梗 概
沈黙の神に
かつてバビロニアの小さな村で不作が続き、神の怒りを鎮めるために「次に月が沈黙する日に生まれた子を神の器とせよ」と予言が伝えられた。その日に生まれた少女は、生後すぐに神殿へ引き取られ、「神の言葉だけを聴く者」と定められる。耳には銀の輪が嵌められ、人の言葉と遠ざけられて育つ。彼女に届くのは風・水・木々の揺れなど世界のざわめきだけで、それらを神の言葉だと信じて成長した。
神殿の奥に隔離され、不思議な音で歌うように祈る少女を人々は巫女として崇めるが、十三歳になると生贄とされる定めがあった。少女は外の世界を知らず、神殿の壁越しにぼんやり聞こえる人々の笑い声に憧れを抱く。
その頃この地では巨大な塔が建設されていた。作業に携わる青年アリムは、微かに聞こえた歌声に引き寄せられて神殿に潜り、目にした少女に心を惹かれ、壁に開いた小さな穴から密かに話しかける。彼は絵や身振りで意思を伝えようとし、少女は初めて人の声を耳にする。しかしそれは奇妙な響きにすぎなかった。それでも目の前の存在と通じ合いたいと少女は願うようになる。
やがてアリムは姿を見せなくなり、少女は見捨てられたと思い込む。ある日、村を大嵐が襲い、神官たちは神が巫女を求めているとして、十三歳を迎えた少女を塔の頂へ連れてゆく。恐怖や怒りを抱きながらも言葉を知らない彼女は、ただ唸るように天に問いかける。なぜ自分なのか、と。
その一瞬、嵐はぴたりと止まり、世界が沈黙する。直後に雷が塔へ落ち、儀式は混乱の中で中止される。少女はその隙に逃げ出し、初めて自由を得る。塔の建設も神の怒りに触れたとして中断された。翌朝、人々は互いの言葉を理解できない事象が起き、混乱が広がる。しかし元から言葉を知らない少女には関係がなかった。
彼女はアリムと再会する。彼は神殿に忍び込んだ罰で遠くの現場に移されていたのだ。アリムは少女に言葉を教え始め、少女はゆっくりと音と意味が結びつく瞬間を経験する。彼女はアリムからナミヤと名付けられ、やがて二人は夫婦となる。
アリムの言葉が理解できた時、ナミヤは神の声が聞こえなくなった事に気づく。人と通じ合う喜びと同時に、かつての神や世界と繋がる感覚を失った寂しさが胸に残る。ナミヤはアリムの仕事に付いていき、世界の分断された様々な言語に触れる。どの言葉も自分が聞いた神の言葉とは違う。彼女は自分の知っていた声の痕跡を探し続ける中で、人々が不完全な言葉であっても、愛し、争い、語り続ける姿を知る。
やがてアリムは病に倒れて死ぬ。深い孤独を抱えたナミヤは塔の跡地に戻り、風の音を聴く。昔と同じ音のはずなのに、もう神との繋がりは得られない。彼女はもう一度アリムの声が聞きたいと神の言葉で歌い願おうとするが、もう昔のようには歌えず、全てアリムに教わった人の言葉という記号に置き換わる。ナミヤの耳に響くのは、壁に反射して返ってくる自分自身の歌声だけだった。
文字数:1199
内容に関するアピール
今回は円城塔先生からの課題ということもあり、言語をテーマに書いてみたいと思い、定番モチーフである『旧約聖書』のバベルの塔や、エーコ『完全言語の探求』、ジェインズ 『神々の沈黙』などから着想を得て書きました。『神々の沈黙』では、かつて人間は神の声が聞こえたが、文字と意識を得た代償として、神々は沈黙したと語られており、その代償について膨らませてみたいと思いました。
舞台は、旧約聖書時代の紀元前千年ごろの想定です。実際の舞台を現代にして、ナミヤの文献が学者の研究対象になる座組も想像しましたが、わかりやすいストーリー重視でまとめました。
ちなみにこの物語は、言葉を得た後のナミヤによって描かれたことで成立しています。ナミヤは後日この物語を語りながら、自分が体験した人生を、自分の手から離れた「言葉」という記号に代理させざるを得ないことに苦しんでいるはずです。
文字数:375




