メモリージェネシス

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梗 概

メモリージェネシス

証言能力を持たない乳幼児への虐待——物証のない暴力を、どう立証するか。「メモリージェネシス」がその答えとなっていた。言語化されない乳幼児期の神経パターンを映像として再生する技術。潜在記憶は法廷で証拠能力を持ち、泣き寝入りするしかなかった被害者たちを救ってきた。 物理学者の遠波諒一は、中学2年の息子・湊の不登校に悩んでいた。湊は幼少期からギフテッドと判定され、同年代に馴染めず孤立してきた。元妻とは湊が3歳の時に離婚。ある日、湊が学校からの配布物を差し出した。不登校の生徒向けに、メモリージェネシス検査の案内。諒一は不登校の原因はギフテッドゆえの生きづらさだと考えていた。だがその説明に逃げているだけではないか。離婚前後、余裕を失って息子に手を上げたことはなかったか。無意識にでも苦しみを与えていなかったか。その不安を抱えたまま検査に赴く。

映し出された映像に諒一は凍りつく。乳児の視点から見た離婚の修羅場。そして、諒一が湊を怒鳴り、壁に押しつける場面。だが違和感があった。これほどの暴力を本当に忘れるものか。しかし法廷証拠として認められた技術だ。自分の曖昧な記憶より科学を信じるべきではないか。諒一は自分を疑い始める。

確証を得るため重ねた検査で気づく。映像が毎回微妙に異なる。以前は右手で掴んでいた腕が、今日は左手に。検査員に尋ねたが返答は曖昧で、病院も開発元も明確な説明を避けた。 専門外だが論文を読む力はある。調べてわかった真実。装置は断片的な神経パターンを補うため、被験者の「現在の脳状態」を投影して映像を再構成する。通常は十分な精度が得られるが、理論上は高度な感情制御によって出力を意図的に操作できる。この欠陥は当初から指摘されていたが、被験者となる子供には通常ほぼ不可能とされ「声なき子供を守る」大義の前で黙殺された。 だがギフテッドの湊には可能だった。湊の部屋には論文のコピーが見つかる。

「なぜこんなことを。」湊は答える。「父さんが本当に僕を愛しているか、確かめたかった。離れない保証がほしかった」 湊は学校でいじめられていた。「お前みたいな奴、誰にも愛されない」と。いじめ自体は耐えられた。ただ、愛されているかどうか、それだけは知りたかった。だから「実験」を設計した。父はどう動くのか、そしてたとえ愛の確証が得られなくても暴力の罪悪感で自分を見捨てられなくなるのではないか、と。その告白は、諒一の胸を刺すと同時に、深く腑に落ちた。
「俺は気持ちを言葉にするのが苦手だった」諒一は息子を抱きしめる。「愛情の伝え方がわからない。だからお前も、言葉じゃなく実験で確かめるしかなかったんだな」
感情を言葉にできない父と、言葉より実験を信じた息子。二人は鏡で、たしかに親子だった。愛が伝わるかは、これからもわからない。だから向き合い続ける。その軌跡をいつか、自分も息子も愛と呼べると信じて。

文字数:1191

内容に関するアピール

このお題を聞いた時、ぱっと思い浮かんだのは、息子の未来のこと。
未来そのもの、に対する不安もですが、「恐れ」という意味では、私の意識・無意識に限らない一挙手一投足で、良かれと思ってやったことでも、息子がいつか私を恨んだり、彼の将来に悪い影響与えてしまうのかどうか、というのがよぎりました。(常にそれを感じているというより、未来にそうなったら怖いな、という想像への恐怖に近いです)

それを受け入れ向き合ってこそ育児というものとも思っています。ただ、素直にそこに恐れも感じる自分がいました。一つの側面では、自分の責任が顕在化されてしまうことへの恐怖、とも捉えられるかと思います。

テクノロジーの進歩は、可能性や選択肢を広げ、今まで顕在化されなかったものも明らかにしていくでしょう。今回は、その恐怖そのものと「向き合わされる」ガジェットという発想をベースに世界観を設定しました。

 

