梗 概
隔離
映画館で恋人の美咲と映画を観ていた青年・翔太は、終盤の爆音と同時に激しい便意に襲われ、エンディングを見ないまま席を立つ。トイレに駆け込むが二つの個室とも使用中。杖を持った男が前に並んでいる。男は脂汗をかき震えている。一つの個室が空き杖の男が入っていく。しばらく経って、もう一つが空き、限界ぎりぎりで個室に滑り込み、間に合ったと安堵した瞬間、館内に異様な警報が鳴り、照明が赤く切り替わる。機械的な音声が流れ、ドアがロックされ、消毒剤が噴霧される。翔太は、パンツを下ろしたままの状態で、個室に閉じ込められてしまう。
隣の個室にいる杖をついた男も閉じ込められていた。佐山という映画オタクの中年男だった。二人は壁越しに声を掛け合い、最初は見逃した映画のエンディングについて想像を語り合う。主人公は生き残ったのか、世界は救われたのか。佐山は、過去の作品を引き合いに出しながら、いかにもありそうな結末を軽口で並べる。
「映画ならこれはパンデミックの初動だ」「テロかもしれない」「AIによる反乱だってじゅうぶんあり得る」。佐山の想像は次々と飛躍するが、どれも決定打にはならない。その会話は次第に現在の状況へと滑り込み、警報や消毒、注射、防護服着用指示などの工程が、B級映画の中の異常事態の演出のように雑に進行していく。パンデミック対応AIトイレの「問題ありません」「待機してください」という音声だけが一定の間隔で繰り返されていく。
翔太は美咲と一度だけ通話が繋がるが、彼女もまた館内で待機を命じられており、途中で通信は切断される。隔離が守るためのものなのか、切り捨てるためのものなのかは分からない。非常ボタンを押しても、脱出を試みても、すべてはAIトイレに「待機してください」と処理されるだけだった。
極限状況の中で、壁越しに会話を交わす翔太と佐山の二人は、奇妙な連帯を深めていく。
通信障害の隙間を縫って、二人はSNSを交換する。壁越しにIDを読み上げ合い、繋がる。事態をよそに、二人の会話は個人的なものに変化していく。佐山は溺愛する犬の話をし、翔太は美咲との将来を語る。「出たら二人に飯を奢ろう」という佐山の約束が、かろうじて未来をつなぎ止める。その最中、佐山は静かに告白する。「正直に言う。俺、間に合わなかった。漏れてた」
やがて佐山の個室のロックが解除される。佐山は「外で待ってるよ。三人で飯に行こう」と声をかけ、先に外へ出ていく。しばらくして翔太の個室のロックも解除される。
防護服を着た翔太が個室を出た先で目にしたのは、石像のように立ち尽くす美咲と、杖を手にしたまま固まった防護服姿の佐山だった。触れた瞬間、美咲は音もなく崩れ、石の粒となる。清掃ロボットがその粒を吸い取っていく。
状況を掴めないまま翔太は、佐山から届いた「また、漏れてた」というSNSメッセージを見ながら、動けなくなっていった。
文字数:1189
内容に関するアピール
この話は、私の中にずっと残っている「どうしよう」から生まれました。
漏らしたらどうしよう。
トイレから出られなくなったらどうしよう。
子どもの頃から何度も感じてきた、身体が先に不安になって、頭が追いつかなくなるあの感覚です。実際に、トイレの鍵が壊れて出られなくなったこともあります。あのときの心細さは、今でもよく覚えています。
コロナ禍では、別の「どうしよう」が増えました。何が起きているのか。国や製薬会社や医者が、ちゃんと分かってやっているのか。よく分からないまま決断だけを迫られている気がして、怖ろしかった。
この物語は、漏らしたらどうしよう、出られなくなったらどうしよう、信じたいものが間違っていたらどうしよう、そんな感覚的な恐怖を、パンデミック対応AIトイレというガジェットを使って、形にしたものです。
正直に言うと、漏らしたことはあります。思い出すだけで、今でも気が遠くなります。
文字数:389
隔離
爆発音が、腹を襲った。重低音が床を伝い、内臓を内側から叩いた瞬間、アイツだと分かった。予兆じゃない。宣告だ。腸を雑巾みたいにねじられる。内側から掴まれて、アイツがやってくる。
——やばい。口を開けたら、アイツが飛び出す。余裕なんかない。体の中のアイツを“隔離する空間”が、消失した。
スクリーンでは、主人公が瓦礫の下から立ち上がろうとしている。周囲の人たちが息を呑む。僕は、別の理由で息を呑んでいる。
隣の美咲は、肘掛けに頬杖をついてスクリーンを見ている。光が瞳に反射している。腹が、ぐっ、と前に出る。反射で太腿に力を入れる。意味があるか分からない。でもやる。やらないと終わる。
——間に合うのか? 思考が、その概念に押し潰される。仕事も将来も結婚も消える。今は「出る/出ない」だけだ。
肘掛けの外側を指で軽く叩いた。美咲が、横目でこっちを見る。僕はお腹に手を当てて、出口の方を指で指した。美咲の眉が一瞬だけ上がる。「今なの?」という顔。
うなずくしかない。美咲は息を吐き、スクリーンを一度だけ見た。それから僕の腕を軽く掴み、通路側に身体をずらした。
立った瞬間、重力が変わった。腹の中の“アイツ”が、落ちてくる。膝が笑いそうになる。ここで笑うな。
暗い通路を歩く。走ったら終わる。上下動を殺す。歩幅を詰める。人間が、ぎりぎり人間でいられる歩き方。
扉を押し開けると、明るさが目に刺さった。空気の匂いが変わる。乾いた冷気と、芳香剤めいた匂いになる。
