七千シーズンの空白

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梗 概

七千シーズンの空白

 遠未来のプロ野球リーグ。
 医療技術の向上で長寿化が社会実装された影響で、選手生命の概念はほぼ消失し、数千シーズンにわたって同一の選手がプレーし続けることも珍しくない。主人公はその象徴的存在だった。七〇〇〇を超えるシーズンを現役で過ごし、首位打者や三冠王を幾度も獲得し、常にリーグの最前線に立ち続けてきた。成績は今なお高水準で、肉体的衰えも確認されていない。
 そんな彼に、球団オーナーとリーグ機構から引退勧告が下される。理由は「戦術多様性評価システム」による分析結果だった。
 このシステムは勝敗や個人成績ではなく、リーグ全体における戦術選択の分布を監視・最適化するものである。主人公のプレースタイルはあまりに完成度が高く、合理的で、再現性が高すぎた。その結果、他の選手やチームの判断は彼から依拠する「正しさ」に収束し、リーグ全体の戦術的多様性が不可逆的に失われつつあるという。
 主人公は不正も違反もしていない。それでも彼が体現する最適解そのものが、競技を硬直させていると静かに告げられる。説明は理路整然としており、主人公はそれを理解する。長寿の時代において、一つの完成形が何千年も温存される危険性も、理屈としては分かっていた。彼は引退勧告を受け入れる。
 引退後、主人公はコーチとしてチームに残る。彼の指導は的確で、若手選手たちは無駄のない合理的な判断を身につけていく。試合は安定し、解説者はそれを「教科書通りの完成された野球」と称賛する。しかし主人公自身は、そこに誇りも喪失感も覚えられず、ただ「自分がいなくても同じ野球が再生産されている」ことに、理由のない違和感を抱く。
 ある日、他球団に型にはまらない非効率なプレーをする若い選手が現れる。成績は平凡で、戦術的評価も低い。それでも主人公は、その打席から目を離せなくなる。なぜ惹かれるのか、自分でも説明できない。後日、その選手は合理的判断のもと自由契約ウェーバーを受ける。もちろん主人公は理解する。ただ、そのプレーをどこかで「知っていた気がする」感覚だけが残る。
 やがてリーグ機構は主人公に、新たな役割を提案する。それは彼個人を残すことではなく、彼の判断を人格や歴史から切り離し、可変可能な戦術モデルとして保存する意図だった。主人公はそれを断る。それが自分の野球観とはそぐわないと告げて。
 最後に主人公は観客席で試合を見届ける。試合は美しく、正しく終わる。間違いも混乱もない。ただ、問いの立たない静けさの中で、彼は自分が七千シーズンのどこかで、何を恐れて野球を始めたのかを、もう思い出せないことに気づく。

文字数:1080

内容に関するアピール

 課題の回答としては自分の「理解や価値観から大きく外れたものが存在する」という恐怖をここで書いてみようと思いました。
 理不尽な暴力や悪意ではなく、理論的にも倫理的にも正しいはずの判断が、結果として自分の拠り所を奪っていく状況に、個人的な恐れを感じています。本作では、長寿が実装された未来社会を舞台に、合理性と多様性の名のもとで排除されていく主人公を描きました。制度などは最後まで破綻せず、説明も理解もある程度は可能でしょう。それでもなお「それが自分が思う野球ではない」としか言えなくなる地点に、価値観が通用しなくなる感覚を重ねています。恐怖を克服や反抗として描くのではなく、理解したまま立ち尽くす姿を描くことに意識を置きました。

 

文字数:314

課題提出者一覧