台を跳ね上げ、ベッドの高さをわずかに下げる。ベルトを外し、妻が後ろから抱える。息だけ合わせて、持ち上がり、沈む。マットの弾力が受け止める。
「よし」
 枕の位置。首の角度。膝の下に小さく折ったタオル。
「ここ、楽?」
「楽だ」
 妻の指に金属の匂いが残っている。ベッドに上がった妻が、後ろから腕を回す。肋骨のあいだに呼吸が入り、背中がゆっくり上下する。
「明日は短め巡回。倉庫寄って、装備、見てくる。いいやつ、選んでくる」
「君に任せる」
「任されました」
 指が胸の前で重なって、そこで止まる。手の甲に小さな擦り傷。見ない。寝息はすぐ整った。規則的で、途切れない。温度が背に移る。
 眠れない。
 頭の中に、数字が浮かぶ。修繕一時金。月々の管理費。固定資産税。障害年金の額。わずかな蓄え。橋の見張り台。照明の数。ドローンの音。
 妻は何も起きない一日を作るため、毎日、外へ出る。帰ってきて、分解して、拭いて、組んで、順番どおりに戻す。その手順が妻の体に入るほど、私は安心し、同時に不安になる。
 彼女が私を守っている。それはありがたく、恐ろしい。
 団の若い顔が頭をよぎる。真面目で、まっすぐで、礼を言えばちゃんと頷く。彼を悪く思いたくない。ただ、私の役目が減っていく音が聞こえてくる。これは嫉妬なのか老いなのか。
 世界は騒がしい。家の中は静かだ。その差の中で、私は目を閉じた。

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 稼ぐ日。
 スワイプは波。メッセージは泡。泡のいくつかが弾けず留まって、そこにだけ指を置く。

〈予約/30分/部屋ロック可〉
〈感応値 4.6/同期率 98.7%/遅刻なし/場所:渋谷東口〉

 必要な数だけ拾えばいい。拾い方は、ここで覚えた。

 東口の小さなビル。エレベーターの鏡は曇りがなくて、口紅の線がずれない。廊下の灯りは低い。ドアの前に置かれた二つ折りのタオル。
 フィードルームの前でスキンポートに〈接続〉する。
 鍵が音を立てて回る。入る。入ってしまえば、あとは順番。窓のカーテンは半分だけ閉まっている。洗面台は乾いている。テーブルの上に紙コップ。ミントの水。壁の時計は音を立てない。
「どうぞ」
 声は低い。目は合わない。
 シーツの端だけ触れる。布は冷えている。指が先に温度を覚える。退室コードを確認して、短い順番だけを進める。

 シャワーの音が止まる。窓は開かない。カーテンの隙間から看板の文字が逆さに入ってくる。アプリの端で、数字が一段だけ繰り上がる。息を整える。鏡を見ない。ルールどおり、評価はつけない。

 廊下に戻る。エレベーターの鏡が〈私〉を見る。ナギが〈私〉を見る。指の先にミントの冷たさが残る。

 外に出ると、蜂蜜色の屋根が整列して、信号のカウントが規則的に減っていく。スニーカーの紐を結び直す。きつくする。
 残高は石みたいに増えるけど、ポケットは膨らまない。

 次の泡。

〈予約/20分/部屋ロック可〉
〈感応値 4.2/同期率 96.2%/遅刻なし/場所:渋谷円山町〉

 角のスタンドで水をひと口。
「レモンソーダのS?」
「今日は水だけ」

 二つ目のビルは古い。階段に少し埃。フィードルームでスキンポートに〈接続〉。部屋の灯はやわらかく、机の端にティッシュの箱が新しい。アプリの鍵は静かに緑になる。順番。短い順番。壁の時計は音を立てない。

 終わり。

 数字が一段繰り上がる。わたしは鏡を見ない。髪を結び直す。ゴムの粉っぽさが指に残る。

 外へ。
 夕方の風が首筋を冷やす。
 ネイルサロンの前で透明チップが光に透け、配達の人が片手を上げる。角を曲がって、人の波の浅いところだけを選ぶ。
 必要な石はもう足りた。
 ペデストリアンデッキに出る。手すりは昼の熱をかすかに抱いていて、掌に移すと、心臓が落ち着く。ログを消す。稼ぐ日は記録しない。
 息を吸う。置く。進む。立ち止まる。
 いつもどおりの順番で、街を軽くする。

