梗 概
肉とまつり
温暖化により地球上の耕作地の80%が失われた時代。
人類は発酵プロテインと光合成触媒技術を用いた「工場食」によって生き延びていた。
日本では核融合炉と豊富な水資源を利用した巨大な食料工場を建設し、食料の完全供給と海外輸出を実現している。
食肉文化は野蛮とされ、人々は生命を“殺す”ことから切り離された食生活を送っていた。
中学二年生の飯山海斗は、古い漫画を読みながら「牛の肉ってどんな味がするんだろう」と想像を巡らせる。
課外授業で食料工場を見学した彼は、科学的に完結した食の仕組みに圧倒されつつも、心のどこかに虚しさを覚える。
夜、動画サイトで「猟師が仕留めたイノシシを料理する映像」を見た海斗は、どうしても“昔の食事”を体験したくなり、母親に「月曜日には帰ります」と書き置きをして自転車で山へ向かう。
途中で転倒して怪我を負った海斗は、山間のコロニー〈サトヤマ〉に住む少女・菜々美に助けられる。
そこでは国の支援を受けながら、自給自足的な暮らしが続いていた。
ちょうどその日、罠にかかった鹿が運び込まれる。
海斗は命を奪う現場に戸惑いながらも、菜々美の「今晩はおまつりだよ!」という笑顔に引かれ、鹿の解体を手伝う。
夜、焚き火を囲みながら食べた鹿の肉は、今までにない生命のリアリティを彼の心に刻みつける。
翌朝、老人から「成人するまでは親元で生活しろ」と諭され、鹿の角笛を渡される。
サトヤマから都市コロニーへ戻った海斗は、母の叱責を受けながらも、いつもの食卓に“命の味”がしないことに気づく。
夜、海斗は布団の中で角笛を握りながら、焚き火の赤い炎とサトヤマの人々の笑い声を思い出していた。
文字数:683
内容に関するアピール
今年の夏も非常に暑かったですね。
50年後の未来をテーマにということで、結構極端に書いてみたつもりですが、書いたり調べたりしていると未来予想なのか、SFなのか、よくわからなくなってきました。
気候変動と食を題材にしたのは、夏場に東京が暑すぎて北海道の物件をネットで見ていたのと、最近ハマっている野食ハンター茸本朗さんのYouTubeの動画のせいだと思います。
生まれて初めて肉を食べた海斗くんの食レポシーン、頑張ろうと思います。
文字数:211
肉とまつり
牛の肉ってどんな味がするんだろう。
父さんの電子本棚にあった、90年くらい前の漫画を読みながら、昔の人の食事を想像した。
ステーキという牛の肉を焼いた料理をナイフで食べやすい大きさに切って口に運ぶ。
漫画の中のその姿は、僕にはとても幸せそうに思えた。
「海斗、何してんの?次の社会は課外授業だよ。」
「すぐ行くよ。」
僕はデバイスを鞄に入れて教室を飛び出し、校門まで走った。
次の社会の授業は食料工場の見学だ。
「別に現地行く必要なくね?」
食料工場への道のりの中、生徒のぼやきが聞こえてくる。
確かに、わざわざ行かなくても動画で十分な気はするけど、僕は少し楽しみだった。
食料工場に近づくと、いろんな食べ物の湯気が混ざったような香りがしてきた。
東京コロニーの食料を賄う巨大な食料工場。工場の敷地内に入ってからも、目的のエリアまでの道のりは長く感じた。
「東京第二中学校一年生の皆さん、東京コロニーの食料工場へようこそ。工場長の平野と申します。
今から30年前、湾岸エリアが水没し、インフラ整備が不完全な旧東京を捨て、我々はかつて武蔵野市と言われていた地域に温暖化による環境変化に対応した未来都市として東京コロニーを建設しました。この食料工場はサッカー場70面分くらいの広さで、東京コロニー300万人の食料を24時間稼働で製造しています。
温暖化による気温上昇や海面上昇、気候変動により、現在では世界の耕作地の80%で耕作を継続することが困難になり、世界中で多くの人が飢餓に苦しんでいます。
日本も例外ではなく、北海道と東北地域以外では農作物をほとんど収穫できなくなりましたが、日本では主要都市部に核融合炉発電と豊富な水資源を生かした大規模な食料工場を建設し、国民全員に十分な食料を供給できています。日本の食料工場の製品は海外でも人気があるため、今後は大量に輸出できるよう生産量を増やしていく予定です。
今から皆さんをご案内する施設では、麹菌から発酵プロテインを製造しています。