文字数:383

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メモリージェネシス

証言できない者の声を聞く技術がある。

メモリージェネシスと呼ばれるその装置は、乳幼児期に形成された潜在記憶の神経パターンを読み出し、映像として再構成する。言葉を持たない子供たちの脳に刻まれた恐怖を、大人の目に見える形に変換する。二〇三八年に実用化され、翌年には最高裁が証拠能力を認めた。物証のない密室で、証言能力を持たない被害者に対して行われる暴力。それまで立証不可能とされてきた乳幼児虐待を、この技術は光の下に引きずり出した。

わからなかったことが、わかるようになった。それは正義だった。少なくとも、社会はそう信じていた。

声なき子供たちの代わりに、装置が証言する。報道はメモリージェネシスを「最後の証人」と呼んだ。初年度だけで三百件を超える虐待事案が立証され、救済された。翌年にはさらに増えた。泣き寝入りの時代は終わった、とニュースキャスターが言った。

反対派の声はあった。記憶の可視化に対する倫理的懸念。潜在記憶の信頼性に関する学術的議論。人間の記憶は本質的に再構成的であり、「読み出された記憶」が客観的事実と一致する保証はない、と認知科学者たちは警告した。だが、それらの声は救われた子供たちの数の前に、次第に小さくなっていった。装置の精度に疑問を呈することは、虐待を擁護することと同義であるかのような空気が醸成されていた。正義の光は強い。強すぎて、その光が照らし残している影を見る者はいなかった。

遠波諒一が息子の部屋の前に立つのは、毎朝の儀式になっていた。

ノックはしない。返事がないことを知っているから。代わりにドアの下の隙間を見る。光が漏れていれば起きている。暗ければ眠っている。どちらにしても、ドアは開かない。

中学二年の夏から始まった不登校は、秋になっても冬になっても終わらなかった。湊はギフテッドだった。七歳でIQ一五二と判定され、同年代の子供たちとの間に言葉では埋められない溝があった。教師の説明が終わる前に答えが見え、クラスメイトの会話の退屈さに顔が曇り、冗談の構造を分析して笑うタイミングを逃す。そういう子供だった。諒一はそれを不登校の理由だと考えていた。聡明すぎる子供が凡庸な環境に適応できない。悲しいが、理解できる。物理学者である自分にも覚えがある。

その説明の快適さに、諒一は薄々気づいていた。ギフテッドという言葉が、思考停止のための免罪符になっていないか。本当の原因から目を逸らすための、科学的な響きを持った言い訳になっていないか。

元妻の彩乃と離婚したのは、湊が三歳のときだ。

あの頃の記憶は曖昧だった。研究に没頭していた。ポスドクから助教への昇進がかかっていた。量子コヒーレンス測定の理論研究で成果を出すことが、すべてに優先した。育児の負担が妻に偏っていたことは認める。口論もあった。手を上げたことはない。そう断言したいのに、記憶の中に小さな空白があった。怒りで視界が赤くなった瞬間。壁に拳を打ちつけた夜。その拳が本当に壁だけに向かっていたのか、諒一の記憶は明確な映像を返してくれなかった。

彩乃が出ていった日のことは覚えている。玄関で靴を履く彩乃の背中。諒一は湊を抱いて見送った。少なくとも、見送ったと記憶している。

二月の終わり、湊が珍しく自室から出てきた。

リビングのテーブルに一枚のプリントを置いた。学校からの配布物だった。不登校の生徒を対象としたメモリージェネシス検査の案内。市の教育委員会と児童相談所の連名で、不登校の背景に幼少期のトラウマがないかをスクリーニングする無料検査プログラム。

「受けてもいいよ」

湊は冷蔵庫から麦茶を出しながら、横顔のまま言った。その声に感情の起伏はなかった。台所の蛍光灯が湊の横顔を照らしていた。いつの間にか背が伸びていた。最後にまっすぐ向き合ったのはいつだったか。

「どうして」

「原因がわかったほうがいいでしょ」

諒一は紙面に目を落とした。メモリージェネシス。名前は知っていた。虐待立証の切り札として報道で何度も目にしていた。法廷で証拠能力を認められた技術。自分の息子に適用されるとは考えたこともなかった。