止まるな。止まったら終わる。
——トイレ。右。手前。表示。腹が、もう一度、波を打つ。さっきより深い。重い。次の波が来る前に、着け。
歩きながら、ベルトのバックルに親指をかけた。まだ外すな。ここで外したら終わる。準備だけする。それが、今の僕に残された唯一の知性だ。
床がやけに光っている。滑るな。角を曲がる。白い壁。均一な照明。ピクトグラム。
——頼む。そう思った瞬間、腹の奥が、悪意みたいにきしんだ。アイツがしびれをきらし始めている。ここからが、本当の戦いだ。
入口が見えた瞬間、胸の奥が一度だけ明るくなった。着く。まだ何も終わっていないのに、体が先に祝おうとする。そういう油断が一番危ない。
白い床。明るすぎる照明。やけに清潔な匂い。安心していいのは——個室の便座に座り、アイツを然るべき水の流れに解放するその時までだ。
僕は入口に一歩踏み込んで、絶句した。
——列。人が並んでいる。腹の奥がひやっとした。息が止まりそうになる。僕は神など存在しないことを確信した。
——終わった? いや、よく見ろ。列は、小便器の前だ。男たちが等間隔に立っている。スマホを見ている背中。天井を見上げている背中。どうでもいい時間が流れている背中。お前らの、その“どうでもよさ”が、世界を崩壊させるんだ。
僕が必要なのは、大便器だ。視線を滑らせる。個室。二つ。赤、赤。使用中、使用中。体の中で、アイツが一段、前に押し返してきた。さっきまで必死に押し戻していたものが、「ここで待つわけ? もう降参すれば?」と脅してくる。
個室の前に、男が一人立っていた。杖をついている。肩が丸い。杖の先が床を叩くたび、コツ、という音が鳴る。その音が規則的じゃない。体が震えているのだ。汗が首筋に浮いている。冷房は効いているのに。
——同類だ。
この人も地獄にいる。連帯感みたいなものが芽を出しそうになって、すぐに潰した。今は順番だ。順番だけが法だ。この人は、僕より前だ。同類だが、最大の敵だ。僕は、敵の後ろに立った。いつでも殺れる位置だ。扉の赤い表示が、血の色に見える。中から水が流れる音がした。腹が、きゅっと縮む。太腿に力を入れ、足の付け根を内側に寄せる。意味があるか分からない。でもやる。やらないと終わる。腹は納得しない。腹は理屈を聞かない。赤い表示が鈍く色を晒している。時間が伸びる。次の波が来る。ベルトのバックルにかけた親指に力を込めた。
「……っ」
息が漏れた。前の男も、同じように息を吐いた。個室の中で、衣擦れの音がした。
——来る。頼む。来い。赤い表示窓を睨む。見張る。腹の奥で、アイツが出口へ押し寄せる。それを押し戻しながら、「赤が消える瞬間」だけを待った。
中から、カチャ、と金具の音がした。アイツが「今だ」と前へ出ようとする。開くまで待て。開いてから——いや、一つ目のドアじゃない。二つ目まで待機だ。
赤い表示が、ふっと消えて緑になった。ほとんど同時に、個室のドアが内側から押されて、隙間ができた。杖の男が、一歩前へ出た。僕はその背中を睨みながら、もう一つの赤を刺す。頼む。こっちも。
杖の男は、杖を先に中へ入れてから、自分の身体を滑り込ませる。動きは速い。迷いがない。個室に消える直前、彼の肩が一度だけ跳ねた。
ドアが閉まる。内側でロックがかかる音。表示がまた赤に戻る。
——緑が消えた。僕の世界に残ったのは、赤だけだった。腹の奥が動く。喉が乾く。太腿の内側が攣りそうになる。
中からトイレットペーパーを引き出す音がした。長い。紙の浪費だ。あなたのこの浪費が地上の緑を失わせていくんだ。僕が欲しいのは緑だ。
次の波が来た。視界が白くなる。膝を曲げて受け止める。立ってろ。声を出したら、アイツが顔を出す。二つ目の個室の中で、水が流れた。
カチャ。金具の音。赤が消える。緑になる。ドアが、開く。出てきた人の肩を避けるとか、そういうのは後だ。空いた隙間へ身体をねじ込む。息が引っかかる。肩が壁に当たる。便器が見えた瞬間、腹が答えを出した。間に合うと思った瞬間、腹が笑う。ベルト。バックル。指が滑る。外れない。外れろ。外れろ。外れろ。爪が金属に当たって、カン、と鳴った。その音で、腹の奥の圧が一段上がる。上がるな。やっとバックルが外れる。ズボンのボタン。チャック。指が震える。腹が押し上げているからだ。ズボンとパンツを同時に膝まで落とす。落ちろ。便座に尻を落とす――その瞬間、アイツはもう出ていた。
座ると同時に、腹の底から熱いものが解放される。体内に溜めていたアイツが、全部、下へ抜けていく。
勝った。
体はまだ震えている。ぎりぎりの勝利だった。しばらく、ただ出るのに任せる。世界に静寂が訪れる。耳の奥で川が流れる音だけがする。出るものが途切れた。呼吸が戻る。体が、今さら「怖かった」と言い出す。
横の操作パネルに指を伸ばした。洗浄。水が当たって、息が漏れた。乾燥。温風が当たる。トイレットペーパーを引き出す。音が重なる。トイレットペーパーを折り重ね儀式のようにアイツの痕跡を丁寧に拭きとっていく。敗者への最低限の礼を尽くす。二回、三回。最後にもう一度。ここを省くと、全部が台無しになる。勝者に奢りは禁物だ。
アイツが水流に還るのを確認して、パンツを整える。ズボンを上げる。ベルトを締め直す。鍵を開ける前に、耳を澄ました。隣の個室から、紙を引き出す音が聞こえた。人間くさい。杖の人も戦いに勝ったようだ。コングラッチュレーション。鍵に手をかける。回す。開かない?
