壁を抜ける

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梗 概

壁を抜ける

戦争に敗北し、大国に分割占領された近未来の日本。本州の太平洋沿岸はアメリカに統治され、仙台は、東北新幹線の高架を改築した「壁」により東西に分断された。壁の東側はアメリカ合衆国日本連邦自治区となり、西側は日本海側を占領する中国との非武装地帯に設定され荒野と化していた。
 だが壁の東側の住民にある噂が広がっていた――壁の西側は荒野でなく、死んだ人間が暮らす街だというのだ。
 
 冬の仙台は死の灰が混じる雪が降りしきり、空は常に鈍色に染まっている。
 噂を信じ、故人に会うため壁を越そうとする住人を、警備兵がM4カービンで射殺する。
 壁の近くに建つ公共団地で、元少年兵の啓嗣ケイシは、戦友の輪廻リンネとデバイス越しに会話する。仮想空間の戦場で戦い負傷した二人はトラウマを負い、重症の輪廻は仮想空間に精神を囚われ、自分のいる世界は現実で啓嗣のいる世界こそが仮想空間だと主張する。
 輪廻との通話が終わり、啓嗣は、遊びにやってきた妹の久遠クオンと談笑する。ふと、啓嗣はデバイスのカメラを壁に向けズームさせると目を疑った。壁を、物理法則を無視して人間がすり抜けて現れたのだ。しかも現れたのはなぜか久遠で、姿は瞬時に壁の向こうへ消えた。
 この出来事を皮切りに、壁を人がすり抜けたと証言が相次ぐが、政府は集団幻覚として処理する。
 啓嗣はトラウマの治療を受け抑圧された記憶が蘇り、久遠が仙台の市街戦で死亡したことを思い出す。また啓嗣はハッカーである輪廻の助けを借り、壁の検問所の監視カメラを目にした。久遠が壁の西側に追放されたが、壁の向こうは荒野でなく虚無の闇が広がっていた。
 真相を確かめるため啓嗣はふたたび久遠と会うが、その最中、世界がバグを起こしたように形を歪め、啓嗣の意識は消えた。

目を覚ました啓嗣は病室で拘束されていた。そこ現れた久遠の姿をした「なにか」は、この世界が実は軍事戦略シミュレーションであり、仙台も人々も、啓嗣もすべてデータに過ぎないと明かす。「なにか」は死んだ久遠の姿を借りた管理ボットだった。壁の向こうは死者のデータを格納する記憶領域であり、啓嗣はシミュレーションのバグとして削除対象とされた。
 削除寸前、輪廻の介入で啓嗣は逃走。輪廻は自分が本当に現実世界の人間だと明かし、仕事の一環で啓嗣とともに戦場で戦ううち、情が湧いて現実世界に連れて行きたくなったと語る。
 輪廻は壁の前に啓嗣を行かせると、ゲームの壁抜けバグを応用して啓嗣をすり抜けさせた。

意識が戻った啓嗣は病室で寝ていた。しかしそこもまた別のシミュレーション世界の仙台で、病院の職員や患者は病室の壁を平然とすり抜ける。
 デバイス越しに、輪廻はこのシミュレーション世界が入れ子状の多層構造であり、現実へ行ける可能性は五分五分だと告げる。
 啓嗣は呆然として病室の窓の外を見た。
 元いた世界と同じく、仙台は雪が降りしきっていた。

文字数:1197

内容に関するアピール

いちばん怖いものは故郷・仙台です。第1回の梗概のアピール文にも書きましたが、変わろうとする人間はたとえ地元っ子でも故郷は愛してくれません。わたしは田舎を追い出された人間で、無慈悲な故郷が怖いとずっと思ってきましたし、おそらく死ぬまでそう思うでしょう。
 仙台という街は創作の世界だとやたら世界の存亡に関わります。『ガメラ2 レギオン襲来』では宇宙怪獣レギオンの繁殖に巻きこまれ街が消滅。ニトロプラスのゲーム『スマガ』では空から悪魔が襲来してきますし、三島由紀夫さえも『美しい星』で人類を滅ぼそうとする宇宙人を仙台から登場させています。
 自分も仙台を舞台にして世界について論じる、スケールの大きい話を書きたいと思い、今回の梗概を提出しました。

文字数:319

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壁を抜ける

仙台センダイの色は鈍色だ。特に死の灰フォールアウトの混じる雪の日は、その鈍色がさらに濃くなる。
 雪はすべてにひとしく降りそそいだ。太平洋沿いの平野に幾重にも連なる、打ち捨てられた塹壕とバリケードに。空襲で破壊された廃墟に。広大な水田を潰して占領軍が設営した空軍基地に。その滑走路から飛び立つF22戦闘機に。連邦自治区のネオゴシック様式の政府庁舎と、屋上にたなびく星条旗に。そして、大企業ハゲタカどものこしらえた公共団地プロジェクトに。
 啓嗣ケイシはこの故郷ふるさとが大嫌いだった。
 なにもかも戦争が悪かった。戦争に負けたこの国は割譲され、東北も大国に分断された。仙台を南北に貫く東北新幹線の高架は、占領軍が改築して街を分断する壁にした。
 鈍色の壁のせいで、仙台はさらに鈍色に染められた。

 

