梗 概
ユーレイ・オブ・カガリ
夜の住宅街を二人の少女が歩いている。一人は牧野ユカ。もう一人の金城火狩はユカの同級生だが、本人はこの前の日に亡くなっており、この場にいるのは「ゴーストプロトコル」という試作アプリによってユカの認知上に生成された火狩の<ユーレイ>である。それは大気中の生体痕跡から組み上げた不安定な存在であり、姿は朧げで、寿命も今日の夜中までしかない。
二人は、この日から始まる<スカイシネマ>の「レイブン・キッド」の上映開始地点を目指している。スカイシネマは、俳優の超人的な身体能力とオールドスタイルな特殊効果を駆使した物語を、実際の都市を舞台に数ヶ月間に渡って展開する参加型エンタテイメント。一時は廃れたが、ここ数年ヴァーチャル上の創作物に飽きた若者を中心に流行の兆しを見せている。
ユカは人格造形師を志望していて、火狩は祭に類するものは何でも好きだから、そして何より学校も親もスカイシネマへの参加を禁止していたから、二人は何ヶ月も前からこの日のために準備してきた。今日が二人で過ごす最後の一日でも予定は変更しなかった。
道中、ユカは遺体をスキャンしてヴァーチャル上に人格複製する——それにより寿命の心配がなくなる——ヴァーチャゴーストへの移行を火狩に促すが火狩はふざけて取り合わない。ユカは火狩の気持ちが理解できない。
廃ビルの屋上にたどり着く二人。ユカは食い下がり、火狩が複製を拒む理由を問いただす。
「それはね——」
爆音が火狩の言葉をさえぎり、「レイブン・キッド」の上演が始まる。空から落ちてきた鴉の翼を持つ少年が、彼を追ってきた怪物——に見立てて装飾されたドローン——と戦いを繰り広げる。
人々を守るために異形と戦ってきたキッドが、彼の強大な力を恐れた人々自身が生み出した怪物に追われ、とある街に逃げ込む。この導入だけが「レイブン・キッド」の参加者に伝えられている。以後の内容は現場の流れで決まる。参加者の介入によって展開が変わることもある。最悪の場合、初日でキッドが敗北して終幕も有り得る。そして、ユカと火狩はもちろん、自分たちの手で物語を完璧なハッピーエンドへと導くことを目指していた。加えてユカは、火狩が物語の続きを観るために複製を承諾することを目論む。
オープニングの戦闘後、二人は用意した資料とソーシャル上の他参加者の情報を頼りにキッドを追跡、負傷して墜落したキッドとの接触に成功する。二人による応急処置と周辺の地形情報を得たキッドは怪物達への奇襲に成功。「レイブン・キッド」初日は無事に幕を閉じる。
ユカは、キッド追跡と救助の過程でスカイシネマが持つ「見立ての表現」が持つリアリティに衝撃を受ける。一日の終わり、消える前に火狩はユカに人格移植の許可を出す。しかしユカはこの数時間で火狩が移植を拒む気持ちを理解してしまった。ユカは消え去った火狩に向かって別れを告げる。
文字数:1188
内容に関するアピール
リアリティを感じる範囲で最大限楽しい未来を想像しました。その世界の中で二人の主人公にとって忘れられない夜を描けたら、と考えています。過去の情報が再現する幽霊、物語が創造するリアリティと接する中で、ユカが友人にさよならを言う方法を見つけてくれたら幸いです。
梗概で触れられなかった設定も少し記載します。
- ホタルクモ
都市インフラとして大気中に充満する調整微生物群。環境と街と人を緩衝し共生を促す。<ユーレイ>も、ホタルクモに残った痕跡から生成される。 - 械人
遺伝子改造により強靭な肉体と機械インプラントへの高い適性を持った新人類。その多くが額にカルシウムとケラチンで形成される突起を持つ。スカイシネマの俳優の九割はこの人たち。現生人類と子を成せない彼らは遺伝子プールの大きさが生存可能ラインに達しておらず、数世代のうちに絶滅する考えられている。
文字数:373
ユーレイ・オブ・カガリ
ユノとカガリはビルの屋上に立っていた。建物は古く、ユノが重心を一方の足からもう片方に移すたびにスニーカーの底が砂利と擦れて音を立てた。二人の前には街の明かりを吸って白く薄められながらも広がりをみせる夜空があり、それを梳くようにいくつかのビルが黒くそばだっていた。ユノの冷えた唇に吐息の熱が染みた。冬だった。
<スカイシネマ>は予定時刻ちょうどに始まった。まずは遠くの空にあかい光が見えて数秒遅れて爆発音が聞こえた。あかい光と爆発音は立て続けにおこって二人に近づいてきた。四つ目のあかい光でユノの目が光に先行して飛翔している二つの影を捉えた。五つ目の光で一連の明滅がそれら飛翔体の衝突によるものだと知った。六つ目の爆発は光とほとんど同時に音も届き、その時点でユノは二つの影の姿を見て取った。
小さい方の影は背中から身の丈ほどの翼を生やした黒髪の若者で面をつけていて顔は見えなかったが、コートの下の輪郭はユノとそう年の変わらない少年のように見えた。もう一方の影は翼の少年の何倍も大柄で、筒状の長い体は黒光りし、さながら甲殻を獲得したミミズという風だったが頭部のように見える一方の端には円形に並んだ牙状の突起が蠢いていた。