考えたこともなかった、と思いたかった。

「お前は、受けたいのか」

「どっちでもいい」

湊は麦茶のグラスを持って自室に戻った。ドアが閉まる音がした。それきりだった。

諒一はプリントを読み返した。検査は保護者の同意のもとで実施される。結果は本人と保護者に開示される。幼少期の潜在記憶から有意なトラウマ反応が検出された場合、適切な支援につなげる。注意書きとして、本検査は診断を目的としたものではなく、と続いていたが、諒一の目はすでに文字を追っていなかった。

万が一、装置が何かを映し出したら。自分でも覚えていない何かを。

三日間、迷った。研究室では普段通り講義をし、院生の論文を添削し、自分の計算を進めた。意識の底には常にあのプリントがあった。四日目の朝、同意書に左手でペンを取り、署名した。覚えていないなら、なおさら確認すべきだ。科学者とはそういう生き物だ。仮説は検証されなければならない。たとえその仮説が「自分は息子を傷つけたかもしれない」であっても。

検査室は想像よりも明るかった。

大学病院の一室。白い壁、白い天井、窓からの冬の光。中央に検査台があり、その周囲をU字型のセンサーアレイが囲んでいる。テレビで見たのと同じ装置だが、実物は思ったより小さかった。歯科医のチェアを少し大きくした程度のもの。技術が普及するとはこういうことだ。特別だったものが日常の家具になる。

湊は検査台に横になった。技師が電極パッドを側頭部に貼り付けていく。左右の乳様突起の後方と、前頭部。湊の表情は平坦だった。怖くないのかと訊こうとして、やめた。怖いのは自分のほうだ。

「リラックスしていてください。検査時間はおよそ二十分です」

技師が手元のモニターを操作する。諒一は隣室のモニタールームに通された。パーティションで仕切られた小部屋に椅子が一脚。壁面の大型ディスプレイに映像が出力されると説明を受けた。映像は神経パターンから再構成されたものであり、被験者の主観的体験に対応するが客観的な映像記録ではないという免責事項を読まされ、署名した。

最初の映像は、天井だった。

乳児の視点。揺れる視界。ぼやけた焦点。世界がまだ形を持たない頃の記憶。白い天井に蛍光灯の光。見覚えのあるアパートの天井だった。湊が生まれてから三歳まで住んでいた、世田谷のアパート。天井の染みまで覚えている。あの染みは雨漏りの跡で、管理会社に何度修繕を頼んでも直らなかった。

映像は断片的に切り替わった。母親の顔が近づく。笑っている。若い彩乃の顔だ。離れる。また近づく。今度は泣いている。音声はない。乳児の聴覚が捉えた音は装置の再構成能力を超えるのだと事前に説明されていた。映像だけが、無音のまま流れる。

次の断片。夜。暗い部屋。二つの人影が向き合っている。身振りの激しさから、怒号が飛び交っていることが推測できる。映像には音がないのに、諒一には怒声が聞こえた気がした。自分の声だ。記憶が映像を補完していた。あるいは記憶が、映像を捏造していた。

そして映像の中に、諒一が現れた。

乳児の視点から見上げる父親の顔。歪んでいた。怒りで。口が動いている。何かを叫んでいる。大きな手が伸びてくる。小さな腕を掴む。右手で。確かに右手だった。乳児の体が持ち上げられ、壁に押しつけられる。視界が揺れ、天井が回転し、冷たい壁の感触がある。

諒一は自分の左手を見た。震えていた。

映像は途切れた。技師が入ってきて、検査の終了を告げた。諒一は立ち上がるのに時間がかかった。

帰りの車の中で、湊は助手席の窓の外を見ていた。

「見たんでしょ」

諒一はハンドルを握る左手に力を込めた。冬の陽が落ちかけていた。フロントガラスに夕光が差し込み、計器盤に影を作っていた。

「あれは……」

「父さんが僕を壁に押しつけてた」

否定したかった。自分はそんなことをしていない。そう言い切れるだけの確信が、どこにもなかった。乳児だった息子の記憶の中にあの映像があった。法廷で証拠能力を持つ技術が、あの映像を出力した。自分の曖昧な記憶と、科学的に検証された技術と。どちらを信じるべきかは明らかだった。