この街で朝に鳴くのは雀ではない。――M4カービンだ。
 二月中旬、朝の旧仙台駅東口・ミヤギノ=アベニュー。通り沿いに建つ戦傷治療者支援公共団地プロジェクトの一室で、啓嗣は窓の外から聞こえる銃声で目を覚ました。
 二日酔いでズキズキ痛む頭を抑え、啓嗣がコンクリート打ちっぱなしの部屋の窓を開けると、外にはめられた金属の格子の間から粉雪と冷気が勢いよく流れこんだ。
 日が出たばかりで空は薄暗い。窓の外に密集する公共団地プロジェクトの群れは鉛の地金インゴットのような見た目で、それらの間から、高さ五十メートルの壁と検問所――旧仙台駅の駅舎をそのまま流用した、茶色がかった地上四階建てだった――が顔を見せている。壁沿いには監視塔が一定間隔で配置され、サーチライトが地面を舐めるように照らし、同時に警備兵はM4カービンの乾いた銃声を鳴らしていた。
 監視塔につけられた大きいスピーカーからサイレンがけたたましく響きだすと、その銃声に誰かの断末魔が重なった。――占領軍は住人に壁の向こう側への通行を許可せず、壁を超えるには検問所を非合法的に突破するしかない。壁を無許可で越そうとすれば当然、射殺対象にされる。
 啓嗣はメンソール入りのキャメルをくわえて火を点けた。煙が風にたなびく。啓嗣はウルフカットを手でかきわけると鈍色の壁へ醒めた視線を向ける。キャメルをひと口吸ったあと、唇から離して、啓嗣は虚無を凝縮させた鈍色の故郷へ憎しみを吐き捨てた。
 ――ざまあみろ。
 壁を超そうとする人間に恨みはないが、電子兵崩れを馬鹿にする人間がひとりでも死ねばいいのに。お前らも電子密林で戦ってみろと啓嗣は恨んだ。
 戦争が起きなければこんなところになんて住んでいない。
 六年前の二月の日曜日、SNSのトレンド欄が開戦の字で埋めつくされた。SNSを洪水のように流れるサムネイルたちはすべて禿げあがった官房長官が映り、官房長官は事務的な口調で、軍事行動の概要を発表していた。高校二年生だった啓嗣は不思議と混乱せず、ついに起こったんだという気しかしなかった。その数日後、全校生徒が校庭に集められた。啓嗣が校庭に行くと、朝礼台のかたわらに、保護者たちが見たこともない服を着て並んでいた。啓嗣の父親も硬い表情でそこに立っていた。それが父を見た最後の記憶だった。
 特別措置法が可決された翌日から授業は消滅し、軍事教練で埋められた。体力錬成。射撃訓練。電子密林への精神転送コンセントレーション訓練。卒業生たちが海上で、陸上で、電子密林で玉砕するたび、全校生徒が校庭で八九式五・五六ミリ小銃を掲げ、黙祷を捧げた。
 卒業式は前倒しで二月に行われ、啓嗣たちは校長から卒業証書とともに軍の辞令を授与された。啓嗣の配属先は電子軍の歩兵部隊だった。十八歳歳の啓嗣は辞令を見た瞬間に、二十歳までだったら生き伸びられるだろうという淡い希望をすぐさま絶った。
 電子密林――科学文明の基底に生い茂る、ネットワークの密林ジャングル。人類の欲望と技術により造られた無限の空間と永遠の静寂。無数の通信コレスポンデンスつるが生えた森林には乱雑に光るノイズの雨が常時降りそそぎ、その密林に埋没するように、国家や技術巨頭ビッグテックの白色に輝く神殿サーバーと、それを守るセキュリティサービスの兵士、潜伏する民兵ハッカーと敵対国の兵士がじっと息を潜めて、森に溶け混じっていた。
 十九歳の誕生日、啓嗣の所属する電子歩兵の部隊は、よりによって激戦地のモンタナ電子密林へ送られた。仙台はすでに攻撃に晒されていた。爆撃の音の鳴り響くなか、啓嗣はほかの電子歩兵とともに地下壕へ集められ遺言を書かされると、上官により脳とネットワークを接続された。精神転送コンセントレーションが完了すると、海底ケーブルはとうの昔に切断されていたので、啓嗣たちは人工衛星を経由して太平洋を超えた。モンタナ電子密林へ降り、アメリカ空軍マルムストローム基地の神殿サーバーを破壊するため敵兵と戦った。電子世界で玉砕すれば、当然、物理世界でも玉砕する。無謀な作戦だった。電子密林を行軍していた啓嗣の部隊は野営中に奇襲を受け、殲滅した。部隊で生き残ったのは片手で数えられるほどで、啓嗣は高度電子戦傷病棟に入院し、硬いベッドのうえで敗戦を知り、啓嗣の直感は外れた。その日は二十歳の誕生日だった。
 死ねば英霊、生きたら国辱。電子兵崩れに戦後を生きる価値を世間は与えず、死に損ないと見下し平然と裏切った。啓嗣は社会復帰の機会をつかめず、貧困層へまっ逆さまに堕ち、公共団地プロジェクトに流れ着いた。
 啓嗣が煙草を吸い終わって窓を閉めると、手元の網路突触ネットシナプスから通知音がした。戦前まではスマートフォンと呼ばれていたそれは、すでに電話なんて機能は消滅していたし、画面を見なくても手に埋めたチップをかざせば、脳内で想像できることならなんでもできる。
 画面を見ずとも手のひらからの信号が脳に送られ、通知が二件入っているのを確認した。啓嗣は「またこいつらかよ、ひでえ中毒者ジャンキーだな」と悪態をつき、そのまま脳内でチャットアプリを開くことを想起した。
 ゲームのチートツールの製造は教官から怒鳴られ覚えた電子手榴弾の製造方法よりはるかに簡単で、電子兵崩れにとって手っ取り早いビジネスだった。ツールを使えばゲーム内のコインを異常増殖させたり、目をつぶっても百発百中の精度でヘッドショットをさせたり、ありえない移動速度でフィールドを駆け巡ったりすることができる。アメリカ本国にいるティーンエイジャー様がママのクレジットカードをこっそり盗んで啓嗣のつくるチートツールを買い、モンスターかドクターペッパーを飲みながらオンラインゲームの大会でこっそりツールを使って勝ち、承認欲求を満たす。――世の中を舐め腐ったガキ相手の商売は屈辱だが、糊口をしのぐ手段はこれぐらいしかなかった。
