長靴ヒエラルキー
青森の雪深いこの地において、快適な日常を過ごすためは、冬用の靴が、必ずといってもいいほど必要である。
だが、この学校の男子生徒達は、冬でもスニーカーで登下校するという挑戦的な姿勢を崩そうとはしない。
彼らは毎朝、自身の靴を濡らしながら登校し、ようやく乾いたと思ったその靴で、今度はそれを濡らしながら下校する。彼らはそれを家で乾かし、そして次の日もまたそれを履いて登校する。彼らは冬の間、そういった不毛なサイクルを繰り返すのである。
さて、この学校の女子生徒たちはというと、長靴を履いて登校する。
私は最近の流行りというものに敏感ではないが、街の女性たちはよく、白いもこもこの毛がついたブーツを履いている。いわゆるムートンブーツというものである。
だが彼女たちは、そういった流行り物など履かず、長靴を履いて登校する。しかもその長靴は、ぺらぺらの薄い作りで、農作業でおばちゃんがよく履いているような、あの絶妙な長靴なのである。しかも彼女たちは、なぜかは分からないが、その履き口をハサミで切り、わざわざ長靴を短くして履く。
まったくもって不可解である。
彼女たちの長靴の色は、赤色、黄色、黒色で分類されている。
赤は三年生の中でも、ごく一部の生徒のみが許される色である。いわゆるピラミッドの頂点階層にいる女子生徒たちだけが履くことを許されている。黄は中階層、二年生以上から履くことが許される色であり、一年生でこの色を履くことは許されていない。黒は、それ以外。一年生から三年生まで、幅広い女子生徒がこの色を履いている。
「男子って冬でもスニーカーで来てて、バカみたいだよね」
「うるせぇな、女子だって、なんであんなダサいの履いてんだよ」
「はぁ? このよさが分からないとか、あんたらセンスないわ」
「いや、センスねぇのはそっちだろ」
日本には「どんぐりの背比べ」という良いことわざがある。両者の言い分は分かるが、どちらもきちんと自分の足元をよく見た方が良い。
少し昔の話をしよう。
あるひとりの男子生徒がいた。
彼、吉田君は十キロほど離れた、岩平地区から来ていた。吉田君は、夏の間、自転車で登校し、冬になると一日二本しかないバスで、誰よりも早く登校していた。
彼は教室に入ると、いつも自分の濡れた靴を乾かしていた。その靴は、アディダスの白いスニーカーで、最初は真っ白だったであろう色はくすみ、かかとはすり減り、靴紐は毛羽立ちくたびれていた。彼は毎朝、濡れた足と、穴の開きかけた靴下を温めながら、ひとりラップに包まれたおにぎりを食べていた。
ある日、彼の友人である高橋君も、スニーカーで登校し始めた。
彼の靴は、新品のプーマのスニーカーであった。
「いやぁ、なんかロックっぽいじゃん?」
はたして高橋君が、本当にロック精神というものを理解していたかどうかは分からない。
だが、彼の言うロックという言葉に、少なからず影響を受けた男子生徒が多かったのは確かである。
それから5年経ち、今では全男子生徒が、雪道でもスニーカーで登下校するというそのロック精神を引き継いでいる。
「つか、なんで長靴わざわざ切るんだよ」
「だって長靴とかダサいじゃん」
「え、じゃ、普通の靴履けばよくね」
「それは違うの!」
余談ではあるが、吉田君と高橋君は、女子生徒たちに非常に人気のある生徒であった。いわゆる「イケメン」というものである。彼らが赤い長靴を履いた女子が可愛いと言ったその発言から、今の長靴ヒエラルキーが始まったことを、最後に述べておきたい。
文字数:1452
内容に関するアピール
美しさとは、比較する対象があってこそ成り立つものだと考えました。
それと合わせて、自分の中で美しいなと思うことについて考えたとき、うっすらと浮かんだのが貧しさの共有です。
自分自身、裕福ではない家庭で育ったので、施しの優しさや、鬱陶しさを感じきたのですが、
豊かさの共有もいいですが、個人的にぐっときたのは貧しさの共有のです。
貧しさって共有するだけで、なんか違うあったかくていい感じのものになる気がします。
それを書きたかったのですが、伝わっているのか。。。
あと美しさって、それが正義というか、正しさになっちゃうよな、というのを入れたいと思い、最後のオチにしました。
文字数:279