翼の少年が一度飛ぶ速度を緩めそれを隙だと思ったのか怪物が上空から攻勢をかけた。少年は怪物の牙が翼を捉える寸前でそれを翻して急上昇した。両者がすれ違う刹那に怪物の胴体が輝いた。怪物はそのまま落下していったがダメージを負っていた胴体が空中で二つに分かれて、そこまで見たユノは視線を上空に戻した。少年は翼を羽ばたかせて滞空していた。
ユノは自分が拍手をしていることに気づいた。
隣から息を吸い込む気配がして、
すっごいね、とカガリが叫んだ。
うん。うん、すごい。
ユノはそう返事をしたがその後カガリが言ったことはほとんど聞いていなかった。ただ少年を見上げていた。それから数分か、もしかしたら数秒しか経っていない時間が流れた後に下の方から歓声が聞こえユノは柵に近づいて地上を見下ろした。
ユノのいるビルは一本の道路に面していて、その道路に怪物の残骸が横たわり、それを挟む形で道路の両側から人が集まっていた。それ以上群衆が残骸に近づかないように係員らしき人影が規制線を張り、その境界に近づくほど人間の密度は上がっていた。群衆が空を見上げて声をあげながら手を降ったり拍手をしたりしているのがなんとなくユノにも見えたが、その声と動きがひときわ大きくなりユノは上空に視線を戻した。
ねえ、ほら、と隣のカガリの声量もさらに大きくなった。
飛んでいる少年のさらに頭上。そこに立体映像でタイトルテキストが浮かび、スカイシネマの新作『レイヴン・キッド』の開幕を宣言していた。
ユノは二階にある自室で作業机に向かっていた。窓から入る横倒しの日差しはユノの顔だけじゃなくあらゆるものを左側から赤く染めたが部屋に充満した<ホタルクモ>が反射を調整していたため眩しいというほどではなくむしろ分散された光が室内を優しく照らした。都市環境インフラとして大気中に散布された調整微生物群ホタルクモがあらゆる刺激を緩衝していた。
ユノはヘッドマウントゴーグルを外して元々入っていた箱にしまった。箱はゴーグルが配送されてきたときに使われたもので天面の片隅にはアドレスラベルが貼られたままだった。側面には『ユーレイ・プロトコル』と印字されていたが、その長い商品名を二面にまたがって表記するデザインだった。
扉をノックする音がして、父親が部屋の入り口に顔を覗かせた。
いま大丈夫か、と父親が切り出した。
邪魔しなかったか?その、学習の。
だいじょうぶ。ちょうど今終わったところだったから、とユノが言った。
父親が部屋の中に視線を走らせた。
なに?
カガリちゃんはもういるのか?
まだ。起動しないと。もし本当に出てきてくれたら父さんも挨拶する?
父親は腕を組んで黙った。
いや、やめておくよ。おれはもうお別れはすませたから。
一度さよならをしたらもう会わない?
父親はもう一度考えた。
少なくともおれにとって、それは難しいことだな。
そう。
父親はうなづいて少し黙ったが再び口を開いた。
交通課のスペースでニュースを確認したんだが、今日の夕方からも二件のデモが申請されてが両方とも<械人>排斥についてだった。
ホモ・エクステンシス、とユノが訂正した。
エクステンシス排斥についてだった、と父親が言い直した。
カガリちゃんの死因のこともある。十分に気をつけるというのは常に不可能だけど、せめてちゃんと気をつけるんだよ。そう言って父親は部屋を出ていった。
◼︎
……究グループは二〇七五年十二月五日にT県T市で発生したスカイシネマ暴動に注目しました。同市ではこの日にスカイシネマ『レイヴン・キッド』の公演が開始されました。
スカイシネマとは当時サピエンスコミュニティから排斥されていたホモ・エクステンシス達が興したフィジカルな市街を舞台にした演劇であり、通常は数ヶ月に渡り一つの街で連続した物語が展開……
◼︎
すっごかったねえ、とカガリが言った。
ユノは声の方に顔を向ける。屋上の手すりのそばにカガリの影が漂っていた。ユノがそこへ目を向けていると、ぼんやりと広がっていたカガリの像が凝集し鮮明になる。カガリは手すりに腕を預けてへたり込んでいる。
ユノはカガリのそばまで歩いて同じように手すりに腕をのせて同じようにしゃがみこんだ。
どうだった? ユノが聞いた。
ほんっとによかった。
それはよかった。
二人はちょっと黙った。
うわぁぁぁ、とカガリが呻いて俯いた。
ユノがカガリを見た。
カガリってさ。
なあに。
死んでからもちょっと挙動不審。
カガリがユノを見た。
君、年上への敬意が足りないぞ。
としうえ。
何その顔。じっさい私は三つも年上でしょ。
でも学年は一緒、とユノが言った。
君さ良くないよそれ学力とかで人の位の高さを決めようとするの。
その他の色々を含めても。
ああ、わかった君に足りないのは死者への敬意だ。
それは少しずるい。
まあ私も死んだときの記憶ないし死人的尊厳をもつ資格があるか微妙かあ。
再び沈黙。
カガリが俯いてため息を着く。
我ながら大した備えだったなあ、とカガリが言った。
そうだね。
君は自分がどんな時代に生きてるか、考えたことある?
