梗 概
グレイハウス
大手ゲーム会社に勤務する儀間フウコは担当タイトルの完成後、数ヶ月後に控える産休までの期間、『第六制作部』への一時転属を命じられる。転属後に知らされたその部署の業務内容は自社製仮想空間に出現した自己生成オブジェクト<グレイハウス>の観察というものであった。
日本家屋風の外観の<ハウス>内部にはローポリゴンで構成されるディティールが足りない箇所が何割か残され、その部分が自発的に作り込まれていくらしかった。第六スタッフはモニターに向かいコントローラで操作するアバターで<ハウス>内を探索、ディティールアップされた箇所を見つけたら報告するという作業を連日繰り返していた。
この期間も経験を積もうと仕事に向かうフウコだが、転属後から見始めた悪夢に悩まされる。次第にスタッフの欠勤率の高さなど違和感が目につき始め、<ハウス>の完成率と欠勤率が比例していることに気づく。そして、完成率が9割を超えた頃、骨折や失明など深刻な傷害にスタッフが遭遇するようになる。フウコも悪夢から覚めると台所に立っていて手に持った包丁をお腹に向けていた、という経験をして<ハウス>の危険性を認識する。
お腹の子をこれ以上危険に晒さないために、フウコは会社を休んで両親が遺した実家に帰る。<ハウス>から距離を置く作戦だったが、悪夢は止まず逃げるだけでは危険は避けられないと悟る。また、自分が<ハウス内>で発見したディティールとそっくりの箇所を実家の自室に見つける。
フウコは<ハウス>が訪れた人の恐怖心を糧に成長する情報で出来た生命のようなもので、ある程度人の精神を操る力があると推測。第六そのものが<ハウス>に操られた誰かが作った部署なのでは。
休日で無人のオフィスでフウコは端末を起動する。ただし、いつもと違いVRセットで仮想空間にログインする。コントローラーでの探索という、行動の自由度を制限する規則も<ハウス>が設定したルールだと推測。フウコは<ハウス>の中に入って、その中心の台所で火をつけた。屋敷に火が回っていくのをフウコはアバターの中から台所に立って見ていた。屋敷は目論見通りよく燃えた。
燃える台所を見るうちにフウコはそれが実家と同一のものと気づく。しかし台所はフウコの転属前に完成していたエリアで半年以上ディティール追加の報告はない。フウコは急いでログアウトし、オフィスにある配属名簿を掘り起こす。そして自身がこの部署に来るのは初めてではなく、半年前にこの部署から転属していたと知る。そのような記憶はフウコに全くなかった。フウコは<ハウス>の力の大きさに戦慄する。これまで自分の考えだと思っていたものがどれだけ<ハウス>の支配下にあったか、社内のどれだけの人間が影響下にあるか全く未知数になった。そこまで考えてフウコは、お腹の子供を妊娠した経緯が全く思い出せないことに気づいた。
文字数:1182
内容に関するアピール
「戦えないもの」が一番怖いなと思い、抗うべき対象の境界が曖昧になっているような脅威を考えて見ました。また、アイディアを膨らませる中で純粋な情報の生命体がいて、それがゲームのような少し遠回しな方法で他者の情報を摂取しようするとどうなるかな、などを考えて人の食べて情報量を増やす家のお化けを作ってみました。
梗概で説明するべき設定と出来事の塩梅が難しく散らかってしまいました。ただ面白そうなパーツはいくつか見つけた気がするので実作で楽しく書いてみたいです。
文字数:226
グレイハウス
儀間サツキは駐車場から続く外階段を地階へ下りていた。二メートルほど下がると階段が終わり、すぐに塗装のはげた親子開きのドアがある。取っ手の上に設置された認証機をパスしてオフィスに入った。二〇帖ほどの空間にデスクが並んでいる。そのほとんどは荷物が積まれて物置と化していたが、ちらほらと人がついている席もあり、パッドタイプのコントローラを手にフィジカルモニタに向かう同僚の背後を通って自席まで行く。背負ってきたバックパックをおろしている所に声がかかった。
よう新入り。今日も早いね。
松永咲良が防風ジャケットを脱ぎながら歩いてくる。咲良はサツキの指導担当で、二人の席は並びになっていた。
お、おはようです。
サツキは上ずった返事をした。異動して三日目の勤務の始まりだった。
サツキが勤務しているのは業界最大手のゲーム会社で、開発から流通まで幅広く手がけていた。業界未経験の彼は入社から半年間、シリーズ作品の制作に従事していた。社員の間でも人気の部署で経験を積んでいたところに発された辞令は青天の霹靂だった。サツキはある日突然、周囲の誰も内情を知らず、所在も雑居ビルの地階という隔離された部署へ異動することになった。サツキにとって救いだったのは、それが一ヶ月間という期間限定の業務命令だったことだ。
短期間ながらサツキが新たに所属することになった部署は<第六制作部>という名称だった。しかし、その業務内容はあるオブジェクトの『監視』と『巡回』だった。
わたしたちは<グレイハウス>って呼んでる。
サツキの異動初日、咲良はそうやって説明を始めた。
あそこにあるあれ(部屋の中央奥のデスクに乗っている箱型コンピュータを指して)見える? そう。あの一際デカくてうるさいやつ。あれがサーバーを担ってる。んでね(サツキのキーボードを操作する)、このエグゼアプリを起動したら……
咲良は身体を引いてサツキからもモニタが見えるようにした。モニタには霧がかった空間が表示されていた。次にサツキはツインスティックとトリガー機構を持つオールドスタイルなゲームパッドを手渡された。左のスティックを前に倒すとモニタの中で風景が手前に近づいた。右スティックを倒すと風景が回転した。
一人称カメラですね。
うん。操作も問題ないね。
咲良の指示を受けてサツキは霧の中を進んだ。すると風景の中に一軒の建物が現れた。
これは……家、ですか?
