梗 概
水中家族
「今から殺します」と言う誰かの映像。
◇
カスタマーサポートの三好透は、クレーム対応の前に、青い錠剤「アビス」を口に含む。意識が沈み、自身を水中越しに客観視するような感覚。我に返った時には仕事は終わり、断片的な記憶だけが残っていた。
アビスは自我を乖離させる薬だ。服用中、脳は経験則でオートで働き、傍目では普段と判別がほぼつかない。苦痛な時間を早送りでやり過ごせるため、精神負荷の強い現場で密かに広まりつつあった。
ある日、在宅勤務中の透はアビスを服用したまま意図せず5歳の娘と接してしまう。慌ててログを確認(服用中はウェアラブルカメラ推奨)すると、安全に育児をこなし、娘も楽しそうなことに驚く。育児中のアビス服用は批判の的だが、ワンオペ育児が続き疲弊した透は、家でもアビスに頼り始める。
そんな折、著名な小児科医の妻が、メディア出演の際にSNSでアビス服用の疑いをかけられ炎上。取り乱し服用者を罵倒、娘にもきつく当たる妻に、透は育児の大変さを知らないからだと反論、大喧嘩に。しかしこれで膿が出たのか妻は昔の穏やかさを取り戻し、夫婦仲は改善する。
家庭が軌道に乗り、また服用中に娘の成長を心から実感できなかったと感じた出来事もあって、透は苦労して断薬に成功する。
翌月、海水浴中に娘が砂で作った家族像が、妻だけのっぺらぼうに見えた。不審に思って調べると、大喧嘩した後日に妻が自ら処方したアビスを大量服用していたことが判明。過剰摂取で脳が損傷を受け「意識自殺」に陥っていた。傍目には普通だが、意識は今後数年間は沈んだままと診断される。妻の態度変容は意識自殺によるものだった。透はそれに気づかなかった自身の浅はかさに絶望する。
妻のログには服用間際の独白が撮影されていた。そこで妻は、仕事と家庭の両立に病み、炎上時につい手を出したこと、すると服用中の自分のほうが目の前の人に誠実で、自身の存在意義を見失ったと語る。そしてアビスは単なる逃避ではなく、未来の不安や過去の執着といった文脈から人を解き放ち、今を大切にする本来の自分を取り戻してくれる薬だと言う。だから「偽りの私を、今から殺します」と。この事件を機にアビスは社会問題化し、販売中止・入手不可になる。
◇
透は家族で海へ出かけ、カメラを起動。いつか戻ってくる妻の絶望を減らすため、娘と妻の時間を記録する。
だが撮影中に娘と話すうち、のっぺらぼうの砂人形は妻ではなく、「(アビスを断った後の)苛立った怖いパパ」を表現していたと判明。アビス服用中の透を娘は好んでいたことを知り透は戦慄するが、しかしそれを含めてパパなのだと自分に言い聞かせるように語る。
アビスの消えた世界で、透の目には人々が以前に増して殺伐に映る。一方で意識自殺中の妻は穏やかだ。その歪さに撮影を止めたくなりつつも、透はあるがままの視界を撮る。そして懐に手を入れ、断薬時に飲み残していた錠剤の束を握り締める。
文字数:1200
内容に関するアピール
胃カメラが怖い。それで先日の胃カメラで鎮静剤を利用したところ、知らない間に検査が終わっていた。しかも目覚めた後も、しばらく歩いて移動したり、医師と会話したりしていたらしい。その間の記憶はほとんどない。
それ以降、日常生活で鎮静剤があればいいのにと思う場面が増えた。あるとき子どもと公園の砂場に3時間いた際、仕事で疲れていて、思わず鎮静剤があればと考えた。そしてその発想自体に恐怖を覚えた。
これからも生活を続けるために仕事をしているのに、それと引き換えに、本来はより大切なはずの「子との今の生活」を殺してしまっているように感じたのだ。
実作の際は、現実社会にアビスがあるとどう生活が変わるのか?をリアルにイメージすることを目指したい。アビスを服用した育児は直感的には悪だが(そして乳児とかは流石に危険すぎだろうが)、それによってもし子の目線ではより幸せな時間が過ごせるなら、果たしてどうだろうか。
文字数:395
水中家族
「あー、あー。映ってます?映ってますね……ええと、何から話そうかな……許して欲しかった……本当に、知らなきゃよかった。でももう遅い……だから、いまから、私が殺します」
◇◇
チャットの通知を見て、三好透は天井を仰いだ。知らなければよかった。そうすれば退勤できたのに。
営業部からのメッセージは、クレームの対応依頼だった。またサービスにバグが起きたらしい。こういうクレームは、ただマニュアルに沿って対応するだけの単純作業で、気が進まない。まずは傾聴、そして受容。相手の話をとにかく聞いて、否定しないことが重要だった。
迎えが遅れます、と保育園に連絡したあと、透はキャビネットを解錠する。引き出しの奥には、薬の束が入っていた。海の底みたいに、深い青色をした錠剤だ。周囲を確認してから、素早く一粒を飲み込んだ。メガネの縁に触れ、録画を始める。
「担当変わりまして、私、三好がお話を伺います……」
すでに意識がまどろみ始めていた。モニター越しの相手が遠ざかっていく。感覚がフェードアウトして、水中へと沈んだ。静かで穏やかで、ひとりだけの場所。透はここが好きだった。外の世界の自分が、クレーマーに頭を下げているのは何となくわかる。でもうまくやれているだろうか、なんてことは、ここでは気にしなくていい。水の中で揺られながら、透は胎児のように身を丸めた。
