あなたがここにいてほしい

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梗 概

あなたがここにいてほしい

 2075年、二子玉川。元陸上選手で営業出身の六十五歳の男は、飼い犬・レモンを救おうとして負った事故で車椅子生活となった。家事と自治会事務を淡々と回し、給付とわずかな収入で家計を律することに静かな誇りを置く。社内結婚の妻はパートの傍ら自警団に所属し、「何も起きない一日」を守るため、検問や停電訓練が常態化した町を巡回する。多摩川の向こう、反社会勢力の支配下にある川崎第三区では赤い点滅が増え、二子玉川側の見張り台の白灯と対照をなす。家には、パンデミックで亡くなった一人娘・愛(アイ)の写真と、娘が名づけた犬・レモンの記憶が残る。

 男は娘の残したアカウント〈アイ〉で「令和VR/渋谷2050」にログインする。アイの没年齢のままアイの死んだ2050年の渋谷を走り、匂いと温度と段差を確かめながら、アイの失われた生の続きを結び直す。一方で、匿名の相手の欲望を満たす仕事で生活費を稼ぐ男。利得と罪責が同じ鏡面に立ち、鏡の「アイ」が自分を見返すたび胸が冷える。

 ある日、〈ユウ〉というアカウントからフレンド申請が届く。二人は歩幅を合わせて走り、一本の映画を観る。やり取りは簡潔だ——「守るって何?」「一緒にいること」。その言葉は、現実で男が妻に告げたプロポーズ「君を守る」と重なり、喪失で乱れていた呼吸が整っていく。

 現実では、妻が自警団の団長を伴って帰宅。団長は男の車椅子を補強するとともに、光音警告(緑)・発射(赤)の装置を取り付ける。若い団長に妻が寄せる信頼に男は嫉妬し、同時に自己嫌悪に沈む。それでも彼は、風を読む身体の記憶で妻の動線を支え、家計と防備を先回りで整え続ける——自分にできる「守り」として。

 夜、招集コード〈橋下B〉。短いサイレンと無線。妻は「家にいて」と出ていくが、男の端末にも緊急の帯が走る。東風。男は車椅子で現場へ向かう。土手を下り、盾と腕章が散る広場の縁で、姿は見えなくとも妻の位置を「そこにいる」と読む。暴漢のヘルメットが光る。男はカバーを払って緑、続けて赤。前輪を上げて段差を滑り、橋脚の影が切り替わる刹那、誓いは現在形になる——君を守る。

 事後、夫婦は腹を割って決める。家を売り、田舎で静かに暮らし直そう。日曜にはレモン色の花と白い小花を持ち、娘・愛の墓へ行く。

 VRでは〈アイ〉が〈ユウ〉に告げる。「この世界からログアウトする」。〈ユウ〉は「それがいい。わたしも消える」と寄り添い、二人だけが知る言葉を耳許で返す——君を守る。互いの正体は明かさないまま、再会の約束だけを残す。「日曜、レモン、あの子のところで」。男は〈アイ〉のアカウントを削除する。

 喪は終わらない。喪とともに生き直すために。

文字数:1110

内容に関するアピール

 幸せ家族の50年後を想像しました。主人公は学生時代陸上部、大手企業に就職し営業職として活躍した男です。妻とは社内恋愛で結婚し、かわいい娘にも恵まれました。二子玉川に新築マンションを買い、こつこつローンを返しながら、犬も加えた四人で、時には多摩川の河川敷を散策する。典型的な幸せ家族です。

 時が経ち、全てが変わってしまいます。2075年、世の中は不穏な空気でみたされています。マンションの前で車に轢かれそうになった犬を助けようとして車椅子生活となった主人公。自警団に属し、銃の扱いに手慣れてしまった妻。食卓にはパンデミックで亡くなった娘と犬の写真。

 主人公は娘が残したアカウントを使い、娘が死んだ2050年の渋谷VRにアクセスし、娘になりすまし娘を生かし続けています。

 ごく普通の人々のありそうな未来を、喪失を乗り超え今を生き直す物語に仕立てました。タイトルはピンクフロイドの楽曲名です。

文字数:394

課題提出者一覧