サツキは近づいて行った。右スティックで視点を振って地面を確認する。この空間は質感(テクスチャ)が貼られておらず足元にはのっぺりとした平面が広がっていたが、ある時点でひび割れたアスファルトになり、そこからすぐにコンクリートのブロック塀が立ち上がり、それに囲まれてモルタル壁に三角屋根の二階屋が佇んでいた。
いえす。和室四部屋、洋室二部屋の6DKの一五〇平米。庭まで含めたら敷地は二〇〇坪超えるよ。ちょっと古くて、壁のひび割れとか黒ずみがひどいのが玉に瑕だけど。あれ本来は真っ白で綺麗だったんだろうね。
画面に見入るサツキに咲良が言った。
これが<グレイハウス>だよ。
サツキが最初に教わった仕事は『監視』だった。アプリを立ち上げて<ハウス>の全景が見える場所まで移動して建物を見張る。サツキがぼうっと画面を眺めていると一時間ほどで交代を告げられてアプリを立ち下げ、一時間の休憩の後に位置を変えて監視業務に就き、それを三セット程繰り返して初日は終業となった。
この仕事って何してるんですか?
サツキがその質問を切り出したのは異動四日目の、歓迎会と称して設けられた食事の席でのことだった。参加者はサツキと咲良と錦城の三人で、錦城というのは熊のような大きな体と伸びた髭に温和な表情が特徴的な男で、サツキの出勤時に唯一挨拶を返してくれる社員だった。
松永お前教えてないのか? 錦城が隣に座る咲良に目を剥いた。
まあほら、今日こうやって錦城さんとご飯来るの決まってたしさ。あ、店員さんすいません頼んだチーズバーガーってまだですかね? はい。あとこれ、シェイクも追加でお願いします。サツキ君も頼む? ここのミルクシェイクは本物だよ?
あ、いや僕は。
松永お前さ……。
錦城はソファーに背中を預けてうめいた。しかし一度ため息と深呼吸の間のような音を立てた後、ビニールレザーの張地を軋ませながら身体を起こしてサツキを見据えた。
おれだって話せることは嘘くさい昔話くらいだよ。それでもいいか?
サツキは頷いた。
儀間君、<レッドランド>は知ってるな? うちの会社が提供してた仮想現実サービスだ。もう二十年くらい前か、その手のコンテンツが大流行してた時分にスマッシュヒットしてユーザー数は業界トップだった。
だけどね、それが十五年前に急にサービスが終了するの。咲良が割り込んで話し始めた。そのせいでね、右肩上がりに業績を築いていたうちの会社は倒産ギリギリまで傾くことになった。
その騒動は僕も聞いたことがあります、とサツキが言った。
錦城はうなずいて口を開いた。
あの大災害には『言い伝え』があるんだ。
錦城はグラスを取り上げて口を湿らせた。
ある日、まだ<ランド>が大盛況だったころ、運営チームは<ランド>内に異質なオブジェクトを発見して削除したんだ。しかしそれ以来<ランド>では不具合が頻発するようになり、チームメンバーからは体調不良者が出るようになった。その状況を何とかしようと会社はある部署を立ち上げて、発端になったオブジェクトのデータを隔離した環境に復元した。まあ祀って鎮めるみたいなもんだな。
錦城の言葉の終わりに合わせたかのように料理が届けられた。
それが<グレイハウス>と<第六制作部>ってことですか?
サツキの言葉に錦城が肩をすくめた。
少なくとも『あれ』が<ランド>由来のものであることは確かだ。おれが自分でデータを確認した。
うわ。そんなことしてるの錦城さん止めなよ、と咲良が顔をしかめた。
あの、とサツキは手元のまだ包みを開いていないハンバーガーを見ながら口を開いた。
この仕事は危険はないんですよね?
サツキの言葉に咲良と錦城が顔を見合わせた。
危険はない、と錦城が言った。
『は』?
サツキは先輩二人の顔を交互に見た。
んっとさ、と咲良は苦笑いしながら答える。
うちの部署に来る人ってみんな何かしら理由があって来てるから。多少の不都合は飲み込むしかないんだ。
え?
ああそうだ、これも聞きたかったんだよ。君、何したからうちの部署なんかに飛ばされたの?
この部署にきた理由ですか? それは僕も知りたいくらいで……
サツキは異動直前に行われた制作部統括との面談を思い出した。唐突に開かれたそれで話題になったのは、サツキが持つある特技についてだった。しかしサツキはそれについて曖昧な回答を続け……。
ねえちょっと、サツキ君?