昔の人たちは長年にわたって鳥や豚や牛を食べるために飼育し、殺していました。
今となっては知能がある動物を殺して食べるなんてとんでもない行為ですが、昔の人はそのような残酷な方法でタンパク質を得ていたんですね。
牧畜は残酷なだけでなく、環境に対する負荷も大きいのです。中でも牛の飼育は二酸化炭素排出量が多いだけでなく、牛のゲップや排泄物から出るメタンガスの温室効果は二酸化炭素の25倍以上あり、地球が現在のような環境になった要因の一つに数えられています。
現在では国際地球環境正常化法により、牧畜は厳しく管理されています。
バイオテクノロジーの進歩により麹菌由来の発酵プロテインを大量生産することが可能になったことで、この施設では地球環境に優しく人道的な方法で製造した良質な発酵プロテインを毎日皆さんへ届けることができています。
食にうるさい日本人の味覚に応えられるよう、10種類の菌を使って味にバリエーションを出し、食感についても改良を重ねていて昔の人たちが食べていた動物の肉にかなり近い製品も製造されています。
皆さんの目の前にあるのは発酵プロテイン製造用の発酵槽で、大きさは高さが30m、直径5mありますが、この施設にはこれと同じものが全部で50基あります。発酵槽の中の温度は30〜35℃で、48時間発酵液がこのタンクに留まり発酵が進みます。48時間後にタンクから取り出した発酵液を65℃で15分加熱し、巨大な遠心分離機で固体のプロテインを分離し、プレス機でプレスして水切りをしてから小分けにし、皆さんの家庭に届く発酵プロテインが作られています。」
少し甘いような麹菌の匂い。
大きな発酵槽に対して、白い衛生服を着て作業をしている工場の従業員の人たちがすごく小さく見える。
肉眼では見えない菌が作ったプロテインの塊が次の工程へどんどん吸い込まれていく。
「加工食品を製造する施設がこの施設の隣にあります。レトルトの発酵プロテインハンバーグが主力商品です。
日本の食料工場で製造した発酵プロテインハンバーグはうまみ成分が多く含まれていて、海外でも非常に人気があります。」
スーパーでよく見る”環境にやさしい味”と書いてあるパッケージのレトルトの発酵プロテインハンバーグがベルトコンベアでどんどん流れていく。
自分が食べている物が作られているところを見るのは少しワクワクした。
「次は光合成触媒技術を利用した炭水化物や油脂を製造している施設へご案内します。」
家に帰ると、ロボット犬のコタロウが出迎えてくれる。
コタロウは『キューン』と言いながら僕に近寄って尻尾を振った。
家のセキュリティ対策と本物の犬のような行動プログラムが世界的に人気のペットロボットで、ロボットなのは分かっているけど、ほおをすり寄せてくる仕草が可愛い。
コタロウがお母さんからのメッセージを再生する。
「お母さんからのメッセージを預かっているワン。
『今日も残業で遅くなるから、冷蔵庫に入っているごはんを温めて食べてね。』
メッセージ伝えたワン。」
僕はメッセージを受け取ったということを伝えるために、コタロウを撫でた。
僕は冷蔵庫から皿に盛られて温めるだけで食べられる状態の発酵プロテインハンバーグと合成ライスを取り出して、電子レンジで温めてからテーブルに並べた。
「いただきます。」
そう言ってから、僕は今から見る動画を選びながらごはんを食べ始めた。
今日は読んでいた漫画のアニメを見ることにした。
アニメは2人が料理対決をしてどちらの料理がより美味しい料理であるかを競う内容だった。
2人は最高の食材を用意して、それを最も美味しく食べられる調理方法で調理するんだけど、どれも見たことがない食べ物で、どんな味がするのかは全く想像ができなかった。
毎日食べている食料工場のごはんが美味しくないわけではない。
むしろ、飽きないで毎日食べられるものがあんなふうに作られていることに今日は少し感動したくらいだけど、逆に今とは全く違う仕組みで作られていた昔の食べ物に対する興味が強くなったような気がする。
僕は食べ終わった食器を洗ってから、自分の部屋のベッドに寝転がった。
「昔の食べ物を食べられる方法ってないのかなぁ。」
僕はAIに話しかけた。
「昔の食べ物っていうのは、今日読んでた漫画に出てきたような食べ物かな?
