顔金魚
あたしね、顔が嫌いだったの。だから金魚に食べてもらったの。
見たでしょう。あたしから顔が剥がれたところ。剥がれた顔が二つに折れたのも、後ろが勝手に尾鰭になっていくのも。青白い折り紙の真ん中に眼が宿って、部屋を泳ぐ。ベッドの上を、積まれた服の上を、座るあんたの上を。泳ぎに泳いで、今はほら、窓のアルミサッシを突っついてる。
あれが金魚。あたしの顔は、もう金魚なの。
ほら、金魚の唇が動いて、そこからあたしの声がする。いいでしょう、ぷっくり膨らんだ唇が。柔らかそうな頬も、くるりとしたまつ毛も。
でも、何よりも眼がいい。瞳に光が映り込む、丸い眼。
眼が、特に嫌いだったの。狐みたいな眼より、金魚みたいな眼の方がいいでしょう。爛々と輝く光が灯るのはいつだって丸い眼だもの。化粧も手術も試したけれど、形になるたび遠ざかる。あたしの顔は生き物みたいに、あたしの言うことを聞いてくれない。
金魚売りが来たのはそんな時だった。
インターホンを押されて出てみたら、三角の笠を被った人がいた。藍の法被を着て、桶を吊るした棒を肩に担いで。驚くより、まず笑っちゃった。お祭りが家に来たと思ったから。その笑いを返すみたいに、金魚売りは愉快そうに言う。
金魚やい、金魚。あんた、金魚が欲しいだろう。
水のない桶の中、たくさんの金魚が泳いでた。赤も黒も、色が混ざったのも。もっといろいろいたかもしれない。わからないけど。眺めてるうちに、あたしは釘付けになっちゃったから。
眼が泳いでた。あたしの欲しい眼をした金魚が、桶を泳いでた。人間の顔を持った金魚なんて気持ち悪いはずなのに、あたしは桶を覗き込んでた。もがいてやっと近づけた曲線が、その金魚には最初からあって。苦しみもなく悠々と、心地よさそうに泳いでた。
たぶん、じっと見過ぎたんだと思う。金魚の眼が、あたしを見た。
眼と眼が合って、金魚が跳ね上がって、一瞬だった。
ぱくぱく動く金魚の口にあたしの顔は食い尽くされて、金魚があたしの顔になった。
怖がらなくていいよ。あたしは、あたしが欲しかった顔を手に入れた。人混みを歩いて罪悪感に駆られることも、ガラスの反射で嫌な気分になることもない。しっかり声を出せるようにもなった。友達を部屋に呼べたのも初めてなんだよね。
だからこれは、あたしが悪いの。
金魚売りが最後に言ったんだ。金魚はすぐに増えるから気をつけなさい、って。
意味は掴めなかった。金魚がこの一匹で子どもを産むのかと思ったけど、しばらくしてもその様子はないし。だいたい増えても金魚でしょう。大したことにはならないって考えてたの。
いつだったか、洗面所の鏡を見た時だった。なんか、これじゃないかもって感じがした。指で顔を整えるうちに、じっと見過ぎた。
鏡の中の、金魚の眼を。
眼と眼が合って、鏡の中から金魚が跳ね上がった。金魚は顔にぶつかって、古い金魚をはたき落として、新しいあたしの顔になった。古い金魚はね、少しだけ弱ってたんだよ。考えてみたら当たり前だよね。金魚は生き物で、それ以前に顔は生き物で、時間が経てば衰えていく。
あたしね、気を抜いてたの。
金魚が衰えるとしても生み出せばいい。むしろ些細な違和感で顔を直せるなら、都合がいいでしょう。繰り返したの。あっという間に、部屋で十匹の金魚が泳ぐようになった。
さすがにわかったよ、金魚売りの言った意味に。自分で金魚を生むのはそれきりやめた。
でも、遅かった。
金魚自身が、求めれば新しい顔を生み出せることを知っちゃった。みすぼらしい自分の代わりを生み出すのに躍起になっちゃって。まるであたしみたいだね。
ほら、出てきなよ。今日は出てきていいからさ。
気を付けて。そこかしこから、顔の金魚が出てくる。本棚の裏、押し入れの隙間、化粧台の引き出し。増えすぎちゃってさ、そこに押し込むしかないんだよね。わらわら、わらわら。激流みたいに止まらない。青白い皮膚の集合が雪崩れ込んでくる。
怖いなら手を繋いで。これが怖いのは、あたしも一緒。
金魚の魚群。天井から床まで、顔の金魚が泳ぐ。あたしの顔が縦にも横にも一列に連なって隙間なく、そのうち渦を作り始める。ちょっとした乱れから渦の表面で波が生まれて、波は大きくなって列の後ろまで続く。まるで一つの塊で、やっぱり顔は生き物だ。
見て。あの金魚の全部に、丸い眼があるの。あたしが憧れた、あたしの眼。照明を反射して、大きな瞳が輝いてる。並べてみれば大差なくて、どれも光を灯してる。昔のあたしなら、これを絶景だと思うんだろうね。
その眼の群れに、あたしらは取り囲まれちゃった。
こうなることはわかってた。ごめん、あんたを逃がしたくなくて。聞きたいこと、一つだけあるんだ。
どの金魚が、あたしの顔なのかな。
正解を知りたいんじゃないの。本当の顔なんて、最初に食べられたんだから。ただ、選んでほしいの。
そうすれば今度は迷いなく、あたしの顔で生きられるから。
文字数:2000
内容に関するアピール
美しいものが嫌いです。正しくは、美しさの固定観念が嫌いです。
振り返ると、グロテスクやシュールに分類されるモチーフを自分は創作でよく使います。派手で目立って好きだからというのとは別に、それらで構築した自分なりの美しさで、既存の美しさを壊したい欲求があるのだと思います。
今回は、なんとなくエモいとされる金魚を題材に、それがそのまま人間の顔で構成されている「顔金魚」という存在を新しく作りました。これ自体はまっすぐ気持ち悪いのですが、それが端正な顔立ちで渦となって並んだ際に、綺麗とも奇怪とも取れる光景が作れると思い、実作に起こしました。顔をテクスチャにして背景に連続で貼りつける、ゲーム的なホラー表現のイメージが強いです。
また、何を美しいか定める過程にも自分は美しさを感じています。「足掻き、迷って決着する」という要素をストーリーに組み込みつつ、純粋な短編としても楽しめる内容を目指しました。
文字数:394