咲良の言葉でサツキの意識が現在に戻った。その後は注目している新作タイトルのことなど取り止めのないテーマへと話題は流れて行った。
あら、来てるじゃん。
翌日、出社してきた咲良がコーヒーを用意していたサツキに言った。
昨日の話でビビって来なくなるかと思ったよ。
びびり……というか気味が悪いなとは思いましたけど。この会社で作りたいゲームもありますから。ここで休んだりしたら上の方の覚えも良くないだろうなって。
おお。君、野心家なんだ。
その次に咲良から声がかかったのは、その日の仕事も終わりに近づいたころだった。
サツキ。今日から『巡回』もやってみよう。あ、名前もう呼び捨てでもいいかな?
それは、べつに。はい。それより巡回って?
まあ今日やるのは巡回の予行演習って程度なんだけど。アプリ立ち上げて。
サツキが指示に従って待っていると、モニタの中の霧がかった空間を、奥の方から熊をデフォルメしたアバターが近づいてきた。
よう、これ儀間君だよな? モニター下部から錦城の声が鳴った。
これ音声はべつのソフト通してるから。咲良が捕捉する。
は、はい儀間です、とサツキは返事をした。
ほいこれ、と錦城が言ってアバターの上部にアイコンが点滅する。
近づいて決定ボタンで受け取れるよ、あ、そうそのボタン。
サツキの操作で効果音とともにアイコンが消えた。
えっと、これで……?
おっけい、今のでこれから使うアイテムが受け取れたよ。
二人が話しているとオフィス内を重い足音が近づいてきた。
儀間君に渡したのはこれだよ。
デスクを回り込んできた錦城が小脇に抱えたボール箱から取り出したのは、白い紙に巻かれてその上に細い金と銀の紐をかけ渡された木札だった。
御札ですか? サツキは手にとって眺めた。
まあ似たようなものだな。これをスキャンしたデータから作ったものを君に渡した、と錦城は言って再びボール箱を漁る。
これも付けてくれ。
次に錦城がサツキに渡したのはバンドタイプのヘルスチェッカーだった。サツキがそれを手首に装着して起動している間に、さらに錦城はボール箱からウェブカムを取り出してサツキのモニターに取り付けた。
窮屈だろうけどバンドとカメラの着用は決められててな、と錦城が言った。
これからは『監視』のときも、シフトがあるときは常につけててね、と咲良が付け足す。
あとは実際にやりながら教えるかな。とりあえず家の中に入ってくれるか?
サツキはパッドを手に取り<ハウス>に近づいた。塀の手前まで行くと砂を擦ったり雑草を踏みつけたりする足音がモニターから鳴った。門扉は近づくだけで押されたように開いた。自身が緊張していることに気づいたサツキは、玄関手前のアプローチで一度コントローラーを置き呼吸を整えた。再びコントローラーを手にとって右スティックで軽く周囲を見回す。ブロック塀の内側に植えられた木々は頭上にかぶさって影を落とし、出窓のガラスは蜘蛛の巣状にひびが入っていた。しかし最も印象的だったのは赤く塗られた木製の玄関扉で、その鮮やかさは風化で燻んだ家屋の色彩の中でひどく異質だった。
入ります。
おっけ。アイコンがでたら決定ボタンだよ。
サツキがその通りにすると、玄関扉が開いて画面の視点が上下した。合わせてモニタから音声が再生された。
一応入るときのお作法とかがあるんだけどね、その辺は自動で済ませるようになってるから、と咲良が言った。
サツキは玄関から入って廊下を進んだ。外観からの想像に違わず、内装も古民家風のそれだった。ビニールクロスの壁紙にフローリング、木の柱。しかし、サツキはこれらの光景に違和感を覚えた。
パッドのさ、左側のトリガーでズームも出来るからね。
説明を受けて廊下の壁面を拡大表示したサツキは違和感の正体に気づいた。
これ、モザイク状になってませんか?
画面を注意深く観察すると、壁には縦横に細かい切れ目があり、それを境に壁紙の劣化の度合いや風合いが微妙に変化し、正方形や長方形のそれら断片がより合わさって一つの壁面を形成していた。サツキは廊下を進みながら慎重に観察した。壁紙だけではなく、フローリングや階段の手すり、天井の合板に至るまで異なるディティールがモザイク状に集まることで形成されていた。階段を過ぎたところで廊下が終わり突き当たりとなった。
左の部屋に入って、と咲良が指示した。
サツキはカメラを回し、ボタンで扉を開けて進んだ。
今日の仕事もこれで大詰めだ、と錦城が言った。
サツキはスティックを倒して視点を前に進めた。手前には食卓、奥にはキッチンカウンターがあり、ここもディティール以外には特別なところのないダイニングキッチンだった。
そこのダイニングテーブルに近づいて。そしたらまたアイコンでるから、と咲良が言って、指示に従うサツキに錦城が説明した。
明日から週末だろ。その間はここのサーバー落すんだよ。だからさっきの御札はその断りだな。また起動するのでそれまでここで大人しくしていて下さい、ってな。
画面では食卓が目前にありアイコンが点滅している。
じゃあ押しますね、とサツキが言うのとほぼ同時に、モニターのスピーカーから物音が鳴った。サツキは反射的に視点を後退させて音源と思われる方向を向いた。画面に映されたのはキッチンの右手にある開いた襖で、その奥に和室が覗いていた。
あんなところ、さっき開いてました?
咲良たちは答えない。スピーカーからは物音に加えて不明瞭な話し声が流れ始めた。おいしいね、いただきます、などと言っている気がするが、正確には聞き取れない。
お二人にも聞こえてますよね?