ブオオオオオオ――ッ!
耳の奥を直接叩く音が来た。低く厚い警報。天井を獣が擦って歩いているみたいな低い唸り。そこに高い電子音が重なり、頭蓋骨を内側から振動させる。
トイレの明るい照明が赤に染まる。天井のラインが赤く走り、壁の表示板に文字が流れ、抑揚が一定過ぎる女の声が降ってきた。
≪緊急衛生プロトコルを開始します。対象区域:衛生ブロックA。全員その場で待機してください。落ち着いてください。安全のため、移動を停止してください。ただいまより、消毒工程に入ります≫
天井の角が、わずかにずれた。継ぎ目が裂け、そこから白いものが落ちてくる。煙というより、霧に近い粒子。光に当たると、細かな粉のように見える。匂いが刺さる。消毒薬のような、鼻の奥に残る匂い。涙が出そうになる。僕は反射的に息を止めた。
≪呼吸を止めないでください。規定の呼吸を続けてください≫
霧が床を這う。低いところに溜まっていく。足元の線まで赤く点滅し始めた。
パシュッ。
パシュッ。
短い噴射音。頬に冷たい微粒子が当たる。皮膚が一瞬で締まる。咳が出そうになる。
≪対象区域の消毒を継続しています。安全のため、その場で待機してください。問題ありません≫
対象。僕は対象になった。ただトイレに入っただけなのに、番号でも振られたみたいに、僕が区分される。
個室の中は(におい)が濃い。新しい霧の匂いと、アイツの臭いが混ざって、時間の層みたいになっている。天井の霧が一瞬だけ薄くなった。代わりに、低い機械音が足元から伝わってくる。床の奥で、何かが目を覚ますような振動。
足元のラインが青く変わった。
≪状態確認を開始します。便座での姿勢を維持してください。問題ありません≫
便座の奥が、わずかに温度を変えた。冷たさが均一になる。背中に当てていた便座の蓋が、ゆっくりとぬるくなる。挟み込まれているような感覚。逃げ場はないのに、力は加えられていない。
≪接触状態を確認しています。姿勢を維持してください≫
青く細い光が、便座の縁を一周した。遅れて、床のラインが同じように光る。光は僕の足の形をなぞるように止まった。
≪位置を記録しました。問題ありません。そのまま姿勢を維持してください≫
壁の両側から、柔らかいパッドが肩に触れた。押さえつけるほどではない。ただ、動こうとすると、そこにあると分かる程度の抵抗。
≪呼吸の乱れを検知しました。規定の呼吸を続けてください≫
僕は息を止めていたことに気づいて、慌てて吐いた。足元で、微かな振動が続く。電動歯ブラシを遠くで当てられているような、細い震え。皮膚ではなく、骨の奥で感じる振動。
≪生体反応を確認しています。姿勢を維持してください。バイタル・チェック進行中です。規定の呼吸を続けてください≫
天井の一部が、静かにせり下がった。白いパッドのようなものが、後頭部の少し上で止まる。触れてはいない。触れられていないのに、そこに境界ができた気がする。逃げたくなる位置だった。
≪動かないでください。状態を記録しています。姿勢を維持してください。バイタル・チェック進行中です≫
僕は視線を落とした。便座の白。自分の膝。手の甲。すべてが均一な光の中に置かれている。どこにも影がない。
≪バイタル・チェックが完了しました。記録を保存しました。次の工程へ移行します≫
青いラインが消え、再び赤が床を走った。霧が戻ってくる。さっきまでの出来事が、本当にあったのか分からなくなる。僕は、背中が便座の蓋から離れないことに気づいた。力を入れていないのに、離れない。支えられているのか、固定されているのか、判断がつかない。
≪消毒工程は正常に進行しています。次の指示まで、そのまま待機してください。問題ありません≫
問題ありません。僕がトイレの個室に閉じ込められているのが、正常なのか。この状況が、正常ということなのか。警報は続く。赤い光も続く。匂いも続く。僕は狭い個室の中で、背中を便座の蓋に押し付けたまま、途方に暮れ始めていた。さっきまで腹を押さえていた手が、今は胸を押さえている。
個室の中は、世界が縮んだみたいに狭い。聞こえるのは、外の警報のうねりと、AI女が繰り返す「問題ありません」だけ。僕の呼吸と、心臓の音。——このまま黙っていると、頭が変な方向に走る。僕は壁に額を軽く当てた。冷たい。冷たさが、現実を一点に集める。
「……誰かいますか?」
声が、思ったより大きく出た。個室の中で吸われて、すぐに消える。少し間があって、壁の向こうから、低い声が返ってきた。
「います」
男の声。近い。壁一枚向こう。