時代。
うん。これはお母さんからの受け売りなんだけど、苛烈な資本主義経済がもたらした生存危機の反動で、それ以降の世代は何かを強く願うことが減ったんだって。どれだけ悲しみを減らせるのか、そういうことを考える人が増えたって。
そうなんだ。
ユノは空を見上げてカガリは俯いたまま続ける。
だからさ、我ながら幸福な人生だったと思うんだ。母さんは賢く導いてくれたし、育った街は平和だし、何より、こんな時代にバカみたいなことに真面目に付き合ってくれるあほな友達と出会えた。
ねえそのあほって誰のこと。
まあそのあほは年下のくせに生意気なやつなんだけどさ。
ちょっと。
私の人生、まじで完璧だったよ、とカガリが言って空を見上げた。二人で同じ空を見上げていた。カガリはユノを見た。
髪少し伸びたね、とカガリがユノの頭を撫でた。実体を持たないその手はユノに触れることはなかったが、指の動きに合わせて髪が盛り上がった。
え、とカガリが声を出して、それを聞いたユノも異変に気づいた。
さわれたの?
いや、さわれたわけではないけど。
カガリは自分の手を見て少し黙った。そしてまたユノを見たがその目には先ほどまでの親密さはなかった。そういえば、とカガリは切り出した。
私が<プロトコル>を購入するときに聞いた説明だとね、ユーレイは出現に成功してもそんなにはっきりとした像も結ばないし、自意識も途切れ途切れで連続しないの。でも私は自分で認識してる限り普通に意識を保ててる、とカガリは言った。
ユノは目を逸らした。
こら、こっちを見なさい。君、<プロトコル>に何かしたでしょう。
屋上に風が吹いて、ユノの髪を揺らした。ユノはカガリの方を見ずに話した。
そんなに大したこと出来なかった。せいぜいホタルクモに双方向結像性を持たせるくらい。
なに?
一方向からの情報取得だとユーレイの実在性に限界があったから、双方向に情報を補完しあうことにしたの。
カガリは口をきゅっと結んだ。ユノがカガリの方を向いて前髪を上げておでこの隅に埋められたシリコンパネルを示した。
これが今回のために作ったインプラントなんだけど。
作った?
<プロトコル>で私の認知上に生み出されたカガリの像をこのインプラントを通してホタル達にフィードバックする。それを受けてホタル達はその像に近い思考痕跡の信号を使用する、とユノは言った。
君が私を想像することで私の存在が強化される?
まあ大体。
カガリが立ち上がって体を柵にあずけながら腕を組んだ。
こんなことしたら、お別れがもっとつらくなるって君なら分かるでしょ。私たちが一緒にいられるのは今日の夜だけなんだよ。
ユノは答えなかった。風が吹いた。それが止んだ後にもう一度風が吹いてユノの髪を持ち上げた。
ごめん、とユノが言った。
カガリがまたしゃがんで、俯いた。
ちがうね。謝るのは私の方なのに。<プロトコル>を始めたのは私なのに。
カガリは謝ることしてない。
また少しの沈黙。
ホタルの改造、危ないことしてないよね?
うん。少し非合法な人たちと接触したけど、それくらい。
ちょっと。危ない人たちと関わるのはもうやめてね。
将来的にこういうことを生業にするのもありかと思ったんだけど。
おいやめなって。そんなことしてるとお姉さん心配で化けて出ちゃうよ。
また私の力を借りて?
こら、なまいきだぞ年下、カガリはそう言ってユノの頭を撫でた。やはり手はすり抜けたが髪の毛がふわりと持ち上がった。ユノは頭をふるふると振って髪を直そうとしていると地上から轟音が響いた。二人ともほぼ同時に柵から身を乗り出して下の方を確認した。
ユノが最初に見たのは、真下の道路を走って逃げていくスカイシネマの観客達だった。そこから視線を右へずらしていく。逃げる人。人。何かを呼びかける係員らしき人。その場に止まって観劇を続けている人もいる。もっと右を見る。規制線として置かれたであろう道路を横切る柵。その柵の向こうからも人が逃げてきている。そしてそのさらに奥には巨人がいた。
◼︎
…握するための周辺知識として、<械人生存同盟>と<劇団>の対立があります。同盟はサピエンスからの独立を過激な手段で達成しようとした武装集団で七〇年代に活動しました。彼らはスカイシネマを通してサピエンスとの融和を目指した劇団と深刻に対立しており、11月には劇団のキャンプ地を同盟が襲撃するという事件が……
◼︎
少しだけ開いた窓からはいった風がユノの髪をふわりと揺らした。
寒いし閉めようか。
ん。
カガリがさっと立って窓を閉めてさっと戻った。二人はカガリの部屋でカガリがこたつと呼ぶ暖房機能のついたテーブルについていた。テーブルの上には紙の冊子が広げられていた。その冊子は地図で、冒頭の街全体を概観したページが開かれていた。
もうすっかり寒いよねえ、とカガリが毛布にできるだけ体を埋めようとしながら呟いた。
そう? まだ秋だと思うけど、とユノが言った。
カガリが地図を指した。開かれているページは手書きされた青い罫線で大方が覆われていた。
ありがとうね。けっきょく全域ついてきてくれたね、とカガリが言った。
ユノはそれに答えずテーブルのそばにあった籠からみかんを一つとった。
あ、いんちき、私にもちょうだい。
ん。
インタビューの方はどうなったの? ユノが聞いた。
ああ、そう聞いてよ。返事来たんだよ、とカガリが言った。最後の方は声が大きくなった。
来週、私を迎えて「キャンプ」まで連れて行ってくれるんだって。質問に答えてくれるだけじゃなくて見学させてくれたり機材見せてくれるって、とカガリが言った。一呼吸つくたびにみかんを口にほうりながら話した。
夏にやった研究発表が認められんたんだ、とユノが言った。
どうだ。
お疲れさま、とユノが言った。
カガリがみかんから顔を上げた。
君がそんなこと言ってくれるなんて、とカガリが言った。
これで今年は進級できるんじゃない?
