梗 概
あなたのいない午後
2032年、医学雑誌Lancetに「月蝕が妄想性障害に与える影響」と題する論文が掲載される。それは妄想性障害と診断された患者の夜間幻視の訴えが、月蝕の時間帯に減少するとの複数報告を分析したヴァージニア大学の研究であり、更には「NASAがとらえた『月蝕の音』の波形を用いた脳波調整(ブレインチューニング(LBC))には、幻視症状軽減を齎す可能性がある」との研究結果を述べていた。侵襲性が低いこともあり世界中の研究者がLBCを実践、治療に高いエビデンスありと認められた結果、2040年日本でもLBCが医療保険適応となる。患者の脳波を読み込み、生成される映像を直接確認しながらチューニングを施すこの治療において、チューナー資格を得たのは主に音楽家と数学者であった。
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エル(34)はLBC専門病棟の看護師、チューナーであるユウ(36)は箏奏者でもある。LBC病棟看護師の主な役割は、重度妄想性障害患者の治療前後の言動観察および睡眠時脳波を読み込んだモニター画像(夢映像)観察に基づき、チューナーとともに治療の調整をすることである。夢映像は無音かつモノクロで画質も荒いが、BCO成功例では鳥や海のような映像を認めることが多く、患者が談笑いあう姿がみられることもある。しかし症例を重ねるにつれ、治療成功と見なされた一部患者の睡眠時間が、極端に長くなっていくことにエルは気が付く。そのことをエルは師長に伝えるも、バイタルサインに異常がないため様子見となる。
ある日エルの病棟に、勝山富江(65)が入院してくる。娘が元夫(64)に監禁されていると考えていた富江は元夫宅に火をつけ、精神鑑定を経て入院にいたっている。治療後の富江はぼんやりしており、エルの話しかけにも反応がない。そして富江の睡眠時間もまた長くなっていた。治療前の富江の幻視は「夜になると、娘が富江の部屋に遊びに来る」という内容だが、富江の娘は実際には自死している。エルの話を聞いたユウは、富江に再治療を施すことにする。その後の夜間巡回で夢映像を確認していたエルは、富江をはじめとする複数患者の夢に、エルと思しき人物がいることを確認する。それらはすべて睡眠時間が伸びている患者であり、その謎を解くためにエルは自分へのLBC実施をユウに依頼する。同時に、エル自身が窓から人に覗かれている幻覚を持っていることをユウに告白する。夜勤を終えたエルはユウの治療室でLBCを受け、そのまま眠りにつく。
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(エルの夢。美しい森に囲まれ、花が咲き乱れる場所。富江をはじめとする患者たちの姿が見える。『月の使者』を名乗る人物が、「現実社会に苦しむ人のために、コロニーを作っている」とエルに語る。その場所でエルは、自分が無感覚になっていることを自覚する。)
午後のLBC病棟で入眠患者の映像に映るエルの姿をみながら、ユウはエルがもうこの世界からいなくなっているように感じる。
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内容に関するアピール
「社会に適応している状態」から外れた状態を「異常」とみなし、「正常」に戻そうとする介入を暴力的で恐ろしいと感じます。
妄想性障害症状をきたす人が、高齢化と相俟って急増しています。珊瑚の産卵やフンコロガシの走行など、生命現象に月が影響を与えている事例は少なくありません。満月の夜の手術は出血多量で失敗するというのは、古くから語り継がれる迷信のようです。そんなイメージを重ねながら、社会的暴力の中で消えていくものについてのSFを思い描きました。
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