 今回の注文も二件ともウォールハックだった。ゲーム内の壁やオブジェクトを透過させ、本来見えるはずのない敵の位置や情報を表示させるそれは、奇襲が好きな卑怯なFPSプレイヤーに人気だった。啓嗣はウォールハックが大嫌いだった。――啓嗣のいた部隊は野営地にいたとき、電子障壁で外部を遮断していた。アメリカ電子軍はその障壁をいともたやすくウォールハックし、障壁に壁抜けバグを起こさせ、精神侵入型情報小銃の暴力的な雨を啓嗣たちめがけて叩きつけた。
 啓嗣はチャットアプリへ形式的なメッセージとツールのデータを入力する。すぐさま、入金されたのを感知した。これで治療費を稼げた。
 啓嗣はアプリを閉じてまたキャメルを吸った。天井を見上げるとうっすらと亀裂が走っていた。
 人生の敗北者はただ生きることさえ許されない。誰も助けてくれない。
 戦傷の治療プログラムは昼から始まり、午前中は何もやることがない。啓嗣は煙草の火を消すと。打ちっぱなしのコンクリートの床をのそのそと歩き、ベッドへ向かった。ベッドは柔らかいものだった。高度電子戦傷病棟の簡素で硬い病床を連想させないよう、市の福祉担当者が配慮してくれたのだ。
 そのベッドに飛びこもうとした瞬間、啓嗣は目を疑った。ベッドに女が寝ころがっていた。女はマイクロソフトの網路突触遊技端末ネットシナプスゲームデバイスを操作していた。端末の画面は戦場を映し出す。プレイヤーの素早く正確なエイムと射撃は、啓嗣のいた部隊の誰よりも上手い。
 表示されたアカウント名は、二月永劫フェブラリー・エヴァーラスティング。啓嗣はほっと安堵して女に声をかけた。
久遠クオンかよ。一声ぐらい声かけてくれよ」
「妹に向かってなによ、その言いかたは」
 久遠は返事すると端末から手を離し、ベッドから起きる。細身の肉体。アッシュグレイのボブ。淡いグレーの瞳。丸縁のメガネ。久遠の降り立った床には、制服の上着――久遠のいる、アメリカ電子軍募集司令部eスポーツ部隊のものだ――とロングブーツが転がっていた。
「妹じゃなかったらいまごろ護身撹乱銃を撃っていたぞ」
「わたしが日本大会で優勝したからって無理やり酒を飲ませて、ここに泊まらせたのは兄ちゃんでしょ。特別休暇が出ていたからよかったけどね」
 久遠は床に落ちた制服を羽織りはじめた。啓嗣の頭がさらにズキズキと傷んだ。合成擬似酒で二日酔いするほど飲むなんて久しぶりだった。久遠を帰らせたら、地獄のように熱いシャワーを浴びよう。
「早く帰れよ。昼前には宿舎にいなきゃいけないんだろ?」
「でも兄ちゃんの健康が心配だからさー。論理煙草アルゴリズム・シグズを吸わないなんて遅れているし、不健康だよ?」
「うるせえな。煙は物理煙草フィジクス・シグズの煙を肺にがーって入れるに限る。さっさと宿舎に帰れ」
 そこから二人でくだらない言い合いがはじまった。お互いの網路突触ネットシナプスのメーカーでも争った。啓嗣はグーグル派、久遠はアップル派だった。子どもの喧嘩のような言い合いの最中でも、窓の外からはまだM4カービンの銃声が響く。
 この荒んだ仙台にはもう慣れてしまっていた。
「俺は物理煙草を吸い続けるからな」
 啓嗣はムキになってキャメルを再び持つと窓を再び開けた。
 銃声、閃光。朝日が壁と検問所を照らしていた。
 ふと、啓嗣は壁が気になり、網路突触ネットシナプスを持つとカメラのレンズを向けた。脳内には目で見ている光景と並行して、カメラが見ている映像も流れる。カメラをズームさせる。監視塔のなかで顔を真っ赤にさせて射撃する警備兵たちが見えた。カメラを壁の下に向ける。射殺された人間の腸と赤い肉塊と白い骨との混合物が、壁面と地面にへばりついていた。
 壁が建設されたのは住人の保護のためだった。戦後、東北はアメリカと中国に分割されたが両国とも互いの国と直に接することを嫌がり、ある案が策定された。山形県、秋田県は中国が支配。青森県、岩手県、宮城県、福島県のうち、東北新幹線の線路より東側はアメリカが支配し、西側は米中間の非武装地帯とした。両国は住民を追い出すと非武装地帯の広大な土地を核の炎で徹底的に焼き尽くし、文明の形跡を跡形もなく消し去った。
 そしてこのアメリカ合衆国日本連邦自治区東北郡トウホク・カウンティ仙台センダイシティではこんな噂話が流れていた。壁の向こうにあるはずのない街が存在し、死んだ人間が生きて生活しているというのだ。その噂を否定するため占領軍が発表した写真では壁の向こう側には寒々しい原野が広がっているだけで、当然街なんてあるわけがなかった。
 ドローンを壁の周囲に飛ばしただけでも警備兵のM4カービンで蜂の巣にされる。なのに、朝方は交代時間で警備が薄くなるからという甘い見込みで検問所を突破しようとするだなんて。
 啓嗣が死体を馬鹿にし、二本目のキャメルを口に咥えたその瞬間、自分の目を疑った。
 壁のなかからなにかが飛び出したのだ。
「は?」
 啓嗣は唖然とした。さらにカメラをズームする。それは手だった。腕だった。足も出てきた。胴体も出た。そして全身が出てきた。男だった。男はよたよたとよろめくが倒れなかった。顔を見た瞬間、啓嗣は息を飲んだ。啓嗣は思わず口が開き、キャメルは落ちていった。――紛れもなく男は啓嗣の父だった。校庭で出征を見送ってから一度も会えず、戦死したはずの父がたしかにそこにいたのだった。
 男は、驚いた顔であたりをキョロキョロと見渡す。監視塔からも、検問所の入口に立つ警備兵も、誰も気づかない。男はすぐに壁のなかへ、身を躍らせるように体をねじこんだ。刹那、その姿はあっという間に壁のなかに、吸いこまれるように消えていった。
 啓嗣は言葉が出ず、網路突触ネットシナプスも床に落としてしまった。
「どうしたのお兄ちゃん?」
 久遠が駆け寄ってくる。
 久遠は啓嗣の網路突触ネットシナプスを持つと、共有機能で情報を吸いだしたのだろう、目を見開いて顔が一気に青ざめ、かすかな声でつぶやいた。
「なんで――?」

