メモリー・リプレイ

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梗 概

メモリー・リプレイ

リュウは七十五歳。妻のサキは昨年の暮れに亡くなっている。
サキの甥のケンが円筒状のホログラフィック・ディスプレイを抱えて訪ねてくる。サキのアバターを映すための装置だ。
「これリュウさんにあげます。人の記憶をコンピュータに移す研究をしているんです。サキ伯母さんの記憶はほぼ入っています。」
近頃の故人アバターは、生前のその人そっくりな声でその人みたいに話す。「でも、これはそこらのアバターよりもずっと良いです」とケンは得意げだ。
リュウはあまり興味がない。妻とは話したいが、アバターと話したいとは思わない。曖昧に礼を述べてケンを見送る。
 
ケンの手前、まったく使わないわけにもいかない。リュウは装置の電源を入れてみる。
サキのアバターが現れる。どことなく、全然似ていないと思う。
リュウはおそるおそる声をかける。お元気ですか?
 
話し始めて、リュウは本当にサキと向かい合っている感覚に陥る。
驚くほど似ている声のせいではない。ときおり語り出しが妙に低くなる調子、間合い。たしかにサキを思わせるものがある。
 
サキの視線が、テーブルのマグカップに吸い寄せられるように止まる。
台湾の南部の街の思い出が脳を占拠したみたい、と彼女は言う。もう忘れ去っていた情景が自動的にリプレイされる。
リュウは驚く。だが、あのマグは、昨年の旅行で買ったばかりではないか。
 
ケンは電話口で少し考えてから答える。
「伯母さんの記憶には、本人が能動的に想起して書き込んだものと、忘却に近い痕跡を大脳皮質から電気刺激で強制的に焼き付けたものがあります。後者はエピソードとしてしか書き込めないですし、元が薄い記憶なので、神経配線の強度を弱めているんです。」
 
要するに、はっきり残っている記憶は一部で、きっかけがないと思い出せない記憶が多いらしい。
サキはきっかけになるものを要求する。リュウは、家中の旅の土産物を集めて並べてみる。
一つだけサキが思い出せない観音像のミニチュアがある。リュウも見覚えがない。
写真サーバで検索するとEXIF情報に千葉の海沿いとある。リュウがサキにプロポーズした場所らしかった。
 
リュウは装置を抱えて電車に乗る。
やっと浜辺に着く。「プロポーズをされたら思い出せるだろうね。」
サキがにんまりと笑っている。からかいたいだけだったのか。かつて指輪を手にしても言い出せないリュウに、見かねたサキの方が結婚しようと言った。
 
リュウは腹を決める。「君のことが好き。」
思わず笑う二人。その瞬間、両手の装置がぐらりと傾き、砂地に落ちる。鈍い音。黒い筐体にひびが入り、画面が暗くなる。
本当にさようならだ。
 
数日後、事の顛末をケンに報告する。新しい装置を用意するのに数ヶ月かかりますよ、とケンは肩をすくめる。
新しい装置?サキの記憶はまだあるのか。
「当然バックアップは完璧です。サキ伯母さんはもう、不老不死です。」
ケンはどこかサキと似た顔でにんまりと笑う。

文字数:1200

内容に関するアピール

故人AIサービスが増えています。素材は写真や音声、遺族が記したエピソードなど。データ量次第ですが、声や見た目は結構そっくりみたいです。賛否はあるものの、葬儀屋が提携のサービスを勧めてくる日は近いのかもしれません。
 
ただ、そうしたアバターは問いかけに受動的に応えるだけ。人格や記憶の再現も、手書きのエピソードに書かれていることがすべて。
 
一方で、脳神経科学では人の記憶をまるごと計算機に転送する研究がまじめに計画されています。海馬に刻まれた短期記憶を、ノンレム睡眠中に大脳皮質でリプレイ(再生)して長期記憶に変換するメカニズムを利用するんだとか。
 
めでたく機械におさまった「私」はなお「私」か――という難題はひとまず脇に置くとしても、もし記憶や意識をもつアバターが実現すれば、彼らは能動的にこの世界に生きる私たちに干渉し、私たちもまた故人との関係を本当にリプレイできるかもしれません。そんなお話です。

文字数:399

課題提出者一覧