 ——そのとき、ピコン。

 画面の隅に、白い旗が立つ。

〈シンクコール:エイラ〉

 短いメッセージが一行だけ。

〈わたしはエイラ〉

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 川は薄く続いていた。
 妻が背中からゆっくり押す。舗装の継ぎ目で椅子が小さく揺れるたび、肘置きに置いた掌の温度がずれる。草の切り口が青く漂い、風は東。
 妻のベストは防弾で、左の裾だけがわずかに落ちている。肩のホルスターの重み。ファスナーの内側に許可証の札。銃を携帯していても、明るい声は変わらない。
「お父さん、モーター入れないで重くない?」
「風が味方だ」
 堤防の向こう、川崎側は昼でも照明がついている。骨組みだけの建物に太陽幕が継ぎはぎされ、鉄の足場が止まったまま。風車と布幕が軋む音が、ここまで届く。火を焚く煙。人の声。
評議会の放送では、風を神と呼ぶ祈りが流れているらしい。こちらでは、AIが風向きを演算し、照明の角度を最適化する。この街では、風さえも計算の一部だ。
「風は赤から吹いてる」
妻が言う。
「いつだってそう。風は熱いところから冷たいところへ吹くのね」

 かつての橋脚には、白いラインで境界の印。あの線を越えれば、交戦権が発動する——停戦協定の最後の条項だ。吊り下げ式のセンサーが風に揺れ、赤外線の線が川面に落ちる。そこを魚が横切ると、警告灯が一瞬だけ白く点く。対岸の見張り台から同じ光が返る。撃たない日の挨拶。それでも、赤と白の灯は決して同時には点かない。
妻の胸ポケットの許可証の札が光る。その下に、小さな黒いリボン。もう二十五年になる。
 あの日、渋谷に爆弾が落ちた。
 人間側からの管理AIロゴスへの「反抗」と報道されたが、ロゴスの自作自演という説も流れた。誰が最初に撃ったのか、誰も知らない。内戦が始まった日、風は北東だった。
 凪はまだ十六歳だった。駅へ向かう途中で、通信が途絶えた。
 妻は銃を持った。
 私は凪のアカウントを引き継いだ。

 ——風は、赤い側から吹いている。
 冷たくもなく、ただ現実の匂いがする。その匂いの中に、凪の髪の香りがまだ残っている。
 世界を憎む気持ちは、確かにある。けれど、何を憎めばいいのか、もうわからない。AIか、人か、風そのものか。その境界があの日から曖昧になった。
 妻は押す手を緩めず言う。
「団では、赤の区域を浄化すべきだって話が出てる」
「浄化……」
「もう交渉は無理。ロゴスが指示する前に、こっちから動くしかない」
 その言葉の“動く”という響きに、金属のような冷たさを感じた。私は頷く代わりに、風を読んだ。欄干の向こうで、川面の皺が右から左へ細く走る。
「今日は南西」
 妻は笑った。
「お父さんの風の授業、団で流行ってるよ。旗の読み方、みんな真似してる」
 その笑顔の奥で、指先がホルスターの金具を確かめている。

 ベンチの影に入る前、駅の方向に視線を移す。百貨店の跡は看板だけ残って、壁は広告布で塞がれている。吹き抜けだった場所の配給ブースに並ぶ列は長く、静かだ。シャッターの波形は複数の店の境目を曖昧にして、貼り紙と落書きが重なって厚くなっている。夜間の外出制限の紙は色が抜け、端がめくれている。タクシー乗り場は柵で囲われ、案内の電子掲示は地名の半分が欠けているが、時刻だけは正確だ。
 かつての再開発区は、再開発されないまま時が止まった。ロゴスは“最適化済み”と判断した。止まったままの均衡——それがこの街の平和だ。
 自走配送機があちらこちらで動いている。止まると、鞄を持った若者が近づいて、荷の番号を声に出して確認した。警備の老人は防風のゴーグルとライフル銃。彼らの制服には中華系企業のロゴが。政府のものは、もう見ない。
「団長、さっき無線くれてね。お父さんの椅子、改造してもらえる」
「ありがたい」
 ベンチの近くで止まる。妻はバッグを膝に置き、周囲を見る癖を済ませてから、シュークリームの袋を出した。私は先にひと口もらう。甘さが喉に沈み、風が一瞬やわらぐ。
 堤防下の訓練は、盾の角度と退却足を繰り返している。掛け声は弱い。隣から来た少年が自転車で見物し、母親が手首を引いて戻す。少年は素直に従った。従うのが速い。
 帰り道、駅前をかすめる。決済ブースに列ができている。仕事の斡旋表が立つ。四角い紙の角に今日の日付、太いペンで「短」「夜」「即」。読む人は多いが、声はない。
 川は薄い音で続いている。私たちは、何も起きない午後を、なるべくゆっくり進んだ。その手前で、駅前の貼り紙が風に鳴り、川崎側の赤い警告灯が瞬いた。

      ***

 朝のテレビは音を抑えていた。映像の端にノイズが走る。テロップが滑っていく。

〈北海道AI管理局:中京管制とデータリンク再開せず〉
〈関西圏:独立AI“ミロク”暴走、通信制限続く〉
〈九州統合ネット:気象衛星ハック、修復見通し立たず〉
〈首都圏:第三区評議会、物資搬入制限解除要求〉
〈北関東:農業共同体、分散AI“シモツケ”の庇護下で自給率22%〉
〈各地で無登録AIの暴走報告〉