 

雪が降りだした。分厚い雪雲のせいで昼過ぎの仙台は朝よりも暗くなった。
 啓嗣を乗せた送迎用のバンは仙台平野の東端、海辺をただまっすぐ南へ走る。
 啓嗣はバンの右後方に座っていた。治療プログラムの職業訓練を受けるため、仙台港すぐそば、アマゾンのフルフィルメントセンターで作業を終えたところで、これから啓嗣の住む公共団地プロジェクト群へと戻る。
 外は枯れ草の覆う原野が広がっていて、空爆でできたすり鉢状の穴があちこちに見える。崩壊した廃墟は枯れたつたが絡まっている。その寒々しい原野の西側に文明があった。ネオバロック様式の郡庁舎、空軍基地、占領軍とその家族の住む、白くて清潔な居住地。啓嗣たち被占領民の詰めこまれた公共団地プロジェクト。そしてあの忌々しい、やたら大きく見える壁がそれらのいちばん奥にそびえる。
 網路突触ネットシナプスが小刻みに震えだした。すぐさま啓嗣が握ると脳内の濃く黒い意識へ明瞭なイメージが表象された。
 黒い空間のなかに光が現れ、その光の下で、儚げな顔つきの少年が真っ黒いパーカーを着て立っていた。
「なんだ、仕事が終わったのに。俺は残業しないタチだぞ」と啓嗣が少年に聞いた。もちろん現実では口を一切動かさずに。でないと、隣のシートに座るジジイが嫌そうな顔をして睨みつけるだろう。
「いいや、仕事の話じゃない」
 少年――同じ部隊の生き残りだった小野オノ輪廻リンネ――は、ポケットに手を突っこんだまま返事した。
 電子密林でともに負傷し、高度電子戦傷病棟では隣同士のベッドだった。啓嗣は退院できたが、輪廻は重症で退院できる見込みがなく、すでに肉体は動かなくなり網路突触ネットシナプス越しでなければ会話すらままならない。啓嗣と同い年だったが、輪廻は病が治癒しないかぎり十八歳の姿を永遠に留めるだろう。
 輪廻の姿が突然、細切りに分断され歪んだ。グリッジが起きた。輪廻の真っ白な髪と皮膚はRGBのビビッドな三色に汚染させられたが、またすぐに元の姿に戻った。
 輪廻はポケットから両手を出した。右手は戦時中のモデルの網路突触ネットシナプスが握られていた。――輪廻は啓嗣のいる現実世界がネットワークだと信じ切っていて、だからネットワーク上の存在なのに、網路突触ネットシナプスを手に持って啓嗣と通信している。
「じゃあなんで呼び出した」
「お前の声が聴きたかったからだよ。それに気になることがあったんだ。お前も知ってるんじゃないか?」
 輪廻は左手の人差し指で首をかいた。あまり出っ張っていない喉仏のあたりには、六角形のタトゥーが彫られていた。六角形の頂点には、天使、人、武人、獣、妖鬼、悪魔の禍々しい絵があり、その六角形の中心には上向きの矢印が大きく描かれている。
 輪廻の背後の暗闇にニュースサイトが展開された。今朝、仙台で発生した集団幻覚、、、、のニュースが流れだす。――公共団地プロジェクトの複数の住人が朝方の銃撃を網路突触ネットシナプスのカメラで撮影したところ、壁を人が通り抜けてきた様子が撮影され、動画サイトやSNSに動画が多数投稿された。昼前に東北郡庁と通信会社は網路突触ネットシナプスの誤作動で起きたカメラ機能の不具合だと断定。すぐに公共団地プロジェクトの住人たちへ修正パッチを送ったと発表した。
 電子軍広報部の報道官は記者に向かって「本来ならば対策費を公共団地プロジェクトの利用者に請求するところだ。敗北者を甘やかすほど我々はナイーブでない」と発言した。
 中年男性の報道官の横には、制服姿の久遠が立っていた。――久遠の日本大会優勝の会見があり、その直後に、記者がこの問題を質問してきたのだ。久遠は報道官が発言し終えると、睨みつけるような険しい視線を送った。
「本音がうっかり出たんだろうな」と啓嗣はつぶやいた。
 報道機関は軍の発言をしばらくつっつくだろう。ただでさえ、住民の間にルサンチマンが溜まっている。
「お前のところからも見えたか」
 輪廻が聞くと啓嗣は少しためらい、答えた。
「死んだはずの親父が壁から出てきた」
 啓嗣は今朝見たことを治療プログラムの担当者へ一言も言わなかった。言ったところで、投与される電子精神安定剤の量が増えるだけだ。
「だからいつも言っているだろ。お前の世界は仮想空間で、物理法則も社会のルールもガバガバなんだよ」
「まさか。電子密林症のせいだ。人間がどうやって壁を抜ける? 量子力学のトンネル効果じゃあるまいし」
 啓嗣の乗るバンは交差点に侵入して右折した。その交差点を曲がらす、まっすぐ行けば啓嗣の生まれた荒井地区にたどり着く。戦争前は地下鉄の終着駅のある町だったが仙台攻略戦で破壊され、いまでは戦没者墓地となっている。
「今日も思い出せそうにないか?」
 輪廻が啓嗣に聞いた。啓嗣はいつもどおりの答えを返した。
「ああ、全然思い出せない」
 高校卒業後に電子軍の宿舎へ出頭したその日までたしかにそこに暮らしていた。なのに、啓嗣には生まれた町の記憶がほとんど存在しない。父の記憶は治療プログラムを受けてようやく思い出せたものだったし、そもそも戦争以前の記憶が欠落していた。
 電子密林症――電子戦から帰還した戦傷病者の患うPTSDの特殊例。長期間にわたる精神転送コンセントレーションのせいで、精神と肉体が乖離し、あらゆる境界線を認識できなくなる。啓嗣の場合は記憶の中の過去・現在・未来の境界線が弱く、医師の診断によると、過去の記憶を未来のものだと誤認していて思い出せなくなっている。重度になると輪廻のように現実世界と仮想空間の境界線を脳が間違えて設定してしまい、現実に戻れなくなる。
 もし戦争で勝っていたら電子密林症の治療を日本政府がしてくれたのだろうが、敗戦で国家自体が消滅してしまったため、啓嗣の治療はアメリカの医療制度に基づき実施される。つまり医療費が天文学的数字になる。チートツールの売り上げは治療プログラムにほとんどが溶けた。ツールを使うくそったれたティーンエイジャーと同じ歳のころ、啓嗣は国のために戦っていた。いまの啓嗣は闘病するためにヤツらにツールを売る。なんという屈辱!
 ――数時間前は虚ろな巨大倉庫にいた。無機質な灰色の床は商品を入れる無数の棚が立ち、その脇のサーバールームで、啓嗣たち治療者がコクーンに投入させられていた。
 職業訓練を兼ねた治療プログラムで、治療者たちは脳を計算サーバーにして働かせていた。電子密林症の治療には、人間の精神構造を改変する方法が取られる。すなわち単純作業を膨大に繰り返させることで、治療者の精神構造内に境界線、つまり壁をつくりあげ、それを固定化させる。なお、この治療はあくまで労働でない。だから啓嗣たちは最低賃金を下回る給料で、仕事をこなしていた。
