梗 概
隔離
映画館で恋人の美咲と映画を観ていた青年・翔太は、終盤の爆音と同時に激しい便意に襲われ、エンディングを見ないまま席を立つ。トイレに駆け込むが二つの個室とも使用中。杖を持った男が前に並んでいる。男は脂汗をかき震えている。一つの個室が空き杖の男が入っていく。しばらく経って、もう一つが空き、限界ぎりぎりで個室に滑り込み、間に合ったと安堵した瞬間、館内に異様な警報が鳴り、照明が赤く切り替わる。機械的な音声が流れ、ドアがロックされ、消毒剤が噴霧される。翔太は、パンツを下ろしたままの状態で、個室に閉じ込められてしまう。
隣の個室にいる杖をついた男も閉じ込められていた。佐山という映画オタクの中年男だった。二人は壁越しに声を掛け合い、最初は見逃した映画のエンディングについて想像を語り合う。主人公は生き残ったのか、世界は救われたのか。佐山は、過去の作品を引き合いに出しながら、いかにもありそうな結末を軽口で並べる。
「映画ならこれはパンデミックの初動だ」「テロかもしれない」「AIによる反乱だってじゅうぶんあり得る」。佐山の想像は次々と飛躍するが、どれも決定打にはならない。その会話は次第に現在の状況へと滑り込み、警報や消毒、注射、防護服着用指示などの工程が、B級映画の中の異常事態の演出のように雑に進行していく。パンデミック対応AIトイレの「問題ありません」「待機してください」という音声だけが一定の間隔で繰り返されていく。
翔太は美咲と一度だけ通話が繋がるが、彼女もまた館内で待機を命じられており、途中で通信は切断される。隔離が守るためのものなのか、切り捨てるためのものなのかは分からない。非常ボタンを押しても、脱出を試みても、すべてはAIトイレに「待機してください」と処理されるだけだった。
極限状況の中で、壁越しに会話を交わす翔太と佐山の二人は、奇妙な連帯を深めていく。
通信障害の隙間を縫って、二人はSNSを交換する。壁越しにIDを読み上げ合い、繋がる。事態をよそに、二人の会話は個人的なものに変化していく。佐山は溺愛する犬の話をし、翔太は美咲との将来を語る。「出たら二人に飯を奢ろう」という佐山の約束が、かろうじて未来をつなぎ止める。その最中、佐山は静かに告白する。「正直に言う。俺、間に合わなかった。漏れてた」
やがて佐山の個室のロックが解除される。佐山は「外で待ってるよ。三人で飯に行こう」と声をかけ、先に外へ出ていく。しばらくして翔太の個室のロックも解除される。
防護服を着た翔太が個室を出た先で目にしたのは、石像のように立ち尽くす美咲と、杖を手にしたまま固まった防護服姿の佐山だった。触れた瞬間、美咲は音もなく崩れ、石の粒となる。清掃ロボットがその粒を吸い取っていく。
状況を掴めないまま翔太は、佐山から届いた「また、漏れてた」というSNSメッセージを見ながら、動けなくなっていった。
文字数:1189
内容に関するアピール
この話は、私の中にずっと残っている「どうしよう」から生まれました。
漏らしたらどうしよう。
トイレから出られなくなったらどうしよう。
子どもの頃から何度も感じてきた、身体が先に不安になって、頭が追いつかなくなるあの感覚です。実際に、トイレの鍵が壊れて出られなくなったこともあります。あのときの心細さは、今でもよく覚えています。
コロナ禍では、別の「どうしよう」が増えました。何が起きているのか。国や製薬会社や医者が、ちゃんと分かってやっているのか。よく分からないまま決断だけを迫られている気がして、怖ろしかった。
この物語は、漏らしたらどうしよう、出られなくなったらどうしよう、信じたいものが間違っていたらどうしよう、そんな感覚的な恐怖を、パンデミック対応AIトイレというガジェットを使って、形にしたものです。
正直に言うと、漏らしたことはあります。思い出すだけで、今でも気が遠くなります。
文字数:389




