不幸中の幸い

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不幸中の幸い

なつめを開ける。
緑の粉末を茶杓で掬い、茶碗の中に。少量の水を入れ、茶筅で抹茶を練る。緑色のペーストに混ざったダマを、時間をかけて丁寧に潰していく。探査船ニュー・メイフラワー18の中央船室で、私は抹茶を点てる。これが私が自分に課す唯一の仕事であり、地球政府が私に課した仕事は、3年前に全て完了していた。

眼前の大窓からは、メタンでできた青い雲、雲から降る雨、雨が流れる川が見える。青みがかった無数の水滴が窓に当たって弾ける。
雨の勢いは昨日よりも弱い。一月前に始まった雨季は、いよいよ終わりを迎えようとしている。

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系外惑星探査計画が開始したのは、今から40年前のこと。今後数百年のうちに高確率で居住不能になる地球からの移住先を探すため、30機の探査船が発射された。30個の惑星のうち、1つでも人間が住める地があればよい、という博打のような計画だ。私は2人のクルーとともに、恒星ケイロンを中心に周る惑星・ケイロンfを目指して機体に乗った。

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ペーストに湯を加え、茶筅で泡立てる。素早くスナップをきかせて、小文字のmを描くように。次第にクリーム状の細かい気泡が表面に浮かんでくる。私は静かに茶筅を上げた。
雨はいつしか止んでいた。青色の雲が薄くなり、淡いバイオレットの空が現れる。メタンを主成分とする大気が赤・黄・緑の光の大部分を吸収し、波長の短い光のみが地表に届くのだ。紫の空が徐々に面積を増やしていくさまを見ながら、私は茶碗に口を付ける。うまい。

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25年のコールドスリープと1年弱の苦難を経て、私たちはケイロンfにたどり着き、もろもろの調査データを地球に向けて送信した。結果は――「テラフォーミング不適」。
正直、データ採集の時点で予想はできていた。重力と昼夜サイクルは申し分無かったが、気温と大気組成があまりにも理想からかけ離れていた。

私たちがケイロンに降り立った3年後、私たちと同時に地球を発ったニュー・メイフラワー5がハビタブルゾーン内にある完璧な地球の代替品を見つけ、人類は救われたらしい。私が苦難の末にたどり着いたこの惑星は、不正解だった。「じゃない方」だった。私は歴史の主役にはなれなかった。

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青色の雲の間から、恒星ケイロンの光が差し込む。
姿を現したバイオレットの空に、巨大な虹がかかる。赤系統の色がカットされた、青・紺・紫の、凍てつくような虹が。
この虹を見るためだけに、私は生きながらえてしまっている。

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私は地球に帰る術を失っていた。軌道計算の誤差により、帰りに残しておくべき燃料の3割を往路で使い込んでしまったのだ。
2人のクルーはもういない。1人はコールドスリープの後遺症で死に、もう1人は地球が救われることが確定した翌日、探査車に乗ってどこかへ行ってしまった。人類の存続に無価値なこの星に来る者も、いない。私ひとりを救出するために宇宙船を使う余裕は人類に無いし、だいいち私の寿命が足りない。私はこの星でひとり、死んでいく。
ゆえに、この景色を、この虹を、目の当たりにできるのは人類で私だけなのだ。

私はほくそ笑む。英雄になれなかった者への、贅沢な残念賞としての景色。他のニュー・メイフラワーのクルーたちも皆、各々の目的地の景色を眺めて楽しんでいるのだろうか? いや、そんな筈はない一面の海、あるいはのっぺりした大地、もしくは代わり映えのない空――つまらない景色を引き当ててしまう可能性の方が高いだろう。私は運がいい。

*

5分ほどで虹は消えてしまった。もうじき訪れる2か月の乾季の間は、ほとんど雨が降らない。
探査船に残された食料もおよそ2か月分。
次の雨季が始まるかどうか、そのちょうど境目のタイミングで私の命も尽きることだろう。

せっかくなら最期の日には虹が出ていてほしいものだが、果たしてそこまで耐えられるだろうか?
それだけが、気がかりだ。

文字数:1575

内容に関するアピール

数年前に『インターステラー』を観たとき、テラフォーミングに適さない、いわばハズレの星を引き当ててしまった人の悲痛さが強く印象に残りました。それを今回の「美しいもの」というお題と絡めて、「もしハズレの星を引いてしまっても、美しい景色を独り占めできるのなら、救いが得られることもあるのではないか?」という問いを立ててみました。

直接「美しい」と書けないため、「絶望的な状況に置かれている主人公が、虹を見たいがために生き続ける」という行動を通して、主人公にとって虹が美しいものであることを伝えようと思いました。

抹茶を点てる描写は、主人公が精神的に落ち着いた状態で、余裕を持って景色を楽しんでいることを示すために入れました。

文字数:307

課題提出者一覧