 今日のタスクは中国のギークが生み出したゲームのローンチ対応。弱小メーカーがゲームを世界百二十ヶ国への一斉ローンチさせる大博打をうつため、計算負荷に耐えうるインフラを短期的に構築せねばならない。そのために啓嗣の脳が使用される。
 コクーンのなかで啓嗣は目を瞑る。瞼の裏に見えるのは電子密林の鳥瞰図であった。
 アメーバのように伸びるネットワークの足。その足を、極彩色のパルスが星の回転のように循環していて、ときどきノイズの細やかな信号が流星のように現れて消える――。
 コクーンのなかに警告音が響く。
 啓嗣は歯を食いしばる。深圳のフルフィルメントセンターの負荷が急上昇し応援要請が届いた。
 一瞬にして瞼の裏が緑に染まった。啓嗣の意識はゲームの無数のフローチャートとキャラクターに混濁させられた。
 ――売脳。脳を演算機械として貸し出すことで、普通は訓練が必要だが、電子兵崩れは精神転送コンセントレーションの経験があり訓練が簡単で、雇用側から人気がある。
 売脳時には普通の人間なら意識をすべて持っていかれるが、啓嗣は自分で訓練した結果、左脳の八分の五の領域だけを貸し出すことに成功した。残りの八分の三の左脳と右脳を使い、啓嗣はアマゾンの電子密林を探索していた。
 啓嗣は右目を開ける。――左脳の八分の三の領域が無事に仕事を成している証拠だ。コクーンのなかは緑色で、仕事の処理が遅いと赤く点灯し、一定時間赤になると再教育。二時間の作業時間の間、緑の割合が九十五パーセント以上を保ち続けるとボーナスがもらえる。だが、啓嗣にとってボーナスなどどうでもいい。啓嗣が欲しいもの――フルフィルメントセンターの弱点。
 ハッキングできればセンターをぶっこわしたい。ハッキングして銃殺されるようなヤバいものだったら、近寄らなければいい。情報を仲間に流して、そいつにクラックさせればいいのだから。
 輪廻の声が脳内に響く。
「よう、どうだい。早く来いよ」
「もう少し待ってくれ」
 意識を電子密林に集中させる。ネットワークのつくる電子密林の地面に着地し、光り輝く通信の蔓をかき分け奥に進むと白亜の神殿が見えた。民間企業らしく洗練された曲線で形作られるそれは、芸術的センスと同時に、金満趣味を連想させた。
 神殿の前にはすでに輪廻がいた。
「へえ、こんな程度か。米軍の神殿より開けるのは楽そうだな」
 輪廻の余裕な声を尻目に、啓嗣は輪廻の側に立つ。扉の鍵を確認すると啓嗣は舌打ちした。――見た目は古い鍵だが意外と厄介そうだ。
 啓嗣は振り返って輪廻に警告した。
「油断するんじゃねえぞ。見た目はチャちいが俺の技術じゃこれは開けられない。それに、俺たちが襲撃されたのはマルムストローム基地の神殿をぶっ壊した後だぞ」
 ビープ音が響く。啓嗣は意識を切り替える。コクーンが赤くなっていた。神殿が目の前から消え、ゲーム画面の荒涼とした原野と銃を持ったキャラクターたちが映る。繭はすぐ緑になった。
「輪廻、邪魔が入った」
「そうか。なあ、壁抜けバグを使ってみるか?」
「方法としてはいいな。俺は好きじゃないけど」
「オーケー。じゃあ明日試してみよう」――輪廻の声の直後にたちまち休憩を告げるベルが鳴った。
 バスは旧国道四号線との交差点を直進する。ここまではジョージ・W・ブッシュ通りで、ここから先はドナルド・トランプ通り。片道四車線の大きな道路だった。敗戦直後、この周辺の通りの脇には、コナカ、洋服の青山、東京靴流通センター、ブックオフ、パチンコ屋、業務スーパー、そして数え切れないほどのオフィスビルの廃墟が立ち並んでいたが、占領軍があっという間に撤去し、もともと名前のなかった通りに歴代大統領の名前をつけていた。
 通りの右、旧陸上自衛隊仙台駐屯地の敷地は、東北郡トウホク・カウンティの庁舎になっている。ネオバロック様式の郡庁舎は、中央のドームの先端には星条旗が掲げられている。日本連邦自治区は合衆国の一部であるが、連邦を構成する州でないので連邦議会に議員を送れない。アメリカの市民権を持つ住民も大統領選挙の投票権がないし、知事は公選ではなく連邦政府によって任命される。実質植民地であった。
 負けたら尊厳を根こそぎ奪われる。才能があって努力をしても這い上がれない。久遠は才能があったが、占領地の住民との友好を世界に見せようだなんていう、軍の偽善に乗っかることでしかその才能を生かすことができなかった。
 だが啓嗣としては、もっとその仕事に邁進してほしかった。
 搾取される側で一生社会の底辺で這いつくばるぐらいなら、搾取する側に回ったほうが幸福な人生を送れる。
 バンのなかで啓嗣は硬くて跳ねるサスペンションの振動で揺さぶられながら、今朝見た光景を脳内で反芻していた。
 父は死んだはずだ。戦争の末期になると嘘だらけの発表しかされなかったが、死亡通知だけはまったく驚くほどの信頼性を保っていた。
「なあ、フルフィルメントセンターをやったら今度はどこにするか。検問所とかどうだ?」
 輪廻の誘いに啓嗣は「嫌だね。あそこに攻めたら一発で消されるぞ。久遠も死んでしまう。金持ちだったら、話は別なんだろうけど」と即答して断った。
 金持ちたちはアメリカに媚びて生きながらえた。金も人脈もない啓嗣のような貧困層は地べたを這いつくばって、虫のように蠢き、死んでも誰にも気づかれない。
 人生は自己責任。誰も助けてくれない。
「つまんねえヤツだな」と言うと、輪廻の姿はたちまち啓嗣の脳裏から消え去った。
 ドナルド・トランプ通りをしばらく進んで数回曲がるとミヤギノ=アベニューに着く。
 バンは公共団地プロジェクトの広場で停車した。啓嗣が降りると、広場の端に毒々しい緑青のような車が止まっていた。その車――検察の護送車――からオレンジ色の囚人服を着た若者たちが列をなしてでてきた。みな、結束バンドをつけられていた。
 見たくもなかった。顔を背けようとした啓嗣の視線に、ふと、一人の少女の顔が入ったてきた。
 ――眼の前の光景が信じられなかった。少女は久遠だった。しかもそれはいまの久遠ではない。啓嗣の出征を見送った、十四歳の久遠だった。少女は啓嗣を見ると驚く顔をしたが。警備兵たちが強引に腕を引っ張った。
「久遠、死んだはずじゃ……」
 啓嗣は自分の口から出た言葉に驚くと同時に、脳のなかでなにかの封印が解除された感覚をおぼえた。
 電子密林症の治療の成果で抑圧された記憶が復活したのかもしれないが、この記憶の封印は解いてはいけないものだったと啓嗣は後悔した。
 久遠――そう、久遠はすでに死んだ。