現在、日本で市場取引をされるレベルでの農業や牧畜をやっている地域は東北の一部と北海道だから、その辺に行けば不可能ではないけど、一食分の食事の値段は海斗君が普段食べている食事の500倍くらいはするね。」
「そんなとこ行けないよ。お小遣いもないし。なんか他に現実的な方法ないの?」
「海斗君が行けるようなところだったら、東京コロニーの西の方の山かなぁ。山に入ればキノコとか山菜とかが取れる可能性はあるよ。ただ、毒を持つキノコや植物もあるから食べる際には私に相談してね。もし、肉が食べたいのなら、海斗君が捕まえられそうなのはカエルくらいかな。カエルは昔は高級食材だったりしたから、ちゃんと料理したらおいしいよ。ただ、カエルの中にも毒を持つやつがいるから、食べる際には私に相談してね。」
「西の方の山ってかなり遠そうだけど、自転車で行ける距離なの?」
「山のふもとまでは20kmくらいだから、自転車で2時間くらいかな。今は春だから気温は大丈夫だけど、風が強いからもうちょっと時間がかかる可能性はあるよ。山に入るなら服装は長袖、長ズボン、厚手の靴下、スニーカー、日よけに帽子もかぶってね。軍手もあった方がいいな。水分と携帯食も必須だよ。」
明日は土曜日だから学校がない。
僕はベッドから起き上がって、山へ行くために必要なものを集め始めた。
次の日の朝、僕は荷物を詰め込んだリュックを背負って家を出た。
家を出るときに母さんにどこに行くのか聞かれたけど、グラウンドで友達とサッカーをすると言っておいた。
リュックを自転車のカゴに入れて、僕は東京コロニーの外に向かって自転車をこぎだした。
東京コロニーのすぐ外には、サッカーや野球のグラウンドがコロニーを囲むようにいくつも並んでいて、夏以外の季節の休日はスポーツをする人たちで賑わっている。
中学校の同級生がサッカーをしているのを見かけたけど、僕は声をかけずに通り過ぎた。
グラウンドを通り抜けると、石と砂以外はなにもないところに山の方へ続く道路だけがある。
昔は平野全体に住宅が広がっていたって聞いたけど、東京コロニーを建築するときに資材を再利用するため、すべて取り壊したらしい。
時々、民家の庭だったところに植えられていたのだろう、背の高いサボテンだけがやけに目立つ。
遠目に見える川沿いには、ボランティアで植林をしている人たちが植えたアカシアやナツメヤシが生えている。
学校にボランティアの人が来て話してくれたけど、夏場の気温が45℃以上になる中で木を根付かせるには二日に一回、夜中に水やりをする必要があって大変らしい。
ボランティアの人は昔は川沿いには桜の木が生えていて、春にきれいに咲いた桜を見ながらお弁当を食べたりしていたことも話してくれた。
僕は本物の桜を見たことがない。
40年くらい前から夏の熱波のストレスと外来種の病害虫被害で、桜の木が枯れ始めたのを皮切りに、その後10年くらいかけて都市部に生えていた木はほとんど枯れてしまったらしい。
けっこう進んだかな。東京コロニーからはだいぶ離れたけど、山が近くなっている感じは全然しなかった。
「ねぇ、今どの辺にいるのか調べてよ。」
僕はAIに話しかけた。