ピー、とレンジから間の抜けた音がした。透は解凍したハンバーグを皿に移し、机に並べる。
「またハンバーグ?グラタンがいいなあ」
みおが口を尖らせ、視線をタブレットに戻した。ご飯のときはYouTubeを消すこと。5歳の娘と約束したそんなルールを、最初に破ったのは透自身だった。保育園のお迎えから帰宅、即着替えて洗濯機を回し、お風呂に入れて晩御飯の準備。一連の作業をワンオペでこなすには、みおの気を引く存在が必要だった。まるで透が、仕事中にアビスに頼るように。
アビスを初めて飲んだのは、半年前のことだ。執拗なクレーマーにあたって以来、PCを前にするだけで過呼吸になった。それで産業医に相談したところ、処方されたのがアビスだった。服用中は意識が乖離し、知らぬうちに身体が動く。苦痛を早送りでやり過ごせる薬は、仕事で必要不可欠になった。
「ママだ!」
みおが右手でハンバーグを握り、左手でタブレットを指差しながら叫んだ。ちゃんとお箸を使いなさい、と言いかけた小言を透は飲み込む。どんな形であれ、自分で食べてくれるからこそ、ハンバーグばかり作り置きしてあるのだ。
《幼少期は人格形成に大事な時期です》
画面には妻の深月が映っていた。ニュース番組の生配信をしているらしい。白衣を着たママが出てくるのを、みおは毎晩楽しみにしていた。
《やはり親が対面で愛情を伝えるのは、子どもにとって何よりの……》
深月が発言するたび、コメント欄に拍手の絵文字が流れる。もともと小児科医の深月は、偶然出演した番組で人気を博し、いまや若い子育て世代のご意見番と呼ばれていた。
《続いてのトピックは、こちら。アビスと呼ばれる薬です》
MCが話題を変えると、効果音とともに小難しいテロップが出た。
【アビス:ベンゾジアゼピン系の鎮静薬。前向性健忘を応用し、服用中は経験則に基づいた自動行動が可能になる。薬名は 深海に由来】
《こちらのアビス、いま育児でも密かに広がっているのをご存じでしょうか?》
ガシャン、と音がした。みおがバツの悪そうな顔をしている。牛乳を入れたコップを落としたらしい。プラスチック製のコップは割れることなく、白い軌跡を床に残しながら、ごろんごろんと転がっていく。
《育児でのアビス活用には批判の声が多いようです。先生はどう思われますか?》
透は床に膝をついて、雑巾で拭き始めた。
《小児科医の立場としては、強く反対します》
深月の力強い声が聞こえた。これについては透も同意だ。アビスはあくまで、仕事をやり過ごすための避難所だ。娘と過ごす時間は何よりも大切で、それを早送りするなんて、考えられないことだった。
《うまくやり過ごせたと思っても、子どもは親の表情に敏感です》
《子どもには違いがわかる、と?》
MCがわざとらしく驚き、深月が相槌を打つ。透は立ち上がり、濡れた雑巾を脱衣所へ運ぶ。牛乳の生臭さが、もう立ち上ってくる気がした。すでに洗濯機を回してしまったことを思い出し、小さく舌打ちをした。
◇
「……アビスを飲み始めたのは、ちょっとしたきっかけでした……急に怖くなって、それでアビスに頼ったんです……」
◇
翌日、みおが目の前でおままごとをしていることに気づき、透は息を呑んだ。急いで思い出す。今朝はみおが熱を出して、保育園を休むことになった。仕事を急遽リモートに切り替えてもらい、家から顧客対応に当たった。その時はまだ、みおは寝室で眠っていたはずだ。間の記憶が曖昧だということは —— きっとどこかでアビスを飲んだのだ。
<みてての障害対応、完了しました。関係各位、ご対応お疲れ様です>
チャットの通知を見て、記憶が蘇ってきた。家族アルバムアプリ「みてて」にまた不具合が出た。たしか動画編集機能に、誤作動があったとかなんとか。それで部署全員で緊急対応することになったのだ。透はさらに通知を遡る。
<@channel 全員、最善の準備にあたってください>
これだ。部長からの直々のメッセージには、暗にアビスの服用が指示されていた。透も最近知ったことだが、メンバーの多くがアビスに頼っている。むしろシラフでクレーム対応へ臨むには怠慢であると、そんな空気すら感じていた。
とにかく透は指示に従って、家でアビスを飲んだのだ。そうして仕事を終えたころ、みおの泣き声が聞こえて、寝室へ向かって……朧げな光景が浮かんでくる。
透は録画を確認した。こういう時のために、服用時にはウェアラブルカメラでの撮影が推奨されている。ログを飛ばし飛ばし再生すると、目を覚ましたみおを抱き抱え、リビングに移動し、一緒に遊び始めるまでの一連が、透の視点を通じて記録されていた。
透はうろたえた。育児でアビスを使ってしまったから、ではない。アビスを服用した自分が、完璧に育児をこなしていたからだ。おままごとセットで気を引きながら、片手間で熱を測り、ポカリを飲ませ、下着も替えさせている。娘もまた、これが普段のパパだと信じきっているようだ。
—— 育児でのアビス活用には批判の声が多いようです。
昨日の番組を思い出し、透はSNSを検索した。
<子に何かあったらどうするのか>
<責任感なさすぎ。親として失格>
案の定、大量の批判が流れてくる。
<なんでシッター使わないの?馬鹿なの?>