「すまなかった」

信号が赤に変わった。車が止まった。前方の車のブレーキランプが赤く滲んでいた。

「覚えてないの?」

「……覚えていない。ただ、装置が映したなら…」

「そう」

湊は窓の外を見たまま、それ以上何も言わなかった。

帰宅して一人になったとき、違和感が膨らんだ。

壁に押しつける。それほどの暴力を、人は本当に忘れるものだろうか。酔っていたわけでもない。激情に駆られていたとしても、自分の息子を壁に叩きつけた感触が手のひらに残っていないのは不自然だった。手を開いて、閉じて。何の感触もない。

科学を信じろ、と思った。お前の記憶よりも装置を信じろ。

科学者である諒一には、別の習性もあった。再現性を確認するという習性だ。一度の実験結果は結果ではない。再現されて初めて事実になる。

二度目の検査を申し込もうとしたのは諒一だった。一度目の結果を受けて継続検査が推奨されていたこともあり、予約は容易だった。

予約日を伝えると、湊は「もっと早くならない?」と言った。それが不思議だった。自分の虐待記憶を再び映し出す検査を、急ぐ理由が何かあるのか。

二度目の映像。同じ場面が再生された。夜の部屋。怒号。父親の手が伸びる。

左手で。

諒一は画面を凝視した。一度目は右手だった。確信がある。あの映像は初回の検査以来、毎晩のように脳裏で再生されていた。右手で腕を掴んでいた。指の開き方まで覚えている。ところが二度目では左手に変わっている。

映像の中の手が入れ替わったのか。あるいは初回の映像に対する諒一自身の記憶が間違っているのか。

検査後、技師に質問した。

「映像が前回と異なるように見えるのですが。具体的には、腕を掴む手が左右入れ替わっていました」

技師の表情に、わずかな警戒が走った。あるいは諒一の思い過ごしだったかもしれない。

「潜在記憶は流動的ですから、出力に多少の揺らぎが生じることはあります」

「揺らぎ、というのは具体的にどの程度の」

「詳しくは開発元の技術資料をご参照ください。検査結果の本質に影響を与えるものではありません」

定型句だった。質問を受け付けない種類の丁寧さだった。

三度目の検査は湊の方から言い出した。「次いつ?」と。

壁に押しつけられる角度が変わっていた。乳児の顔が壁に向いていたのが、今回は父親の顔が見える角度に。諒一はメモを取った。物理学者の習性で、定量的な記録をつけていた。検査日時、映像の変化箇所、変化の方向性。ノートにはすでに三ページ分のデータが蓄積されていた。

四度目も湊が日程を訊いてきた。押しつける力が強くなっていた。乳児の体が壁に打ちつけられる衝撃が、映像の揺れとして表現されていた。

五度目の検査の後、諒一は病院に詳細な説明を求めた。映像が回を追うごとに変化し、暴力の程度が段階的にエスカレートしていること。メモのコピーを添えた。

病院の担当者は困惑した顔で書類を受け取り、開発元に問い合わせると言った。二週間経っても連絡はなかった。催促の電話をかけると、「技術的な詳細については開発元のウェブサイトに公開されている情報をご参照ください」と繰り返された。

その間にも湊は六度目の検査を受けたがった。諒一は断った。映像の変化について説明がつくまでは検査を中断すると告げた。

湊は黙り込んだ。怒りとも諦めともつかない目で諒一を見て、自室に戻った。

専門外の分野だが、論文を読む力はある。物理学の基礎訓練はそのためにある。複雑な数式を追い、前提を検証し、論理の飛躍を見抜く。分野が異なっても、その技術は転用できる。

諒一は開発元であるニューロジェネシス社の技術論文を遡った。査読付き論文、プレプリント、特許文書。夜ごと書斎に籠もり、ディスプレイの青白い光を浴びながら文献の森を歩いた。神経科学の用語に慣れるまで一週間。情報工学の実装論文が読めるようになるまでさらに一週間。基礎理論の参考文献リストを一つずつ辿った。その間に二度、湊が書斎のドアをノックした。「次の検査、いつ受けられる?」。そのたびに諒一は「もう少し待て」と答え、文献に戻った。息子の焦りの理由がわからなかった。虐待の記憶を繰り返し再生される検査を、なぜ急ぐのか。

三本目の基礎論文の参考文献リストに、諒一は自分の名前を見つけた。

一瞬、同姓同名だと思った。Tonamiは珍しい姓ではない。論文タイトルを見て、椅子から背中が離れた。

T. Tonami, “Phase-Coherent Readout of Mesoscopic Quantum States via Weak Measurement Protocol,” Physical Review Letters, 2031.

