沈黙の神に

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梗 概

沈黙の神に

かつてバビロニアの小さな村で不作が続き、神の怒りを鎮めるために「次に月が沈黙する日に生まれた子を神の器とせよ」と予言が伝えられた。その日に生まれた少女は、生後すぐに神殿へ引き取られ、「神の言葉だけを聴く者」と定められる。耳には銀の輪が嵌められ、人の言葉と遠ざけられて育つ。彼女に届くのは風・水・木々の揺れなど世界のざわめきだけで、それらを神の言葉だと信じて成長した。

神殿の奥に隔離され、不思議な音で歌うように祈る少女を人々は巫女として崇めるが、十三歳になると生贄とされる定めがあった。少女は外の世界を知らず、神殿の壁越しにぼんやり聞こえる人々の笑い声に憧れを抱く。

その頃この地では巨大な塔が建設されていた。作業に携わる青年アリムは、微かに聞こえた歌声に引き寄せられて神殿に潜り、目にした少女に心を惹かれ、壁に開いた小さな穴から密かに話しかける。彼は絵や身振りで意思を伝えようとし、少女は初めて人の声を耳にする。しかしそれは奇妙な響きにすぎなかった。それでも目の前の存在と通じ合いたいと少女は願うようになる。

やがてアリムは姿を見せなくなり、少女は見捨てられたと思い込む。ある日、村を大嵐が襲い、神官たちは神が巫女を求めているとして、十三歳を迎えた少女を塔の頂へ連れてゆく。恐怖や怒りを抱きながらも言葉を知らない彼女は、ただ唸るように天に問いかける。なぜ自分なのか、と。

その一瞬、嵐はぴたりと止まり、世界が沈黙する。直後に雷が塔へ落ち、儀式は混乱の中で中止される。少女はその隙に逃げ出し、初めて自由を得る。塔の建設も神の怒りに触れたとして中断された。翌朝、人々は互いの言葉を理解できない事象が起き、混乱が広がる。しかし元から言葉を知らない少女には関係がなかった。

彼女はアリムと再会する。彼は神殿に忍び込んだ罰で遠くの現場に移されていたのだ。アリムは少女に言葉を教え始め、少女はゆっくりと音と意味が結びつく瞬間を経験する。彼女はアリムからナミヤと名付けられ、やがて二人は夫婦となる。

アリムの言葉が理解できた時、ナミヤは神の声が聞こえなくなった事に気づく。人と通じ合う喜びと同時に、かつての神や世界と繋がる感覚を失った寂しさが胸に残る。ナミヤはアリムの仕事に付いていき、世界の分断された様々な言語に触れる。どの言葉も自分が聞いた神の言葉とは違う。彼女は自分の知っていた声の痕跡を探し続ける中で、人々が不完全な言葉であっても、愛し、争い、語り続ける姿を知る。

やがてアリムは病に倒れて死ぬ。深い孤独を抱えたナミヤは塔の跡地に戻り、風の音を聴く。昔と同じ音のはずなのに、もう神との繋がりは得られない。彼女はもう一度アリムの声が聞きたいと神の言葉で歌い願おうとするが、もう昔のようには歌えず、全てアリムに教わった人の言葉という記号に置き換わる。ナミヤの耳に響くのは、壁に反射して返ってくる自分自身の歌声だけだった。

文字数:1199

内容に関するアピール

今回は円城塔先生からの課題ということもあり、言語をテーマに書いてみたいと思い、定番モチーフである『旧約聖書』のバベルの塔や、エーコ『完全言語の探求』、ジェインズ 『神々の沈黙』などから着想を得て書きました。『神々の沈黙』では、かつて人間は神の声が聞こえたが、文字と意識を得た代償として、神々は沈黙したと語られており、その代償について膨らませてみたいと思いました。

舞台は、旧約聖書時代の紀元前千年ごろの想定です。実際の舞台を現代にして、ナミヤの文献が学者の研究対象になる座組も想像しましたが、わかりやすいストーリー重視でまとめました。

ちなみにこの物語は、言葉を得た後のナミヤによって描かれたことで成立しています。ナミヤは後日この物語を語りながら、自分が体験した人生を、自分の手から離れた「言葉」という記号に代理させざるを得ないことに苦しんでいるはずです。