「今、海斗君は東京コロニーから5kmくらい離れた地点にいるよ。って、えっ?本当に西の方の山に行くの?」
「行くよ。」
「昨日はやんわり止めたつもりだったのに。中学生の行動力を見くびっていた…お母さんに怒られるよ?」
「ちゃんと暗くなる前に家に帰れば大丈夫でしょ。もう少し進んだら休憩する。」
「春だけど、汗かくだろうから水分はちゃんととってね。」
それからしばらくして、僕は自転車を止めて水を飲み、上着を脱いでリュックに詰め込んだ。
自転車をこぐたびに、身体を通り抜けていく風が気持ちいい。もう三分の一くらいは進んだだろう。けっこう行けそうな気がしてきた。
それから一時間くらいは意気揚々と進んでいたけど、なんだか急にペダルを漕ぐ足が重くなってきた。
「疲れてきた。あとどのくらい?」
僕はAIに話しかけた。
「今は東京コロニーから15km、西の山まであと5kmくらいのところにいるよ。でも、だいぶ疲れているみたいだし、もう引き返してゆっくり東京コロニーまで帰ろうか?」
「帰らないよ。帰るわけないじゃん。あともう少し頑張ればいいんだろ。」
「わかったよ。山に入る前に声かけてね。山に入る際の注意事項を伝えるから。」
僕は水を一口飲んで、再び自転車にまたがった。
なんとか山のふもとまでたどり着いたけど、もう足が限界だった。
リュックに詰めてきた携帯食を食べながら、AIに話しかけた。
「山のふもとまで来たよ。でも、けっこう登らないと木が生えてるところまで行けないみたい。」
「うん、うん、海斗君よく頑張ったね。もう足も限界だろうし、携帯食を食べたらゆっくり東京コロニーに帰ろうか?」
「いや、山に行くし。なんか注意事項あるんでしょ?」
「ほんとに行く気なんだね……。
じゃあ、山に入る前の注意事項を言うよ。
まず、日が暮れるまでには必ず山を出てね。いつもより早く暗くなる可能性があるから。
それから、足が疲れてるだろうから倒木とか穴とか、足元には十分気をつけて。つまずきやすくなってるから。
水分はこまめにとって、汗で冷えないように上着はすぐ着られるようにしておいて。
あと――絶対に無理はしないこと!約束だよ!」
携帯食を食べて水を飲むと、少しシャキッとした。
足はだるいけど、僕は気合を入れて自転車で山の坂道に入った。
傾斜のせいでペダルがすごく重い。
僕は立ち漕ぎでゆっくりと坂道を進んでいった。
平地を走っていた時と違って、息が切れる。
なんとか木が茂っているところまで登ると、東京コロニーとは違う、湿り気のある匂いがした。
視界に何か動くものがあったので、そちらを向くと、そこには鹿の親子がいた。
「かわいいな。」そう思った瞬間、前の方でガタッと音がしてペダルが動かなくなり、僕はバランスを崩して自転車ごと倒れた。
「イタタタタ」
僕はしばらく動けなかった。
どうやら鹿に気を取られたせいで、前輪が道路に開いていた穴にはまったらしい。
しばらく上体だけを起こして呆然としていると、遠くから「大丈夫ですかー?」と声が聞こえてきた。
「あー穴にはまって転んじゃったんですね。
前輪パンクしちゃってる。
私が住んでる集落まで行けば修理できる人いますけど、歩けますか?