諒一がポスドク時代に発表した論文だった。書斎のドアの向こうで泣き声が聞こえていた頃に書いていた、あの論文。量子コヒーレンス状態を破壊せずに読み出すための弱測定プロトコル。純粋物理学として書いた。メソスコピック系における量子状態の非破壊読み出し。自分のキャリアで最も誇らしい仕事だった。あの論文があったから助教のポストを得た。あの論文のために、妻の声を聞かなかった。

誰かがこの理論に目をつけていた。神経細胞の微小管における量子コヒーレンスを、パターンを破壊せずに読み出す技術。諒一の弱測定プロトコルはその核心部分に組み込まれていた。メモリージェネシスの神経パターン読み出し技術は、遠波諒一の理論から派生していた。

自分の理論が、息子を検査台に載せている。

ディスプレイの光の中で、諒一は自分の論文のPDFと、それを引用したニューロジェネシス社の技術論文を並べて表示した。数式の対応関係を一つずつ追った。自分が導出した位相整合条件が、どのように神経パターン読み出しに翻訳されているか。翻訳は巧みだった。翻訳者は理論の骨格を正確に移植したが、高次の補正項を「実用上無視可能」として切り捨てていた。理論物理学では許される近似だ。人間の脳に適用する装置においては、許されるべきではなかった。

二つの重大な欠陥を発見した。

第一の欠陥。装置は乳幼児期の断片的な神経パターンを映像として再構成する際、情報の欠損を補完する必要がある。潜在記憶の神経パターンは完全な映像データではない。断片的な感覚印象の痕跡にすぎない。それを連続的な映像として出力するために、装置は欠損部分を埋める。その補完ソースとして使われるのが、被験者の「現在の脳状態」だった。検査を受けている時点での感情、信念、期待、恐怖が、再構成された映像に投影される。通常の被験者であれば影響は軽微だ。高度な感情制御能力を持つ被験者であれば、出力される映像を操作できる。この欠陥は技術論文の付録に一段落だけ記述されていた。「実用上の影響は限定的」との注釈つきで。

第二の欠陥。諒一の弱測定プロトコルは、理論上は観測対象の量子状態を破壊しない。それが弱測定の核心だ。ニューロジェネシス社の実装は、位相制御の高次補正項を省略していた。その結果、読み出しの際に元の神経パターンが部分的に上書きされる。一度の検査では影響は微小だ。繰り返すほど累積する。オリジナルの記憶パターンは、装置が再構成した映像によって徐々に置換されていく。

検査を重ねれば重ねるほど、本物の記憶が消え、装置が作り出した映像が本物になる。

湊が次の検査を急いでいた理由はーー

諒一は五回の検査記録を見返した。映像のエスカレーション。暴力の程度が回を追うごとに強くなっている。それは湊の記憶が変質しているのではなく、湊の現在の脳状態がより強く投影されるようになっているということだ。検査のたびにオリジナルの記憶パターンが減衰し、投影された映像がその空隙を埋める。次の検査では、前回投影された映像がさらに強化されて出力される。正のフィードバックループ。増幅回路。

偶然ではない。この挙動は設計されている。誰かがこの欠陥を知った上で、意図的に検査を繰り返している。

IQ一五二。論文を読む知性。不登校の時間が与えた膨大な空白。一日中部屋にいる十四歳の天才が、インターネットにアクセスできる環境で、何をしていたか。ゲームをしていると思っていた。そうであってほしかった。

湊の部屋に入ったのは、息子が眠っている深夜だった。

許されることではないと知っていた。知らなければならなかった。自分の理論が息子に何をしているのかを確認する義務があった。そう自分に言い聞かせながら、ドアノブを回した。