文字数:375

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沈黙の神に

かつて人々は誰もが同じ言葉を話した。ティグリスとユーフラテスの二つの恵みのもとにあったバビロニアは隆盛を誇った。しかしある時、複数年に渡って干魃による不作が続き、大司祭より太陽神の怒りを鎮めるため、「次に月が沈黙する日に生まれた子を神の器とせよ」と宣託が伝えられた。その日ありふれた家庭に生まれた一人の女は、生後すぐに王朝の神殿へと引き取られた。その家族は泣きながらも栄誉なことだとその娘を手放した。

神の器に成る者は、神の言葉のみを聞かなければならない。神官たちは人間の言葉を聞かせてしまっては、人間が元来持って生まれる清廉なその耳に濁りが生じると考えた。少女は神の言葉だけを聴く者と定められ、耳には銀の輪が嵌められ、人の言葉と遠ざけられた。彼女は神殿の一室を与えられ、神殿の世話人たちは彼女に対して、一切の沈黙を守りながら彼女を育てた。少女は神事的に重要な役割を担っていたため、豊かな食事が与えられた。しかし、決して外に出ることは許されず、バビロニアの誰もが手にしていた人の言葉だけが彼女には与えられなかった。

その耳に届くのは、石の部屋の隙間から漏れ聴こえる風や雨、神殿の壁を流れ落ちる水の音など、世界のざわめきだけであった。少女が五つを数える歳になった時、不思議な歌声なような音を発し始め、いつしか神殿内の人間からは、まさに少女は神と同じお言葉をそのまま話し、祈っているのだと崇められるようになった。少女は一切の言葉を知らないため、自身が担っている役割も、十三歳になると生贄とされる定めも、世界に対する自己という概念さえも理解していなかった。何も知らずに、いやもしかしたら神の視座から全てを知り、受け入れているのかも知れない。ただ高貴に歌い続ける少女の内にある世界を誰も想像することは出来なかった。

王朝の発展が絶頂にあった頃、当時のバビロニアの王は言った。我々の塔を作ろう。そして、我々の名を天を穿つほどに轟かせよう、と。王は国全体で一日中火を焚き、国が埋まってしまうような沢山の煉瓦と土瀝青を生産させた。人々は王が掲げた野心的な取り組みに大いに盛り上がった。国の男たちは煉瓦を運び出し、着々と建築が進んでいった。

 バビロニアに住む何万もの職人たちがこの巨大な工事に関わった。まだ十五歳の少年アリムもその内の一人であった。若くて快活なその少年はよく働き、建築の現場では多くの大人たちに囲まれながらも、大層気に入られていた。螺旋状に設計されたその塔は、段を重ねて高くなっていく設計であり、外周の壁面の作業では綱を腰に巻き、塔の足場に深く刺した楔に綱を結び付けての作業を求められた。アリムは壁面に器用にぶら下がり作業をしていたが、ある日煉瓦に土瀝青を塗り固めていると、炎天下の自身の汗で父から受け継いだ大事なコテを落としてしまった。目の端で追ったコテは小さくなっていく姿をすぐに見失った。煉瓦職人にとってコテといった商売道具は命の次に大事なものであった。アリムはこの巨大な塔の外周を走って降りていくより、綱を緩めながらそのまま塔の下の段まで降りていった方が早いと考えた。彼は周囲に工具を落としたと言って、そのまま下まで降りて、地に足が付いた時、腰の綱を外してあたりを探したが見当たらなかった。

もっと下まで落ちているのかも知れないと、諦めて地上まで走って降りていった。先程まで自分がいたはずの場所を見上げる頃には、既に日暮れ近い時間になっていた。急いで神殿の城壁と塔の間を隔てる塀の間を隈無く探したが、工具は見つからず、彼は仕方なく神殿の内側を探すために、小さな城壁を身軽に登っていった。立ち入りは許されないが、コテがなければ仕事にならないし、父の形見を無くす訳にはいかなかった。塔の建設は国をあげた事業であって、たとえ問い詰められても説明がつくと思っていた。

