堕ちる。

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梗 概

堕ちる。

周囲と比較し自分の価値を測れず生きる意味を失った主人公・玲子(22)は自殺未遂を起こし、一命を取り留める。無気力な玲子は、主治医から脳内に小型デバイ(Happiness)を埋め込みドーパミン分泌を促し達成感を高める新しい治療を提案され、しぶしぶ同意する。手術後、病室で不意にガラスコップを落とした瞬間、玲子はささやかな幸福感を感じる。

 退院後、混雑した駅のホームで電車を待つ玲子は、杖をつく高齢女性と肩がぶつかり、そのまま高齢女性は線路へ落ちてしまう。電車の警笛が鳴り響く中、Happinessは激しく反応し、玲子は経験した事がない幸福感を感じる。
 帰宅した玲子は、玄関の鏡に映る自分の口元がかすかに笑っていることに気づき、「そんなはずじゃない……」と首を振る。妹から声をかけられ取り繕うも、鏡で見た自身の笑みが頭から離れない。
 後日、外来でデバイスの異常を尋ねるも主治医は「危険な報告はない」と答え代わりに専用アプリ(H-scan)で幸福度を測るよう勧める。そのアプリは蓄積された表情データを元に画面に写る顔の表情を解析して幸福度を計るアプリであった。駅のベンチで、SNSを眺めて落ち込む玲子。H-scanを開き顔の表情を見ると幸福度は「危険水域」と表示される。ため息をついて立ち上がろうとした際に、弱々しい女性と肩がぶつかりスマホを床に落とす。その瞬間、脳内にまた快感が走る。女性が拾って渡してくれた玲子のスマホには偶然にもその女性の幸福度が表示されており、見たことのない高い幸福度が表示されていた。玲子の脳裏には嫉妬心に加えて高齢女性を突き落とした以前の記憶と快楽が浮かぶ。衝動に呑まれた末に女性を線路へ突き落とす。

 洗面台で必死に手を洗う玲子の目には、水が次第に血の色に見え、鏡の中の自分は満ち足りた笑みを浮かべる。自暴自棄になって周りの物を投げつけるたび快感が溢れ、自分を制御できない恐怖が膨らむ。H-scanを起動すると幸福度の数値が高く表示されていた。倫理観と快楽の間で追い詰められた玲子は、逃れ難い快楽に抗いながらも頭皮を裂きHappinessを力ずくで引き剥がし、その場で意識を失う。

 再び病院のベッドで目を覚ました玲子、「もうデバイスは使いたくない」と主治医に訴え退院を許される。頭の傷を隠す為に帽子を深く被り、再び駅のホームに立つ。目の前にはスマホを見つめて幸せそうに微笑む女子高生の背中。震える右手を左手で必死に抑え込むも右手は女子高生の背後に近づいていく。じっと目を瞑り右手で突き落とすその瞬間、線路に突き落とされたのは玲子だった。見上げると、ホームには彼女を突き落とした女が薄笑いを浮かべて立ち、その頭部にも同じHappinessが入っている。周囲を見れば、乗客全員が同じデバイスを装着し、誰もが玲子を見下ろしながら微笑んでいた。駅構内に侵入する電車の警笛が鳴り響く。

文字数:1198

内容に関するアピール

他人と比較し自分を見失った主人公が、ドーパミンを刺激をする脳内デバイス治療をきっかけに、偏った幸福に取り憑かれ溺れていく近未来SFスリラーです。ニューラリンクの様な脳内デバイスが現実になりつつある昨今、本作では、幸せホルモンと言われるドーパミンの分泌を増幅させる医療装置が登場します。その装置は幸福感を増大させ、生きる価値を回復させるはずの治療だったはずが、他者を線路へ突き落とす快楽へと主人公を誘います。SNSの普及により「他者からの承認」という強い快楽を求めてしまう現代の社会問題「ドーパミン中毒」も題材に取り上げる事で、テクノロジーと欲望が結びついた時に人はどこまで堕ちていくのかを考えてみました。ラストの描写でホームに立つ人々の頭に同じデバイスが入っている光景は、盲信的にテクノロジーに幸福を委ねてしまった場合の私たちの一つの未来を映しているかもしれません。

 

文字数:383

課題提出者一覧