机の上にノートパソコンが開いたままだった。ブラウザには学術論文データベースのタブが並んでいる。その横に、紙の束。ニューロジェネシス社の技術論文のプリントアウト。諒一がたった今読んだのと同じ論文だった。

書き込みがあった。蛍光ペンでハイライトされ、欄外に鋭い字で注釈が書き込まれている。数式の展開を手書きで補っている箇所もある。中学二年生の字ではなかった。湊の字だった。あの整った、やや角張った筆跡。

書き込みが集中しているのは、二つの欠陥のうちの一方。感情制御による操作可能性ではなく、記憶の上書き効果に関する節だった。操作可能性のページにはほとんど何も書かれていない。手段にすぎなかったのだ。目的は上書きの方だった。

「反復読み出しによる原パターンの減衰率は、セッション間隔と被験者の神経可塑性に依存する」

その一文に、湊は赤い線を三重に引いていた。欄外の書き込み。「可塑性が高いほど上書きが速い。未成年の脳は可塑性が高い。つまり僕には最適。」

諒一はその文字列を何度も読み返した。手が震えた。怒りではなかった。恐怖でもなかった。自分の息子が、自分と同じ思考回路で同じ論文を読み、自分とは異なる結論に到達していたことへの、名前のつかない感情だった。

「起きてたの」

振り返ると、湊がベッドに半身を起こしていた。暗い部屋の中で、目だけが光っていた。

「論文、読んだんだな」

「父さんこそ」

しばらく沈黙があった。親子は暗い部屋の中で互いの輪郭だけを見ていた。窓の外で車が通り過ぎ、ヘッドライトの光が天井を横切った。

「映像は、お前が操作しているのか」

湊は答えなかった。

「あの暴力は、本当にあったことじゃないのか」

「父さんは僕を壁に押しつけたりしてない」

その声は冷静だった。ただ事実を述べる声だった。

「じゃあなぜ」

「父さんの質問とは違うことを答えていい?」

「……言ってみろ」

湊は膝を抱えた。布団の中で小さく丸まったシルエット。

「僕は忘れたいんだ」

最初は抑揚のない声だった。

ギフテッドの子供には、幼児健忘が起こりにくい例がある。通常、三歳以前の記憶はエピソード記憶として保持されない。海馬の発達段階において、長期記憶の固定化メカニズムが未成熟だからだ。湊の場合は違った。三歳以前の記憶が、鮮明に残っていた。

「普通の人は覚えてないんだって。三歳の前のことは」

声のトーンが少し変わった。暗唱から、自分自身の言葉に切り替わった。

「僕は覚えてる。全部。……覚えてるっていうか、勝手に再生されるんだ。止められない」

両親の怒号。母の泣き声。深夜に割れる食器の音。自分を挟んで崩壊していく家庭。乳児用ベッドの柵の向こうで繰り広げられる戦争。そしてギフテッドの知性は、その記憶の中に残酷な因果律を読み取った。

育児の負担が母に集中していたこと。教育方針をめぐる衝突。夜泣きが続いた時期と口論の頻度の相関。すべての亀裂の起点に、自分がいた。

「僕が生まれなければ、二人は別れなかった」

湊は膝に額を押しつけたまま言った。声は揺れなかった。何百回も反芻した結論は感情を伴わない。諒一にも覚えがあった。何千回も検算した数式を説明するとき、声に熱はこもらない。湊はこの結論を、証明済みの定理のように扱っていた。

「それがフラッシュバックする。教室で誰かが声を荒らげるたびに。先生が生徒を叱るたびに。友達が親の話をするたびに。三歳の夜が戻ってくる。あの天井。あの蛍光灯。あの声。だから教室にいられない」

諒一は言葉を探した。お前のせいじゃない。その言葉は、根拠もなく口から出すにはあまりに軽かった。

「メモリージェネシスの副作用を知ったとき」と湊は続けた。「これだ、って。読み出しのたびに元の記憶が上書きされる。普通は欠陥でしょ。誰かが発見したら修正される。でも、修正される前に使えばいい。僕にとっては欠陥じゃなくて、薬だった」

「それを治療に転用しようとした」

「うん。検査を繰り返せば、元の記憶は装置が作った映像に置き換わっていく。論文にそう書いてあった。学校の検査プログラムは継続利用が推奨されてたから、何度受けても不自然じゃないし」