サツキの座席の後ろでは先輩二人が目線で何やら相談している気配が感じられる。そして咲良がため息の後に話し始めた。
まさか初日で遭遇するとはなあ。まあ、『そういう』のもいるって覚えてて。
これ、大丈夫なんですか?
ちゃっと御札置いて済ませちまえ。
サツキは視点を回して食卓の方に向き直った。食卓の周囲には半透明の影が蠢いていた。サツキはそれらを無視して食卓にインタラクトして御札を設置、急いで玄関から出てアプリを終了させた。
就業時刻を迎えてぐったりとしているサツキに対して、咲良は帰りしな肩を叩いてこう言った。
先輩からのアドバイスだよ。変な抵抗はしない方がいい。
その助言の意味はその晩のうちに分かった。その日から週明けまでの三日間、サツキは夜毎に<グレイハウス>の夢を見た。あの家を訪れ、そこに住む何かにもてなされる夢だった。サツキは無視してやり過ごそうとした。しかし無反応を貫いていると、住人たちが攻撃を加えてくるようになり、終いには絞め殺された。それからサツキは抵抗をやめた。住人たちに促されるままに食事のような何かをし、会話のような何かを演じた。それが三夜続き、次の週が始まった。
月曜日、咲良は休暇を取っていたため、サツキは悪夢について錦城に問いただした。それはやはり第六のスタッフ全員が患っている症状だったが錦城は平然としていた。
危険はないと言ったが害がないとは言ってないぞ。
不満を訴えるサツキに錦城はそう言った。
この日は夕方近くまで『監視』を担当し、最後のシフトでは錦城と組んで『巡回』をすることになった。そして実際に『巡回』が始まった。錦城のアバターが先導して家屋に入る。
二階は俺が見る。一階は儀間君に任せる。
<ハウス>とは別のソフトを通している錦城の声は画面中の二人の位置関係に影響されず、画面内では錦城のアバターは階段を上って行き姿を消したが、スピーカーからはまだ目の前にいるかのように音声が流れた。
今日は『巡回』の通常工程をやる。パッドの中央のセンサパネル押し込んでみろ。
サツキが手元を見ながら指示された操作をすると、モニタの右下に<ハウス>の立体マップが表示された。マップ上ではハウス中のいたるところに赤点が配置されていた。サツキが最も近い赤点の場所へ行くとキャビネットがあり、赤点はその収納台の側面を示していて、サツキはそこをズームした。モニタには木目調の化粧板が映り、それはやはりディティールの異なる断片の集合だったが、サツキは異変に気づいた。画面中央近くの、二センチX五センチ程度の小片だけ、解像度の低いテクスチャが貼り付けられていた。強引に引き伸ばされたその部分は構成するピクセルが四角く見えてしまっている。
それを報告したサツキに、今のような未作成の箇所が多数あること、<ハウス>が自らそこを埋めるためのディティールを生成することがあることを教えた。それを確認して記録をつけるのが『巡回』業務だった。
この家がモザイクでできてる理由がわかったろ? スピーカー越しに錦城がそう言った。
その後サツキはマップに示された未完成箇所を周り、ディティールが埋まって完成した『断片』を数カ所報告した。この日は不振な物音や影に遭遇することなく業務を終えた。しかしサツキはアプリを立ち下げた後もしばらく動けなかった。サツキは目を閉じて最後に発見した完成断片を思い出した。廊下の奥、階段の裏側の柱。腰ほどの高さに刻まれている二列の印。印のそれぞれには小さく日付が併記されている。それは間違いなくサツキの実家の光景だった。毎月の誕生日の度に姉と二人でつけた身長の記録だった。
少し落ち着いたサツキが帰宅の準備をしているとちょうど錦城がオフィスから出て行くところで、サツキは急いで後を追った。
サツキと錦城は県営バスに揺られていた。退勤時刻で混み合っていたが二人は並びの席に座ることができた。道路はそろそろ二五六号線と合流するところで、潮崎の埋立地を繋ぐ橋梁部分を走行する車窓からは、夕日を反射して青色にも赤色にも見えるまだ名付けられていない、今後もきっと誰にも名付けることの出来ない色で輝く海を見下ろすことができた。
第六制作部の仕事は『監視』でも『巡回』でもなかったんですね、とサツキは切り出した。
悪かったよ、と言いながら錦城は頭をかいた。でも最初に言われても信じなかっただろ? 『あれ』がおれたちから情報を奪えることとか、それを代謝して自己生成してることとか。
僕たちはあれを鎮めるための『贄』にされてるってことですか? サツキが聞いた。
まあ大体おれもそういう認識だよ、と錦城が答えた。
サツキは窓から目を離して錦城を見た。
まだ僕に伝えてない『害』はありますか?
かたん、と段差を乗り越えたのかバスが小さく揺れた。道路はすでに住宅街に入り、窓の外をコンクリートの家々が流れていく。
おれはそろそろ降りるんだが、少し付き合ってくれよ。錦城が降車の意思を知らせるブザーを押しながら言った。
その数分後、錦城の案内で二人はバス停近くの公園に来ていた。
さっきの質問の答えだけどな、と錦城が缶コーヒーをすすりながら言った。人間じゃない存在に会話以外の方法で情報を奪われてるんだ。実害がないわけがない。
サツキは錦城を見た。
ぽつぽつな、思い出せないことが増えてるんだ、と錦城が言った。
記憶が消えてるってことですか?
