梗 概
フュルギスマインニヒト
55歳の葵は、余命わずかの宣告を受けていた。生涯独身で、身寄りもない。静かに最期を迎える覚悟を決めていたある日、部屋の整理中に一枚の写真が出てくる。そこには、見覚えがないのに胸が痛む青年の姿が写っていた。なぜその写真が手元にあるのか説明できない。だが「私は、あの人を知っている気がする」という曖昧な痛みだけが確かに心に残る。庭には青い勿忘草が咲きはじめていた。本来は彼女の死後に咲くはずだった花。それを目にしながら、葵は静かな違和感を抱え続ける。
30年前。25歳の葵は街角で出会った27歳の青年・真矢に一目惚れし、自分から声をかけて恋人関係になる。だが真矢には秘密があった。彼は未来からのタイムトラベラーであり、滞在できるのは一度きりの7日間だけ。期限が来ればどう足掻いても未来に戻るしかない。二人は深く惹かれ合いながらも別れる。やがて葵は別の男性と結ばれ、息子の真矢が生まれる。
しかし、現在の世界線ではその歴史は存在しない。母・葵が55歳で余命宣告を受けたとき、息子だった真矢は彼女の「昔、忘れられない人がいたの」という独白を聞き、母を救いたいと願う。未来の技術で許されている“生涯一度きりのタイムトラベル”を使い、25歳の葵のもとへ向かう。
だが、そこで彼が行った小さな行動の違いが、世界を丸ごと書き換えてしまう。
過去へ降り立った真矢は、街でふと“視線”を感じる。それは葵が彼に一目惚れしてしまった瞬間だった。本来の世界線では葵が声をかけるはずだった。しかし今回は、視線に気づいた真矢が先に声をかけてしまう。二人は運命の帳尻を合わせるように再び恋に落ちるが、その出会い方は本来の歴史とは異なり、未来に居場所がない恋だった。
恋の深まりとともに、「時の揺らぎ」は加速する。滞在可能な7日は3日へ、3日は1日へ、そして数時間へと減っていく。真矢は気づく。
——写真の青年は、自分だ。
——母が胸に抱え続けた“忘れられない誰か”とは、7日だけ共にいた自分だったのだ。
滞在の限界が迫るなか、真矢は葵の手に一輪の勿忘草をそっと握らせる。「あなたが、幸せに生きられますように」。その祈りを残し、光の粒となって消えた。彼の存在は世界から完全に消滅し、息子としての真矢も、恋人もどきの真矢も、この世界線には存在しなくなった。
——そして現在。
55歳の葵は、理由のわからない胸の痛みと共に生きていた。青年の写真を見つめながら、涙の意味を思い出せないまま、静かに人生の幕を閉じる。
だが、最期の春、青い勿忘草だけは確かに咲いていた。
本来の世界線では見ることのなかった、小さな奇跡。
その花だけが、二つの世界線をそっと繋いでいた。
文字数:1099
内容に関するアピール
この物語は、「勿忘草の由来を別の形で語れないか」という発想から生まれました。
“フュルギスマインニヒト”は勿忘草のドイツ語名です。
さらに、中学生のころに読んだ野球少年が自分の出生の秘密を探るため、若い頃の両親に会いに行くという小説の記憶がずっと胸に残っていて、今回のタイムトラベル設定の核になりました。
また、イザナギとイザナミの神話には「声をかける順番が違うと世界が成立しない」という逸話があります。その“順番”のモチーフを借り、今回は 声をかける側が一度だけ入れ替わったことで、息子が存在しない未来が生まれる物語にしました。
息子は自分が消えるほどの選択をしたのに、その結果は、母が冬を越せるかどうかという、たったそれだけの違い。
誰かの人生を揺るがす決断も、世界にとっては小さな揺らぎかもしれない。
その“ほんの少しのズレ”から生まれる切なさを描きたいと思いました。
文字数:380