 妻はキッチンで髪をまとめ、エプロンを外した。ベストは椅子の背にかけてある。髪を結うとき、耳たぶに沿う螺旋の金属がわずかに光った。その内側で、黄色の粒がひとつだけ息をしたように瞬いた。結婚する前、妻にプレゼントした螺旋のピアス。
「お父さん、水、ここに。薬、朝の分」
「ああ」
「今日のパート、昼まで。夕方から訓練だから、ちょっと遅くなるかも」
「わかった。気をつけて」

 窓の外、配給ドローンの列が飛行する。音声案内が街路のスピーカーから流れてくる。
〈AIロゴス首都圏管制:本日、風速調整モードを低速に変更します〉
風が吹くたび、看板が微かに震える。
「風まで、AIが決めるのか」と冗談めかしたが、妻は笑わなかった。

「ごはん、上段の左。青いテープが昼、黄色が夜。三分チン。スープは、蓋、少し開けてチンしてね」
 テーブルに封筒が三つ。私は指でそろえる。
「修繕一時金、オンラインで決済予約した。来月の五日」
「ありがとう」
「管理費と保険料、今月は決済日に落ちる。団の会費はさっき払った」
「助かる。……お父さん、ほんと頼りになる」
 妻がお辞儀をした。エプロンの布が、わずかに湿っていた。

 テロップは滑り続ける。

〈熱波:西日本で観測史上最大〉
〈長距離フェリー:一部減便〉
〈海外:穀物先物、上昇〉
〈AI統治分裂後、国家予算審議は今期も見送り〉
〈首都圏AIロゴスと川崎評議会、停戦協議再開へ〉
〈無線圏“田舎自治帯”で通信不能区域拡大〉

 妻の携帯に通知音。
「川崎、赤が一個増えてたって知らせ」
「見た。昨夜のやつだろ」
「うん。報告には“ロゴスの気象操作への警告”って書いてあった」
 妻はホルスターをベストの下に収め、許可証を胸ポケットに差し込む。鍵、財布、身分タグ。順番は妻の体に入っている。
「団では、今週から“気象干渉訓練”が始まるの」
「風向きを、変えるのか」
「そうじゃない。ロゴスの指令で雷雨を起こすの」
 その声の奥に、川崎を睨む冷酷さがあった。

「じゃ、行ってくる。お父さん、VRほどほどにね」
「努力する」

 玄関の戸が閉まる音。外の風が入って、部屋の埃を動かす。台所の時計は動いている。秒針の音が薄い。私は食器を流しに寄せ、椅子を回して仕事部屋へ。電源を入れる。画面が起きる。メールは必要なものだけ開く。

〈自治会:夜間照明の移設〉
〈病院:次回診察とバッテリー検査〉
〈第三区:夜間通行税、橋脚下で徴収〉
〈団長:車椅子装備取り付け、今週木曜〉

 短く返事を打つ。家計簿アプリを開く。資産の欄に、棒が三本。

〈デジタル円:残り6/30〉
〈地域クレジット:12〉
〈配給ポイント:来週まで18〉

 下に固定資産税(第2期)。横に済の小さな印。修繕の予約は灰色で光っている。触れない。外から低いサイレン。方向は北。続いて風。洗濯物が小さく鳴る。

 私はゴーグルを拭く。レンズは曇っていない。額に跡が残らない程度にバンドを締める。部屋の灯を落として、視界を切り替える。

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 ピンと旗が立つ。
〈令和アーカイブ/渋谷2050)〉——〈選択〉
〈シンクコール:エイラ/未応答〉——〈応答〉

 今日は走らない。
 宮益坂側の風は、ビルの谷の間で角ばっていて、頬に当たると形が分かる。地下の送風口から上がってくる空気はほんのり甘い。多分、ベーカリーの匂い。
 ガードの下をくぐると、天井のLEDが等間隔に「ぶーん」と鳴く。壁の古いタイルの一枚だけ抜けていて、指を置くとコンクリートの冷たさ。偽物の冷たさ。
 ストリーム沿いの人工の水音は、目を開けていても「目を閉じた音」をする。川面にはLEDの反射が筋状に走っていく。川は海までつながっていない。
 たい焼きの鉄板が油を温める音、ヘアカラーの店から漂うアンモニア、遠いカラオケの重低音。音と匂いは実体の手前で輪郭をほどき、振動だけが先に触れてくる。
 井の頭線の入口をかすめると、女の子の制服の背中に小さな白い糸くず、あるいはドット欠け。行き先はわたしには関係がないけれど、この人は、本当はどこにいて、何をしているんだろうと、おせっかいな想像をしてしまう。
 ここは保存された偽物の渋谷——もう存在しない2050年の渋谷。それぞれが、いったん途切れたものの「続き」を拾いに来ている場所。
 キャットストリートの入口で、風鈴のような自動ドアの音が鳴る。コーヒーの湯気がガラス越しに曇りを作り、指で描いた丸がすぐ消える。
 アクセサリーの屋台。プラスチックの星が束でぶら下がって、歩くたびに光をほどく。わたしは買わない。記憶のポケットは、今日はよく伸びる。路面のタイルの割れ目に、小さな緑。しゃがみ、昼の熱で温められた土の匂いを嗅ぐふりをする。もう一度。立ち上がる前に、靴紐を結び直す。きつくもしない、ゆるくもしない。