ああ、なまいき、とカガリは声をあげながらテーブルの向かいから体を乗り出してユノの頭を撫でて髪をくしゃくしゃにした。ユノは何も言わずに頭をふるふると振って髪の乱れを直そうとした。
地上で巨人が暴れていた。道路や建物が破壊される音が見下ろすユノの耳にも届いた。それらに混じって人々の悲鳴もかすかに聞こえた。
これすごいよ。見て見て、とカガリが逃げ遅れてるように見える規制線の内側にいる人々を指差した。
あの人たちも役者なんだよ。本物の観劇のギャラリーの内側に役者のギャラリーの集団を置いておいて、その人たちを襲わせてるんだね。ストーリーを現実の状況とリンクさせる工夫だね、とカガリが言った。
それにしては役者じゃないギャラリーの人たちも慌てて逃げ過ぎな気がするけど。あの人たちは安全なんじゃないの?ユノは真下の地面を逃げていく人々を指す。
確かに。
カガリは腕を組んで黙った。ユノは一度体を起こしてカガリを見た。カガリがユノを見た。
よし、降りてみよう。そしたら分かるでしょ、とカガリが言った。
え、あそこに?
そう。みんな逃げちゃったからレイヴンキッドを応援してあげないと。
私たちが行かなくても筋書きどおりに戦ってくれると思うけど。
分かってないなぁ君は。ストーリーが決まっててもね、それを前に進めるには力がいるんだよ。そしてね、その力は見てくれてる人がいることで生まれるの。
ユノが黙っているとカガリが屋上の隅の方に駆け出した。
ほらいくよ。きっと彼は君の助けにもなってくれるから。
なに?
いつだって前に進む力をくれるのは戦う背中だからね。
カガリが立ち止まって傍の柵を指差した。その柵は手すりの部分にポールが取り付けられてそこから地面に向かってワイヤが伸びていた。
これ、いざやるのは怖いな、とユノは言いながらそこまで歩いて柵を乗り越え、腰のベルトからアダプタを伸ばしてワイヤに取り付けてアダプタ上部のブレーキをしっかり握ってえいと飛び降りた。
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……在では厳格に禁止されているホタルクモの改造ですが当時は個人使用に関しては規制がありませんでした。当日のT市では同盟によって改変の施されたホタルクモが散布されていました。本来の緩衝能がノックダウンされ、宿主環境の記憶と発散機能を施されたこれら変異ホタルクモによって同市では深刻な集団ヒステリーが……
◼︎
ユノとカガリはアスファルトの上を駆けた。
もう二度とやんないからねあれ。
私はすっごい楽しかったけど。
そりゃカガリは失う命がないんだもん。
人の波に逆らいながら進み規制線までたどり着いた。そこまでくるともう人はいなくて二人は最前列での鑑賞者となった。
二人の五〇メートルほど先でキッドと巨人が死闘を繰り広げていた。
巨人の四つの脚はそれぞれ広がって地面に食い込みながら巨大な体を支え、くびれた胴体に支えられた長い腕は振りまわすたびに風を切る音が聞こえた。頭のないその体は金属のフレームに筋肉を肉付けしたものだったが筋肉はよく見るとじゅくじゅくと腐敗していて、そこまで見えたとたん、あたりが腐臭に包まれていることにも気づいた。
分かった? これ、色んなところにフレグレーターが仕込まれてるんだね。古典的だけど大事だよね、とカガリが言った。
巨人の投げたコンクリートの塊がビルに当たって砕けた。ユノはその衝突のエネルギーが双方向に伝播するのを見た。砕けて出来た破片が地面に跳ねて散らばるのを見た。ビルの壁がえぐれ、そこから少し離れた窓ガラスが衝撃で割れるのを見た。この一連の反応は立体映像ではなかった。これは本当に巨人が行った行為だった。気がつくとユノは重心を後ろにしていつでも逃げられる態勢をとっていた。
だめだよ逃げちゃ、とカガリが言った。
カガリは平然と立っていた。
これ本当に安全?
規制線内では配置されたフィジカルなオブジェクトを使った演技をして、その外に影響が及ぶものは立体映像で配置したオブジェクトで補う。その方式をとっているだろうことはユノも理解していたが、それでも恐怖心は去らなかった。今やユノは最初にいた見物人たちが逃げていった理由が分かっていた。もし何かの事故でフィジカルなオブジェクトが飛んできたら? もしロボティクスの故障であの巨人が暴走したら? もしあの巨人が本当の怪物だったら? 人間の脳の原始的な部分がフィクションに力を与えていた。
あ、とカガリが言った。
え?