 塀の内には幾つかの大きな石の建物が立ち並んでいる。そこでは微かに色がついた風の音ようなものが聞こえた。耳慣れない音だが、やがて彼はそれが人の声だと気がついた。聞いたことの無い心地よい不思議な音色に、彼は落としたコテのことを暫く忘れ、彼の耳はその持ち主を探し求めていた。彼は静かに耳をすませ、その源を探し、塀の角にある一つの建物の内に耳を押し当てると、そこから聴こえていることが分かった。その壁を眺めていると、胸の高さくらいに拳が二つ分くらいの小さな穴が空いていることが分かった。少し屈んでゆっくりと内を覗き込むと、目を閉じながら祈るような姿勢をした歌声の主を見出した。その主は女性で、大きな布を被った隙間から微かに見えた鼻筋の通った美しいその容姿に魅せられた。彼はついその穴から少女に声をかけた。突然の発声に少女は仰天して、あたりを見渡している。アリムが穴から手で合図を送ると、零れ出る光の動きで彼女はアリムの存在に気がついた。少女は後退りし、後ろの壁まで下がり、自身の身を抱いた。アリムは怖がらせたかと思い、出来るだけ優しい声で話しかけた。君はここで何をしているのか。少女は小さく唸るような声を出し、彼の問いには応えなかった。随分怖がらせてしまったと思った彼は少し胸が苦しくなった。一度そこを離れ、目的のコテを再度探し始めるも、すぐには見つからず、黄昏の訪れとともに、暗くなってはもう工具は見つからないと思い、また明朝探しに来ることにした。幸いにも自身の住まいからは比較的訪れやすい場所であったが、作業に戻れなければ賃金は貰えない。職人の稼ぎは微々たるものだ。彼は去る前にもう一度穴を覗いて、少女はまだこちらを見ていることに気が付き、またくる、と小さく言い残して、やって来た壁をよじ登っていった。

 まだ空に闇が仄かに残る翌朝、彼は同じ場所に戻ってくると、工具を探すよりも先に少女の様子が気になった。また優しく美しい歌声が漏れ聞こえていた。彼女はずっと歌い続けているのだろうか。そんな疑問が生まれた。彼は再び小さな穴を覗き込み、少女が息をつくのを待って、さらに出来るだけ優しい声で少女に声をかけた。再び少女は驚いたような素振りを見せたが、何も応答しなかった。しかし警戒しながらも、今度はアリムの方に近づいてきた。彼は何もしないと言って、小さな穴から両手を開く仕草を見せた。アリムは尋ねた。君の名前は。少女は応えなかった。言葉を理解していないのだろうか。少女は穴の近くまで寄ってきて、微かにこちらを覗き込んだ。彼は自らの顔を隙間で指差し、アリム、という音を区切るようにゆっくりと口にした。何度か繰り返していると、少女もその音を真似し始めた。それは言葉の発音というよりも、風が流れていくように広がっていき、まとまりが無かったが、とても色彩に溢れる豊かな音であった。彼女は初めての体験を噛み締めるように、何度もそれを繰り返していた。日が少しずつ昇り始め、彼は仕事に出なければと思い、慌ててコテを探し始めた。その建物の壁に沿っていた先に、微かに太陽の光が反射してカチカチと光るものが見え、身体の一部のように手に馴染んだコテを見つけた。彼が穴を覗き込むと、少女はまだこちらを見ていた。彼は、またくるよ、と言い残して仕事に戻っていた。

 それからアリムは少女の事が気にかかり、工具を取り戻した後も、仕事を終えて日が暮れる直前に走って塔を駆け下り、神殿の壁を登って、少女に会いに行った。彼には幾つかの疑問があった。なぜこの少女はここに居るのか。それはまるで閉じ込められているようにも見えた。そして、なぜ彼女は言葉が通じないのか。しかし、それらの問いを言葉を理解しない彼女に直接的に尋ねることは不可能だった。少女は、初めての言葉との接触、そして人との意思の疎通に興味を惹かれていた。少年はいつも数分ほどでいなくなってしまうが、またくる、といつも言い残していった。毎日歌い祈りながら、少年が壁の穴から声をかけてくれるのを待ち望んでいた。しかし、ある日を最後に二度とその穴から声が届くことはなくなった。少女は待った。再びあの存在がこの外に現れるのを。少女は歌い続けた。少女はあの男の声をもう一度聴きたいと願った。それは神への祈り、神の言葉ではなく、一人の少女としての願いが込められていたかもしれない。二度の冬が過ぎた頃、歌は聞こえなくなった。彼女はもう待つことをやめた。