 ——わたしはナギ。
 凪という字は、風がよく似合う。
 渋谷爆撃で死んだわたしの娘。凪の名前で、凪の歳で、凪のアカウントを、〈私〉が生き直す。
 スクランブルが見える場所まで来る。交差点のガラス面に空が四倍になって映り、誰かのシャツの青が一段だけ濃い。手の甲を上にして、日向の粉を少し集める。ここにいる化身たちは、いったい誰なのか?

 ——問いをすぐ引っ込める。答えは要らない。いる理由なんて、たいてい一行で足りない。

 画面が震える。小さく、はっきり。
〈エイラ:今から会える?〉
 もう一度、震える。
〈エイラ:渋谷ストリームの川沿い。日陰、涼しい〉
〈行く〉

 ストリームのベンチ。水音は目を閉じた音のまま、日陰は体温より一度だけ低い。手すりに掌。金属の冷たさが、さっきの土の匂いと混ざる。背後から近づく足音。
「ナギ?」
 声が先に来た。振り向く。
 エイラは、姿勢が良かった。
 背骨が無駄にしならない立ち方。肩の力がどこにも残っていない。髪は黒、耳のうしろで軽く束ねて、襟足に汗が一粒。
 白いトップスは布の厚みが薄く、影の縁がやわらかい。濃いめの青いパンツに、歩く音の小さい緑のスニーカー。爪は短く丸い。耳たぶに小さな金属の点。目は笑う前に、頬の影が先にほどける。
「はじめまして」
 エイラは水面を見やって、言う。
「こないだ、君が走ってるの、見てた。センター街をすっと切ってった」
「ほんと?」
「うん、きれいだった」
 喉の奥が少し涼しくなる。
 私は頷いた。
「じゃ、いっしょに走ろう」
 手を出す。エイラは迷わず取る。指と指が合って、汗の予感だけが先に来る。
 最初は歩幅を合わせる。二歩で揃う。日向に半歩、日陰に半歩。流しの速さで。エイラの腕は引かない。押さない。横にいるという圧だけ。風が角で形を変え、頬に当たるとすぐほどける。スニーカーが路面の細かい段差を一枚ずつ撫でる。呼吸は二拍で合い、三拍で笑いになる。
「速さ、平気?」
「平気」
「じゃ、もう少しだけ」
 角をひとつ抜けるたび、光の密度が変わる。ショウウィンドウにわたしたちが薄く重なって、すぐ離れる。レモン色のワンピースの前を通る。目が吸い寄せられる。サイネージの花びらが舞う。エイラの肩に一枚、落ちた気がする。
「きれい」
 エイラが言う。
「何が?」
「いまの速さが」
 わたしたちは手をつなぐ。握りはゆるい。離さないには十分。息を置く。進む。向こう側に視線を置く。越せるぶんだけ越す。橋の影で立ち止まる。手はつないだまま。脈の速さが、指先で混ざる。
 エイラが笑う。
「次はあっち。影がやさしい」
「うん」
 合図はいらない。また、走る。

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「ただいまー。お父さん、団長来たよ」
 妻の声が明るい。玄関の方で金属が軽く触れ合う音。若い男の「失礼します」が続く。
黒いハードケースが床に置かれた。ロックを外す音が響く。油と樹脂の匂いが混じる。団長は礼をして、儀礼的な笑顔を作った。
「お疲れさまです。ご主人、前輪のキャスターを交換します。段差で詰まらないように。あと側面のサイドガード、手回しのクイックで外せる仕様にします。レッグサポートはウレタンで強化。——加えて、軽装防御を実装します。マイクロレーダー式のロックオンを搭載。赤外線タグを自動で識別します」 

