きっとはじめて、いきものから孤独が失われたそのとき
この星の終末は、音から始まった。
きいん、と硝子を撫でるような高周波が地平を舐め、つづいて、どくん、どくん、と心臓よりも遅い鼓動が大気を揺らした。空はまだ青いのに、光だけが先に老い、縁からほどけていく。
私は観測塔の最上階で、裸足のまま床に立っていた。靴底越しでは感じ取れない微細な震えが、皮膚から骨へ、骨から記憶へと染み込んでくる。これが終わりの前触れだと、誰かに教えられなくてもわかった。
新しい宇宙が産声をあげる瞬間——それは同時に、ここが息を引き取る瞬間でもある。
理論では、ずっと前から証明されていた。宇宙は一度きりではなく、泡のように生まれては弾ける。その境界で放たれる光は、観測者の存在を前提としない。見る者がいても、いなくても、等しく放射される。
それでも私は、最後まで見届けることを選んだ。
理解と体感は、いつも別の場所にある。わかっていることと、感じてしまうことの間には、薄く、しかし決定的な膜がある。あなたが見ている色と、私が見ている色は、重ならない。そう教わってきた。クオリアは、決して共有されない、と。
空が裂けた。
ぱきり。
そう聞こえた気がしただけの無音の破断。
次の瞬間、ざあ、と視界いっぱいに粒が降る。星屑ではない。光子でもない。意味を持つ前の、なにか。触れればほどけ、見つめれば溶ける。
粒が肌に触れた瞬間、匂いが立ち上る。焼けた金属の鋭さと、花の蜜の甘さが混じる。舌の奥がじん、と痺れ、涙が理由もなく溢れた。悲しみではない。喜びでもない。ただ、胸郭が内側から押し広げられる感覚。
遠くで海がうねった。
低く、深く、重たい音。鯨のような影が水面に浮かび、ゆっくりと背を反らす。翼を持つ獣たちは羽を畳み、空中で静止する。岩肌の苔は淡く発光し、微生物の群れが、きらきらと霧を吐いた。
彼らも皆、見上げている。
瞳孔の形も、神経の配置も、時間の感じ方も違う存在たちが、同じ方向を向いている。その光景だけで、胸が詰まった。私たちは、わかりあえないはずだった。感覚は閉じた箱に入れられ、互いに触れられないはずだった。
そのとき、光がこちらを見返した。
ばちん。
衝撃が走る。視界の奥で、何かがほどける。赤が赤である理由、冷たさが冷たさである理由、胸が締めつけられる理由——言葉になる前の核が、輪郭をもって立ち上がる。
私は、知った。
知った、というより、分かち合った。
鯨の胸腔に満ちる重力の手触り。
獣の羽根を走る風の擦過。
苔の細胞膜を透過する光子の数え歌。
私の網膜を焼くこの輝きは、彼らのそれと同じ温度、同じ重み、同じ速度で流れている。違っているのは、器だけだった。中身は、いま、この瞬間、完全に一致している。
クオリアという壁が融解する。
光は拡がり、空を裏返す。
ごう、ごう。
星々が線になり、線が渦になり、渦が一枚の布のようにたわむ。新しい宇宙が、こちら側へ身を乗り出す。
誕生は、優しいものではない。
だが残酷でもない。
ただ、圧倒的に正確だ。終わりと始まりが、同じ一点に縫い止められているだけ。
私は最後に、誰かの視線を感じた。
名前のない誰か。鯨かもしれないし、苔かもしれない。あるいは、まだ生まれていない星雲かもしれない。その視線と、私の視線が、ぴたりと重なる。
——ああ、これだ。
わかりあえないと思っていた隔たりが、消える音がする。
しゅる、しゅる、と糸が解ける。
光がすべてを満たす。
ぱあ。
その瞬間、私たちは等しく生と死そのものであった。
終焉の光であり、産声の光であり、言葉を必要としない肯定。
音はもう無い。
星は静かにほどけ、私は、私たちは消える。
けれど、消失は空白ではない。共有された感覚が、次の宇宙の初期条件になる。
そして、新しい空がひらく。
文字数:1513
内容に関するアピール
このお題で思い出したのは、初めての異国で友人と一つのイヤホンを分け合い、同じ音楽を聴きながら雨の海を眺め二人で涙を流したという話。
伝聞なのに、なぜか強く心を打たれた。振り返れば、私は景色そのものに感動することがほとんどない。おそらく、現実よりも、頭の中で立ち上がる何かに美を感じているのだと思う。
同じ景色、音楽、土地、そして涙を共有した瞬間。私はその風景ではなく、「完全にわかりあえた出来事」自体に惹かれた。
そこから、すべての生き物のクオリアが一瞬だけ重なり合うとしたら、という着想で創作した。
クオリアをわかちあうという題材は、おそらく想像の中にしか存在しえない。SFであり小説でしか描けないという良さもあると思った。
フラッシュフィクションという形でむしろ際立つにはどうすればと、星の終わりと宇宙の始まりが重なる一瞬だけを切り取り、不思議が起きても不自然ではない感触を表現した。
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