そこはまあ、思い出しづらい名前があったり、すぱっと抜け落ちてる期間があったりまちまちだな。
錦城がサツキに目をやる。
儀間君も気づいてると思うが、あの空間にいる間、特に屋内を探索したときに受ける刺激を通して『あれ』は人間に侵入してくる。同時にあそこにいる間のウェブカムの映像やバイタル、あと多分アバター操作を監視して俺たちから情報を奪ってる。まあそんなやり方だから効率は良くないのかもな。
錦城は笑ったがあまり面白そうではなかった。
おれは五年以上あの部署で働いてるけど、失った記憶は累積しても十年分にもならないと思う。だからまあ、定年まであと一五年勤め上げても人生の半分くらいの記憶は失くさずに済むわけだ。
錦城が缶をあおった。
まあ実害があるって言ってもそんなもんだよ。おれも最初は精神を乗っ取られるとかそう言うのが怖かったんだけどよ、そういうのは今の所なさそうだよ、と錦城が言った。
それを聞いてサツキは少し笑った。
確かにそういう事するにはあの家と人間は存在が違いすぎますね。
錦城は困ったようなおかしいようなちょっと変な顔でサツキを見た。
儀間君は、なんていうかすごい順応するな。新入りは大体もっと手前でつまづくんだが。
それを聞いて今度はサツキのほうが変な顔をした。
実は、あの家がなんというか、思考に類似するような何かを持ってるっていうのは最初に見たときから分かってたんです。
錦城がけげんな顔になったのでサツキは少し考えて言った。
僕、勘がいいんですよ。
勘だって?
えっとそうだな。錦城さん、何か数字を思い浮かべてください。
そしてサツキは錦城が頭に浮かべた数字を当てた。これが幼いころからのサツキの特技だった。驚いた錦城はメモパッドを取り出して何か書き始めた。
おれが何を書いたか分かるか?
サツキは錦城の顔をじっと見た後に目を閉じた。そしてしばらくして首を降った。
錦城さん、イラストみたいな複雑なもの描いたでしょ。そんな難しいのは僕じゃ読み取れません。
なんだそうか、と錦城の方が悔しそうな顔をしていているとサツキが声をあげた。
どうした? 錦城が驚いてサツキを見た。サツキはベンチの正面の何もない空間に身をかがめ、相槌を打つようにうなづいている。数秒そうした後あっけに取られている錦城の方を見た。
錦城さんがさっき描いたの、クマですね? ライオンみたいに首の周りが毛むくじゃらのクマ。
錦城は声を出さずに手元のメモをサツキの方に向けた。
当たりだ、とサツキが言った。
儀間君いまのは、と錦城が言った。
あ、あはは。えっと、とサツキが言い淀んだ。錦城はサツキから視線を逸らさなかった。
えっと。姉が教えてくれたんです、なんてさすがに気持ち悪いですよね。僕は双子の姉がいて、彼女の方は僕と比較にならないくらい強い力があるんです。あ、もう昔になくなってはいるんですけど、とサツキは説明した。
それを聞いた錦城の顔にはさらに動揺が広がった。
死者と話せるのか?
えっと、ごめんなさいそれも違くて。これは多分、生前の姉なんですよ。子どもの頃の姉が時間と場所を超えてたまに遊びに来てくれるんです。
そうか、と錦城は言ったがその目は見開かれたままだった。
ごめんなさい変なこと言って、とサツキは立ち上がりながら言った。そろそろ失礼しますね。
錦城は公園の出口に向かうサツキの背中を少し見送ってから声をかけた。
なあ儀間君。
はい、とサツキは足を止めて振り返った。
実害のこと、もっと早く話しとくべきだった。人によって失う記憶の価値は違うものな、と錦城は言った。
サツキは一度うなづいて口を開いた。
僕、もう少しこの部署で働いてみます。なんだかんだ今の会社で働けてるのはゲームクリエイターとしては大きなチャンスですから。
それから数日は平穏だった。サツキは仕事を大過なくこなした。連日の悪夢(特に『巡回』がある日はひどくなった)は止まず記憶の抜け落ちも始まったが、どちらも会社で働くためだと割り切った。また、サツキは咲良にも自分の特技や姉の力について話した。そうしている内に一週間が経ち、しかし安全に過ごせたのはそこまでだった。
その事態に最初に気づいたのはサツキだった。サツキはシフトの交代に現れない竹谷という社員に声をかけるところで、席に座っているのを見つけて呼びかけたが反応がなかったのでそばまで行った。竹谷の席の真後ろまで来ると、何か呟いているのが聞こえてきたが、早口で抑揚のないその調子にサツキは既視感を覚えた。
あ、あの。
サツキは言いながら竹谷の背後から肩を叩いた。そこでやっと竹谷は反応し、うつむき気味だった顔が持ち上がり、サツキの方を振り返った。その光景がサツキにはやたらゆっくりに見えた。竹谷は体を動かさず、首だけを回した。最初は後頭部しか見えなかった竹谷の頰が見え、鼻梁が現れ、完全な横顔になり、口元が何かを呟いていたが、まだ頭は周り、首のあたりからは割れるような音やちぎれるような音を鳴らしながら、サツキから顔がほとんど正面に見える位置でそれ以上は進めなくなったという風にぎちぎちと止まった。口はまだ動いていたが、そこからは声ではなく、ぐっぐっ、という狭窄音が漏れていた。サツキは自分でも意識せずにいつからか悲鳴をあげていて、周囲には錦城ら他の社員も集まってきた。
おい、おい儀間君。
錦城に肩を揺らされてサツキは我に帰った。無理な大声で喉が痛んだ。
きゅ、救急搬送を……
そう言いながら錦城を振り返ったサツキは絶句した。錦城の向こう側に台所があった。慌てて錦城を見る。錦城も絶句していた。サツキは竹谷の方に向き直った。そこにはさっきと同じで首がねじ切れてなおブツブツと何かを呟き続けるスタッフがいたが、彼が座っているのは食卓だった。オフィス内に<グレイハウス>が出現していた。すぐに誰かが呼んだ救急隊員が現れて、いつしかオフィスはいつも通りの姿になっていた。事情聴取を経て解放されたサツキと咲良と錦城の三人は手近な喫茶店に入った。
あの喋り方、あいつらにそっくりでした。たまにあの家で遭遇する、とサツキが切り出した。全員が注文を済ませた直後だった。
今日起きたことに心当たりのある人いますか? サツキは続けて聞いた。
わっかんないよ、と咲良が言った。竹谷のことも、『あいつ』を画面の外で見たのも初めてだもん。
錦城はこめかみを揉んでいる。
関係あるかはわからん。だけどな、数日前から意識が飛んでる瞬間がある、と錦城が言った。しかも、頻度と長さが日ごとに増してるんだ。
錦城さんそれまじ?