 妻がコップに水を足しながら頷く。無線が短く「ピッ」。団長は目だけで確認し、音を切った。「川崎の第三、昨夜から断続的に交戦。昼は落ち着いてますが、川崎側のドローンの巡回が変則的です。橋の下、監視増員。物資狙いの潜行グループ、当地区のマンションにも潜ってきてます。上階はまだ安全圏ですが、駐輪場と配給ルートは要注意です」
 妻が即答する。
「自治会の外出禁止、二時間前倒しにしましょう。巡回は隣の団と交互。空白時間を作らないようにしましょう。エントランス、夜間は片側閉鎖。灯りの使い方、全戸に再通知すべきです」
「完璧です」
 団長は作業を続けながら、ふと私に向く。
「奥さまから伺いました。……犬を助けた話。マンション前で。すごいと思いました」
「……そうか」
「陸上のお話も。流しの地点の見極め方、団で共有してます。営業の頃、歩数で地図を覚えたって。皆、真似してます」
「——よく知ってるな。何でも」
 自分の声が自分の耳に卑屈に響いた。一拍、静かになる。妻の手が私の肩にそっと触れた。団長はすぐに頭を下げる。
「すみません。差し出がましかったです」
「いや、こちらこそ。すまない」
私は言った。すぐ続けるべき言葉が見つからない。
「……助かっている。ありがとう」
団長は淡々と位置を整え直し、私を見る。
「ご主人の風メモ、皆さん助かってます。昨日も、ドローンの進入角を風向きで予測できました」
私は椅子を少し前に寄せた。
「それはよかった」 

 団長は膝をつき、前輪の前に薄い板を当て持ち上げる。キャスターを外し新しいものに交換、位置を微調整。サイドガードとレッグサポートを取り替え、手回しノブで固定する。作業の指先が静かだ。油の匂いがキッチンに溶けていく。
「重さは二・三キロ増えますが、重心が低くなるぶん安定します。——奥さま、押してみてください」
妻が背から押す。継ぎ目で椅子が滑って越える。腕の負担が軽そうだ。
「押しやすい」
 妻が団長を見る。
「よかったです」
 団長は上体を起こし、私に小箱を見せた。マットグレーのケース。
「このユニットがセミオートの迎撃システムです。ロックオンは二段階。緑が索敵モード、赤で追尾確定。対象はAIの敵味方識別タグで判断します。短距離パルス散弾の射出は高圧空気で、閃光弾と催涙ナノ粒子を混合。非致死です。が、近距離では失明リスクがあります」
 私は頷いた。
「敵の識別タグは?」
「第三評議会、“赤い手の紋章”。自然回帰派の象徴になってます」
 妻の肩がわずかに硬くなる。団長は気づいていないふりをして、作業を続けた。
「通信遮断と物資搬入制限が続けば、向こうは自滅覚悟で動きます。彼らは風を読んで動く。だから、ご主人のデータが役に立つんです」
 私は笑う。
「風が味方とは限らないだろう」
「ええ。でも風は、ロゴスより正直です」
 妻が団長を見る。その目の奥に、鋼のような意志が見える。
「団では、赤のエリアを“野生化地帯”と呼んでるの。ロゴスの支配が届かない分、人が野生を取り戻してる。でも、それが一番危ないの」
 団長が頷く。
「生身の判断が、一番速いからですね」
 作業が終わる。団長は膝をついたまま、私の前でパネルを閉じた。
「制御は神経リンク方式です。リストパッドでご主人のバイオセンサーに同期させます。右手をわずかに動かせば索敵、左手で追尾確定。射出は右手を振り下ろしてください……失礼ですが、試します」
 私が頷くと、団長がリストパッドを操作した。
 車椅子の側面が低く唸る。尖った赤光が天井を走り、外のガラスに映る。ロックオンマーカーが一瞬揺らぎ、即座にキッチンの洗剤容器の赤いロゴに照射が定まった。
「精度、上々です。——ところで、奥さま、護衛班に編入希望の件、承認されました」
「ありがとうございます」
 団長は立ち上がり、工具を拭き、最後にリストパッドの位置を確認してからケースを閉じた。
「今夜、強風になります。川崎潜入班から試験放風と報告を受けています。直接攻撃はないと思われますが、念のため、地区全域の白旗掲示の漏れがないか確認してください」
 妻が答える。
「了解しました。団で共有します」
 玄関に向かう足音。
「何も起きないのが一番です。有事の際は逃走優先で。戦うのはAIに任せてください」
「了解です」
 妻が敬礼した。
 戸が閉まる。家の音に戻る。冷蔵庫の循環。給気口の低い流れ。妻は私のコップを二センチ動かす。輪が重なった。
「いい子でしょ。信頼できる」
「ああ」
 胸の中にざらつきが残った。内戦以降、青春を自衛に捧げた青年に嫉妬した。それを隠すために私は咳払いをして、皿を一枚、手の届く位置へ寄せた。
 謝ったはずなのに、自己嫌悪だけが拭い切れず、食器の裏に残った油みたいに、指にべたついていた。