 

荒井地区だった原野には同じ形の墓標が整然と並んでいる。みな、同じ仙台攻略戦で死んだ。
 啓嗣は戦没者墓地の正門を通り、墓標の間を歩く。数分程度歩き、千葉家の墓にたどり着く。
 墓標には父とともに久遠の名が刻まれていた。
「どうしていままで来なかったんだ――」
 啓嗣は手を合わせると同時に恐怖した。いまいる久遠はいったい誰なのか?
 脳内で輪廻の呼びかける声がする。
「啓嗣、こいつを見てみろ。おっもしれえぞ」
 輪廻が両手を広げると、脳内の景色が明るくなった。検問所の監視カメラの様子がはっきりと映し出されていた。
 仙台駅として使われていた時代は高さ・幅十六メートルの巨大な自由通路だった。いまでは空間をコンクリートの壁が塞ぎ、その下部にシャッター式のゲートがあった。啓嗣が見た若者たちはうなだれながら立っていて、当然久遠もいた。ゲートがきゅるきゅるとした音を立てながら開くと、その奥を見て啓嗣は驚いた。
 ゲートの奥にあるべき原野は一切見えず、虚ろな真っ暗い空間だけがあった。
 制服を着た検問所の職員が若者たちを蹴り飛ばしながらその虚ろな空間に押しやった。久遠もその暗黒に入れられ、姿を消した。
「ようやくやる気になった?」
 輪廻は無邪気に笑った。
 久遠の正体を知る必要が出てきた。
 啓嗣は輪廻の助けを借りることにした。

