ただ水へ落ちるだけ

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梗 概

ただ水へ落ちるだけ

川に飛び込む夢を見る。子どもの頃に故郷の川で、高い滝の上から飛び込んだ記憶を反芻する。高さがあると落ちる最中に思考する時間がある。風を浴びて、自分が抜け落ちる感覚を味わいながら、ただ水へ落ちる――。

 

夢から醒めた 78 歳のパウロは、自分が空を飛んでいることに気付いた。背中には機械の翼が広がり、パウロの身体を支えている。しかし自分がなぜ飛んでいるのかは思い出せない。装着したヘルメットの画面上には目的地として、見覚えのない森が指定されていた。

人工背翼の発明から 20 年、翼は移動手段として確立された。翼の操縦は制御プログラムによって自動化され、理論上はどんな人間でも安全に目的地まで飛んでいける。落下の心配はほぼないが、近年ある問題も浮上していた。

泥酔者や負傷者など、飛んでいい状態ではない者が翼を使用すること。特に近年は物忘れの激しい老人が前後不覚のまま行き先を指定する「飛行徘徊」が問題視され、対策が求められていた。

自分が「飛行徘徊」をしていると察したパウロはパニックに陥る。純粋な落下への恐怖の後、それは早々起きないと安堵しようとして凍りつく。

自分はこのまま、知らない場所へ向かって飛び続けなくてはならないのか、と。飛んでいようが、これでは落ちているのと何ら変わらない。

どうにかできないかと翼の機能をパウロは思い出そうとする。しかしパニックと覚束ない操作で目的地変更ができず、今まで自動操縦頼りだったので手動飛行はできそうにもない。

諦めかけたそのとき、翼の一部である胸元の装備に通報装置を発見する。起動しようとするが、その近くには自分の文字で「引き返すな」と書かれていた。

ヘルメットの画面から視野を広げる。身体を傾けると、翼の内側にそのまま突き進むことを肯定する文章の数々を見つける。

この飛行は自分の意図したものと確信するパウロに、息子を名乗る人物から通信が届く。自分が重度の健忘症を患っていること、故郷を指定して突然飛び立ったこと、位置追跡で救援が向かっていること。すべてを伝えられたパウロは穏当な返事をするふりをして、翼の飛行速度を上昇させた。

自分の意思を取り戻していく。進歩した医学でも健忘症は遅らせることしかできず、日々自分を失っていった。翼を取り上げられる前に、自分として最期を迎えたかった。遠く離れた故郷へは翼なしでは向かえないのだから。救援を振り切る決意をしてパウロは加速する。

目的地が近づく。飛び込み遊びをした滝のある川だ。地図ではわからなかったが、実物を見てやっとわかった。その上空で離脱装置を起動し、パウロは翼から落下する。

もう恐怖はなかった。落下の最中、最後に思い出す。崖から飛び込んだ際も落ちてしまえば怖くなかったことを。行き先がわかっているなら、落下はただの動作に過ぎない。

風を浴び、自分が抜け落ちていく感覚を味わいながら、心の中でパウロはこう唱える。

ただ水へ落ちるだけ。

文字数:1199

内容に関するアピール

高所でガラス張りの床の上に立つと、いつも恐怖を覚えます。「落ちるわけない」と瞬時に否定できるのにもかかわらず。実際に崖の上から水に飛び込んだこともあり、落ちている間は意外と怖くなかったのを覚えています。

このことから自分の高所や落下への恐怖とは「身動きの取れないまま破滅すること」に由来しているのではと考え、落下とは対照的な飛行というモチーフでそれを再現しようと思い、梗概を書きました。

梗概では SF ガジェットとして落下の恐怖を否定する人工背翼を登場させつつ、「拘束されたままよくわからない場所へ移動させられる」という翼によって生まれる新しい恐怖の創造を意識しました。そこから落下こそ自ら望んだものという展開へと転じ、わかりきっている結果には恐怖が伴わないという思考を提示しています。

実作ではパニックホラーとして始まりながら、自分の記憶を辿るサスペンスへと転換していくことで読者を驚かせたいです。

文字数:396

課題提出者一覧