<そもそも仕事ではOKってのがおかしいでしょ>
汗が滲んできた。クレーマーに罵倒された場面がフラッシュバックする。画面を閉じようとしたとき、とある投稿に目が止まった。
<アビスは法的に承認された薬です。頼れるものには頼るべき #あたらしい育児>
文末のハッシュタグをタップすると、賛同の意見が続く。
<親に苦労を強いる社会こそ変えるべき #あたらしい育児>
<みんながシッターを利用できるわけじゃない #あたらしい育児>
<子育て神話、もうやめにしましょう #あたらしい育児>
夢中でブックマークするうち、ひとつのアイコンに目が留まった。
「むかしは子にタブレットを与えるのさえ、批判されてました。でももう、みんなやってますよね」
そう言って高杉はカップを傾けた。公園沿いのカフェからは、小さな男の子が、おぼつかない足取りで歩くのが見える。母親らしき女性が、愛おしそうにその様子を見守っていた。
「僕なんかはそれに比べれば、アビスのほうが良いじゃん、って思っちゃいます。動画やAIじゃなくて、親が対面で接してるわけだから」
高杉は音も立てずにカップを置いた。皺ひとつないスーツの袖口から、銀色のカフスが覗く。高杉は保育園のいわゆる「パパ友」だ。と言っても送迎のときに会釈をするくらいで、こうしてちゃんと話すのは初めてだった。SNSで見かけて、思い切ってDMを送ってみたところ、お茶でもしましょうと誘われたのだ。
「あたらしい育児、でしたっけ?」
透が尋ねると、高杉ははにかみながら、つるんとした顎を撫でた。
「ちょっと、胡散臭いですよね。でもああいうタグをつけると、連帯が感じられるというか。ほら、アビスって最初は自己嫌悪になっちゃうじゃないですか?子どもとの時間を飛ばしたいなんて、自分だけじゃないか、って」
「あ、いや私は……」
透が言い淀むと、高杉はいいんです、と制した。
「意外と、みんな飲んでるんですよ。わざわざ言わないだけでね。オーガニック派の人たちがうるさいから」
公園で男の子がすてんと転んだ。母親が慌てて駆け寄る。
「結局、どこかで折り合いをつけなきゃいけない。子どもを放置するのでもなく、親が背負いすぎるのでもない。そういう選択肢があってもいんじゃないかって」
男の子はじきに泣き止み、母親と手を繋いで歩き始めた。その後ろ姿は、陽に照らされて妙に絵になる。
「……自己嫌悪って、いうのもそうなんですけど」
透はゆっくり口を開いた。
「アビスを飲んだときの自分が、完璧に育児をこなしてたんです。そしたら、これまで自分が頑張ってきた意味ってなんだったんだろう、って虚しくなっちゃって」
「頑張ってきた、からこそですよ」
高杉は身を乗り出した。ジェルで固められた前髪は、ぴったり分けられたまま動かない。
「アビスを飲むと、経験則をもとに身体が動きます。その状態で育児をこなせたのは、これまでの三好さんが、頑張ってきたからなんです」
いつの間にか、親子の姿は見えなくなっていた。透はふと思う。あの母親も、アビスを飲んでいたのだろうか。もしかしたら透が考えている以上に、みんなアビスに支えられているのかもしれない。
その夜、透は絵本を8冊読んだ末に、諦めてベッドに寝転がり、スマホで「みてて」のアルバムを眺めていた。隣では寝つけないみおが、小さな手でタブレットを抱えている。
みててには、これまでアップロードした家族の映像がランダムに流れてくる。いま映っているのは、みおが1歳の頃、家族で海へ行った日の動画だ。まだ歩けないみおが、深月に抱えられて水辺に足をつけ、目をパチクリさせている。深月は声を出して笑っていた。彼女がこんな顔を見せなくなったのは、いつからだろう。最近の深月はいつも張り詰めていて、いるだけで家の中に緊張感が漂う。今日も仕事で遅くなる、とさっき連絡があって、思わず安堵した自分に透は気づいていた。
映像が切り替わり、今度はみおが、おもちゃの包丁で人参を切っている。透がアビスを飲んだときの映像だ。ウェアラブルカメラの記録は長時間に及ぶので、こうして数分間のダイジェストにまとめてくれる機能が、みててには搭載されていた。
みおの表情は、やはり普段と変わりない。人参とハンバーグを載せた皿を、どうぞとこちらに差し出してきた。美味しい、と透が食べたふりをすると、誇らしげに胸を張っている。
—— これまでの三好さんが、頑張ってきたからなんです。
透は高杉の言葉を思い出し、画面を閉じる。トイレへ行き、一番上の棚から青い錠剤を取り出して、つばと一緒に飲み込んだ。寝室に戻り、メガネの曇りを拭いてかけ直す。
「じゃあ次は、どのご本にする?」
みおに話しかけながら、透の意識は水中へと沈んでいく。
◇
「……最初は恐る恐るでしたけど、飲むうちにいろんなことがうまくいって。なにも問題は起きませんでした。それが問題だったんです……」
◇
バン、と大きな音を立てて冷蔵庫が閉まった。食卓に座った深月は、生姜焼きにかかったラップを乱暴に引き剥がし、温めもせず食べ始める。
「むかつく。この忙しい時期に」
冤罪だ、許せない —— 帰宅早々、取り乱した様子で深月はそう言った。恐る恐る話を聞いてみると、彼女が出演した映像に、アビス服用の疑惑が持ち上がったのだという。