ユノは自分の方にちぎられた車両が飛んでくるのが見えた。それはどうやら車のフロント側で回転していたが途中で座席が弾けて外れユノはやたらその様子がはっきり見えていることに気づいてこれはぶつかるとーー
ふう、と目の前に降り立った何かが喋ってユノは一瞬何が起こってたか分からなかった。
危なかったね、平気? ユノの前に降り立ったキッドは受け止めた車両の残骸を地面に下ろしながら言った。
ユノは答えられなかった。
うん、大丈夫そう。じゃあちょっと行ってくるね、と言ってキッドは翼を羽ばたかせた。
ちょっとちょっと、応援、と隣でカガリが言った。
あいつのことは任せていいからさ。じゃあいい夜を、と言ってキッドが飛び立つ瞬間、
ありがとう、とユノはやっと一言挟み込んだ。
言い終わる頃には少年は飛び去って巨人との戦いを再開していた。巨人と接触するたびに翼は破片を散らしコートは傷ついていったが彼は戦い続けた。少年がなんとか巨人を戦闘不能にして動きの悪くなった片方の翼を庇いながら姿を消すまでユノは何も言わずに両手を握りしめて見守った。
少年と巨人が自分の世界に属しているわけではないことも意識しなかった。ただそれぞれの理由で命をぶつける二つの存在を見守った。ユノとカガリは戦いが終わった後もしばらくその場に立っていた。二人とも口をきかなかった。やっとカガリが話しかけてきたとき、ユノの視線は動かなくなった巨人の残骸に向いていた。
やっぱりかっこよかったねえ、とカガリが言った。
うん、とユノが言った。
私はこれを君に見てもらいたかったんだ。
うん。
一呼吸してカガリが振り返った。人々が通りから散っていった。
それにしても、とカガリが言う。なんでこんなに皆んな逃げ帰ったのかな。
見てて怖くなる気持ちはわかった、とユノが言った。
それでも君は逃げなかったよ。
まあ。
君は勇敢だけど、この街でたった一人の勇者というわけではない。
そうかな?
かっこつけないの。
あ。
うん?
ユノが腕を伸ばして空中の一点を指差した。その先には駅があり、その上に黒い煙がのぞいていた。
嫌な予感がする、とユノが言って駆け出した。
え?
カガリは一瞬遅れたが規制線の柵を乗り越える分だけユノが遅れて二人は横並びになった。
ねえ、あれ何か知ってるの?とカガリが聞いた。
ユノは返事をしなかった。二人は走った。
その日はちょうど夏の暑さがこの年の最高地点に到達するところだった。二人が歩いているのはT市の東側に盛り上がる山なみの斜面に沿って走る道路だった。二人は山の麓の方から続く緩やかな坂道を登ってきていた。
山の中腹に砂利敷きの休憩所があった。二人がその奥にあるベンチのところまで行ったらそこは崖になっていてT市を一望できた。
カガリが背負っていたバックパックから地図の冊子を取り出して街全体の概略図のページを開く。見開きの左半分は青い網かけで埋められていた。
結局毎回付き合ってもらってるや。ありがとね、とカガリが言った。
あと半分くらい、とユノは言って、指で編みかけのない部分をかこった。<プロトコル>用のホタルクモ撒きが徒歩だとは思わなかった。
君が一緒じゃなかったら投げ出してた気がするなぁ、とカガリが言った。
休み明けの研究発表は大丈夫そう? とユノが言った。
うん。バッチリ。ホモ・エクステンシスの入門情報としてフェアなものが用意できたと思う。
うまくいくといいね。これが<劇団>の人たちの目を止めれば、カガリの計画成功までもう一歩。
ふふん。まあ見ていなさい秀才少女。
ユノは少し下がってベンチに腰掛けた。
カガリはさ。
なに? カガリもユノの隣に座った。
元々スカイシネマのファンだったわけでもないでしょ。
そうだね。お父さんとの思い出があるくらいで。
今も別にオタクってほどでもないし。
そう?
それなのにこんな手間のかかる計画や<プロトコル>を用意してる。
すごい?
わたし、学校とかでわたしの方が変わってるって思われてるの不服なんだよね。
◼︎
……化の可能性を探るシミュレーションの実験データでした。その流出や技術不足、隠蔽。複数の事故・事件が重なってホモ・エクステンシスが生まれました。彼らは強靭な肉体を持ち、高いインプラント適性があり、サピエンスとの生殖能を持ちません。
特に最後に挙げた特性のせいでホモ・エクステンシスは人間社会から排斥されますが、『レイヴン・キッド』はその状況を作品のストーリーにも組み込んでいました。公演初日にも街中に演出として暴動が行われており、それが変異ホタルクモによって集団ヒストリーを起こした住人達と反応して……
◼︎
駅舎を回り込んだ二人がたどり着いたのは広場だった。中央公園と名前がついたそこは道路に挟まれただけの簡素な空間だったがその中央には横倒しになったガソリン車が炎をあげていたこと。
ああ。よかった。公園の入り口で足を止めたユノが言った。
え? カガリが横に並んだ。
これも『レイヴン・キッド』だ、と言ったユノが車の周囲に張られた規制線を指差した。
え? 君はこれが「本物」かもしれないと思ったの?この街でそんな苛烈な暴力はーー
カガリの言葉を遮ったのは音ではなく光だった。音がなかったわけではなく、それ以上の光があってそれがカガリの言葉を遮った。
車体が爆発音と共にひときわ大きく燃えて、生み出された炎の塊が広場を明るく照らした。ユノはこのとき初めて広場の全容を把握できた。
そこには百をゆうに超える人間が集まって炎を中心にいくつかの集団にまとまっていた。しかし彼らが持っているビラやプラカードから読み取れる主張はどの集団も共通していて新人類の排斥を訴えていた。
ユノとカガリが何も言えないでいると車体のそばに動く影があって、その影が何かを投げつけて車体は再び激しく燃えた。ユノは今度は車体から目を離さなかった。割れたウィンドウやひしゃげたフレームが暴力の痕跡を伝えた。車体を焼く光はユノがこれまで触れたどんなものとも違っていて、それが持つ熱のせいか匂いのせいかは分からないがとにかくその光は暴力そのものでユノには未知数な世界だった。
炎の揺れる明かりの中で人々は叫び、跳ね、腕を振り回していた。いくつかの集団は次の獲物を探すように肩を怒らせながら公園から出ていき、残りのいくつかは燃えている車に石を投げつけたり棒で殴りつけたりしていた。
ねえ、ねえ、通報しよう、とカガリが言った。触れることのできない手でユノの腕を引こうとした。
うん、とユノが言った。公園から遠ざかるように通りを渡って橋の上まで戻った。
あ。 ユノが言って片手を挙げて目を閉じた。遠くからサイレンの音がした。
ああ、誰かがもうしてくれてる、とカガリは言ったが途中から声が小さくなった。
あれ? カガリが言った。
うん、とユノが言ってうなずいた。
色んな方向で鳴ってる。
街の至る方向で緊急事態を告げる様々な種類のサイレンが鳴っていた。
ねえ、やっぱりなんかおかしいよ、とカガリが言った。
今のって『レイヴン・キッド』の演出だったはずでしょ? 駅前の戦いで観客がみんな逃げたのも変だった。さっきの人たちの様子も普通じゃないって、とカガリが言った。
カガリ、とユノが言った。
どうして君はそんなに落ち着いているのさ。
カガリあのね。言ってなかったんだけどカガリは殺されたの。
え?