お前はないか?
ないって、と咲良は首を振る。
それらしいものもか? 最初は短い、ほとんど一瞬意識に空白ができるだけだったんだ。ぼうっとしてたか、居眠りでもしたかと思ってた。
錦城の説明を聞いて咲良の顔色が変わった。
お前にも起こってるんだな。儀間君は?
いや、僕は多分……
そうか、と錦城がため息をついた。
在籍期間かもな、俺は五年、松永は二年、竹谷は八年近かったはずだ。
でも、それがどうして急に今になって? こんなこと今までなかったじゃん。
分からん。
錦城はそう言ったが、何か思案してる風だった。その日はそれで解散になった。
次の日、サツキが出社するとオフィスには錦城だけが来ていた。錦城はサツキを見て苦笑した。
錦城さんだって来てるじゃないですか。
俺はやりたいことがあってな。
僕だって、と言いかけたサツキは口をつぐんだ。錦城の様子が変わっていた。それまでサツキを見ていた目は焦点を結ばず、唇が小刻みに動いている。
錦城さん、と言いながらサツキは手を伸ばして慎重に錦城の肩に触った。
ああ、という声をあげて錦城が意識を取り戻した。
どうした? と錦城は事態に気づかずに聞いた。
よかった、とサツキはその場にへたり込んだ。それを見て錦城も状況を察した。
今、俺も? とサツキに問いかけた。サツキはうなづいた。
そうか、と錦城は言った。
サツキは深呼吸をして立ち上がった。錦城は少し考えた後で自身のメモパッドを取り出した。
儀間君、頼まれてくれないか?
錦城が一枚のメモを差し出した。
これ、俺が把握してるこの部署のメンバーの連絡先だ。定期的にこいつらに連絡して状況確認してくれ。
はい、とサツキはメモを見ながらうなづいた。
あとひとつ、と錦城は続けた。
あるものの『受け取り』も頼まれて欲しい。
数時間後、サツキは県営の図書館に来ていた。そこが錦城に伝えられた『受取場所』だった。玄関口へ続くステップの脇に立つサツキの元に、駐車場の方から女が歩いてきた。スリーピースのスーツに身を包んだその人はサツキのそばで足を止めたが顔は向けず、周囲に視線を走らせながら聞いた。
あなたが代理人?
サツキは錦城に教えられていた合言葉を答えた。
それを聞いた女は資料を館内のロッカーに預けてあることと、解錠コードを伝えて立ち去った。サツキはすぐに資料を回収し、閲覧室を借りてそのまま確認を始めた。
それは最初期の<グレイハウス>管理チームについての調査報告書だった。仮想空間<レッドランド>で発見されたあの家の入念な探索や管理を初めて行ったのは社外のスタッフを秘密裏に集めた少人数のチームだった。報告書は特にチーム全員が発症したある症状について詳しかった。当時の面会映像や企業医師の診断書からも引用しながらまとめられたその経過と徴候は、サツキがこの数日目の当たりにした、竹谷や錦城に起こっているものと酷似していたが、問題のチームは最終的に全員が死亡していた。資料に一通り目を通した頃には次の朝が来ていた。
二時間前の時点で咲良さん以外全員、連絡が取れなくなっています、とサツキは携帯端末に向けて話した。通信相手は錦城だが、応答がなかったためボイスレコードとして送信している。
『受け取り』も無事できました。それと、僕もーー
サツキは言葉を切って机上に展開したモニタを確認した。そこには焦点を失った目で何かを呟くサツキが映っていた。昨晩のうちに自分を監視するために設置した撮影機の映像で、解析ツールによると意識の消失が三度、最長で30秒間起こっていた。
やっぱり何でも有りません、と言ってサツキはメッセージを終了した。応答のない錦城のために通報をするべきか考えていると、咲良からもテキストメッセージが届いた。
すぐきてほしい
オートキャブが咲良のマンションに着いたのは連絡を受けた三〇分後だった。サツキは目的階の廊下に出た時点で咲良の部屋がどれかは検討がついたが、それは並ぶ扉の一つだけが他と異なっていたからであった。真っ赤に塗られたその扉は<ハウス>の玄関にあるものと全く同じものに見えた。
これ。サツキ君にも見えてるよね?
