梗 概
メタモルフォーゼ
最近夜勤で組むことが多い律(28)が休憩に入った後、カルテの記録を終えナースステーションのモニターを眺めていた看護師のエル(33)は、自身がプライマリーナースをつとめる志田さん(72)の酸素濃度が60%台後半にさがっていることに気付く。筋力の低下により睡眠時呼吸が浅くなることから、志田さんは夜のみ呼吸器を着用している。時計は1:50。アラームが鳴らないことを訝りつつ向かった志田さんの4人部屋には、4台のマシンがそれぞれ規則的に吸気音と呼気音を繰り返している。志田さんはいつもと変わらず眠っている。サーチュレーションモニターの接触の問題か。念のため志田さんの白い手首に指をあてると、脈の拍動を捉えることができない。指をずらし少し力をいれると奥のほうの何かに触れる。ジジジ・・指先に伝わる振動が波のように全身に押し寄せ、立てなくなったエルは目を閉じて跪きそのまま両手を床についた。
大丈夫?
眼を開けると、妹の恵里がわたしの顔を覗き込んでいる。夜の欅林は盛り上がる根も見えづらい。わたしは恵里の手を握り立ち上がる。服を仕立てるなら見ておかなきゃ、という恵里の言葉でわたしたちは、雨上がりの翌日19:30過ぎに家を出発し、蝉のメタモルフォーゼを目にしようと意気込んでいた。わたしたちの洋服店は開業したばかりではあるが、恵里の服が評判となり大阪万博を前にそれなりに繁盛している。身体の醸す儚さとは裏腹に、恵里がデザインする服はシンプルで力強い。羽化直前は白子の味がするらしいよ。そんな話をしていてわたしは前方に大きく躓いたのだった。
バチかもね。慣れてきた眼で幹を見ると、つかまった幼虫の背中が割れ一気に姿を現した白い蝉を発見する。そのままわたしたちは殻から完全に出現する蝉を見ている。深夜2:00前、蝉の脚は薄褐色となり碧を帯びた翅には透明の翅脈が浮き上がる。突然風が吹き、蝉が地面に仰向けに落ちる。わたしと恵里が咄嗟に上から掌を被せると、ジジジ・・と小さな鳴き声が指先に伝わる。
「戻りました。何かありました?」。律の声で、エルは自分がナースステーションに座っていることに気づく。時計は2:03。志賀さんの酸素濃度は98%を表示している。翌日エルが志田さんのモニターログを確認すると、「1:50 67%」の記録がある。
その1か月後の明け方、志田さんは亡くなった。診断は大腸がんだった。翌日兵庫から到着した甥の希望(39)は、病院の入り口で見つけた蝉の抜け殻を持っている。「叔母は・・志田恵里は、蝉に思い入れがありましたから。若い頃、羽化したてのを母と助けたらしくて」。そういって希望は抜け殻を志田さんの手の脇におき、エルの目をみる。希望の母、つまり志田さんの姉は希望を出産したとき35歳で亡くなっている。「担当の方の話はよく聞いていました、ありがとうございました」。エルはお辞儀をして慰安室をでた。
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内容に関するアピール
不安定な患者が多い病棟のナースステーションは、呼吸、心拍数などバイタルサインを示すモニターが陳列されており、物語はその場所からはじまります。
志田さんは元デザイナー。姉とともに洋服店を運営していましたが、姉は初産のときなくなっています。筋ジストロフィー症状の進行もありその後志田さんは店を閉じ、独居が難しくなった時点でエルが後に入職する病院での長期入院生活に入ります。林の場面は、志田さんが10代末、姉が20代前半の設定です。
超弦理論によると世界は9次元といわれます。4次元以降の世界に3次元の我々がですでに接触しているとしたら、それはどのような現れなのでしょう。木の根を栄養に地中で脱皮を繰り替したのち、地上で成虫への劇的な変化を遂げ、圧倒的に短いその期間にのみ子孫を残す可能性を得る蝉。成虫が残した蝉の殻と志田さんの身体を重ねつつ、志田さんを通してある次元の風景の可能性を描きました。
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