カガリは事故死とか急病じゃなくて殺害されたの。
ちょっと待って?
カガリは<劇団>の人たちにインタビューに行って、そこを襲撃した械人生存同盟に殺されたの。カガリと、<劇団>の数名が、とユノが言った。
カガリは黙った。
カガリが半年間進めていた計画は順調だった。この『レイヴン・キッド』の公演でそれが実を結ぶ予定だった。誇張じゃなく人類の転換点の一つになるはずだった。でも同盟はそれを嫌がった。だからカガリと<劇団>を襲ったの、とユノが言った。
カガリは黙っていた。
でも<劇団>は襲撃に屈さずに上演を決行した。だから今度はこの街をめちゃくちゃにして、『レイヴン・キッド』を止めようとしてるんだ。
暖かい風が短く切りそろえたユノの髪を揺らす。ユノは使用されずに植物に侵食されている線路を歩いていた。ユノの前を行くカガリはレールの上を進み両手でバランスをとっていた。
ねえ、君に宣言するね。
どうぞ。
夏の研究発表でエクステンシスについて発表する。それで街の人たちに正しい知識を知ってもらう。
うん。
その次は<劇団>の人たちにインタビューを取り付けて、スカイシネマとそこに関わる人たちの努力を知ってもらう。
うん。
それでね、冬の上演のタイミングに合わせて、この街の多様性条例に組み込む形でエクステンシスの基本的人権について言及することを市長に約束してもらう。
すごい大変そう。
そうだと思う。でもさ、せっかくスカイシネマ観るならさ、思いっきり楽しみたいもん。
カガリならできるよ。
カガリは足を止めてレールからおりてユノのところまでやって来てユノの頭を撫でた。
二人がその部屋に入ったとき、キッドは部屋の奥の椅子に腰掛けていていた。
この場所では観衆と遭遇することを想定しなかったようで、その背中に畳まれた翼の映像装飾は解かれて金属室のボディーが露出していた。レイヴン・キッドの仮面をつけた少年がユノを見た。
君は……
どうも、とユノが言った。
どうしてここが?飛んでたからついてこれたとは思わないけど……
それは、まあ、霊感的なものだと思ってもらえれば、とユノは言った。
ユノの隣ではカガリが得意げに片手をあげていてその手からは細い靄が少年に続いていた。駅前でキッドがユノを守ったときにカガリは自分のホタルクモをキッドに付着させていた。
少年はユノから視線をずらして見えていないはずのカガリの方に向いた。そしてまたユノを見た。
君は、一人じゃないね? 少年が言った。
見えるの? ユノが言った。
ええ。やったあ、とカガリが手を振った。
いや、なんとなくそこにいるのが分かるだけだよ。
なんだあ。
私しか見えないと思ってた。
まあ、僕の五感は少し変わってるから。
私の隣にはカガリが立ってる。
だれ?
カガリ。分かるでしょ。
ごめんね。ちょっと誰だか……
ユノは目を細めて、カガリの方を見た。
彼の言ってることは本当だよ、とカガリが言った。
彼が私と「その日」に会ってても、今の彼は私のことを分からない。
なんで? ユノが空中に話す様子に少年は戸惑った顔をしたが次の瞬間には状況を察したようで何も言わなかった。
スカイシネマのメインキャストはね、公演期間中はその役柄の人格をインストールするの。化学療法とカウンセリングと神経インプラントを組み合わせて、自我を沈めて役を降ろす。自分が物語上の存在だって自覚を持ちつつも、その役柄にあった行動様式を取るの。
何それ、とユノが言った。
ユノは少年を見た。
あなたは……
ああ、説明を聞いたんだね? 少年は言った。まあ、そういうこと。
ねえ、ねえ本題、とカガリがユノを急かした。ユノはうなずいて口を開いた。
私たちは、あなたにお願いをしにきたの。
お願い?