……はい。
家へあがったサツキに咲良が聞いたが、その質問で尋ねたのは玄関扉についてだけではなかった。咲良の自宅は廊下のフローリングなど、至る所が<ハウス>のそれに置き換わっていた。
あの意識が消えるやつも結構やばくなってきたよ、と言いながら咲良はソファに身を投げ出した。
僕も起きるようになりました。
そっかあ。
咲良はため息をつき、床のラグを指した。
まあ座りなよ、寝てなさそうだし、なんかやってたんでしょ?
ラグの上には巨大なダンボール箱や梱包材が散乱していて、サツキは咲良の許可を得て、最新のゲームダイバーが入っていたそれらを片付けた。空いたスペースに座ったサツキは、ソファに横になった咲良に報告書の内容を報告した。咲良は、まず錦城が調査会社を雇っていたことに、次にそこから判明した事実に驚愕した。
<レッドランド>のスタッフに起こった体調不良なんかは前に錦城さんも話してくれましたが、当時、密接にあの家に関わったのはこちらのチームの方で、深刻なこともこちらのメンバーに起こっていたみたいです、とサツキは説明した。咲良が呻いた。
問題のチームに徴候が現れたのはランド上の<グレイハウス>のデータが消去されたからでした。それは理解できるんです。例えば、サーバー上の拠り所を失ったあの家の、すでに人間の中に侵入していた部分が本腰を入れて宿主の中に根を張ろうとしたとか。でも人間の情報系は機械のそれより繊細だから負荷に耐えられなかったんじゃないかと、とサツキは言った。
その結果が意識の消失からの死亡?
予想ですけど。
サツキは考え込んでいる咲良を見た。
でも今回の件が説明がつかないんです。この十年間CPUの中で安定していた<ハウス>がなぜ急に人間の中に侵入り(はいり)こもとしてるのか。きっかけがあるはずじゃないですか?
咲良はソファからおりてラグに座ってサツキに並んだ。
それはもちろん君だと思うけど。
サツキは咲良を見た。咲良もサツキを見た。
僕?
おう。
サツキはラグの隅に寄せられたローテーブルを指した。そのテーブルは天板の一部が<ハウス>の座卓と置き換わっていた。
ああいう同じものが見えてるのって、『あいつ』が君の力を真似してるんじゃない? あいつは君から「人間同士の意識を直接繋げる」方法を奪った。だからあいつは新しい可能性、複数の人間に分散して根を張る方法を試してるんだと思う。私たちはあいつを通して繋がってる。だから同じものが、私たちの世界に侵食してきてるあいつが見えて……
咲良が不意に話すのをやめて、サツキは顔を上げた。しかし、咲良の方を見る前から何が起きたかは分かっていた。咲良はぶつぶつと念仏のように何か呟き始めた。サツキはそっと咲良の名前を呼び、しばらく待っても咲良が意識を取り戻さないので静かに立ち上がった。路上に出たサツキは咲良の部屋の方を見上げて言った。
ちょっと思いついたことがあるんでやってみます。
サツキは駐車場から続く外階段を地階へ降り、認証機にIDを通して扉を開いた。明かりの消えたオフィスは日中でも薄暗く、人の気配のない室内でサーバーマシンの排気音がやたら大きく聞こえた。サツキはまず錦城の席に向かった。点きっぱなしのモニターの光が周囲の薄闇を柔らかく溶かし、前日と同じ服を着た錦城がその中心でデスクに突っ伏していた。サツキはそばまで行き、呼吸と脈を確認したが両方なかった。サツキは目を閉じた。数秒後、目を開けたサツキは、デスクに乗る錦城の頭のそばにメモパッドが置かれているのを見つけた。先頭のページには
もし必要なら
とだけ書かれていた。そしてメモの上には携帯ストレージが置かれていて、サツキはそれを持って自席に行き、自身の業務PCとモニターを起動した。その完了までの間に肩にかけてきたナイロンバックをおろし、中からゲームダイバーを取り出した。それは咲良の家から持ち出したもので、ヘルメットとグローブがセットになったタイプだった。PCが起動しているのを確認してダイバーを有線で接続する。錦城の携帯ストレージも差し込み、読み込み準備をさせる。次にグローブを手にとり、右手からはめて、グローブの手首側から延びているチューブを引いて先端のニードルシールを腕に貼る。チューブの根元にある滴下装置の作動光を確認して、左手にもグローブをはめた。両手を一度握って開いて着用感を調整して、ヘルメットを着用した。内部ディスプレイには周囲の光景が映されている。ヘルメット後部のサポーターを引き下ろして頸部を覆うと、首の根元に触れる部分のニードルシールが自動で吸着した。ハンドジェスチャーで指示を出してPCのデスクトップをディスプレイに表示させる。いつものエグゼファイルのプロパティを開いてインタラクト設定をダイバーに対応するものに編集する。プロパティを閉じて今度は携帯ストレージの読み込みを開始させた。そして<グレイハウス>を立ち上げた。
おお、とサツキは声をあげた。