 外からごうごうという天が怒るような音が続いた。そんな時期がひと月近く続いていた。神はお怒りなのだと、大嵐が続くバビロニアの街で、神官たちは神が生贄を求めているのだと考えた。十三歳になった少女をとうとう神のもとに召す時が来た。大きな部屋の扉が突然開き、神官や衛兵たちがぞろぞろと部屋に入ってくる。初めての出来事に、少女は異変を感じた。一人歩み出てきた神官は少女の頭に覆いを被せた。そのまま彼女は聖舟へと乗せられた。ぴしゃりと天を裂くような音が鳴り続け、彼女を不安にさせた。自分の身に起きている状況が分からない彼女は、抵抗をしなかった。あまりに長く続く、怒鳴りつけるような神の御声に彼女は目と耳を塞いだ。気がつけば短い眠りについた。少女は夢を見た。あの日会った男の声の音があった。しかし夢の中でそれを聴くことは出来なかった。その音を掴もうとする度に目が覚めてしまった。何度も何度も聴こうとしたが、夢はその途中で途切れてしまった。神官たちは、少女を塔の途中にある祭壇に運んだ。バビロニアの都市を一望でき、神事のために作られた場所であった。祭壇まで上るには、巨大な塔を周りながら螺旋状に登る必要があり、二日ほどの時間がかかった。

 長い旅路の中、彼女は眠りについていた。揺れが収まると同時に彼女は目を覚ます。仕切りが開けられ、彼女の眼前には天の海に向かって石の道が伸びていた。数十メートルの先は塔の断崖になっていた。叩きつけるような風雨の中、彼女は歩みを進めた。雷鳴の轟きに対して、彼女は耳をおさえた。神はやはり怒っている。恐怖を感じた彼女は、聖舟に戻ろうとするが衛兵たちが間に入って道を塞ぐ。彼女は唸り声をあげるが、彼らはこれは必然であるというように眉一つ動かさなかった。彼女は衛兵の間を強引に通ろうとするが、屈強な男たちは僅かも動かない。やがて業を煮やしはじめた彼らは、先に進むように少女をゆっくりと押し始める。しかし少女の本能が進むことを拒絶していた。彼女は自分に待ち受ける結末を感じ取っていた。雷鳴がごうとうと叫び続け、閃光が瞬く。やがて運命を悟った彼女は立ち上がり、塔の縁へと歩み出て、創造主たる神に正面から相対した。

彼女の中には混沌が渦巻いていた。彼女に人間のような洗練された感情は存在しなかった。動物的な彼女の根源的な感情は、ただ恐怖と怒りだった。自分に対して襲いかかる恐怖に対して、そしてそれの中心にいるのが、ほかでもない自分であるということに対して、彼女は憤った。喉が千切れるような唸り声をあげた。ありったけの怒りを神にぶつけた。しかし、それも打ち付ける雨音と雷鳴に打ち消された。神は少女に応えなかった。彼女は暫く吠えた後に、それも止め、空中で途切れたような祭壇の先へと歩みを進めた。

 その時、ごうごうと鳴り続けていた雷鳴が止まった。一瞬の隙間に、黒い雲の間から青い空が見え、風は止み、雨があがり、祭壇に向かって光が差した。世界は沈黙した。その意思が祭壇に立つ彼女に向かっているように見えた。その沈黙の中に彼女は神の意志を聴いた。生きたいと願うなら、普通の少女として生きたいのであれば生かそうと。しかし、信仰を忘れてはならない。もし約束を違えば将来お前はもっと大事なものを失う。それでも良いかと、神は問うた。少女は応えた。再び歌を空に向かって捧げた。神官や衛兵たちも、その歌を聴き、神的なものを感じていた。

 少女が歌を止めると同時に、雷が塔の祭壇に向かって幾度となく落ちた。やがてこれまでとは比にならないような、鉛のような豪雨が打ち付け始める。神官たちは今ここで何らかの大きな意思が働いているように思った。儀式の場は騒然としていた。あるものは震えながら身を屈め、あるものは慌てて走って塔を駆け下りていった。視界は宵のように暗闇に包まれている。

少女は違った。彼女はその雷に、雨に、雲に、風に世界の言葉を聞いていた。少女は世界の声を聞いた。世界は、行け、と言った。眼前に雷が二度落ちた時、彼女は振り返って大勢と同じように塔を駆け下りた。少女を止めようとする者は誰一人としていなかった。なぜなら、誰もが自分自身の内に異変を感じていたからだ。誰かが最初に気がついた。隣で騒いでいる相手の言っていることが全く分からない。大きな意思による雷雨に対する混乱の最中で、さらに諍いが起きた。相手の主張が理解できず、自分の言葉が他者に届かない。ただ少女には関係なかった。彼女にとって初めから人間の言葉は理解できなかったからだ。後に神の逆鱗に触れたことで、神は人々の言葉を分断したという風に解釈されることになった。この日は後に ”大混乱” と言われることになる。戸惑う人間を他所に、少女は誰よりも早く塔を駆け下りた。その後激しい雷雨が三日三晩続いた。行け、という神の言葉を少女は反芻していた。とにかく遠くに向かって彼女は進んだ。バビロニアの国を超えて、足の動く限り走り続けた。