歩いて20分くらいですけど。」
「はい、大丈夫です。歩けます。お願いします。」
僕はゆっくりと立ち上がり、倒れた自転車を起こした。
倒れたときに地面に打ち付けた肘がズキズキする。
「私は清水菜々美っていうんだけど、あなたは?」
「僕は飯山海斗。中学一年生です。」
「じゃあ私の一つ下だ。東京コロニーから来たの?自転車で?何しに来たの?」
「普段食べてる食べ物以外のものが食べてみたくって。」
「山に来て何を食べるつもりだったの?」
「キノコとか食べられる草とかカエルとか…。」
「カエル?カエルは…食べないでしょ。」
「AIが僕が捕まえられる肉はカエルくらいだって言ってて。」
「私はカエル食べたことないけど、おいしいの?」
「ちゃんと料理したらおいしいってAIは言ってたけど…。」
「ふーん。そうなんだ。」
「山に人がいるって思ってなかったから、びっくりした。」
「私だって、まさか東京コロニーから自転車で山に食べ物を探しに来る中学生がいるなんて思ってなかったから、びっくりしたよ。」
「菜々美さんは何をしてたの?」
「つくし取ってた。食べたい?」
「どんな味なの?」
「少し苦みがあるけど、甘辛く煮て卵でとじるとおいしいよ。春の食べ物の中で一番好きかも。」
「食べさせてもらえるんだったら食べたい!」
「下ごしらえ手伝ってくれたら食べさせてあげる。まぁ、実際料理をするのはお母さんだけどね。」
「菜々美さんが住んでるところってどのくらい人が住んでるの?」
「うちの集落は小さくて、20人くらいかな。」
「他にも菜々美さんが住んでる集落みたいなところはあるの?」
「うん、行政上はサトヤマコロニーっていって、山の中で農業しながら生活してる人たちは都市にいる人たちよりもずっと少ないけど、いるよ。この近くだったら、山梨の方にはうちよりもずっと大きい集落があるはず。平地の農地は壊滅しちゃったけど、山の中はまだ夏でも気温が上がり過ぎなくて農業ができるからね。」
菜々美さんと山道を歩いて行くと、開けた場所に出た。
「これがうちの集落。」
「わぁ…。」
そこには山間に流れる川の両脇で、階段みたいに畑が広がっていた。
淡いピンク色の花が枝を覆うように咲いているのは桜だろうか。
「とりあえず、わたしんちに行こうか。」
僕はパンクした自転車を押しながら、菜々美さんについていった。
菜々美さんの家に着くと、菜々美さんはつくしを置きに家に入っていった。
庭ではニワトリが地面をついばんでいる。
「誰かいないか?」
声がする方に振り向くと、白髪まじりの背が高く、がっしりとした体つきの男性が、物珍しそうに僕を見ている。年齢は僕のおじいちゃんくらいだろうか。
「矢島さん、こんにちは。どうかしましたか?」
「畑の裏の罠に鹿がかかった。お父さんいるか?」
「お父さんは家にはいなくて、多分畑を見に行ってるんだと思います。
…あっ、そうだ!」
菜々美さんは閃いた様子で僕を見た。
「私じゃ力が足りないから、海斗君手伝ってよ。
海斗君、運がいいじゃん。海斗君が食べたかったものが食べれるよ。
今夜はおまつりだよ。」
「初めて見る顔だな。」
「飯山海斗といいます。東京コロニーから来ました。山道で転んで自転車がパンクしてるところに菜々美さんが声をかけてくれて…。」
「なんか、お肉が食べたいみたいなの。」
「うん、…そうか、じゃあ手が足りねぇからちょっと手伝ってくれ。」
リヤカーを引きながら矢島さんについて歩いていくと、畑から少し山の中に入ったところに、前足が罠にかかって動けなくなった鹿がいた。
鹿は僕たちを見て少し暴れたけれど、自分の状況を察したのか、すぐに大人しくなった。
矢島さんは僕たちに少し下がるように言ってから、持ってきた先が尖っている長い棒で鹿の首を一突きした。
ドクッ、ドクッと、鹿の心臓の鼓動に合わせて、矢島さんが刺したところから大量の赤黒い血液が押し出されていく。
鹿はよろめきながらゆっくりと倒れた。
僕は胸がギュッとなって、驚いたのと怖いので自分の鼓動がすごく早くなったのを感じたけれど、鹿から目を逸らせなかった。
矢島さんと二人で息絶えた鹿をリヤカーに乗せた。鹿は見た目よりも重くて、僕の手は少し震えていた。