ゲームダイバーを通していることで、すでに何度も歩いたはずの<グレイハウス>が全く別物の存在感でサツキに迫っていた。あの赤いドアはその手で押して開けなければならず、玄関では入室時のまじないを自らの口で唱えながら頭を振ってお辞儀をした。家鳴りがどこかからか聞こえ、廊下は奥へ続いていた。その突き当たりで右側のドアを引いてこの家の中で一番広い和室に入ったが、化学フィードバッカーからの擬似ホルモンで過敏になったサツキの神経は、足裏に畳の感触すら感じさせた。サツキは部屋の中央で足を止め、チャーギ材のはめ込み仏壇の方を向いた。
ここにしようか、とサツキが呟いた。それと同時に、何かが弾ける音が鳴り、サツキが廊下に顔を出しとダイニングに通じるドアが外れ、その向こうのキッチンで炎が上がっているのが見えた。
錦城さん、こんなの仕込む余裕あったの。
サツキはそうつぶやきながら和室の仏壇に正対する位置に戻ったが、火の手は速く、サツキが元の場所に座り込む頃には周囲の畳や壁も燃え始めていた。携帯ストレージ内のプログラムの作動には一時間の猶予を設定していたから、この火事の演出は錦城からの警告もしくは宣戦布告だった。サツキが座る畳にも向かい合う仏壇にも火がついたが熱くはなかった。しかしサツキは、<グレイハウス>の思考のような何かがより活発に動き始めたのを感じた。
あなたにも状況が伝わりやすくなってたらいいな、とサツキは話し始めた。
これからもうすぐあなたのデータは削除されるから、それまでにあなたは人間に巣食う方法を見つけないといけないよ。今みたいに宿主を壊すようなやり方では僕たちは共倒れになるんだから、とサツキは言った。
僕の特技を君は真似たんでしょ? やるならもっとちゃんとやるんだ。
サツキはグローブをはめた手で自身を示した。
この格好ならいつもよりも観察しやすいだろ?
そこまで言ってサツキは目を閉じた。
最後にお姉ちゃんに会いたかったな、とサツキは呟いた。燃え盛る炎がサツキを包んでいた。
目を覚ますとやたら白が多い部屋にいた。少し考えて、ああ病院かな、と気がついた。しかしすぐにまた寝てしまった。次に目を覚ましたときはそばで気配がして、そちらを向くと女の人がパイプ椅子に腰掛けていた。
目を覚ましたって聞いて来たんだ、とその人が言った。
どうも、と言おうとしたけど喉が乾燥していてうまく声が出せない。
わたし分かる? とその人が言った。分かるような気がしたけど分からなかった。
一緒に働いてた、松永咲良。どう? 女の人が続けて聞いた。
ずっと、君のおかげで助かったって伝えたかったんだ、と女性がさらに続けて言った。
どういうわけかその言葉を聞いてとても悲しい気持ちになった。
サツキが意識を取り戻して以降、咲良はたびたび病室を訪ねた。記憶をなくしたサツキが過去の行動に言及したのは、何度目かの訪問の終わり際だった。この日、咲良が病室を出る前に振り返ると、サツキが泣いていた。驚いた咲良が引き返そうとするのと同時にサツキが口を開いた。
ごめんなさい、とサツキが言った。
僕はきっととても悪いことをしました。本当にごめんなさい。
咲良はサツキのベッドの脇にしゃがんで手をとった。
どうした? 何か思い出した?
咲良の問いかけにサツキは首を振る。
何のことかは分からないんです。でも確かに僕は悪いことをしました。それだけは分かるんです。
それから数分かけて咲良はサツキを落ち着かせた。
しかも僕は、その悪いことをするためにとっても大切なものを差し出したんです。
最後に、ほとんど聞こえないくらいでサツキはそう言ったが咲良はそれには答えず部屋を出た。駐車場でオートキャブを呼んだ。乗り込むとニュース放送が聞こえてきた。
……ンドン市街に出現した巨大な家型オブジェクトに関する続報が……
咲良がニュースを切った。キャブが発進した。咲良はウィンドウに頭をつけて外の景色を眺めた。ときおり街中に<グレイハウス>が混ざり込んでいることにも、通行人たちがそれに反応していることにももう慣れていた。咲良は携帯端末を取り出してボイスレコードを再生する。流れてきたのはサツキの声だった。
上手くいくかは分からないけど、というか上手くいかないほうがいいのかもしれないけど、とにかくやってみます。あいつに僕を、僕のなかのお姉ちゃんの力の痕跡を渡すことができたら、きっとあの家は訪れたことない人にも侵入できるようになると思うんです。それでネットワークを広げたら、僕や咲良さんにかかる負担を減らせるかも。どこまで影響範囲が広がるかは分からないけど……
再生を止めた。サツキがこのメッセージを残してから九年が経過していた。あの日から拡大を続けた<グレイハウス>のネットワークは今や地球全土を覆っていた。咲良はサツキが話していた双子の姉について考えた。幼くして亡くなりながらも、時空を超えて弟へメッセージを送ってきていた少女。次に咲良は全ての人類の内に宿ることになった、あの忌まわしい存在について考えた。今や多くの人が見慣れてしまったあの家。咲良は目を閉じた。脳裏には赤い扉が現れた。
頼むから、これからもずっとそのままで、と咲良は呟いた。
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