「上書きする映像として、父親の暴力を選んだ」

「……うん」

「なぜだ」

湊は少し黙った。それから、膝に顔を埋めたまま、声の調子が変わった。さっきまでの論文を読み上げるような語り口が消え、言葉を探しながら話す十四歳の声になった。

「離婚の原因が父さんの暴力だったら、僕は……加害者じゃなくて、被害者でいられるから。曖昧な、なんていうか、自分のせいっていうぐちゃぐちゃしたやつを、はっきりした被害に書き換えられたら。加害者を僕から父さんに移し替えられたら。そしたら三歳の夜は、ただの暴力の記憶になる。僕のせいで起きた離婚じゃなくて、父さんが起こした暴力になる」

「それが……治療だと」

「もう少しだったんだ」

湊の声が震えた。

「五回目の後、元の記憶が薄くなってきてた。怒鳴り声がだんだん遠くなってた。フラッシュバックの頻度が減ってた。もう少しで……僕の中からあの夜が消えるはずだった」

諒一は自分が何をしたか理解した。論文を読み、欠陥を発見し、映像が捏造であることを暴いた。科学者として正しいことをした。息子にとっては、成功しかけていた自己治療の中断だった。

「なぜ暴いたんだよ」

湊の声は怒りではなかった。恐怖だった。

「やっと書き換えられそうだったのに。また全部戻ってくる。全部僕のせいだって、また」

声が途切れた。湊は膝に顔を埋めた。肩が震えていた。

湊の肩が震えるのを見ながら、諒一は自分が何を言えるか考えた。

お前のせいじゃない。その一言が必要だった。湊が十一年間抱えてきた「自分が離婚を起こした」という確信を否定する一言。それを言えれば、湊の苦しみは少なくとも形を変える。

言えなかった。根拠がないからだ。

湊の記憶は本物かもしれない。離婚の原因は育児の負担だったかもしれない。湊がいなければ夫婦関係は続いていたかもしれない。その可能性を否定する材料を、諒一は持っていなかった。自分の記憶は曖昧で、あの頃のことは論文の締め切りと昇進の不安に塗りつぶされている。

真実を知る方法は一つだけあった。

自分自身の記憶を見ること。当事者である自分の脳には、あの時期のすべてが記録されているはずだ。意識が消去したものも、無意識の底に沈めたものも、神経パターンとしては残っている。それを読み出せれば、何が起きていたかわかる。

現行の装置は乳幼児にしか使えない。成人の記憶を読むには、理論を根本から完成させる必要があった。そしてそれは、諒一自身の十年前の論文を拡張する作業だった。

翌日から、諒一は書斎に籠もった。

十年前の自分の論文に立ち返った。量子コヒーレンス状態の弱測定読み出し。当時は純粋理論として発表し、実験的検証には興味がなかった。今は目的がある。

成人の潜在記憶を読み出すには、現行装置の制約を根本から外す必要があった。同時に、湊の検査で判明した二つの欠陥も解消しなければならない。位相制御を再設計し、投影の混入を防ぎ、上書きを止める。そうすれば装置は年齢を問わず使えるようになり、捏造と本物を分離できる。

数ヶ月が過ぎた。

湊は相変わらず部屋から出なかった。あの夜の対話以来、次に何を言えばいいのか二人とも見つけられなかった。書斎のドアの前に食事の皿が置かれていることがあった。冷めたおにぎりと味噌汁。息子の痩せた手が握ったおにぎりの形が毎回少しずつ違っていて、それが不思議に心に残った。

ノートが積み上がっていった。弱値の高次補正項。ニューロジェネシス社が省略した項を復元し、さらに拡張する。夜ごとに数式が紙の上を埋めていった。

そして完成した。

十年前の自分が見落とした高次項。それを補完しただけだ。なぜ当時やらなかったのか。必要がなかったからだ。純粋物理学の論文に応用上の精度は求められない。理論の骨格が美しければそれでよかった。不完全な骨格から不完全な装置が生まれ、その装置が息子の脳に触れた。