「大丈夫?ちょっと刺激が強かった?」
「いや、なんだか、鹿がかわいそうかなって思って。」
「でも、鹿はほっといたら増えて、せっかく育てた畑の作物食べちゃうんだよ?」
僕はそれに対して、何も言えなかった。
矢島さんの家に着いてから矢島さんと僕で鹿を吊るすと、矢島さんは器用にナイフを使い、鹿の皮を剥いでいった。
綺麗に皮を剥がれた鹿には、生きていたときの面影はなかった。
ナイフで切られ、大小の肉の塊になっていくのを見て、あぁ、これは僕が漫画で見てたのと同じ、『食べ物』なんだということを理解した。
菜々美さんはテキパキと矢島さんが切り分けた肉を受け取って、冷蔵庫へ運んでいった。
菜々美さんの家に戻ると、菜々美さんのお父さんとお母さんが帰ってきていた。
「おかえりなさい。紹介するね。飯山海斗君。東京コロニーから自転車で来たんだって。さっき鹿の解体を手伝ってくれたの。」
「はぁ、わざわざ自転車でこんなとこまで。あまりお構いできませんけど、ゆっくりしていってね。」
「おう、俺、外の準備しに行ってくるわ。」
お父さんはそう言って広場の方に歩いて行った。
「お母さん、つくし取ってきたよ!私たちではかま取りしとくから、いつものやつ作って!」
「はい、はい。」
菜々美さんのお母さんはにっこりと笑って、ごはんの支度に戻っていった。
菜々美さんは取ってきた袋いっぱいのつくしをテーブルに広げた。
「このつくしの茎に付いてるピロピロするやつが『はかま』って言うんだけど、今からこれを取っていくの。座って。」
「これ全部?大変だね。」
「そんなに大変じゃないよ。意外とあっという間に終わるから。取ったやつはこっちのボールに入れてね。」
僕は見よう見まねでつくしのピロピロしているやつを取り始めた。
「初めてなのに、はかま取るの上手いじゃん。
今夜はね、集落のみんなで広場に集まって、お花見をしながら取れた鹿を食べるの。
今の時期に鹿が取れたら毎年やってるんだけど、私のお父さんが焚き火の横でじっくり焼いたお肉はすっごく美味しいよ。」
菜々美さんは目をキラキラさせていた。
「それは楽しみだなぁ。」
僕は少しワクワクしてきたのと同時に、急激にお腹がすくのを感じた。
つくしのはかま取りが終わって外に出ると、日が暮れ始めていて、集落の広場の真ん中では焚き火の火が揺れていた。
菜々美さんのお父さんが焚き火の近くに座って、火の近くに置いてあるアルミホイルに包まれたものを真剣な眼差しで見つめている。
「海斗君、こっちだよ。」
菜々美さんに呼ばれて行くと、菜々美さんのお母さんがラップに包んだおにぎりをくれた。
「筍ごはんをおにぎりにしたの。たくさん作ったからいっぱい食べてね。」
「ありがとうございます。いただきます。」
僕は空腹で限界だったので、もらったおにぎりをすぐに食べ始めた。
「すごく美味しいです。いつも食べてる合成ライスとは全然違う…。」
「今日はたくさん作るからガス釜を使ったのよ。」
「合成ライスってちょっと水っぽいよね。本当のお米みたいに噛めば噛むほどおいしいみたいな感じじゃないし。」
お母さんの隣に座って、おにぎりを食べる菜々美さん。
「海斗君とはかま取りしたつくし、お母さんが料理してくれたの。」
そう言って、菜々美さんが僕につくしを取り分けてくれた。
つくしは甘辛い味付けの後に、ほろ苦さが追いかけてくるような感じがした。
「どう?おいしい?」
「うん、今まで食べたことがない感じだけど、おいしい。」
「良かった。これが山の春の味だよ。意外と栄養価高いんだから。」
「おーい、焼けたぞー。」
お父さんが、さっき焚き火の近くに置いてあったアルミホイルに包まれたものを持ってきてくれた。
お母さんがアルミホイルを開けて、中身を切り分けている。
「あっ、お肉だ。」
「今日、海斗君が解体を手伝ってくれた鹿だよ。お塩でどうぞ。」
初めて食べた鹿の肉は、噛むたびにおいしさが口いっぱいに広がって、少しだけ血みたいな味がした。
僕は今、さっき殺された鹿の肉を食べているんだなぁ…と思った。
嫌な感じはしなかったけれど、不思議な感覚だった。
「どう?おいしい?