「あんなのと一緒にされるなんて。信じらんない」
アビスの服用者は、表情筋の動きが僅かに変わる —— 巷ではそんな噂があって、映像から服用有無を判定するアプリが流行っているらしい。それで深月が「陽性」と判定されたのだという。
「なんの根拠もないんだろ?ほっときゃいいじゃないか」
「そんなの関係ない。叩きたい相手を探してるだけなんだから。もはやアビスとか関係ないとこで、悪口書かれてるし」
あの「育児のご意見番」が服用しているという疑いは、人々の好奇心を大いに煽ったようだ。
「世の中、バカばっかり。SNSで騒ぐ奴も、アビスを飲む奴も」
「そこを一緒にするのは違うだろ」
思わず口走った一言が、深月の眉を釣り上げさせた。
「一緒でしょ。どっちもただの無責任」
無責任、という単語が透の頭の中で反響する。
「いや、アビスを飲む人にはきっとなんか事情が……」
「事情があったとしても関係ない。その人が弱いだけよ」
透がなにか言い返そうとしたとき、リビングにいたみおがママ!と駆け寄ってきた。手に持った画用紙には、クレヨンで海の絵が描かれている。
「あんな薬に頼ってると思われるなんて、侮辱的」
深月は娘に見向きもせず、悪態をつきながら冷えた肉を口に入れた。
「ねえ!ママ!見て!」
みおが深月の袖口を引っ張る。
「やめて!」
深月が叫んだ。みおがぴたりと静止する。
「服が伸びちゃうでしょ!」
しばらく止まったあと、みおはボロボロと涙を流し始めた。深月がわざとらしくため息をつき、透は頭にかっと血が上るのを感じた。
「そりゃ育児してない人には、事情は分からないよ」
「は?私のこと言ってんの?」
深月の声のトーンが上がる。
「私が子育てやってないってこと?」
「やってたら、こんなことにならないだろ」
透はみおを手元に引き寄せ、頭を撫でて抱きしめた。
「YouTubeに出てる暇あったら、みおといる時間を増やしたらどうだ?」
「……私だって増やしたいよ」
深月が低い声で言った。
「でも仕方ないじゃん。出てって言われるんだから。断ったら次の仕事こなくなっちゃうかもよ?それじゃあお金はどうするの?」
「別に、いまはそこまで困ってないだろ」
透は目を合わせずに言う。
「いまは?じゃあ将来はどうなの。みおが私立に行くことになったら?習い事したいって言ったら?あなたが代わりに稼いでくれるの?」
さっき上ったばかりの血が、すっと冷えていくのを感じた。妻の稼ぎに頼っているのは事実だった。一時期は「人間にしかできない」ともてはやされた透の仕事も、最近はコスト削減の波が押し寄せている。一説にはアビスの影響とも囁かれているが、いずれにせよ、将来への不安は透も抱えていることだった。しかしだからと言って。
「事情があったとしても関係ない、んじゃなかったのか」
なぜ責められなきゃいけないんだ、と透は思う。自分は精一杯やっている。これ以上、どうしろというんだ。
「仕事を言い訳に、家族に当たり散らして。無責任なのは深月のほうじゃないか?」
言い過ぎた、と思った時には遅かった。深月は目に涙を溜めて、寝室へと駆けて行った。荒々しく閉められた扉の音に、みおがまた怯える。
深月の言う通り、自分は弱い人間なのかもしれない。深呼吸をして、自分を落ち着かせながら透は思う。弱いなら弱いなりの、方法を取るしかない。
透はアビスを飲んで、心の中で復唱する。まずは傾聴、そして受容。とにかく聞いて、受け入れること。仕事のマニュアルを思い出しながら、寝室の扉をノックした。
◇
「……アビスを飲んだこと、今では後悔しています。知らなくていいことを、知ってしまったから……」
◇◇
ペダルを踏み込むと、自転車が前へ進んだ。そのままのろのろと、なだらかな坂を下っていく。ブレーキをかけ、足をついたみおが、こちらを振り向いてピースした。
「すごい!」
深月が駆け寄って娘を抱きしめる。透はその様子を撮影していた。
炎上事件があってから2週間、深月は少しずつ変わっていった。仕事をセーブするようになり、代わりに家で過ごす時間が増えた。みおはママがいることが嬉しいようで、四六時中べったりくっついている。
「みお、今度はもっと速く進んじゃおっか!」
えー大丈夫かな、と自転車から降りたみおが照れる。深月は腕まくりをし、一緒に自転車を押しながら、こちらへ駆け上がってくる。
あの日に喧嘩して、互いに謝ったことは、結果的によかったみたいだ。車輪が水たまりを跳ね、はしゃぐ二人を見て透は思う。言いたい放題言い合って、膿を吐き出すことができた。
「こんなに漕げるようになったんだね」
透のもとまでたどり着いた深月が、汗をぬぐいながら言った。
「透が、一緒に練習してくれたお陰だよ。大変だったんじゃない?」
真っ直ぐな瞳に、透は思わず視線を逸らす。
「えっと、みててに上がってるよ」
再生ボタンを押すと、軽快な音楽が流れ始めた。初めて自転車にまたがった時の、みおの様子が映し出される。
「あ!むかしのわたし!」
追いついてきたみおも画面を覗き込む。
「むかしって、ついこの間じゃん」
