母への階段
子供が何歳になっても親にとっては子供である。そういう母親を持つ自分としてこれ以上の真理はない。14歳の息子をところ構わず抱っこしてくるしほっぺにキスさえする。困ったもんだ。
いま、長野遠足から帰って一日が経った日曜日の午前。ふつうならベットに横たわって携帯をいじりながら遠足で撮った写真を眺めてまる一日旅行気分でつぶすのが世の中学生がすることだが、僕ときたらひたすら部屋で新聞紙を敷いて自分のスニーカの底と睨みっこしながら無心にブラシで磨いている。きれいずきとかではない。下に降りたらリビングで昼飯を作る母がいる。戸越神社はどうとか御池山は高いのとか、無限に聞かれるのがイヤな気持ちになるのを予見して部屋にこもっている。
「特盛生姜焼き〜、できたよ──」
リビングーから届いたコールに近い声だった。
そんなに叫ばなくてもいいじゃん、とスニーカを置いて返事しようとしたそのときだった。スニーカの中から、糸というか真っ直ぐ伸ばした金属タワシみたいのが飛び出してきた。慌てて足で何回も踏んでやった。そしてそれが床に横たわって動かなくなった。生き物には見えない。そもそもいつ靴に入ったのかも見当がつかない。新聞紙で引っくるめてティッシュだらけのゴミ箱に捨てた。床を掃除する気になったが二回目のコールがきたので諦めた。
母の腕はいつもと同じく申し分なく上手である。箸が進むうちにさっきのことで取り乱した心が落ち着いた。しかもありがたいことに今日はなぜかあまり話しかけてこない。その分ずっと僕の顔を睨んでいる。さすがにおかしいと思ってこっちから口を開いた。
「なに?僕の顔になん付いてる?」
「いや、なんか。顔色白いというか…山登って黒くなってかっこよくなるかなと思ったから…」
母がいつもの親バカぶりを露呈する前兆が現れたので、キスされる前にさっさと残りの生姜焼きを片付けた。
携帯のインカメラで自分の顔を映し出す。確かにふだんと比べて肌色がきれいになっている。特に目の周りは白というより真っ赤である。よく見たら縦の筋が何本か見え透いている。
自分の顔面を親友どもに送ろうとLINE開いたらすでにやつらから何通かのメッセージが届いている。中には何枚か写真もある。先にそっちを開いて、内容が目に入った途端、背筋が凍りつくのを感じた。
あの金属タワシのようなものが奴ら三人の家の床や勉強机、ベッドに一個ずつあって、いずれの写真も遠くから撮影したもので、この一時間で送られてきたものだ。メッセージの内容もだいたい同じで、こいつなに?という一言に尽きる内容だった。
魔が刺したとしか言いようがない。僕はゴミ箱を覗いだ。しかしさっき捨てた場所にあれはなかった。あれ間違いなく生き物だ。蛇ではない、虫?それともチンアナゴなのか?
お母さんを呼ぼう─その考えが脳裏をよぎった瞬間。ゴミ箱の中に捨てられたティッシュからアレが現れた。今度こそよく見えている。一本の銀色の糸の上に数えきれないほどの鱗がついていて、鱗の下は黄色に近い赤の細い線が通っている。そして至近距離だからよく見えた。奴がしゃがんでいる。僕の中指に。
しゃがんだ二本足が直線となり、僕の顔面に突っ込んできた。鼻が痒く感じたとき、世界が真っ暗になった。
ふたたび天井が視野に入った。斜めの日差しが部屋を照らした。明かりをつけなくても夕方だとわかる。小学校の時、いつも近くの公園で砂遊びしまくって僕を探してくる母に無理やり家に連れ戻されることが何度もあった。お腹が減ってないのになぜ晩御飯を食べなきゃいけないのか理解できなかった。まさに理不尽だ。
だが今は違う。あの時の、そして今までの態度の悪さで母さんに謝りたい。
これまでになく軽い体を起こして起き上がった。そして気づいた。自分の体が細かい膜のようなものになっていて、皮膚の下の脈絡や血の流れがよく見え透いている。服を捲ったら胃袋、腎臓、肝臓も確かにそこにある。
母さんはそんなことを気にしないでしょう。なぜなら、いつになっても子供は子供で親は親。これ以上の真理はない。きっと今の僕を見ても抱っこしてくるはずだ。そうでなければこっちから抱っこする。
生姜焼きの匂いがする。
僕は階段を降りた。
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内容に関するアピール
親と子がお互い思う気持ちが美しいものに違いない。ただし、いい話が嫌いな自分にとってそれだけでは物足りないので、ホラー要素も交えて一編書き上げました。映画『E.T』は、主人公の少年が宇宙人と出会い、友達になり、やがて別れる物語だと思うのですが、もしあの少年が宇宙人と合体したら、どうなるのか。そんなことを考えました。
楽しんでいただけたら幸いです。
文字数:172