…海斗君、鹿は畑の作物を食べちゃうけど、私たちも鹿を食べるから、鹿を食べる時は鹿に感謝しなさいって、集落の子は言われて育つんだよ。」
菜々美さんは焚き火を見ながら、優しい声で僕に言った。
「うん…。」
僕は小さく返事をした。
「今日はこれがあんだよ。にいちゃんもやるか?」
菜々美さんのお父さんが、小さい容器から黒くて丸く小さな種のようなものを取り出した。
「お金持ちのとこに野菜を納品した時に、そこんちのシェフにワサビと交換してもらったんだよ。黒コショウっていうんだけど、これを軽く砕いてちょっと肉に振るとうめぇんだよ。」
「やめろよ〜、大吾さん、にいちゃん街に帰れなくなっちゃうよ〜。」
まわりのおじさんたちが笑っている。
「いいじゃねぇか、そうなったら菜々美と結婚してずっとここにいりゃあいいよ。」
「お父さん、何言ってんのよ!」
菜々美さんが怒っている。
「もう、お父さん、あるなら最初から出してよ。」
僕は黒コショウを砕いたものが少し振りかけられた肉を口に運んだ。
「おいしい。さっきよりも、もっとおいしい。」
「始めにコショウの香りが鼻に抜けて、コショウの辛味で肉のおいしさがよりはっきりと分かるみたいな感じだよね。」
菜々美さんは少し得意そうに笑っていた。
「肉にはやっぱこれだよなぁ。合成コショウってのも売ってるけど、香りの鮮烈さがないんだよなぁ。」
菜々美さんのお父さんも少し得意そうに笑っていた。
お腹が落ち着いてきて、周りを見回すと、焚き火を囲む集落の人たちがみんな楽しそうにしている。
少し見上げると、焚き火に照らされて白く浮かび上がる桜の花が、本当にきれいだった。
「海斗君!どうしよう!大人たち、みんなお酒飲んでる!お父さんも、自転車直せる杉田さんも、車運転できる大人も。」
菜々美さんが困った顔をしてこっちに走ってきた。
「しょうがねぇ。もう今日はうちに泊まってけ。」
矢島さんが声をかけてくれた。
「ありがとうございます。朝ごはん持って行くのでよろしくお願いします。」
「よろしくお願いします。」
僕は矢島さんの家に泊まらせてもらうことになった。
「お前の母ちゃんは、お前がここにいること知ってんのか?」
「あ、いえ、知りません。」
「そりゃ良くないだろ。連絡しとけよ。」
「はい!」
僕はAIに話しかけた。
「母さんに『今、西の方の山の中にあるサトヤマコロニーにいます。今日はサトヤマコロニーに泊まります。明日には帰ります。』ってメッセージを送って。」
「了解しました。って、今ね、夜の8時なんですけど。明るいうちに帰るんじゃなかったの?お母さん、絶対怒ってるよ。今どういう状態?ごはん食べた?寒くない?」
「僕は大丈夫。サトヤマコロニーの人たちがすごく良くしてくれるから。ごはんも頂いたよ。とにかく、母さんにメッセージ送っといて。」
「…わかったよ。明日家に帰ったら、一緒にお母さんに謝ろうね。」
「おじゃまします。」
矢島さんの家は少し古いけど、中に入るとなんだか落ち着く匂いがした。
「大きいけど、使え。」そう言って、矢島さんが寝巻を貸してくれて、お風呂から出ると、矢島さんがお茶を入れてくれた。
「あのぅ、矢島さんは牛の肉って食べたことあるんですか?今日は鹿の肉を食べさせてもらったけど、味って違うものなんでしょうか?」
「似てるっちゃ似てるが、鹿は脂が少ないからなぁ。俺はもう年だから脂が多い肉を上手いとは思わねぇけど、お前みたいに若けりゃ牛の方がうまいってなるかもな。」
「…僕もここの集落に住めたりするんでしょうか?」
「ん?まぁ俺ももとは街に住んでたし、街から移住したいって来る人間はいるけど、不便だからなぁ。街から来た人間は長くは続かんよ。街と違って、周りと協力して、工夫していかないといけねぇしな。
そもそもお前はまだ未成年なんだから、成人して親元離れるまでゆっくり考えろ。」
「はい…。」
朝、目が覚めて起きようとすると、全身に痛みが走った。
腕も、肩も、足も。
「筋肉痛だぁ。」
痛いからゆっくりと身体を動かして、台所に行くと、矢島さんが朝ごはんを食べていた。
今朝、菜々美さんが持ってきてくれたそうだ。