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 明かりが戻る。冷たい風がまだスクリーンのほうから来て、ロビーは少し寒い。ポップコーンの塩、床のワックス。座席番号の横で小さな鍵が淡く灯ったまま、音はしない。
「どうだった?」
エイラが紙コップを両手で包む。爪が白い。
「よかった」
「どこが?」
「最後の砂が落ちるとこ」
「わかる」

映画『セーヴルの砂』

 結婚する前、妻と初めて観た映画。
 土と会話できる女陶芸家、チベットで砂曼荼羅だった五色の砂を受け継ぎ、白磁の砂時計を創る。器の胴にはガラス窓。彼女は、砂の落ち方を目で、耳で、胸で確かめる。
 静かな冒険の末、狂い始めた世界時間を、土と語らうように埋めていく。
陶芸都市であり国際度量衡局のあるフランスの町セーヴルで、女は砂時計をひっくり返す。風が鳴り、五色の砂がひと筋だけ動いた。観客の誰もが息を呑んだ。——そして、世界時間が彼女と同期するが、彼女はもう土と話せなくなった。

 二人でロビーを出る。人は少ない。ポスターの角がめくれて、テープの跡が重なっている。

 ベンチに並ぶ。私は息をひとつ置いてから言う。
「相談、していい?」
「うん」
「生きるために、お金がいる。知らない人と重ねることがある。——まずい?」
 エイラは視線を落として、コップを小指でなぞる。

「……だめ」
 そのあと、言葉を足す。
「からだは、お金のための道具じゃない。誰かを大事にするためのもの。そこだけは崩さないほうがいい」
「でも、足りない日がある」
「足りる暮らしをすればいいの」
 わたしは頷く。喉の奥が軽くなる。
「——あなたのお父さんの話、きかせて」
エイラが顔を上げる。目はまっすぐだが、押してこない。少し考えて、短く言った。
「真面目。うちの犬を助けようとして、歩けなくなった。……馬鹿なお父さん」
 言ってみると、胸の中に置き場ができる。
 エイラは返事を急がず、コップを置いて、私を抱きしめてくれた。
「かっこいいお父さん」
 それだけ言って、ぎゅっとする。
 冷気が足もとを抜ける。自販機の白い箱が低く唸る。
「守るって、なに?」
 わたしが訊くと、エイラはもう一度ぎゅっとした。
「一緒にいること」

 映画館から外へ出る。夜気は昼よりやわらかい。歩き出す。シャッターの金属が冷たく、貼り紙の端がめくれている。横断歩道の白い帯を数えながら信号を待つ。風が袖口の内側まで入って、汗の塩が粒立つ。
「さっきの映画、やっぱりよかった」
「うん」
「穴が消えたとこで、泣きそうになった」
「わたしも」
 エイラが真面目な声で、つぶやいた。
「あの女の人、時間を埋めながら、自分の穴が少しずつ消えていったね」
「……うん」
「穴がある限り、あの砂は動かない。穴がなくなると土と話せなくなる。わたしならどうするんだろう」
 横から風が吹き、ポスターの端のテープが音もなく剥がれた。ガラスに映るわたしたちは別の人みたいだった。
「エイラ、わたしたちは、なにをやってきたのかな」
 エイラがちらりと私を見て、指先をそっと握ってくる。力は入れない。配達の車が赤い点滅を落とし、止まって、また動く。
 エイラが渋谷の空を見上げる。
「この世界が続くと思い過ぎたかもしれないね」
 それだけ言って、歩く。手は冷たい。合わせると、すぐ温かい。
「ナギの走り、今日もきれい」
 エイラが笑う。
「顎の落とし方がすてき」
「ほんと?」
「うん。風と友だちだった」
 わたしの靴底が一度だけきゅっと鳴った。
 スクランブルの手前で風が一段落ちる。信号までの距離が今日は短い。
「走ろうか」
「走ろう」
 青になって、横断歩道の白い帯を数える。数を間違えても、誰も困らない。渡り切る手前で、エイラがふっと笑う。サイネージの花びらの欠片がまだ頬に残っている。エイラが前髪を耳にかけた。耳たぶの螺旋の金属が街灯の光を飲み込んだ。わたしの中の穴が消えていくように思えた。
「静かでいい夜」
「うん」
 二つの影が並んで伸びてひとつに重なった。

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 妻が帰宅した。
 ベストは椅子の背に、ホルスターを外し、銃をケースへ。手を洗って、エプロンを結ぶ。湯気の立つ麦のスープ、豆のサラダ、煮た根菜。コップの水が二センチほど動いて、輪がひとつ増える。
「お父さん、いただこ」
「いただきます」