深月がくすくすと笑う。動画は短尺のシーンを次々に切り替え、テンポよく進んでいく。怖がって踏み出せないみお。転んでしまうみお。膝を抱えて泣くみお。また立ち上がって漕ぎ出すみお。それらが透の視点を通じて、追体験するように描かれていく。音楽は次第に暖かなメロディへと変化し、みおが懸命にペダルを回す場面が映った。透は自転車の後方を掴みながら並走する。やがて手を離し、みおがひとりで進んでいく後ろ姿で、動画は終わった。
鼻をすする音がして、顔を上げると深月が顔をくしゃくしゃにしていた。
「みお、頑張ったんだね……」
涙と鼻水で顔をベタベタにしながら、深月は震える声で続けた。
「ママがいられなくてごめんね。これからは一緒に、練習しようね」
そう言って娘を抱きしめる妻の気持ちを、透は痛いほど理解できた。透もまた、この練習時間のことを、ほとんど覚えていないからだ。
アビスを服用すれば、たしかに時間をやり過ごせる。だがやり過ごした時間は、二度と戻ってはこない。たとえ記録が残っていたとしても、それは透が過ごした時間だとは言えない。当然の事実を改めて突きつけられ、透はぽっかり穴が空いたようだった。そしていつの間にかポケットに入れていた左手の、妙な感触に気づいた。手を取り出すと、粉々になった青い錠剤があった。
無意識のうちに握り締めていたらしい。いまこの瞬間ですら、自分はアビスに頼ろうとしていたのか。
このままでは、いつか取り返しのつかないことになる。慌てて手を払うと、青い粉が風に流されて舞い上がった。
「とにかく、アビスから物理的に距離を置くことが必要です」
講師が会場を見渡しながら、マイクを通して語りかける。
「それでストレスを感じたとしても、一時的な離脱症状に過ぎません」
会場は満席だ。アビスの断薬セミナーが、こんなにも盛況だなんて。同士が大勢いるようで、透は心強かった。
「アビスを断つのは、簡単ではありません」
かつて依存症だったという講師は、落ち着いた口調でまとめに入った。
「大切なのは、アビスに頼りたい、と感じる自分自身を、まずは受け入れてあげることです。大丈夫、一緒にやっていきましょう」
どこからともなく拍手が起こった。気づけば透も手を叩いていた。アビスのおかげで、生活は回り始めている。この辺りで卒業すべきだと、透は決心していた。
講義が終わり、会場を出ようとすると、見慣れた顔があった。とっさに隠れようとしたが、男は向こうから話しかけてきた。
「三好さんじゃないですか。いや、こんなところで会うとは」
照れくさそうに鼻をかいたのは、高杉だった。あたらしい育児を主張し、透にアビスを勧めた張本人だ。
「あの、そろそろ卒業しようかなって。お陰様で、妻ともうまくやれてますし」
透は言い訳するように返した。相談に乗ってもらった手前、この場にいることが後ろめたく思えたのだ。だが冷静に考えれば、高杉のほうこそ、気まずい思いをしているはずだ。
「わかります。僕もそろそろかなって。依存症みたいになると怖いですしね」
しかし高杉はそんな様子をおくびにも出さず、うんうんと顎を撫でた。うっすら髭のあとが残っている。
「お互いがんばりましょうね」
そう言って透の肩を叩き、立ち去ろうとした。
「あの、高杉さん!」
思わず透は呼び止める。
「アビスを飲んでも育児ができるのは、これまで頑張ってきたからだ、って言葉。実はすごく支えになったんです」
言われた高杉は不思議そうな顔をしている。ただのパパ友なのに、ちょっと暑苦しいだろうか。でもここは素直に、お礼をいうべきだと思った。
「だから、ありがとうございました」
そう言って透は頭を下げた。
「はあ。まあ、それは良かったです」
垂れた前髪をいじりながら高杉は言った。引かれたかもな、と透は思った。でも言わなければ、伝わらない。深月との和解を経て、透はそのことを学んでいた。
夜。みおは玄関で靴を脱ぎたがらず、脱衣所に寝そべって動かず、とにかく機嫌が悪かった。保育園で嫌なことでもあったのだろうか。なんとかなだめすかしながら、食卓まで連れて行った。
「これなーんだ!」
透はそう言って、みおの前にグラタンの大皿を出した。
「みお、グラタンじゃん!」
深月が合いの手を入れる。晩御飯はみおの好物にしようと、深月と一緒に作ったものだった。
「いらない!」
しかしみおは、ぷいと横を向いた。
「ほら、美味しいよ」
透がみおの小皿に取り分けようとしたところ、
「ヤダ!」
みおは叫んで、透の腕を払った。小皿が手から離れ、床に落ちる。カシャン、と音をたてて皿の破片が飛び散った。
「おい!」
思わず声を荒げてしまった。みおはいまにも泣き出しそうな顔をしている。よしよし、と深月が抱き寄せた。以前とはまるで逆の構図だ。透は目を閉じ、眉間を抑えた。身体を前かがみにして、呼吸を整える。ここは息が苦しい。早くあっちへ行きたい。そんな考えがよぎってしまう。
—— アビスに頼りたいと思う自分自身を、まずは受け入れてあげることです。
透は講師の言葉を思い出し、立ち上がった。まずは傾聴、それから受容。呟きながら、トイレでアビスの束を手に取る。
大丈夫。もうこいつは要らない。そう自分に言い聞かせながら、錠剤をシートから抜き出し、トイレに流そうとしたときだった。ふと昼間の高杉の、不思議そうな表情を思い出した。
公園の喫茶店で、透を励ましてくれた高杉。あの時の彼は、アビスを飲んでいたのではないか。だから記憶が、曖昧だったのではないか。
