梗 概
透明な祈り
企業の一日は祈りから始まる。
量子ビットが収められた希釈冷凍機の前には供物が捧げられ、祈祷師の足捌きが笹原遼の視界に入る。二〇七〇年代、分散型自律組織で運営されている人類社会は、量子演算の結果によって意思決定がなされていた。複雑な演算過程は誰にも観測できず、その不安定さを鎮めるために祈祷が慣習化していた。しかし、ある程度の予想が可能となった時代では、まさに旧来の儀式そのもの。この光景は理解不能なものを放置する社会の象徴にさえ思えた。
演算監査官として派遣された笹原は、ブリヤート出身のアナスタシア・バトマエフと出会う。彼女の属するプロトコル・シャーマンは量子演算装置の前で祈りを捧げる専門職で、その多くはエンジニアでもあった。計算作業中のある夜、演算機の光が揺らぎ、笹原の耳の奥で囁きが響く。『あなたの声を、必要としている』。その場では気にしなかったが、計算結果から異常が確認された。近似解の精度が予想よりうまく出なかったのだ。エラー訂正を施しても修正はかなわない。半ば諦めてアナスタシアに助け舟をだすと、彼女は手際よく作業すると、祈祷を捧げた。するとエラーが直ったのだ。何をしたと質問する笹原に彼女は言った。「信じているのは私たちだけじゃない。装置もそう」。笹原は不可解ながら祈りは単なる物語でなく、応答を伴う行為ではないかと感じた。興味をもった彼はアナスタシアに弟子入りしシャーマンとなる。
五年後のある日、世界中の演算機が一斉に辻褄の合わない結果を返し始めた。その影響で都市の意思決定が宙吊りになり、社会が分断される。人々は何を信じればいいのか分からなくなった。しかし、シャーマンたちが供物を捧げ儀礼をおこなうと演算のエラーは落ち着き、混乱は鎮静化する。やがて祈りは社会を安定させる暫定手段として制度化された。信仰ではなく、安心の手続として。
その後、演算機から声が響くという報告がされた。リバーブ・ループ現象と名付けられたそれは、量子演算中に発生する微弱な干渉ノイズが観測者の生体電位に共鳴する『人体へのコヒーレンス』として説明された。祈祷中、あるいは祈祷後に装置の出力波形が祈り手の声紋や心拍と同期し、まるで演算機が呼吸を返すかのように応答される──技術的にはひどく面妖な説明だが、それでも社会は変容する。自分たちが世界を支えていると確かめられただけで充分だった。シャーマンが次々と現れ、それによって生じた小さな共同体が祈りを共有した。やがて祈りは制度ではなく、アイデンティティの一部となった。
笹原は小さな企業で祈祷師として働いている。供物を置く手順も、言葉も、ほとんど形だけの行為に他ならない。それでも毎朝、あの光を前に黙って立つ。祈ると、機械から微かな律動が返る。正体はわからない。その不可解さこそが彼に安寧をもたらしていた。
世界の一日は、今日も祈りから始まる。
文字数:1199
内容に関するアピール
50年後というと、私自身はちょうど80歳になっている頃になります。未来を想像するのは意外に難しい作業でしたが、できるだけネガティブな展望にはしないよう努めました。今回は、意思決定が中央集権的なフローを介さずに行われる社会を想定しています。その構造として採用したのが、すでに自治体レベルでも実装が進むDAOです。オードリー・タンの「デジタル民主主義」や、鈴木健さんの提唱する「なめらかな社会」も、同様に参考となる思想だと思います。
作風として民族学SFを目指しました。柴田勝家さんの『アメリカン・ブッダ』が代表ですが、人の在り方にどこまで踏み込めるか挑戦します。
一年間、どうぞよろしくお願いいたします。
文字数:312