装置の改修には、ニューロジェネシス社で技術部門を率いていた旧知の研究者の協力を得た。試作機の調整に一週間。

深夜の研究室。諒一は自ら検査台に横になった。冷たい電極パッドが側頭部に貼りつく感触。息子がこの感触を五回味わったのだと思った。

最初に見えたのは、天井だった。

自分の記憶の中の天井。世田谷のアパート。蛍光灯。あの雨漏りの染み。今度は乳児の視点ではなく、大人の目の高さから見た天井だった。ベッドに仰向けになっている。隣で彩乃が泣いている。

映像が切り替わった。

リビング。深夜。泣き続ける湊を抱いた彩乃が、諒一の書斎のドアの前に立っている。ノックする音。「お願い、少しだけ代わって」。ドアは開かない。ドアの向こう側の記憶。諒一は論文を書いている。泣き声は聞こえている。壁越しに。聞こえているのに、立ち上がらない。泣き声は聞こえているが、それよりも数式の方が重要だと、諒一の脳が判断している。その判断の瞬間を、装置は正確に捉えていた。

次の場面。湊の夜泣きが特にひどかった時期。彩乃が限界に達している。夜、湊がまた泣き始める。彩乃がベッドから出られない。諒一が書斎から出てくる。助けるためではない。怒りの形相で。「いい加減にしろ」。その怒鳴り声は彩乃に向けられている。壁一枚隔てたベビーベッドの中の乳児にも届いている。乳児は泣き声を止め、体を硬くして固まる。

場面が次々と切り替わる。助けを求める妻の声を論文で遮った夜。疲弊した妻の目から光が消えていく過程。

そして最後の場面。

玄関。彩乃がスーツケースを持って立っている。三歳の湊が彩乃の脚にしがみついて泣いている。彩乃が諒一を見る。目が赤い。何も言わない。湊を引き取ってほしいと目で言っている。息子を抱き上げてくれと。

諒一が湊を持ち上げる。彩乃の脚からひとつずつ指を剥がして、持ち上げる。湊は彩乃に手を伸ばして泣き叫ぶ。諒一の腕の中で暴れる。

諒一は湊を抱いている。泣き叫ぶ息子を腕に抱えている。

彩乃を見ていない。湊を見ていない。壁の時計を見ている。午後二時十分。三時から学科会議がある。息子を隣の母に預けて大学に向かえば、間に合う。彩乃が玄関のドアを閉める音がする。諒一はその音を聞いている。聞いていて、時計を見ている。腕の中で息子が泣いている。

装置は視線の動きまで再構成していた。諒一の目が映したもの。妻の背中ではなく、息子の顔でもなく、壁の時計の秒針。

玄関で靴を履く彩乃の背中を見送った、と記憶していた。嘘だった。見送っていなかった。時計を見ていた。

装置が停止した。

諒一はしばらく検査台の上で動けなかった。天井を見ていた。研究室の天井。蛍光灯。世田谷のアパートの天井と同じ白さ。同じ光。

直接的な暴力はなかった。湊を壁に押しつけたことはなかった。

湊が捏造した映像は虚像だ。たが、その嘘の下には、湊自身も言語化できていなかった本物の恐怖の残滓があった。湊は「自分のせいで離婚が起きた」と信じていた。因果の方向が違っていた。湊が家庭を壊したのではなく、諒一が家庭を壊す過程を、湊が浴びていた。三歳の湊は母にしがみつきながら、父の腕の中で泣きながら、父がどこを見ているか見ていた。

諒一は論文をプリントアウトし、書斎のデスクに置いた。
湊の部屋の前に立った。今朝も光は漏れていた。
ノックした。いつもはしないノックを。
長い沈黙の後、ドアが開いた。
「離婚はお前のせいじゃない」
そこまでは言えた。装置が証明した事実だ。
次の言葉が出なかった。俺のせいだ。そう言うつもりだった。検査台を降りたとき、そう言おうと決めていた。
言えなかった。わかっている。俺のせいだ。そのとおりだ。正しい三文字が喉の奥で固まって、声にならなかった。
湊が父の顔を見ている。「お前のせいじゃない」の次に来るはずの言葉を待っている。
諒一は、息子を見ていた。

文字数:11624

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