 

墓地から去ると啓嗣はバスに乗って、そのまま郡庁舎の方角へ向かった。
 庁舎の北、ロナルド・レーガン通りで啓嗣はバスを降りて、電子軍の基地にたどり着く。基地といっても、傍からみたらただのオフィスビルの脇に、昭和の団地のような宿舎が数棟並んでいるだけで、建物の色はもちろん鈍色だった。
 その宿舎には久遠の垂れ幕がいちめんに貼られていた。
 
 ――祝 eスポーツ部隊・千葉久遠一等軍曹(選手名・二月永劫)、全米大会出場!
 
 アッシュグレイのボブカット。丸眼鏡の奥の気だるげな瞳。制服の襟を正して直立した姿、そしてその横に映る、久遠が使うゲームのアバターへ、雪が降って当たっている。
 網路突触ネットシナプスを握ったまま、宿舎の隅の小さな建物に行く。
 その建物は面会所だった。手続きをして入ると、寂れた食堂のような部屋に通される。年季の入ったテーブルとプラスチック椅子があり、窓を厚めのカーテンが覆っていた。
 椅子に座りながら、啓嗣は検問所の映像を思い出した。
 あのとき見た久遠は、過去の久遠はなんだったんだろうか。これも電子密林症の症状なんだろうか。輪廻も電子密林症の症状で見えているだけで、実は存在しないんじゃないのか? だとしたらあきらかに症状が進行している。
「輪廻、聞こえるか」
 啓嗣が呼びかけると輪廻が脳内に現れる。
「ああ」
「もしものときはよろしく」
「いちおうだけど、検問所で久遠を見たことは絶対に言うなよ」
 奥のドアからノックがした。扉が開くと久遠がいた。
 啓嗣は持ってきたバーガーキングの袋を目の前に出す。
「ほら、お前の好きなアボカドワッパーだぞ」
 机の上に袋を置く。
「ほんとに、食べていいの?」
 久遠の声は感情が感じ取れない。
「ああ」
 啓嗣は笑ってみせた。
「ありがとう」
 久遠はワッパーの包み紙を開けようとした。
「お前、なにか隠し事をしてないか?」
 啓嗣が聞くと、久遠の包み紙に触れた指先が、ほんのわずかに強張った。
「昔って、どのくらい昔?」
「戦争に行ったとき。それから、もっと昔のことも。なんだろう、久遠と一緒に小学校へ行っていたときの」
 啓嗣は喋ると同時に驚いた。これは決して自分の意志でない。そしてここにたどり着くまでうるさいほど通信していた輪廻の声が全く聞こえなくなっていた。
「ありえない。お兄ちゃんは絶対にその記憶がない」
「ちょっと待ってくれ、俺、なんか変なんだ。口が勝手に動いた。思い出したはずなのに、ちゃんと『思い出してる』って感じがしない」
「じゃあ」
 久遠は一拍置いてから言った。
「なにか小学校の時の話をしてよ」
「もちろんだ」
 啓嗣は即答したがその直後、言葉が一切続かなかった。
「おかしい」
 久遠は落ち着いた声で言った。
「電子密林症の症状だと思う。記憶の整合性が取れなくなっているね」
 久遠の言い方が断定的になって、視線はまっすぐ啓嗣を射抜いた。
 ――違う。これは症状じゃない。
 啓嗣の脳内に輪廻の声が響く。慌てふためいたような口調だった。
「失敗した。啓嗣、いますぐ逃げろ」
 啓嗣はすぐさま立ちあがって駆けると、面会所の扉に向かう。
「どこにいくの!」
 久遠は必死になって啓嗣の腕をつかんでひっぱった。しかし啓嗣は久遠の手を振りほどいて扉を開く。
 ――啓嗣は目を疑った。目の前の軍の基地や郡庁舎が、まるで粘土のように上下左右伸び縮みして振動し、仙台の鈍色の街は、ドット絵のように無数のピクセルと化し無数の色が入り混じっていた。
「なんなんだこれは!」
 悪夢のような仙台へ啓嗣は叫んだ。そして気づいた。そもそもこの街はおかしい。いくらなんでも晴れた日が一日もないなんておかしいし、啓嗣の記憶のなかにある日付は全部二月だった。まるで二月、、永劫、、に続いているように。
 この世界は最初からおかしかったのだ。
 啓嗣は頭を抱え、地面に崩れ落ちた。視界がぐるぐる回った。久遠は啓嗣を冷たい視線で見下す。久遠の瞳は雪の結晶のように冷たく輝いていた。

