冬由の血汐
冬由が刻むリズムは、常に、そうでしかありえないように、正確に発現する。譜面という遺伝子を基にして、他の奏者のゆらぎと呼応しながら、一粒一粒生み出される。彼女自身もまた、そうでしかありえないような均整の取れた顔立ちで、ドラム・スローンの前半分にバランスよく座っている。まるで手首の先に関節が一つ増えたかのようにしなやかに動くスティックで打面を叩き、その度、長く艷やかな黒髪が少し揺れた。
彼女のバンドは、ギター・ボーカルの高音の歌声と、リード・ギターの派手な演奏が売りで、都市部では大きなライブハウスを埋めるくらいには人気があった。しかし、彼女自身はそのプレイも容貌もとりたてて注目されていなかった。僕は度々、彼女は完璧すぎる、と独り呟いていた。かすれて、音になるか否かの瀬戸際の声で。
冬由の体調不良による活動休止とサポートメンバーの加入が発表され、僕は自然とライブに行かなくなった。それから数カ月後、彼女との出会いは、全く心臓に悪いものだった。
幾度となく目に焼き付けた姿が、3番診察室に入ってきたとき、驚きのあまり丸椅子の上でバランスを崩し、両腕で見苦しく空を掻いた。問診票を二度見すると、知らない苗字に続いて、確かに彼女の名前が書かれている。顔を上げると、バンドの音源をBGMに流していたことに気がついて、慌てて止めた。彼女は顔色一つ変えずに、ただ見ていた。少し落ち着いて、ここは病院で、自分が医師であることを思い出す。僕が勤める循環器内科のクリニックに来るには、まだ、かなり若い。一見してわかる所見はないが、なにか複雑な持病を持っているのだろうか。
ようやく口を開いて、「今日はどういった症状で来られましたか」と、診察を始める。彼女は、しばらく溜めて、それから話を続けた。脳の運動を司る神経回路に障害が起こる神経病と診断されたのだという。その病気には、ミュージシャンや美容師などの特定の動作を繰り返す職業で発症しやすい職業性の症例も、多く含まれる。彼女の場合は、突然右足が痙攣するようになってしまったのだという。
「それで、心臓とどんな関係があるのでしょうか」
「心臓で、ドラムが叩きたいんです」
ミリ秒単位のタイミングで、低周波衝撃波を心臓に当てると致死的な不整脈を起こすという話があるらしいが、このときの僕は、まさにそれを食らったような状態だった。どれくらいフリーズしていたかわからない。そんなことはお構い無しに、彼女は続ける。
「この数ヶ月、家や公園でぼーっとして過ごすことが多かったんです。それでも気がついたら手足が動いて、だんだん頭の中でドラムが鳴り響いてきて、右足は動かないのにバスドラの音も聞こえてきて、、、」
「ずっと聞いていたら、それが心臓の音だって分かったんです。」
2年が経ち、僕は冬由のソロ・ツアーの舞台袖にいた。目の前には彼女の心電図がリアルタイムに表示されるモニターが設置されている。今日から始まるこのツアーは、人生で一度きりの約束だ。
ステージのど真ん中にドラム・セットが置かれ、彼女が座る。右足の部分にはバスドラムはなく、それはとても不自然で、惹きつけられるセッティングだった。僕は彼女の心音を増幅するアンプのスイッチを入れる。爆音で高鳴る鼓動が鳴り響く。BPMは120を超え、会場のボルテージが上がっていき、すべての心臓が同期する。脈がところどころ不整になるたびに、グルーブが生まれ、聴衆の一体感が高まっていく。バンド時代よりはるかに小さなキャパの箱だが、全く異質の熱狂を感じた。心拍が安定するのを待って、遠隔操作で集束超音波を何度か打ち込むと、彼女の心臓がペーシングされて、最初の曲のBPMに近づいていく。しばらく心音だけが響く時間が続き、おもむろに彼女の三肢が動き始めた。
ツアー終了から3週間後。僕は最初の会場となった地下3階のライブハウスで、ドラム・セットの前の彼女と向き合っていた。
「疲れは取れたかい?最高に盛り上がったツアーだった」
「ええ、あなたがわがままを聞いてくれたおかげ」
「今までにない魅力的なプレイが聴けたよ」
「そうね」
うつむいたとき、下顎がやわらかに弛んだ。僕は、意外にも、それを愛おしく見つめた。
「だけど、あれが最後ね。やっぱりガラじゃないもの」
「君の演奏には不純物はいらないんだ」
言い終わらないうちに、僕は彼女から目線を外し、背を向けて歩き始めた。
部屋を出て、地上へと向かう階段を一段ずつ登っていく。右、左と足を持ち上げては重力に任せて踏み降ろし、彼女から離れていく。同じ動作を、何度繰り返しただろうか。僕の体には、彼女が刻む、冷たくやわらかいリズム・パターンが、いつまでも響き続けている。
文字数:1934
内容に関するアピール
美しいものというお題を考えたときに、真っ先に思い浮かんだのが、最近ずっと聞いているバンドの音楽でした。特に、冷たく響くドラムの音が好き。一方で、歪んでいるところに魅力を感じるということも思い当たったので、当初はシンプルな美しさから、歪みも含んだ魅力へ変化するという筋書きで進めていました。しかし、途中で、美しいことと魅力的なことは別の話ではないか?と思い至り、魅力的にはなったが、やはり美しさは失ったのだという結論を意識して書き切りました。主人公視点の僕にとって完璧な彼女から、みんなに愛される彼女への変化でもあるのかも。視覚的に美しいものとして、第一線の整形外科の先生が作った膝の人工関節も影響しています。素人目に見てもそうでしかありえないだろうとわかる美しい形をしていました。
文字数:340