うん。今この街は攻撃されてる。『レイヴン・キッド』を邪魔するために惨劇を起こそうとしてる奴がいる。この街の保安課だけじゃ対処できない。この街を破壊しようとしてるのは人の恐怖心そのものだから。外から押さえつけるだけじゃ駄目。内側に触れてあげる必要がある。あなたたちならそれができると思う、とユノが言った。
少年はユノの目を見て話を聞いていた。
あなた達が用意してたシナリオからは逸れるかもしれないけど。私たちも持ってる情報は提供するし、出来る協力はなんでもする。だから、とユノが言った。
だから、この街を助けて欲しい。
少年はユノの目を見て話を聞いた。
なるほど、と少年が言った。
助けてくれる?
ごめんね。君が望む形の協力は難しい。
少年は両手で顔を擦った。
というよりね、さっきから<劇団>との連絡が途絶えてて、この状況を踏まえたアレンジの指示を受け取れないんだ、と少年が言った。
そもそもすでに用意してたシナリオとはずれててさ、と言いながら少年は自分の片方の翼を指した。それは先端の4分の1のところでひしゃげていた。
ユノは何も言わず窓際まで行って外を見た。少し窓を開けた。その隙間からは遠くのサイレンや怒号などあらゆる種類の混乱の音が小さく聞こえた。
この後の展開も聞かされてないんだよ、と少年が言った。
少年はユノの側に来て窓をもっと大きく開けた。外の音が少し大きくなった。
現場の様子を見て判断するって言われてたんどな、と少年が言ってカガリの方を向いた。
僕は行くよ、と少年は言って窓に一歩近づいた。
でも、シナリオを伝えられてないんでしょ? ユノが聞いた。
それでもさ。
少年は窓の向こうを両手で指した。
この街には僕が必要だと思うし、と言って笑顔を浮かべた。
ねえ、とユノがまた聞いた。
うん?
あなたは怖くないの?
戦うのが?
ううん。その、消えるのが。あなたがその体にいられるのは公演中なんでしょ? ユノは何でもないことを聞いている風に装おうとしたがあまりうまくいっていなかった。
外で何かが割れる大きな音がしたが少年はユノから目を逸さなかった。そしてユノの瞳の奥に隠された存在を見つけて今にも逃げ出しそうなそれを誘い出そうとするかのようにユノの瞳を見つめながら口を開いた。
ああ。そうだけど、でも消えるとは考えてなかったな。命っていうのは情報の蓄積のことでしょ?だから一度物語として生まれたらその命はもう消えることはできないと思うんだ。それが現在や未来で失われても、過去にはそれは存在してるんだ。分かる?
分かる気がする。
もしかしたら君が気にしてるのは現実と架空の境界の話なのかもしれないね。僕は現実と架空の境目は強度だと思うんだ。周囲に与える影響の強度。ある一定の強度を超えたものだけが現実と呼ばれる。そして確かに、今の社会ではフィジカルな肉体はとても大きな強度を持ってる。僕は確かに、公演が終わったら肉体を持たない架空の存在に戻る。君はそれが気になるんだよね?
多分、そう。
たしかにそうなるのは少し寂しい。でもそれにも希望はあるんだ。フィジカルな肉体以外にも強度を持つ方法はいくつかあるから。
そうなの?
そう。例えばそう。信じることとか。君が僕の存在を強く信じてくれたら、僕はもう一度現実に戻ってこれるかもしれない。あ、笑わないでよ。たしかに君一人分だと十分じゃないかもしれないけど。でももっとたくさんの人が信じれくれたなら、僕はきっと何かの形で現実に戻って、また君たちに会えるんだ。
少年は難しい顔をしてるユノに笑いかけた。
どう、分かってくれた?
ユノは目線を落としもう一度上げて少年を見た。
分からない。でも信じてみる。
窓の向こうで悲鳴があがった。それは他の騒音よりひときわ大きく聞こえた。
じゃあちょっとこの街を救ってくるよ。
少年は窓を全開にして窓枠に足をかけた。ユノが一歩を進み出て少年の腕を掴んだ。
信じてる、と言ってユノは手を離した。
少年は窓の外に飛び出て、痛んだ翼をかばいながらも力強く進み暗がりの中に溶けていった。
行っちゃった、とユノが言った。
しっかりレイヴン・キッドだったね、とカガリがユノの隣に来て言った。
彼、無事じゃ済まないよ、とユノが言った。
そうだね。
本当にキッドくらい体が丈夫なわけじゃない。<劇団>の演出もないし、とユノが言った。
だから私たちが助けてあげないと。
うん。分かってる。でも、と言ってユノがカガリの方を向いた。
カガリはそのまま窓の向こうを見ていてユノはカガリの横顔を見つめた。
問題の原因がホタルクモにあるんだったら、私たちには少なくともできることが一つあるね、とカガリが言った。
カガリあのね、とユノが言った。
汚染されたホタルクモが街の人たちに影響を与えてるなら、それを中和したら少しは状況が良くなるかもしれない。
カガリあのね、言ってなかったんだけど、実は<プロトコル>用のホタルクモのテロメアと生殖能にも修正を加えててねーー
でも私一人だとできないんだ。君の手が必要なんだよ。君が想像してくれないと、私は力を持てない、とカガリが言った。
カガリのホタルの寿命伸ばしたんだ。半年くらい。『レイヴン・キッド』の終演まで持つように。
君はやっぱり寂しがりだよ、とカガリが言った。
ごめんなさい。これじゃ私がカガリを殺すのと一緒だ、とユノが言って俯いた。
違うよ。君は私に力を与えてくれるんだよ。いつもそうしてくれたように。
