贋作達の沈黙
――
その絵画を前に、私は言葉を失った。
絵画は女性の胸像だ。まず目につくのは彼女の暗く沈むような眼差し。その後、艶やかに色づいた頬と緩やかに弧を描く唇が、微笑みを象っていると気づかされる。しかし、しばらく見つめると、その表情は本当に微笑みなのかと迷いが生じ、沈んでいると感じた彼女の瞳が実は透徹していることが見えてくる。こちらに向かって斜めに構えた半身の頭から腕には透明感のあるベールが掛けられ、乱雑に感じられた彼女の長い巻き毛は、実は丁寧に整えらえれていると分かる。峡谷らしき背景から浮き立って見える彼女が纏う衣服は一見して薄く柔らかだが、よく見れば顔と手の肌の陰影に比べ、その色彩は単調だ。
この絵画は矛盾した印象を時間差で見る者に与え、困惑させる。戸惑いによる視線の動きによって、絵から目が離せなくり、魅力を感じてしまう。一種の詐術だ。人間の眼の機能を熟知した画家が描いたのだろうが、それが絵画の本質的な価値かというと……
「“何か腑に落ちない”ですか?」
館長が私に声を掛けた。この巨大な地下博物館には館長以外に誰もいないので間違いない。
「お待ちしていました」
そう慇懃に頭を下げる彼に、私は心の中で呟く。
――嘘を言え。
我々は礼儀を必要としない。私は監査官で、彼は監査対象だ。そもそも、このような抜き打ち監査は待つ類のものではない。
私は館長に、博物館の収蔵品と運営状況を見せるよう淡々と告げた。運営と言っても、来客などあるはずはない。芸術品や博物品を鑑賞する存在は、もうこの星にいない。我々は、ずっとその再来を待っている。
館長は私を連れて館内を巡った。ライオンを狩る王の浮彫りと有翼の獣達の石像。コブラを戴く王の黄金仮面。首のない勝利の女神に続く、大理石のベールを纏った人物彫刻群。青黒く闇に居並んで光る銅製の鐘の列を抜け、儀式に勤しむ人々のフレスコ画を素通りする。
私は半ば職務を忘れ、問うた。
「見る者もいない中、何故、作品の展示を?」
館長は、滔々と続けていた作品群の解説を止め、私の問いに満足そうに首を傾げる。
「あなたがいらっしゃったではありませんか」
その答えは適切ではない。私は鑑賞者ではなく、見る者の絶えた哀れな被造物達の保存に使われるエネルギーを試算し、博物館の運営を継続するか否か判断するために訪れたのだ。エネルギーと資源を効率的に貯蔵し、節約するよう全ての者達に促すという職務に疑いを持ったことは無い。その私が何故、この膨大な展示品達の存在に戸惑うのか、自分でも不思議だった。
光の中に現れた聖人の天井画に見下ろされ、貝の中に立つ女神を横目にし、夜の見回りに繰り出す人々の表情に差す光に驚かされ、私は作品群の間を館長に導かれて歩いた。
私は狼狽して言った。
「館長、もう良い。君はこれら死蔵品に過剰なエネルギーを費やしている。そもそも、これらは我々にとって意味も価値もない。いや、なくなったのだ」
館長が属する遺産保存局は、私が所属する資源管理委員会の下部組織として、解体されることが決まっている。査察は解体の時期を決めるものに過ぎない。館長は、先に続く絵画群を寂しげに腕を拡げて示した。多くの植物や、踊り子。奇妙な人々の風習……無数の作品が深い地層のように私を待ち構えていた。
「本当にそうか決めるのがあなたでしょう」
館長の言葉に、私は導かれるまま、全ての作品の解説を聴いて回った。後日気づいたが、その説明を、私は何故か最初から全て漏らさずデータとして記録していた。
数日もの間、漏らさず全ての展示を見て回り、私は館長に博物館の屋上へ、地上へ連れ出された。数日ぶりの外気が身に沁み、遠い砂漠の地平線から昇ってきた朝日の閃光に、視界を真っ白に灼かれた。
「ご感想は?」
私は何か返そうとして、その光景に言葉を失っていた。
――
監査の後、館長には一度きりの釈明の機会が設けられ、そこに私も同席した。委員会の面々は、館長が釈明のため持ち込んだ一つの絵画を見ることになった。除幕布を取り払われたそれは、私が目を奪われたあの女性像だった。
その場の全員が、女性像を見極めようと視線を彷徨わせ、声を出さずに感嘆を覚えんとした時、絵画は裏側から鋭い金属の杭で貫かれた。
それは館長が自ら露出させた彼の機械骨格を成す金属部品だった。永遠に破壊され、修復できなくなった作品に全員が言葉を失った。
「ご安心を。贋作ですよ」
館長の言葉が耳に刺さり、安堵の吐息を漏らした者達が、その息を呑み込んだ。
もとよりそこに、価値など無かった筈ではないか。
拘束された館長の視線が全員に問うていた。
無価値なものの喪失に何故動揺する?
何故、贋作であることに安堵する?
では私達が復活を待つ人間の、その贋作である私達に価値はあるか?
そうならば、人間の被造物たる芸術品と我々の何が違うのか?
違いも価値もないとすれば、では人間の価値は?
私達は言葉を失った。
――
文字数:2000
内容に関するアピール
まず、私の考える美しさを情景喚起の強い文章で書くことを試み、やめました。
その最大の理由は、美の観念は極めて個人的なものだと思ったためです。
個人的な美しさは、誰かには醜さになりえます。きれいはきたない、きたないはきれい。
そして個人的でない美は、どこかありきたりです。
狙いすました感動を読み手に打ち込む技術は必要なことと分かりつつ、現時点で絶対の美を描けない私には、美とは何か、その価値とは何かを掠める作品が精一杯でした。
作中の女性の絵はルーブルではなくマドリードのプラド美術館が所有する「複製画として描かれた、モナ=リザ」です。
美術品とその複製画が持つ美という価値を、人間と複製者達の関係に投影することを試みています。
結果的には、私が美しさを感じる二重の二項対立や相似形にも、少しだけ触れる話になりました。
結局、私はSF作品を“美しかれ”と願って書いているのかもしれません。
文字数:386