ス ープの表面をスプーンが割る。味は薄いが、温かい。ニュースの音は切ってある。今日は家の声だけにする。
「凪のお墓、いつ行こうか」
 妻がスプーンを置いて、私を見る。
「日曜。風は東になりそうだ」
「じゃ、午前中、買い物して、レモン色のマリーゴールド。それと白い花を少し。午後、ゆっくり」
「そうしよう」
「お父さん、今日は静かなのね」
「少し、昔を思い出していた」
 妻が身を乗り出す。
「昔話、ききたい」
「一目惚れは、君だったよな」
「ちがう、あなたでしょ。コピー機の紙詰まり、いきなり直してさ。『営業のくせに器用』って言ったら、『営業だから器用』って」
「言ったかもしれない」
「言った。そこで、あなたが先に惚れた」
「いや、君が先だった」
 二人で笑う。スープが揺れて、波紋が浮かぶ。
「初めてデートした日、あなた、お財布を忘れてた」
「走ってアパートまで取りに戻った」
「うん。背中、速かった。——ねえ、このマンションに引っ越してきた日、覚えてる?」
 妻は部屋を見回し、天井を指差す。
「まだ白かった床。段ボールをテーブルにして、最初の夜ごはん、カップ麺」
「箸が足りなくて、一本で食べた」
「そう。で、朝になって、ベランダから川を見た。『ここからなら風が読める』って、お父さんが」
「言ったな」
 スプーンが皿の底を鳴らす。妻は目を細める。
「凪が生まれた日は?」
「天使が二人いると思った」
「それ、ずるい。……分娩台から見えた窓、薄い雨だった」
「雨でも明るい日だった」
「レモンの話、していい?」
 妻の声がすこし低くなる。
「凪、ペットショップから動かなかった。『この子がいい、この子じゃなきゃいや』って。レモンの白い首輪、覚えてる?」
「玄関の前で、リードがふっと抜けた。私が走って——」
 妻は、テーブルの私の手を両手で包む。
「馬鹿なお父さん。でも、わたしのヒーロー」
「……そういうのは、照れる」
 彼女は笑い、指をほどいて、スープをひと口。
「ね、日曜は駅の花屋でレモン色。それと白いの。持つのはわたし、お父さんの風で連れてく」
「風は任せろ」
 デザートのコーヒーゼリーを出す。半分こ。
 妻が私へスプーンを渡す。ほろ苦い甘さが喉に沈んで、息がやわらんでいく。
「一目惚れしたのはどっち?」
「やっぱり君」
「やっぱりあなた」
「——引き分けだ」
「ずるい」
 妻は立って、私の額の髪を指で払う。
「この家、買ってよかったね」
「ローンは重かったが」
「でも、三人で暮らしてきた」
「四人——レモンもいた」
「うん。そう四人」

 私は四人で暮らしたこの空間のすべてを反芻し、ここにもう風は吹いてこないことを認めた。
 私は、妻に提案した。
「この家、売って引っ越さないか。田舎の小さな家に」
 妻は、少し驚いた顔をしてから、私を見つめた。瞳の中に、凪とレモンの姿が見えた気がした。そして、しっかりとした声で「お父さん、わたしもそうしたい。静かに二人で暮らせるところに移りたい」と答えた。
 ゼリーのぷるんとした触感が喉に静かに降りる。妻の笑い皺が深くなる。窓の外は暗いが、食卓は明るかった。

 ——ピッ。

 テーブルの端で、妻の端末が短く震える。帯が一度だけ光る。
〈自警団:招集/B 川崎側 橋下 可否:Y/N〉
 続いて無線が、もっと短く。外の風向きが変わった気がする。妻は私を見る。目だけで「どうする?」と訊く。私は頷く。
「行ってこい」
「すぐ戻ります。何も起きないようにして、戻る」
「日曜日はお墓参りだ」
「うん。日曜、レモン」
 妻は手順どおり身支度を整える。ベスト、許可証、ホルスター。鍵。銃。腕章。
「お父さん、一緒に長生きするよ」

 玄関の戸が閉まる。

 家の音に戻る。冷蔵庫の循環、給気口の低い流れ。日曜の風を頭に置いて、皿を片づける。レモン色の花は、駅の花屋。白い小さい花を少し。それだけでいい。

 窓の外で短いサイレンが三度。廊下のスピーカーが一回だけ低く鳴って、止む。端末にアラートが走る。〈自警団:緊急連絡、警戒即時招集/B川崎側 橋下〉の文字。
 私は車椅子のリストパッドを操作する。赤いロックオンマーカーが玄関を照らす。行くしかない。車椅子のベルトを締め、背もたれの角度を上げる。前輪の前に薄い板。指で押して、クリックをひと刻み固くする。リストパッドの位置を確かめる。
 玄関の鍵。予備の電池。端末は胸ポケット。白の腕章。
「そっちへ行く」
 短く打って、妻へ送る。既読はつかない。