 雨の降る間に一つの砂漠を越えて、数日をかけて少女は街に辿り着いた。彼女は食を求めた。幽閉されてた時に与えられた果物や肉を覚えていた。街の市場には人の行き交いがあった。そこでは衣類や食べ物が売られ、人々は歌い、踊り、蛇使いや軽業師などの興業師までいた。言語の混乱が起きているなど嘘のようであった。金など知らない彼女は、木籠いっぱいの果物を見た時に、それに飛びついた。すぐに盗み食いに気がついた店主は、殺気立った顔で少女を罵り、底知れぬ恐怖を感じた彼女は、思い切り土を蹴って飛び出した。三日ぶりに口にしたナツメヤシの甘みに大きな満足を得た。しかし、時が経てば再び空腹が襲い、震える脚で市場に戻った。

 幾度かの盗みを繰り返した後に、決して体が強くなかった少女は、やがて果物商に捕まった。乱暴をされそうになった時に、彼女を知っているという細く締まった体の若い男に止められ、少女の代わりにナツメヤシの金を払った。少女はその男の顔に見覚えがあった。かつて籠の鳥であった自分に声をかけてくれた青年アリムであった。彼女は今自分の身に起きていることは理解できなかったが、青年の存在に安心を覚えた。青年は少女の手を握って、家に連れ帰った。少女は糸が切れたように、彼の小さな部屋で丸くなって深く眠り続けた。青年はかつて見た少女がここに居る理由に当惑していたが、事情を知るにも彼女に謝るにも、まずは言葉を教える必要があった。儚げな美しさを持つ少女に惹かれていた青年は、神殿での不審な行動が原因で塔の建築から解雇されており、街の外に出され、会えなくなってしまってからも少女のことをずっと考えていた。再び彼女がこうして目の前に現れたことは神の思し召しであり、少女の力になることは自身の天命だと考えた。数日間の眠りから覚めてからの少女は、アリムの腕を掴みずっと離れなかった。

 煉瓦職人を続けていたアリムは、次の仕事が始まるまでに少しでも言葉を教えたい青年は、初めに少女には名前が必要だと思った。彼は ”美しい花” という意味を込めて、ナミヤという名前を少女につけた。彼は彼女のことを指差し、ナミヤと口にし、次に自分のことを指差しながら、アリム、と言った。何度も何度も、ナミヤ、アリムとその言葉を一音ずつゆっくりと繰り返した。彼女はしばらく輪郭が曖昧な音を発していたが、やがてその音には明瞭な形が出来上がっていった。一晩それを続けていると、ついに彼女は自分と青年を順番に指を指しながら、ナミヤ、アリムとはっきり口にした。アリムはなんだか嬉しくなって、ナミヤのことを抱きしめた。毎日街に出て、市場の果物、装飾品、人々、建物、色々なものを彼女に見せて、その言葉の一つ一つを教えていった。ナミヤは驚くほどの速さで言葉を覚えていった。彼女は新しい言葉と世界を同時に獲得していった。そうしている内に、二人は自然に夫婦となっていった。

 人々は ”大混乱” 以後暫くの間、意思の疎通に苦労していたが、商いや農業といった生活を共有している以上、再び言語がまとまっていくのにそう長い時間はかからなかった。人々は自分の意思や願いを込めた記号を、それを伝えようとする行為と共に相手に渡す。その意思を解した相手は、同じように理解の証としての記号を贈り返す。その記号の交換が繰り返される内に、単なる記号を超えた「意思」として遣り取りが出来るようになっていった。言葉は人の願いの数だけ豊かに編み込まれていった。地域によって幾つか枝分かれしたが、混乱から百年が経つ頃にはシュメール語やアッカド語といった言語が主流となっていた。ただバビロニアの塔における伝承は長く残り、二度と人々は神に抗う野心を抱くことは無かった。

 アリムは ”混乱” の後も、煉瓦職人として各地で仕事をした。半年から数年単位でユーフラテス川に沿って場所を移っていった。調子は良いが腕も信頼されていた彼は、どの現場に行っても直ぐに人々の懐に入っていった。