脳裏に、高杉のだらんと垂れた前髪が浮かんだ。足元が崩れていくような感覚を覚え、透は壁に手をついた。裸になったアビスを、そのまま戸棚の奥へと押し込んだ。
◇
「……アビスには、重大な副作用があったんです。むしろそれこそが、アビスの本質なのかも……」
◇◇
水の中が好きなのは、聞こえないからだ。音がないわけではない。水中では、人間の鼓膜がうまく働かない。同じように、水の中には匂いがあっても、それを感じることはない。
透は沈んでいく。雑音が消え、匂いが去り、視界がぼやける。ただ自分だけが残る。
このまま、どこまでも潜りたい。しかし透は、途中で身体を反転させた。光の揺らぐ水面を目指し、浮上していく。そして水上に顔を出した透は、息を吸って砂浜を見た。深月とみおが、こちらに向かって手を振っている。
先月のセミナー以来、透はアビスを一度も口にしていない。何度もくじけそうになったが、そのたびに乗り越えてきた。それも全部、こんな時間を過ごすためだと、浜辺に戻った透は思う。久しぶりの海水浴は、深月からの提案だった。
メガネを額に乗せ、砂の上に寝転がると、全身が気怠い。むかしはもっと長く潜れたはずだが、すっかり身体がなまってしまった。寝不足の影響もあるだろう。昨晩は夜泣きが激しかった。みお自身もまだ眠いのか、海にちょっと足をつけただけで、あとは砂浜にお絵描きをしている。
「よし、次はママの番だ」
深月が立ち上がり、太腿に砂をつけたまま海へと駆けていく。打ち寄せる波にぶつかって、クロールに切り替えて泳ぎ始めた。
アビスを断ったところで、薔薇色の日々が待っていたわけではない。むしろつらい場面が増えた。つくったご飯を跳ねのけられること。それを叱ってしまう自分が、嫌になること。雑巾に匂いを染みつかせては、何度も洗濯機を回すこと。アビスを飲む前よりも、そういった小さな痛みに、より敏感になった気がする。
だからこそ、と砂浜をなぞるみおを見ながら、透は思う。この痛みこそが、時間を感じさせてくれる。泣き声と悪臭の中にこそ、生活があるのだと、透は思うようになっていた。
海から顔を出した深月が、ゴーグルを外し、髪をかきあげた。首元のネックレスがきらりと光る。まるで出会った頃のように魅力的で、透は思わずドキリとした。
「できた!」
みおが拍手をした。砂浜に描かれた三人の棒人間は、家族の絵だった。よく描けたね、と言おうとしたところで、透は小さな違和感を覚えた。
背丈の小さいみおの絵は、真ん中で笑っている。その左にいる、いちばん大きくて、メガネをしているほうが透だろう。だがもう一方、みおと手を繋いでいる深月の顔がおかしい。ひとりだけ目も鼻も口も描かれていなくて、まるでのっぺらぼうだ。
「まだ、ママが描き終わってないんじゃない?」
意地悪に聞こえないように、透は明るい声で尋ねた。
「ううん。できたよ」
みおは首を振った。そしてまた次の絵に取り掛かる。
ただの気まぐれだろうか。それとも、みおにはママがこう見えているのか?理由を訊こうとしたところで、浜辺に波が打ち寄せた。家族三人の絵が、足元から水にさらわれてしまう。消え去っていく絵を眺めながら、透は自分の中に現れた、不穏の種について考えていた。それは杞憂ではなかった。
予感が確信に変わったのは、その夜のことだ。みおを寝かしつけたあと、リビングに戻ると、薄暗い部屋で深月がひとり立っていた。
「もう風呂、出たのか?」
透が話しかけても、後ろ姿は反応しない。不審に思った透は、正面に回ってぎょっとした。深月は目と口を半開きにしたまま、虚空を見つめていた。口の端から細長いよだれを垂らしたまま、微動だにしない。瞳はなんの色もしていなかった。透はその顔に、のっぺらぼうの絵を重ねた。
「どうした?おい!」
透が肩を揺さぶると、目を覚ましたように深月の顔に生気が戻り、にっこりと微笑んだ。
「楽しかったね。海って久しぶりだったし」
お風呂入ってくるね、と言い残し、深月は何事もなかったかのように部屋を出て行った。
—— うまくやり過ごせたと思っても、子どもは親の表情に敏感です。
深月が番組で語っていた言葉を思い出す。いや、だからこそ、深月に限ってありえない。そう信じながらも、いても経ってもいられなかった。深月の書斎に入り、引き出しを片っ端から開ける。なにも見つからないでくれ、と願いながら手当たり次第に探した。そうして最下段の引き出しに手を入れた時だった。ネックレスと一緒に、「鼻炎薬」とシールの貼られた薬袋が出てきた。薬袋を逆さにすると、中から錠剤の束が落ちてくる。見覚えのある青い錠剤。アビスだ。束の数からして、数十錠分はある。そのほとんどが、すでに空だった。
一緒にグラタンを作った時間。浜辺で共に寝転がった時間。それらの時間が、砂浜に描いた絵のように、流されていくのを透は感じていた。
「アビスの過剰摂取により、側頭葉が損傷を受けたと思われます」
薄暗い診察室で、医師は透にそう告げた。
困惑する深月をタクシーに乗せて、救急窓口を訪れたのが3時間前のこと。みおは無理を言って、親戚の家に預けてきた。
「精密検査をしてみないと、断定はできませんが」
医師はためらうように前置きした。