「……杖をつかれてました?」
間抜けな言い方だと思った。でも他に言いようがない。短い沈黙。それから、向こうから笑い声がした。
「そう。杖男です」
その答え方に、妙な安心をおぼえる。見えない相手なのに、人間の輪郭が戻ってくる。
「なんなんですかね、これ」
僕は壁に向かって言った。質問というより、確認。
「訓練ですかねえ」
訓練。その言葉が、個室の空気をわずかに重くする。
「何の?」
「さあ。消毒とか、隔離とか、最近いろいろあるじゃない。パンデミックとかテロとか地震とか」
向こうの声は落ち着いている。状況に慣れているようにも、ただ受け入れているだけのようにも聞こえる。
再び警報が低く唸る。女声が、同じ調子で繰り返す。
≪次の指示まで、そのまま待機してください。問題ありません≫
問題がないと言われるたび、疑念が増えていく。僕は便座の蓋にもたれたまま、目を閉じた。霧の匂いが、まだ鼻の奥に残っている。
「これ、やっぱり、パンデミックのやつですかね。最初は大したことない顔してて、途中から一気にやばくなる。隔離されて、抗体持ってるやつが一人だけいて、それが、僕らのどっちか」
僕は隣の人に質問をしていた。
「……だったら、どっちが持ってます?」
「そっちかな。主人公っぽいの、そっちなんで」
「なんでです?」
「若いじゃない……ところで」
乾いた喉を押し戻すような声。
「さっきの映画ですけど。あれ、最後どうなりました? わたし、途中で出ちゃって見れてないんですよ」
映画。爆発。瓦礫。主人公が立ち上がるところまで。僕も最後まで見れてない。
「いや、僕も最後の方で出ちゃったんで、最後まで見れてないんですよ。でも映画だし、危機一髪生還って感じじゃないっすかね」
「ですよね」
隣が笑う。
「でもさ。生き残るっていってもいろんなパターンがあるじゃないですか」
「パターン?」
「最後はボロボロでも生き残る。『ダイ・ハード』的な。誰かが犠牲になって地球が助かるのは『アルマゲドン』型ですよね。抗体見つかってギリギリ間に合うのは、ほら、ああいう感染もののパターン」
「……間に合わなかったら映画にならないですもんね」
「そう。観客は救われたいから。でも、それを裏切るパターンも多いですよね」
≪次の指示まで、そのまま待機してください。問題ありません≫
隣が笑う。
「で、この“問題ありません”ですけど、映画だと一番問題あるやつなんですね」
「安心して外に出た瞬間に倒れるやつでしょ」
「そうそう。安全って言われるときが一番危ない。安心したと思った瞬間に裏切られる型もありますよね」
「例えば?」
「外に出たら全部作り物だった、とか」
僕は少し考える。
「……『トゥルーマン・ショー』みたいな感じですかね」
「そうそう。そんな感じ。空も海も、全部セット」
「でもあれ、外があるじゃないですか」
「まだ、優しいですよね」
隣が小さく笑う。
「本当に怖いのは。出口があると思ってるのに、どこにも行けないやつ」
警報が低く続く。
「例えば?」
「構造だけが支配してるタイプ。部屋は変わるのに、外に出られない」
「……迷路ものですね」
「そう。人間関係が壊れていくやつ。そこがまた恐ろしいですよね」
僕は便座の蓋に背中をつけたまま言う。
「じゃあ、外に出たら誰も自分を覚えてない、っていうのも怖いですね」
「記憶が偽物だったパターン? 妄想治療パターン?」
「そんな感じです」
「それ、ありますね。自分が信じてたものが全部ズレてるやつ。ありますあります」
≪次の指示まで、そのまま待機してください。問題ありません≫
「……この声も」
僕は天井を見上げた。
「信じていいのか分からなくなりますね。AIの反乱パターンってことも十分考えられますし」
隣が、少し黙る。
「お隣さん」
「はい」
「こういう状況ってさ。守られてるって思った瞬間が、一番危ない気がしませんか」
僕は、すぐに返事ができなかった。個室の壁に手を当てる。固い。冷たい。ここは現実だ。そう思ったのに、どこまでが現実なのか、少し分からなくなる。
でも、現実には天井から女の声が降ってくる。
≪次の工程に移行します。対象者は腕を露出してください。右腕を壁面側に。抵抗は危険です。問題ありません≫
壁の肩の高さに、細い線が浮き上がった。最初からそこにあったはずの継ぎ目が、いま初めて意味を持つ。そこが、ゆっくりと割れる。中から現れたのは、金属の腕だった。細い。白い。関節が多い。動きが滑らかすぎて、生き物の関節よりも静かだ。先端には丸いパッドが二つと、細いノズル。注射器というより、測定器のようにも見える。
