ファーストライト

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ファーストライト

手塚は巨大な鏡へと落ちていく。落下が始まったのは、一年前に遡る。

望遠鏡が捉える光の量は、鏡の大きさで決まる。完成間近の「かなた」は、底部に直径12mの一面鏡を搭載。宇宙最初の星の光を観測できる天体望遠鏡として、世界中から注目されていた。
手塚は長い職業人生を、この鏡を磨くことに捧げてきた。望遠鏡の鏡には、鏡面精度0.01μmという、究極の平面が要求される。仮に鏡を関東平野の大きさに引き伸ばしたとして、許される誤差は紙一枚の厚さ。機械でも排除しきれない微細な凹凸を、来る日も来る日も、研磨盤で平にしてきた。

「明日は車を寄越すから。パパ一人じゃ心配だし」
夜、手塚の娘は通話で言った。娘は出産を翌日に控えていた。
「孫の顔を見る視力くらい、残しといてよ」
娘は笑った。手塚の網膜は、鏡面の光を直視しすぎたせいで欠損している。と言っても、仕事ができれば問題なかった。

ゴンドラが上昇していく。手塚は背筋を伸ばし、巨大な望遠鏡を睨んだ。
翌朝、手塚は手配された車には乗らず、天文台へ向かった。かなたの試験観測を目前にして、鏡の測定にエラーが出たのだ。こんな事態は初めてで、胸騒ぎがした。娘の出産は気がかりだったが、このあと病院に急げば間に合うはずだと、手塚は自分に言い聞かせた。

高さ50m、かなた最上部の測定器まで辿り着いた手塚は、ゴンドラから身を乗り出す。刹那、欠損した目が距離を見誤り、足を踏み外した。手塚は宙に放り出され、地上の鏡を見た。そして時が止まった。

かなたの筒の中で浮いたまま、動けない。声も出ない。瞬きすらできない。パニックの中、手塚は眼下の光景に気づいた。無数の黄金の糸が、ゆっくりと垂れていくではないか。蜂蜜のような糸の動きを眺めていると、不思議と少し落ち着いてきた。
「エラー解析中」
声が聞こえた。
「反射光の誤差ゼロ」
最新鋭の測定器だった。測定器曰く、鏡が測定光をほぼ100%反射した。誤差ゼロの波長を受け取った測定器は、同じ光を送り返す。それで光の無限ループが発生したのだという。

手塚の磨き続けた鏡は、ほとんど完璧な平面を達成していた。

垂れ下がった糸たちが、鏡にぶつかって跳ね返ってくる。光だった。超低速時間の中で、光の運動が見えているのだと手塚は悟った。
「認知負荷が原因です」
また声がする。光で意識に干渉していると測定器は言ったが、幻聴かもしれない。いずれにせよ、耳を傾けるほかなかった。
何兆回もの往復履歴が凝縮された光を、手塚は欠損した網膜で浴びた。脳が膨大な情報量を解読しようとして、時間認識が狂ってしまったのだという。
「落下まで意識時間で残り一年」
時間をかけて目を閉じれば、光が遮断され、時間感覚は戻る。しかしその先に待っているのは、落下である。

手塚は徐々に現実を受け入れた。そして苦悩した。永遠のような時間に耐えるくらいなら、終わらせたほうが楽だろうか。

気を紛らわせようと、手塚は光の糸を観察した。糸の中に糸が、その中にまた幾千の糸があり、絡み合うことなくフラクタルに流れている。手塚はその光景に魅入られた。何日間も見惚れていた。
光を浴びながら、手塚は自らの人生を振り返った。鏡を磨き続けたこと。娘が生まれたこと。待望の孫が生まれること。そしてファーストライトと呼ばれる、試験観測のこと。 かなたが初めて宇宙の光を捉える瞬間に、手塚は家族と立ち会う予定だった。
長い時間をかけて、手塚は決心した。守りたいものがある。

「丸まって頭部を保護すれば、生存確率がわずかに上がります」
声に従うように、手塚は二ヶ月かけて——現実世界では0.5秒かけて——胎児のように身体を丸めた。腰に下げた愛用の研磨盤を抱えたまま、祈るように関節を折り畳んだ。絶え間ない蜜の奔流が手塚を包む。

丸まった手塚は、しかしそこで動きを止めず、さらに身をよじらせた。そして落下から半年が経った頃、腕を掲げて投擲体勢をとった。そこから十日かけて研磨盤を放り投げる。研磨盤がゆっくり手から離れ、反動で手塚の身体は逆方向へ動いていく。

手塚は考えた。大切なものは幾つもある。だが守るべきは、落下先にある鏡だ。

自分は縁から落ちたため、軌道次第では鏡の枠外へ落下できる。その確率を可能な限り上げたい。そのために、どう投げれば確実に枠外へ落下できるか、ずっと計算してきた。身体を丸めたのも、鏡に当たらないよう、自らの体積を最小にするためだった。
ファーストライトは——宇宙最初の光を初めて映すのは、自分の磨いた鏡でなければいけない。落ちた衝撃で、あの完璧な鏡面が傷つくことだけは許せない。この投擲は、鏡から手塚という凹凸を排除するための、最後の研磨だった。

落下から一年が経ち、手塚はついに地上へと辿り着く。もう目を閉じても良かったが、そうはしなかった。手塚は目を見開き、完璧な平面を見届けながら、自らの背骨が凹んでいくのを感じていた。

文字数:1998

内容に関するアピール

僕にとって「美しいもの」には孤高のイメージがあります。まるで宇宙の果ての星のように、誰からの承認も評価もなく、見られることもなく、自己完結しているような存在です。
恐らく自分は、というより社会的な動物である人間は、普通そこまでは到達できません。だからこそ、その境地に近づこうとする態度そのものにも、美しさを感じます。

そこで本作では、通常の時間の流れから独立し、一瞬が永遠に引き伸ばされた世界で、自分だけの美学に執着する人を描きたいと思いました。
光を見るための望遠鏡の中を、誰にも見られずに落下していく孤独な老人。彼の行動原理は自己犠牲でもなく責任感でもなく、むしろ一般的な道徳観からは離れた、純粋なエゴです。それは不完全な人間が、完全な美に近づこうと足掻くプロセスでもあると思います。

モデルとしたのは、国立天文台の望遠鏡「すばる」です。作中と同じく、世界最大級の一面鏡が使われています。

文字数:392

課題提出者一覧