菜々美さんが、自転車を直してもらってくると言っていたらしい。
菜々美さんが持ってきてくれたおにぎりと卵焼きを朝ごはんに頂いてから、矢島さんにお礼を言って外に出ると、菜々美さんが僕の自転車を押しながら歩いてきた。
「海斗くーん、自転車直してもらったよー。って、なんか動き変だけど、大丈夫?」
「筋肉痛だと思うんだけど、動くと全身痛い。」
「あははは、ちょっと待ってて。」
「お父さーん、車出せるー?」
菜々美さんは外で作業をしているお父さんの方に走っていった。
菜々美さんのお父さんは、
「ちょうど街の方に行く用事があっから。」
と言って、軽トラに僕と自転車を乗せてくれた。
「しっかし、東京コロニーから自転車でうちの集落にくるなんて、大冒険だなぁ。」
「山道でパンクした時は終わったって思いました。菜々美さんがいてくれて本当に助かりました。」
「その後、鹿の解体手伝ってたんだろ、そりゃ筋肉痛になるわ。でも、まあ、これに懲りずにまた良かったら遊びに来てくれよ。うちの集落は菜々美と同い年くらいの子どもがいねぇから、海斗君と楽しそうにしゃべってるの見てると、なんか、こう、親としてうれしくてよ。
菜々美はなぁ、同世代の子供と一緒に学校に通った方がいいだろうと思って、小学校に上がるときに親戚んちに下宿させて街の小学校に通わせたんだけど、小一の時の夏休みに帰ってくるなり、
『もう街には戻らない!』
『ニワトリもカエルも虫もいなくてつまんない!』
『ごはんも美味しくない!何食べてんのかわかんない!』
って言ってよ。
親戚んちではいい子にしてたらしいから、我慢してたんだろうなぁ。」
僕はそれを聞いて、胸が少しキュッとなった。
窓の外の何もない、乾いた風景を見ながら、小学生の時の菜々美さんの気持ちが少し分かるような気がした。
「それからは通信教育で授業受けてんだけど、これがまぁ、俺と違ってめちゃくちゃ勉強できるんだよ。」
「…それは、分かるような気がします。菜々美さん、すごくしっかりしてますものね。」
「母ちゃん生態学やらエコシステムやらで博士持ってるからなぁ。俺は母ちゃんは俺と結婚したんじゃなくて、畑と結婚したんだと思ってる。」
「そんなことないと思いますよ。お母さんが作った筍ごはんのおにぎり、とってもおいしかったです。朝ごはんも。お父さんのことも菜々美さんのことも大切に思うから、おいしいごはんを作ろうって思うんじゃないですか。」
「海斗君はいいやつだなぁ。」
僕はどう返せばいいのか分からなかったけど、ちょっと笑ってしまった。
「こっちに来たいときは菜々美に連絡をくれたら仕事のついでに街で拾うなり、山のふもとまで迎えに行くなりするからよ。」
「はい、ありがとうございます。」
軽トラを降りると、乾いた街の匂いがして、いつもの現実に戻ってきた感じがした。
お父さんに頭を下げて、僕は軽トラの後ろ姿を見送った。
家に着いて自転車を置いて玄関の扉を開けると、そこには今まで見たことがないくらい怒っている母さんがいた。
「海斗、どこ行ってたの?」
「西の山に行ってた。」
「それはメッセージで読んだ。何しに行ったの?山は危ないのよ。」
「自転車はパンクしたけど、サトヤマコロニーの人に直してもらったし、大丈夫だったよ。」
「本当に心配したんだから。
とにかく、連絡なしに夜まで帰ってこないとかはもうしないで!」
そう言い終えると、母さんは速足でキッチンの方に向かって行った。
ロボット犬のコタロウが『キューン』と言いながら僕に近寄って尻尾を振る。
母さんが行った後、父さんがリビングから顔を出した。
「好奇心があるのはいいことだけど、あんまり母さんを心配させんなよ。」
父さんは案外怒ってなくて、なんなら少し笑っているように見えた。
母さんはごはんを用意して僕を待っていてくれたらしい。
僕はお腹が空いたので食卓についた。
僕がいつも喜んで食べていた発酵プロテインハンバーグ。
『何を食べているのかわかんない!』
僕はいつものごはんを口に運びながら、帰りの車で聞いた小学生の時の菜々美さんの言葉を、何度も思い出した。
文字数:11913