「奥様の症状は、おそらく意識乖離遷延症候群。長期間にわたり意識が沈む —— 俗に『意識自殺』と呼ばれる状態にあります」
ジジ、と小さな音がした。どこかの電球が切れかけてるな、と透は天井を見て思う。
「発症者はアビス服用者と同様に、傍目では普段通りの言動を維持します。ただ、私も奥様とお話ししましたが、ここまで普通に振る舞えるのは……正直言ってかなり稀です。まあアビスの副作用には、個人差が大きいですから」
言葉が頭に入ってこない。代わりに視線で、切れかけた電球を探した。
「オーバードーズの時期は、おそらく1〜2ヶ月前。早期発見と言っていいでしょう。お陰で命の危険まではありません。治療を続ければ、奥様の意識は戻ってくるはずです。ただそれが数ヶ月後になるのか、数年後になるのかは……」
ジーと長く鳴って、天井の電球がひとつ消えた。
深月はそのまま入院することになった。透は誰もいない家へと、深夜ひとりで帰宅した。明かりもつけず、ベッドに寝転がる。眠れそうにもない。みててを開き、最近のダイジェスト動画を再生した。
2ヶ月前といえば、深月が服用疑惑で炎上し、大喧嘩をしたあとのタイミングだ。その後、穏やかになり、むかしみたいに戻ったとさえ透が感じた妻は、アビスによる自動反応に過ぎなかった。それを疑いもしなかった自分は、なんて間抜けで浅はかなのだろう。みおはその異変に、いち早く気づいていたというのに。
絵本を読み聞かせる深月。みおと歩く深月。深月がアビスを飲んだ理由を知りたくて、動画の再生を繰り返したが、透にはいつもの彼女にしか見えない。そのことが透を一層絶望させた。
きっと自分は、妻と本当の意味では向き合ってこなかったのだ。対話できたと思い込んで、その場をやり過ごしていた。まるでダイジェスト動画を作るように、都合のいい深月だけを切り取っては、繋ぎ合わせていた。透は何度も何度も、自分に罰を与えるように、深月の動画を流し続けた。
朝日が昇ろうとする頃、ふと透はひとつの動画に引っ掛かりを覚えた。再生と停止を繰り返すうち、数秒のシーンとシーンの間に、一瞬だけ違う映像が挟まっていることに気づいた。ダイジェスト動画に、本来は不要なシーンが挟まる —— そんなバグについて、以前クレーム対応したことを思い出す。
シークバーを慎重に動かし、その一瞬で静止させた。ぶれてはいるが、映っているのは深月だった。奇妙なのは、書斎で一人、こちらに向かってなにか話していることだ。
もしかして。透はベッドから跳ね起き、深月の書斎へ走った。数時間前にひっくり返したキャビネットを再度開け、「鼻炎薬」の薬袋のとなりに置かれたネックレスを拾い上げる。裏側の小さな突起をペンで刺すと、中からマイクロチップが出てきた。思った通りだ。深月は、ウェアラブルカメラを着用していた。
チップをPCに挿れ、再生ボタンを押すと、「あー、あー」という声と共に、深月がカメラに語り始めた。
◇
「映ってます?映ってますね…………ええと、何から話そうかな……」
「……アビスを飲み始めたのは、ちょっとしたきっかけでした……」
「……それまでは、アビスにはいろんな意見がある、くらいにしか捉えてませんでした。アビスを批判してたのは、そう振る舞うことを求められたから……って言うと言い過ぎかもしれないけど、そんな空気はたしかにあった。ううん、アビスだけじゃない。育児のご意見番、なんて呼ばれて、偉そうに語ってました。私はちっとも、母親をできてないのに。滑稽ですよね。将来が不安だった、ってのもありますけど、結局のところ、これまで積み上げたイメージみたいなものが、崩れるのが怖かったんだと思います。いやそれとも、その時すでにアビスに惹かれてたのかも。だからこそ必死で、アビスを否定してたのかもしれません……」
「……で、炎上。あれって怖いですね。みんな敵に見えました。無責任だ、って透からも言われちゃって。もっともだと思います。でも家族にだけは、もっともじゃない私を、許して欲しかった。ただのわがままですね……」
「……みおにきつく当たっちゃったことが、決定打でした。このままじゃ私は、最悪の親になっちゃう。急に怖くなって、それでアビスに頼ったんです。入手は簡単でした。こう見えて医師なので。ていうか小児科医になったのも、子どもが好きだったからなんですよ。信じてもらえないだろうけど。えっと、なんの話だっけ。そうそう、アビス。最初は恐る恐るでしたけど、飲むうちにいろんなことがうまくいって。なにも問題は起きませんでした。それが問題だったんです……」
「……アビスを飲んだこと、今では後悔しています。知らなくていいことを、知ってしまったから。アビスを飲んだときの私、素敵だったんです。みおにも透にも、びっくりするくらい自然に接してた。仕事を休むかどうか、ずっと悩んでたことも、あっさり決められた。なんというか、アビスを飲んだ自分こそが、本当の自分なんだって思いました。後先考えず、好きな時に海へ泳ぎに行ってた、若い頃を思い出しました……」
「……むしろいまの私は、自分を偽って生きているんだって。そう気づいちゃって。だとしたら、こんなに苦労して自分を偽って、なのにいちばん大切な人たちを傷つけてる私って、いる意味あるんでしょうか……本当に、知らなきゃよかった。でももう遅いし……」