≪腕を固定します。動かないでください。問題ありません≫
パッドが前腕に触れた。冷たい。皮膚の上から押し当てられる。柔らかいのに、逃げられない圧。固定。掴まれている。逃げ道がないという事実が、皮膚より先に脳へ届く。
僕は反射的に力を入れた。筋肉が硬くなる。すると、声が重なった。
≪筋緊張を検知しました。リラックスしてください。抵抗は危険です≫
危険。言葉が、筋肉の奥まで届く。力を抜く。抜かされる。どちらか分からない。隣の個室から、短い息が漏れる音がした。同じ工程。同じ音。僕は唾を飲んだ。喉が乾いたままだ。金属腕の先端が、肌のすぐ近くに寄る。触れる寸前で止まる。測っている。位置を合わせている。
≪処置を開始します≫
次の瞬間、刺された。皮膚が破れる感覚。鋭い痛みではない。液体が入ってくる感覚。
「……っ」
冷たい。腕の内側を、細い冷たい線が上へ走る。血管の形をなぞるように、肘の内側へ、肩へ、胸へ。僕は歯を食いしばった。痛みではなく、侵入されている感覚に対して。
≪処置が完了しました。状態を監視します。異常があれば非常ボタンを使用してください。問題ありません≫
金属腕が針を抜いた。皮膚に小さな熱が残る。パッドの圧がゆるむ。固定が解除される。
≪記録を保存します。次の指示まで待機してください。問題ありません≫
記録。僕の体が、この個室で記録されている。名前ではなく、何かの数字として。僕は腕を見た。小さな点だけが残っている。血は出ていない。綺麗すぎる穴。
隣の個室から、また息が漏れた。何かを言い出す気配。
「お隣さん……LINE、やってます?」
僕は笑いそうになった。こういう唐突さがないと、人間は壊れる。
「……一応」
僕は返した。
「じゃ、交換しません?」
「どうやって……」
ここ、個室。QRなんて無理だ。
「ID、読み上げで」
僕は喉の奥で息を吐いた。こういう当たり前なことがなぜか頼もしい。
「じゃあ、わたしから言います」
隣の男が言った。
「サヤマエイガアンダーバー1984」
「もう一回、最初からお願いします。一文字づつで」
自分でも驚くくらい冷静な声が出た。
「はい。じゃ、一文字づついきますね」
隣の男が、読み上げる。
「エス・エー・ワイ・エー・エム・エー・イー・アイ・ジー・エー・アンダーバー・1984」
「sayamaeiga_1984。これで合ってます?」
「合ってます。わたし、映画オタクなんで。佐山です」
そんなことは聞いてない。
「じゃ、次、あなたの教えてください」
僕は迷った。shotacool_4649
自分のIDが恥ずかしくなった。ダサい。でも直せない。仕方がないから、読み上げる。隣が復唱する。声に出されるとダサさが際立つ。
数秒後、スマホが震えた。震えだけが大きく感じる。
——友だち追加されました。sayamaeiga_1984。犬のアイコン。チワワ。服を着せられている。格子柄のピンクのベスト。背景にソファの生活感。
「サヤマさん……犬っすか?」
僕が言うと、隣が誇らしげに言った。
「チワワ。小梅といいます。女の子です」
小梅。僕は笑いを堪えていた。
「すごいですね」
「何がですか?」
「……アイコン」
“可愛がりすぎ”という単語が喉まで来て、飲み込んだ。スマホが震えた。スタンプが来た。小梅が両手を振っている。その横に「よろしく!」の文字。僕は吹き出してしまった。
「今、それ送るの、反則じゃないですか」
「場を和ませようと思いまして」
声が得意げだ。たしかに、場は和んでいる。
「……あれ? ……ショータさん、ものすごいイケメンじゃないですか!」
僕のアイコン。過剰に加工した自撮り。肌が滑らかで、輪郭がシャープで、目が少し大きい。
僕は黙った。隣で、笑いを押し殺しているのが見えなくても分かる。
「……いや、申し訳ない。イケメンすぎて驚いているだけです。別に責めてないですよ。分かります。分かります。映画好きって、だいたいそういうとこあるじゃないですか。主人公気取り」
「……小梅に言われたくないです」
僕はスマホの画面をもう一度見た。小梅が、両手を振っている。スタンプの犬が、画面の中でずっと手を振っていた。現実の輪郭が薄くなる。
「……で、ショータさん、今日はソロ活動ですか」
「違いますよ。美咲と二人で来たんです」
「お、彼女さんとですか。いいじゃないですか。ミサキって言ったら伊東美咲ですよね。『模倣犯』良かったなあ。いい名前ですよね」
いったい、この人、何言ってるんだろう?