 ドアを開けると、共用廊下に金属の匂い。エレベーターの表示は停止。非常灯だけが生きている。スロープへ回る。踊り場の角で一度止まり、ブレーキを解く。腕で押し出すと、板が継ぎ目を滑って越える。体が思い出す。顎を落として、胸を低く。速度は落としすぎない。落とすと、詰まる。
 一階で管理人が柵を動かしていた。
「外、やってます」
「橋下Bだな」
「はい。気をつけて」
 会釈だけ返す。空気が乾いて、口の中が急にからからに乾く。

 駅前は半分暗い。配給ブースの灯りは消えて、案内の板に矢印だけ。検問の柵が片側に寄って、白の腕章が二人、橋の方へ走っていく。無線の短い音が二度。
 駐輪場の脇を抜ける。自走配送機が一台、壁ぎわで停止して、緑の点滅が私を照らす。
 風は東。右から左へ旗がなびく。帰りは軽いはずだ。帰り、という言葉を一度飲み込む。
 土手の手前でブレーキ。息を置く。アシストモーターの力を借りながら、上りを腕で刻んでいく。指が熱くなる。肩で二度、深く吸う。
 頂に出ると、川の皺が均一じゃない。向こう側に赤い点滅が三本。
 下り。
 奥歯を噛みしめ、胸を前。指を掛けたままブレーキを緩める。前輪のキャスターが草の段を撫でる。腰が浮く。速度が上がる。耳の後ろに風。下の広場に、人の動きが集まっている。盾が二枚。担架が一本。誰かがしゃがんで、誰かが立っている。
 妻の姿は見えない。見えないが、どこかにいる。そういうときの動きを、私は知っている。
 土手を下り切る前に一度止まり、無線の列の外周に目を走らせる。団長がいた。背が高い。こちらへ一瞬だけ視線が来て、すぐ現場へ戻る。
 私は端末を胸から出し、場所共有のボタンを妻へ送信。
 腕章の若いのがこちらに走ってくる。
「すみません、ここは——」
「わかっている。邪魔はしない」
「はい、ありがとうございます」
 彼は礼をして戻る。走り方がいい。速いのに無駄がない。私は車椅子のレバーに触れる。遊びは残っている。詰め切らない。リストパッドには触れない。触るのは、必要になったときだ。
 土の上で前輪を少しだけ浮かせ、向きを変える。風がこちらの背に入る。いい。

 ——走る。

 橋の影の手前まで。妻の気配を探しながら。
「君を守る」とプロポーズしたときの胸のまま。

 広場の縁で止まる。土は乾いて、踏むたびに音が軽い。盾が二枚、腕章が五つ。橋脚の影が太い。
妻は見えない。だが、いる。私には分かる。
 団長が手で合図する。怯えている。私は頷き、輪の外周に沿って回る。前輪が、草の段差を撫でる。顎を落とす。速度を上げる。
 橋の下の陰に、“赤い手の紋章”三人。ひとりはバイクのヘルメット、ひとりはジャケットの裾が長い。もうひとりが銃を構えている。
 妻は橋脚の反対側、中段のコンクリート階段に身を伏せていた。あの位置からなら、こちらが見えるはず。妻とのあいだに、斜めの土手と壊れた手すり、そして濡れた地面。ヘルメットの男との距離は十メートル。風がその間を渡っていく。
 私は最下段、川へ降りるスロープの終わりにいる。目線を上げると、妻の膝下が光を帯びて影の縁に浮かぶ。風は東。背に入る。ここからなら、届く。
 ヘルメットの男が一歩、出た。彼も武装している。
 妻が私に気づいた。視線が私のほうへ半分だけ来て、すぐ戻る。——やめて、来ないで、と。

 静江、俺は行く。

 右手でヘルメットの男を探索。胸の“赤い手の紋章”を捕捉。緑。即座に左手で追尾。ロックオンの赤。静江の白い腕章が一歩斜めに後ずさる。

 今だ。

 俺は前輪を浮かせ、段差を滑らせ、胸を下げ正面へ。ヘルメットがこちらを向く。

 静江の叫び。

 その瞬間、風が俺の背にぴたりとはまる。車輪が土を掴み、橋の影が切り替わる。

 世界が一瞬、軋んだ。

 俺は右手を振り下ろし、このグロテスクな世界に、溜め込んだすべてをぶちまけた。

 ——静江!

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 カフェ・ヘブン。わたしはエイラの隣に座った。
「相談、してもいい?」
「うん」
「——わたし、この世界からログアウトする」
 エイラは目を逸らさなかった。
「うん」
 一拍おいて、やわらかく足した。
「それがいい。わたしも消える」

 エイラはわたしと息の速さを合わせる。
 エイラが顔を寄せ、わたしの耳ぎわでささやいた。
「君を守る」
 心臓が一度だけ跳ねる。
「その言葉、どうして——」
「昔のわたしに、昔のあなたが」と、エイラが微笑んだ。

 わたしはきいた。
「また、会える?」
エイラはう頷いた。。
「日曜、レモン、あの子のところで」

(了)

文字数:15980

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