「……私、アビスの論文も読み漁りました。そうしてわかりました。アビスには、重大な副作用があったんです。むしろそれこそが、アビスの本質なのかも。アビスは逃げじゃない。アビスは、将来が不安だとか、過去のイメージがどうとか、そういう邪魔な考えから解放してくれる。いまを生きる本当の自分を、取り戻してくれるんです。だから……ごめんなさい……」
「……だから、いまから、私が殺します。偽物の私を。二人とも、心配かけてごめん。もうすぐ本当の私が、会いに行くからね……」
◇◇
透はメガネの縁に触れ、録画を開始する。レンズ越しに、砂浜を歩くみおと深月の背中が見える。深月が立ち止まり、屈んで何かを拾い上げた。
数週間の入院を経て、深月は家に戻ってきた。投薬を受けているものの、傍目では普通に日常生活を送っている。その振る舞いがあまりに自然すぎて、彼女が意識自殺中だなんて忘れてしまいそうだ。そのたびに透は、妻と自分の間に横たわる、深い溝を感じてしまう。
著名な小児科医の意識自殺。どこから漏れたのか、この事件はセンセーショナルに報道された。あれからニュースを見なくなったが、どうやら同様の事例が次々と告発されたことで、アビスは認可を取り消され、入手不可能となったらしい。
「ほら、いい色」
深月が拾った緑のシーグラスに、みおが歓声を上げた。波に揉まれ、角の取れたガラス片は、滑らかなカーブを描いている。それをつつく二人の様子を、透は記録に収め続けた。アビスを飲んでいなくても、二人を撮影することが透の日課となっていた。深月の意識は、きっといつか戻ってくるはずだ。そのとき、成長した娘を見た彼女の失意は計り知れない。せめて二人が過ごした記録が残っていれば、慰めくらいにはなるかもしれない。
「じゃ、これは?」
真似してみおが拾い上げたのは、ビールの空き瓶だった。シーズンだからか、今日は浜辺にゴミが散乱している。よくみると瓶にはヒビが入っていて、透は慌てて取り上げた。みおはヤダヤダと地団駄を踏んだが、どこからか子どもの泣き声が聞こえてきて、自分が泣くのは思い留まったようだ。座り込んで、代わりに絵を描き始めた。深月は新たなシーグラスを求めて、海のほうへと歩いていく。
深月の中に沈んだ深月は、どうしているだろう、と透は考える。彼女も海が好きだった。なにも聞こえず、匂わない水の中で、たゆたう深月を想像する。
アビスを飲んでも育児ができるのは、これまで頑張ってきたからですよ —— かつて透を支えたあの言葉も、アビスが作り出したものかもしれない。でも意識が沈んでいながら、深月がここまで普通に過ごせているのは、きっとこれまでの深月が、雑音にまみれた日々を積み重ねてきたからだと、透は考えていた。しばらく、あっちでゆっくり休んでほしい。深月を撮り続けることは、透にとって妻への償いであり、労いでもあった。
「じゃーん!」
みおが自慢げに両手を広げた。砂浜には、今日も家族の絵が描かれていた。深月の顔は —— やっぱりのっぺらぼうだ。子どもの洞察力というのは、透の思っている以上に鋭いらしい。
「どんな時に、ママがこんなふうに見えるの?」
透は、のっぺらぼうの絵を指差して尋ねた。するとみおは、不思議そうに答えた。
「これ、パパだよ」
ヒュッ、と喉から変な音が漏れた。パパだって?
「えっと、みお。もう一人のお顔のあるほうが、パパだよね?メガネをかけてるし」
ううん、とみおは首を振った。
「ママもメガネ、かけてたじゃん」
背筋が凍りついた。なぜ気づかなかったんだ。みおが描いたのは、海水浴の絵だ。そして背の高いほうは、メガネをかけた透ではなく —— ゴーグルをかけた深月だったのだ。
だとしたら、のっぺらぼうは?
「パパは、なんでお顔がないのかな?」
震える声で尋ねた。鼓動が早打った。きっとみおは、アビスを服用していた頃の透を描いたのだ。断薬する前の透を。そうであってくれ。しかし、みおはこう言った。
「パパ、よく怒ってるから。パパの怒ってるお顔、見たくないの」
そうしてぐるぐると透の絵をなぞる。
「優しいパパが、よかったなあ」
視界が霞んだ。言葉が出なかった。のっぺらぼうは、アビスを断った「あと」の透だった。アビスをやめて、きつく当たってしまった時の透が、みおにはのっぺらぼうに見えたのだ。
—— アビスを飲んだ自分こそが、本当の自分なんだって思いました。
映像の中で深月が、語った言葉を思い出していた。
どこかで怒鳴り声が聞こえた。子どもの泣き声がそれに続く。潮風で空き瓶が転がって行った。アビスの消えた世界が、どこか殺伐として見えるのは、透の気のせいだろうか。
「ほら!」
深月がシーグラスを、手のひらいっぱいに乗せて歩いてきた。みおが飛びつき、見せて!とシャツを思い切り引っ張った。深月は微笑み、娘の視線まで屈んでから、ひときわ大きなグラスをつまみ上げ、一緒に覗き込んだ。濃い青色の向こうに、ふたりの瞳が曇って映る。
また泣き声がした。呼吸が乱れる。反射的に録画を終了しそうになったが、なんとか踏みとどまった。空気があるから、ここは苦しい。砂の上で溺れそうになりながら、それでも透は、ありのままの視界を撮り続ける。そうして懐に手を差し込み、飲み残したアビスを握り締めた。
文字数:15656




