フィールド・レコーディング

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フィールド・レコーディング

 お目が高いですね、お客様。
 そんな声をかけられたのは、ラックに並べられたレコード・ジャケットのうち、一枚を前にして足が止まったところだった。
 白い無地のジャケットだった。レーベルのロゴも、演奏者名も、タイトルすらもない。パッケージの端に少し陽に焼けたような汚れがあり、新品ではないようだった。どれくらいのあいだラックの中に収まり、どれくらいのあいだ人に触れられてきたのかは想像するしかない。
 声をした方へ視線を転じると、そこには老人が立っていた。きっと店主だろう。長身痩躯はしきりにふらつき、無精髭の浮かんだ浅黒い肌も相まって、その佇まいは枯れたことを自覚しない老木のように思えた。ただ、目つきだけはやけにはっきりしていて、じっとこちらの指先を見つめていた。
「ええ。まあ、なんとなく」
 僕が続けると、店主は痙攣させるようにして口角をあげる。それから、なるほど、と呟いた。
 正直なところ、理由は自分でもよくわからなかった。もちろん他にもレコードはある。サイケデリックな色合いのもの、幾何学模様、アーティストの写真が印刷されたもの。アートワークは奇抜なものから地味なものまで様々だったが、それらをひと通り眺めたあと、なぜか視線が戻ってきたのが、この無地の一枚だった。
 そもそも、この店に立ち寄ったのも、理由が思いつかない。仕事で近くを訪れたあと、帰社する道中でこの建物を見かけた。外観は何も変哲のない雑居ビルにせよ、何か形容できない奇妙さがそこに薄く重なっていた。だいいち、看板もなく、入り口に掲げられた閉店を告げる貼紙の末尾に記された店名から、ようやくレコード店だとわかったのだ。
 つまり偶然の訪問だ。そこに意志や作為はない。
「これはどんな音楽ですか」
 そう訊ねても、店主はすぐには答えなかった。代わりに静寂につつまれた店内をぐるりと見渡す。そして口を開く。
「分かりません。ただ、このシリーズは風景が収録されています」
「はぁ、どういうことですか」
「多くの人は興味を失うかもしれません。なぜなら、何をもって風景というのか──といったところから説明を始めなければいけないので」
 そう言って店主は、僕の手からレコードを取り上げた。口で伝えるより聴かせるのが早いといわんばかりの強引さで。
 店の奥まったところに小さい一室があり、そこが試聴する部屋らしい。年季の入ったレコードプレーヤーとスピーカーが備え付けられるのがすぐ目に入った。店主はジャケットから十二インチのLP盤を取り出し、慣れた手つきでセッティングした。
「針を落としても、何も起きないかもしれませんよ」
 店主は念を押すように言った。
「音楽のようなものを期待されると、肩透かしです。旋律もグルーヴもありません。その時そこにあったものが、ありのまま入っています」
「環境音、ですか」
「そう呼ぶ人もいます」
 椅子に腰掛けるよう促され、僕は言われるままに座った。店主はレコードプレーヤーの前に立ち、針を落とす。
 何も鳴らなかった。少なくとも、音楽らしいものは何ひとつ聞こえない。スピーカーの布張りも、微動だにしていなかった。無音を音楽とする作品があることはどこかで聞き齧ったことがある。これもその類だろうか。
 と、思いかけた、そのときだった。
 足元に湿った感触が広がった。踏むたびにわずかに沈む感覚。僕は裸足で、芝生の上に立っていた。視界を上げると、そこには川が見えた。護岸のコンクリートに沿って水面が鈍く光っている。川の匂いもする。鉄と土が混じったような匂いだ。人の声はいまいち希薄で、遠くで自転車のブレーキが軋む音や水を蹴り上げる足音が順序もなく重なっている。
 それが自分の記憶だと理解するまで、少し時間を要した。
 子供のころ何度となく通った。親に連れられたり、友達と遊んだり、特に用事のない休日に立ち寄っていた。特別な出来事があったわけではない。風景は僕に眼差しを向けることはないが確かにそこにあった。
 不意に、足元に硬質さが蘇った。足の裏の芝生の感触が消え、アスファルトの路面を踏みしめていることに気がついた。針が上がった瞬間がどこかにあったらしい。けれども明確なタイミングを認識するのは今や難しい。
 僕は路地に立っていた。
 さっきまで店があったはずの場所には、重機が入り、壁の断面が剥き出しになっている。解体工事の真っ最中らしく、粉塵が空気に混じっていた。
 頭がうまく働かない。あの出来事は何だったのか判断ができなかった。
 いつの間にか、僕は白いジャケットを抱えていたことに気がついた。
 表にはやはり何も書かれていない。でも、同封されている用紙はライナーノーツの代わりにこう書かれていた。
 《収録対象:〇〇親水公園(1995–2008)》
 その下には鉛筆で書き足されたような走り書きがびっしりと連なっている。
 羅列の最後には僕の名前が含まれていた。

文字数:2000

内容に関するアピール

土井善晴さんが2025年のベストバイを紹介した文章を読んだ時、限界まで削られた先に、そのものを成り立たせる核が立ち上がるという美的感覚に強く惹かれました。そのとき、物質であれ観念であれ、余分な意味を剥いだ先に残るものを、美しさと呼べるのではないかと考えました。
 本作では、音の先に風景を閉じ込めることを試みました。私たちが風景と呼ぶものは、本来は意味を持たない環境の総体ですが、認識や記憶、物語が付与されることで初めて立ち上がります。その最小単位だけを掬い取ることを意識しました。
 SF的な装置としてレコードを用いています。アイデアとしては真新しさはないですが、湧き上がる記憶の奔流をどう表現するべきか焦点を当てた結果、レコードが適しているだろうと思い至った次第です。

文字数:334

課題提出者一覧