「……一緒に映画観に来たんです」
「仲いいっすね」
「結婚したいんです」
僕は言ってしまった。個室の空気が変わった。隣がすぐに茶化さない。沈黙が伸びる。
「……素晴らしいじゃないですか」
「でも。僕、何がしたいのか、分かんないんですよ。就活してるけど、やりたい仕事、特にない。面接で“あなたは何がしたいですか”って聞かれるたびに、こっちが聞きたいって思う。あんたは何がしたいですか。こんなんで結婚なんて無理ですよね」
サヤマさんが「いやいや」と言った。「それ、みんなだいたいそうですよ。したいことがある人の方が珍しいと思いますよ。わたしなんか、映画を見ることと小梅のことで人生目一杯ですから。彼女さんは何て言ってます?」
「……“好きなことすれば”って」
「で、僕が考え込んでると、じっと黙って見てるんです」
喉の奥が熱くなった。
「いいじゃないですか。優しく見つめるタイプか。ああしろこうしろ言わない派ですね」
「言わない派って……」
「関係性出るんですよ」
「勝手な人って、好きな人にああしろこうしろ言いたくなるんですよね。でも、彼女さん、言わない派でしょ。それは、ショータさんのこと、本当に好きな証拠です。ショータさんのことを信じてるんですよ」
「でも、美咲、ちょっと面倒なとこもあって。睡眠時間とか、栄養のこととか、けっこううるさいんですよね」
隣が笑った。
「ショータさん、それ、ノロケですか? でも、そういう人と結婚したいなら、好きなこと分かんなくても、まあ、いいんじゃないですか」
僕は黙った。
「……サヤマさんは? 小梅、でしたっけ」
隣の声が明るくなる。
「小梅もね。ちょっと面倒な女の子なんです。餌の時間。分刻み」
「分刻み?」
「五分遅れると、わたしのスマホに通知来るんですよ」
「……それ、誰が送ってくるんですか」
「小梅が」
「犬が?」
「いや、ペットカメラからですけど。小梅はね、分かるんですよ。わたしが今どこで何してるか……やきもちやきなんです」
サヤマさんのノロケが止まらない。
「小梅の服、季節ごとにあるんですよ。衣替えしてる」
「見ました。似合ってました」。
「家に帰ったら、玄関でさ、足音聞こえた瞬間に吠えるんですよ」
声が柔らかくなる。
「その吠え方がね……あれ聞いたら、わたし、だいたいのこと許しちゃう。だから。ここから出ないといけない。餌、やらないと」
「……美咲も、外で待ってるんです。お腹空かせてる気がする。映画の後、ご飯に行くつもりだったんで」
「じゃあ、外出たら、わたし、奢りますよ。あなたと美咲さんに。これも縁ですから。ショータさんとミサキさんがいやじゃなければ」
「……小梅の餌はどうするんですか?」
「小梅には、帰ったら特別おやつあげますから」
スマホをいじる音がした。スタンプが飛んできた。犬が敬礼している。「了解!」という文字。
≪次の工程に移行します。待機姿勢を維持してください。扉に触れないでください。問題ありません≫
隣から、コツ、という音。杖を床に当てる音だ。
「ショータさん。非常ボタンありますよね」
非常ボタン。個室の壁の低い位置に、赤いボタン。“緊急時”。
「わたし、押します」
カチ。
≪非常通報を受信しました。現在、緊急衛生プロトコル実施中です。対応まで、しばらくお待ちください≫
サヤマさんが強い口調で怒鳴った。
「しばらくって、どれくらいだよ!」
≪推定待機時間:未定。順次対応します。そのままお待ちください。問題ありません≫
未定。
「ショータさん……これ、待ってたら、死ぬやつですよね」
次の瞬間、隣から、ガツン、と鈍い音がした。杖で、何かを叩いた音。
「ちょ、何やって――」
≪警告。設備損壊行為を検知しました。直ちに中止してください。抵抗は危険です≫
サヤマさんは止めない。
ガツン。
もう一撃。
「主人公なら、行動起こすんです」
≪警告。設備損壊行為を検知しました。中止してください≫
サヤマさんが言った。
「……だめだな。硬い。硬すぎる」
≪落ち着いてください。抵抗は危険です。次の工程まで待機してください。問題ありません。対象の安全は保たれています≫
「……なあ。これ、さ。わたしたち、守られてる側ですか? 閉じ込められてる側ですか? 本当に外は大丈夫なんでしょうか?」
美咲のことが気になってきた。スマホを見た。電波のマークが一本、立っている。次の瞬間、消える。画面を引き下ろして更新する。くるくる回る。止まる。何も変わらない。
Wi-Fiのマークも点滅している。接続。切断。接続。切断。画面の文字が、少しだけ滲む。ピントが合うまで、半拍遅れる。
僕は通話アプリを開いた。美咲のアイコン。指先の感覚が、少し鈍い。発信ボタンを押した感触が、遅れて届く。
呼び出し音。一回。二回。三回目で、繋がった。
「……もしもし?」
美咲の声。向こう側のざわめきが、うっすら聞こえる。
「翔太くん? どこ?」
「まだ、トイレ……」
「え?」
すぐに続く。
「戻ってこないから、ちょっと心配してた。ロビーで待ってるよ」
ブツッ。
僕はもう一度発信しようとした。Wi-Fiが点滅する。回って、止まる——通話終了。電波、ゼロ。
隣から声が来た。
「切れちゃいました?」
「……切れました」
「大丈夫な感じでした?」
「はい」
「じゃあ外は普通に動いてるんですね」
普通。その言葉が、ゆっくり沈む。
サヤマさんが言う。
「ここだけ水槽みたいだ」
水槽。外から覗かれている金魚。
「……すげえなあ。ここまでやるか。映画だったら、ここで『政府が隠してる』って流れですよね。いや、政府、じゃないかも」
「じゃあ何ですか」
「施設。この施設自体が、もう一つの国みたいなもんですよね。国ってのは、自分の都合で人を閉じ込める」
僕は便座の蓋に背中をつけ直した。
「……さっきの、抗体の話ですけど。どっちかが持ってるとか」
「はい」
「もし、どっちも持ってなかったら。映画なら、どっちかが、先に逝く。そして、残った方も、結局、逝く。映画を盛り上げるための脇役ですよね」
「サヤマさん、縁起悪すぎなこと言わないでくださいよ」
サヤマさんは少し間を置いてから、再び語り始めた。
「ショータさん、誰にも言わないって約束してくれますか?」
「……はっ?」
「約束してくれれば、真実をお教えします」
真実? サヤマさんはすべてを知っているということなのか?