 ある時、彼は運河の治水工事で、共同する職人の組合同士が言葉の通じない場面に遭遇した。真偽は分からないが、アリムと同じ職人の一人が、もう一方の職人に乱暴をしたらしく、言葉が異なることで両者の主張が通じさえしないことが一層の苛立ちとなり、一触即発の事態に発展した。アリムは「酒の美味さに言葉は関係ない」との信念でシカルの酒壺を持ち、嫌がる火中の職人当人と肩を組んで、もう一方の組合の拠点に乗り込んだ。猛牛のような肉体を持った男たちに取り囲まれる中で、アリムは小さな酒瓶を取り出した。瓶に口を付け、瞬く間に瓶底が空を向いた。次は大工たちに差し出して飲むように煽った。趣向を解したであろう屈強な職人の一人が、前に歩み出て同じように酒を煽る。再び壺から瓶に酒を注ぎ、一気にアリムは飲み干す。それらを繰り返している内に、周囲も次第に湧き始め、気がつけば宴会のような体となっていた。相手方の組合の長は、肝の据わった酒飲みであるアリムをいたく気に入り、双方のわだかまりは忘れ去られ、治水工事は円滑に進んだ。

 家に帰ってきて冗談を交えながら、その日の仕事の話を聞かされるナミヤは、いつも笑っていた。酒が入ると所構わず直ぐに眠ってしまう彼を、ナミヤは愛おしく思っていた。アリムは彼女に愛の言葉を恥じらいもなく真っ直ぐ言葉にした。ナミヤも彼の手を握りながらその言葉を返した。二人の間に子供は無かったが幸せに暮らしていた。彼女はその幸せの中で、かつてのように神に祈ることはもう無くなっていた。

 ナミヤは神殿にいた頃の自分を夢に見た。彼女は夢の中で自分を外から眺めていた。世界と自分の輪郭同士が溶け合い、調和しているように見えた。そう感じた時、彼女は素朴な疑問を抱いた。この世界と溶け合う私を眺めている私は一体誰なのだろう、と。その問いがよぎった時、いつも彼女は目を覚ます。その度に隣に眠るアリムを見て安心し、その大きくゴツゴツした手を握って、再び眠りについた。

 ナミヤの平穏な幸福は音もなく静かに去った。ある日仕事から戻ってから具合を崩したアリムは、少し眠ると言って床に着き、そのまま目覚めることはなかった。ナミヤは震える声で彼に何度も言葉をかけ続けた。もう一度だけでも彼の声を、優しい言葉を感じたかった。彼の頬に人の温もりを感じなくなるまで、彼女は彼に話しかけ続けていた。

 ナミヤは神の言うことに背いた自身の不信心を悔いた。もう一度アリムの声を聞かせて欲しい。神に赦しを乞うために、かつて神と対話したバビロニアの地へと向かった。幾月もかけて砂漠を越えた先に、崩れかけた瓦礫の街にたどり着いた。辛うじて残る街の輪郭に、目的の地に辿り着いたことを悟った。襤褸を纏った人々は生気なく草臥れていた。砂漠からの風が街を抜けていく度、かつて繁栄した街の衰退を感じた。天に触れた塔の姿はもう無く、円形に残る遺構のような壁だけがその存在の過去を示していた。ナミヤは暫くその壁に触れていた。そして天に向かって歌を捧げた。この地で世界と共に歌い続けていた歌を。自身が世界の一部であり、世界自身であった時の歌を。しかし、彼女は直ぐにその歌が、音に乗せた言葉の羅列に過ぎないことに気がついた。明瞭に一音一言が認識されていた。その声は空を切るだけだった。天は何処までも鮮やかに青白く在るだけで、何も応えなかった。

 彼女は自身の祈りに、純粋な信仰と不純な願望が入り混じっているのだと思った。もう一度アリムの声が聞きたいと思う人間的な感情が、神が望む純粋な祈りを妨げているのか。だから神は私に応えないのだろうか。ナミヤは自身の祈りを純化しようとするが、そう努めるほどに不安と後悔と懐疑の言葉が、心に浮かび上がってくる。彼女は細い喉から絞り出すように歌い続けた。それでも彼女が認識する全ては世界と切り離された無機質な記号に置き換わっていく。神は何も語らない。世界は沈黙を続けている。

 ナミヤは自身が一人の人間になったことを知った。彼女の耳に届くのは、静かに砂を撫でる風が吹く廃墟に反響した、自身の掠れた歌声だけだった。

文字数:8741

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