カガリがユノの方を向いて、手を伸ばして下を向いている頭を撫でた。それは本当に指で触られたみたいにくしゃっとした。ユノは頭をふるふると振った。
カガリをそうやって拡散させたら、きっともう戻せないと思う。
うん、わかってる。それでいい。
公共のホタルクモに影響を与えるには、それくらいカガリを「細かく」しないといけないから。
うん。だいじょうぶ。
沈黙。
いけそう? カガリが聞いた。
ユノはうなずいた。そして顔を上げた。
ほんとうに? カガリが聞いた。
ユノはカガリを見つめた。
何か失敗が起こったとして。それが私たち二人のどちらかに原因があるとして、とユノが言った。
カガリは黙って聞いていた。
それが私のせいだったことある? ユノが言った。
あ、なまいき、とカガリがまたユノの頭をくしゃっとした。
じゃあいくね、とユノは髪を直さずに言った。
うん。
ユノは窓際に立ったままカガリの方に体を向けて目を閉じた。
そして、二人が過ごした日々を想った。一緒にホタルを歩いて撒いた日々を想った。それらの場所、街中の至る所にカガリが溶けていくイメージをした。
秋の風が吹き込むカガリの部屋の中。ユノはもう一つみかんを籠から取って皮を剥いたが、一人で食べるには少し多いと思って房の半分を分けた。
カガリ。名前を呼びながら部屋を見回したがカガリはもういなかった。
駐車場のベンチに座ると、せっかくの街を見下ろす景色が半分以上遮られた。結局ユノは立ち上がった。この年一番の暑さは伊達ではなく、肩にかけていたタオルで汗を拭いてバックパックからボトルを取り出して一口飲んだ。カガリも飲むかと思ってベンチの方を見たがカガリはもういなかった。
ユノはレールの上をバランスをとって歩くのに飽きたが、勝負に負けるのは嫌だった。合議で対決を終わらせようともう一方のレールを見たがカガリがいなかった。
あれ、とユノは声をあげてレールから降りた。勝負のことは頭から消えていた。
春の日差しに育まれた草木が茂る線路沿いをユノはカガリを探して歩いた。ユノは焦りに駆られて線路を辿り続けた。しかし、カガリはもういなかった。
ユノは想った。
カガリの魂の平穏を想った。
カガリの家族の心の平安を想った。
この世界の変化を想った。
少年の無事を想った。
自分の想像が現実に力を与えることを願って、ユノは想った。
この世界の終焉を想った。
カガリとの再会を想った。
少年の復活を想った。
そして、カガリとの別れを想った。
さよなら、と告げるカガリの声が聞こえ、ふわりと髪を持ち上げられるのを感じたが目は開けなかった。ユノはそれからもたくさんのことを想った。ほんとうにたくさんのことを想った。
しばらくして、立っているのに疲れたユノは目を開けて窓に背を向け、自分とカガリがこの部屋に入って来たときに少年が座っていた椅子に腰掛けた。その顔には涙の跡があったがもうほとんど乾いていた。外の音は聞こえなかった。それが実際に静かになったからなのか自分が疲れすぎているのかユノは判断できなかったが、この部屋が静寂に守られていることに感謝して目を閉じた。しかし今度は何かを想うことはなかった。ただ目を閉じていた。
その日は月に一度の全体登校日だった。本当はすごい嫌だったけど、私も登校した。
案の定教室に入ると私の机はひっくり返されてて、その上に椅子が乗せられていた。その周囲には色とりどりの花がそれぞれ花瓶に入って、10本くらい、円を描いて置かれてた。とりあえず椅子だけはそのままだと危なくて座れないからどかして、その他は放っておいた。リュックを体の前側に抱えて椅子に座った。
しばらくして朝のホームルームの時間になって先生が来た。一瞬目があって先生は引き攣った顔をしたけど、次の瞬間には何事もないようにホームルームを始めた。あえて嫌がらせは無視してみようよ、というのが先生の戦略だったけど今のところ効果はなかった。先生に呼ばれて小さい女の子が教室に入ってきた。
今日までに会った人もいますね。彼女が今月から編入してきた牧野ユノさんです。
どうやら飛び級で編入してきた子らしかった。私は全体登校日以外は断固としてフィジカルな登校をしないから初めて見たけど、会ったことのある子も多いみたいで声をかけたり、囃したりしていた。でも、ユノちゃんはそれらを全部シカトした。
先生が少し困惑気味にユノちゃんに自己紹介を促した。すると、それまで教室中央のどこかを見つめていたユノちゃんの視線が急に私の方を向いた。しかもそれから5秒くらいじっと動かなかった。編入生が不可侵の存在に触れた気まずさで教室に沈黙が流れたけど、ユノちゃんは全く気にしていない風でとすとす私の前まで歩いてきた。そして私のひっくり返された机や供された花々をぐるっと見回した。そしてもう一度私を見て言った。
どうやったの?
え?
どうやってこんな退屈な連中にこんな面白いこと思いつかせたの?
ユノちゃんは後方の適当なところに親指を向けながら言ったが、どうやらは指しているのはクラスの全員のことみたいだった。
それにさ、とユノちゃんは言いながらクラスの他の子達の顔を見て、そしてまた私の顔を見た。
なんか、あなた年取ってない?
私は思わず声をあげていた。
なまいき!
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