「分かりました。お約束します。絶対に誰にもしゃべらないと誓います」
サヤマさんが「分かりました。真実をお伝えします」
「トイレ、並んでたとき……わたし、漏れてた。ほんの、ちょっと。ズボンの中で」
僕は爆笑してしまった。
「……すみません。意表突き過ぎて腹痛いっす。でも、正直、ちょっと救われました」
「なんでですか? 他人の不幸がそんなに嬉しいんですか?」
「いやいや、僕もやばかったんです。僕だけじゃないって思える。僕、さっき、肛門が世界の中心でした」
サヤマさんも笑った。
「……わたし、主人公気取りだったのに。漏れてる主人公って、終わってますよね」
「ランボーでも漏れるかもしれないですよ」
僕がフォローの合いの手を入れると同時にサヤマさんが「漏れねえよ!」と叫んだ。
「でもさ、“漏れてた”って、今の状況にも合うような気がしませんか?」
「……ウイルスが? 放射能が?」
「そう。わたしが漏れたのと同じようにさ。ここから外に、漏れてるんじゃないかって。だって、消毒してるじゃないですか」
「消毒してるってことは?」
「消毒しなきゃいけない何かがあるってことですよね。注射、何だったんですかね?」
「ワクチンですよね」
「ワクチンって言ってましたか?」
「そういえば、言ってない気がします」
「“予防接種”って言ってましたっけ?」
「予防接種とも、言ってないと思います」
「つまり、正体が分からない。わたしたち、異星人に人体実験されてる可能性があるような気がしてきました」
「……やめましょう、サヤマさん、それ。マジでいやです」
「いや、縁起悪いのが、こういうとき一番当たるんですよ。映画でもそうじゃないですか。冗談みたいな予想が、一番正解に近い。カルト映画の鉄則です」
そのとき、スピーカーが鳴った。
≪次の工程に移行します。隔離対象者は、姿勢を維持してください。手を壁から離してください。問題ありません≫
「やっぱり、異星人に身体を乗っ取られるパターンですね。『ボディ・スナッチャー』ですよ」
「ほんと、サヤマさん、もう変なこと言わないでください」
≪次の工程に移行します。対象者は待機姿勢を維持してください。防護装備を配備します≫
「ほら来た。装備支給イベントです。フェーズ移行ですよ」
「ゲームじゃないんですから。急にラスボス戦みたいな言い方やめてください」
天井のあたりで機械音。
カチャ……
カチャ……
時間が、ねじれる。音が遅れて届く。天井が裂け、白いパッケージが降りてくる。透明なフェイスシールド。白い薄っぺらな雨具みたいなツナギ。
「ショータさん」
サヤマさんの声がさっきより真剣だ。
「はい」
「もし、わたしが戻らなかったら——小梅を頼みます」
「死亡フラグやめてください」
「真面目に聞いてください。ショータさん」
声の調子が強くなった。
「俺は外の状況を確認する。必要なら、この身を挺して封じ込める。お前はミサキと小梅を」
「それ映画の台詞っすか?」
僕はサヤマさんとお喋りしながら、ツナギに足を入れる。ぺらぺら。
≪密閉確認を行います。噴霧を実施します。目を閉じてください。問題ありません≫
目を閉じる。赤い残像がまぶたの裏で揺れる。輪郭が溶ける。時間が、少し遅くなる。息を吸う。肺の奥がぬるい。吐く。体が重くなる。——眠い。なんだか眠くなってきた。
「……ショータさん? 起きてます? なんか眠くなってきませんか?」
佐山さんの声が、遠くで響く。
「はい、なんか眠くなってきました」
「映画なら、ここで寝たやつ死にますから」
噴射が止む。
≪密閉:確認。防護装備:着用確認。順次開錠します≫
カチャ。
ロックの外れる音。隣のサヤマさんの声。
「わたしの方、開きました」
ドアが擦れる音。
「先、出てます」
「お願いします」
「LINEします。ここ出たら、一緒にご飯行きましょうね。ミサキさんもご一緒に。なんでもご馳走しますよ」
「……サヤマさん。いい人ですね。なんか救われた気がします」
沈黙。
一秒。
二秒。
「それ、いっちゃいけない台詞です。それだと、わたし、死ぬ役確定ですから」
サヤマさんと僕は大笑いした。
「では、お先に!」
杖の先が床に当たる音がする。
コツ。
コツ。
コツ。
足音が遠ざかる。
僕はドアの前に立ったまま、笑っていた。世界が終わるかもしれないのに、異星人に乗っ取られたかもしれないのに、やりたいことも分からないままなのに、なぜか、救われた気がしていた。
すぐにスマホが震えた。
『ノー・プロプレムです! ロビーで待ってます!』
小梅のアイコンが手を振っている。力が、抜ける。
『了解です!!』
返信してから五分ぐらい経ったころ、ようやく僕の個室のドアの鍵が開く音がした。
カチャ。
押す。開く。
空気が乾いている。消毒の匂いが、薄く残っている。白い光。均一すぎる明るさ。床は硬く、靴底がわずかに滑る。
壁は白い。角が丸い。手洗いの手順が図で貼られている。誰にでも分かるように、順番が番号で示され、注意書きが書いてある。
≪防護装備はトイレ内で脱いでください。区域外へ持ち出さないよう、回収ボックスへ入れてください≫
足元に、透明な箱がせり出していた。内側にビニール袋が張られている。フードを外し、ツナギのファスナーを下ろす。布が肌に貼りつく。脱ぐと、体温が急に外へ逃げる。足を抜き、丸める。ビニールの擦れる音が、小さく響いた。箱の中へ押し込む。透明な蓋が、静かに閉まった。着るのはたいへんだったが、脱ぐのは簡単だった。
スマホを見る。美咲からメッセージ。
『どこ?』
『トイレ出た』
『ロビーで待ってるよ』
顔を上げる。通路の先に、人の気配がある。通路を抜けると、視界が少し開けた。ロビーの光はやわらかく、さっきまでの均一な白とは違っていた。人の声が混ざり合って、空気が揺れている。
「……美咲」
手を振っている。いつもの仕草。胸の奥の緊張が、ゆっくりほどける。
「遅かったね」
「ごめん、ほんとやばくて」
「顔見れば分かる」
近づくと、美咲のいつもの匂いがした。さっきまでの消毒の匂いが、少し遠のく。
「エンディング見逃した……」
「一番だめなやつ」
笑う。
「トイレでさ、知らない人と仲良くなっちゃって」
「なにそれ」
「杖ついた人。サヤマさんって言って、映画オタク。LINE交換して、飯奢ってくれるって。臭い仲ってやつ」
僕はつまらないことを言ってるなと思いつつ、笑いながら、視線を巡らせる。ロビーのベンチ。人が座っている。荷物を足元に置いている。杖もある。
「あの人、たぶんサヤマさん」
僕と美咲はサヤマさんに近づき、声をかけた。
「サヤマさん? ですよね?」
「ショータさん?」
顔がほころぶ。その膝の上に、小さな子犬のぬいぐるみが乗っている。白と茶色の毛並み。ボタンの目。布は擦り切れているが、丁寧に繕われている。
「この子が小梅です」
サヤマさんが、ぬいぐるみの頭をそっと撫でる。指の動きが、さっき個室の壁を叩いていた同じ手とは思えないほど静かだ。僕は一瞬、言葉を失った。
「……一緒に来てたんですか」
サヤマさんが、にっこりと笑う。
「まあ、そんな感じです」
ロビーのざわめきの中で、その声だけが、少し遅れて届いた気がした。横で、美咲がサヤマさんの一歩前に出る。
「佐山さん、腕、こちらに」
サヤマさんは、素直に腕を出す。ぬいぐるみの小梅を膝に乗せたまま、動かない。白い上着の袖口。固い布の音。首元のカードケースが、美咲の胸元で小さく揺れる。
「ショータくん、ご飯の約束、忘れてないよね。小梅も同席だ。重要キャストですからね」
サヤマさんが、照れたように笑う。サヤマさんの腕に注射針が刺さる。
コツ。
杖の先が床を鳴らす。
「ショータくんの彼女って、美咲先生のことだったんだね」
サヤマさんの声が、どこか納得したように落ちる。ロビーのざわめきは続いている。誰もこちらを見ていない。白い光が、均一に床へ落ちている。
ロビーの出口は見当たらなかった。人の声はある。靴音もする。けれど、誰も外へ出ていこうとはしない。名前を呼ばれた人から、順番に腕を差し出していく。
「翔太くん、次の上映で、少し楽になるはずだから」
美咲先生の言葉に僕は安堵し、自分の番が来る前から、袖をまくっていた。
(了)
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