 

気がつくと啓嗣は硬いベッドの上にいた。白い壁。白い天井。窓はない。
 高度電子戦傷病棟のそれよりはマシだが、消毒液の臭いが鼻を突いた。
 啓嗣が体を起こそうとすると、胴に拘束具が食いこんだ。
 病室のドアが開き、足音が近づく。
「起きたの?」
 声は久遠のそれだったが違和感があった。アッシュグレイのボブ、丸縁のメガネ、軍の制服は久遠そのものだったがまったくの無表情だった。啓嗣は電子歩兵の訓練中、同期が上官の暴行を受けこんな虚無の表情をしているのを見たことがあった。
 啓嗣は睨みつける。脳内で輪廻の声を呼び出そうとするが、網路突触ネットシナプスの通信がジャミングされているらしく、雑音しか聞こえない。
「誰だ、お前。久遠じゃないな。本物の久遠は仙台攻略戦で死んだ」
「久遠」はゆっくりとベッドに近づき、ベッドの脇の丸椅子に座った。
 淡いグレーの瞳が、啓嗣をねめつける。
「正解よ。このボディはね、兄ちゃんの記憶からコピーしたの」
「じゃあお前の中身は、魂はなんだ」
「この世界の神って言えばいいのかな、いや、管理担当者ってところね」
 理解ができなかった。久遠は言葉を続ける。
「そもそも気づいていると思うけど、この世界って現実じゃないの」
「久遠」が手を振ると、部屋の壁が透明と化し、外の仙台の街が早回しで動きだした。空軍基地のF22は離陸するとふたたび基地へ着陸し、また離陸し、意味のない運動を繰り返し、公共団地プロジェクトの住人たちは、機械仕掛けの人形みたいに同じ動作を反復。鈍色の空はどれだけ時が経過しても絶対に色を変えない。
 啓嗣の頭がズキズキ痛む。戦争、占領、壁――全部、現実でない? 輪廻の言ったことが本当だったのか? 父の姿、検問所の虚無の闇、墓に刻まれた久遠の名前がフラッシュバックする。吐き気がする。
「説明するね。現実だと、日本はまだ存在するの。わたしのボスは政府機関に雇われ、安全保障の戦略計画と実行のためにシミュレーションを構築した。わたしはボスの下で、日本がもう一度戦争に負けたときのシナリオ世界、つまりこの世界の管理担当をしている。壁の向こうは、シミュレーション上で死んだ人間のデータを格納してデータを分析して、必要ならば生き返らせて再利用するための記憶領域。つまり人工のあの世みたいなものよ」
「久遠」は啓嗣の手を取った。
「俺の人生は全部、いや、俺自身もそのシミュレーションのデータってことか――」
「当たりね。あなたも、あなたが見た父も、死んだ久遠も、0と1のバイナリ形式で表記できる、ただのデータで、壁が持つ分離機能が不具合を起こしてあなたの父が壁をすり抜けたの。見つけ次第、検問所の職員――まあ、彼らも管理ボットだけど――が送り返す。でも、わたしが本物の久遠でないと知られたせいで、システム自体にバグが発生した。あなたを抹消しないと、この世界の整合性が崩れる。だからね、千葉啓嗣さん、、、、、、、省令によりあなたを抹消します」
「久遠」の手に、虚空から注射器に似た金属状のデバイスが現れた。
 啓嗣は拘束を振りほどこうとするが、体が動かない。
 ――死にたくない。ここで終わりたくはない。電子密林の記憶。部隊の殲滅、電子兵崩れと蔑まれた屈辱、チートツールの販売。全部、ただのデータか? 怒りが湧く。
 たとえこの世界が仮想ハリボテでも、この理不尽で痛みだらけの人生は、絶対に本物だ。
「啓嗣! ようやくつながった。逃げろ!」
 啓嗣の脳内に輪廻の声が響き渡る。同時に「久遠」の顔が一気に歪みだすとドロドロに溶けだした。
「ああ、あああああ!」
「久遠」は椅子から転げて床でのたうち回った。
 啓嗣は小野に問いかける。
「輪廻、俺はどうすればいい」
「壁だ! 壁を抜けろ! 待ってろ、いま転送してやる」
 啓嗣の視界が一気に歪むと世界ははたちまち再構成され、目の前には壁が現れた。

 

 壁の監視塔のサーチライトが啓嗣に当たると次の瞬間、乾いた発砲音が響き、M4カービンの弾丸が足元で跳ねる。
「走れ、啓嗣! 壁沿いに行け!」
 輪廻の声に従い、啓嗣は壁を走る。
「どうやって壁を抜けるんだよ」
「いまからツールを送る。コードを見ろ、お前なら修正できる」
 輪廻の言葉とほぼ同時に脳内にコードの羅列が現れた。輪廻から送られてきたのは見覚えのある構文で、戦場で何度も弄った神殿破りの壁抜けツールだった。
 しかしこの巨大な壁を抜けるには弱すぎる。
 啓嗣が構文を書き換えた瞬間、高さ五十メートルの壁は急速に輪郭を失うと巨大なポリゴンの集合体へと変質した。――電子密林の神殿の壁もこのように変質させ、壁抜けをする。
 直後、背後から久遠の声が大音量で響く。
「千葉啓嗣、すぐに立ち止まってこちらを向け」
 啓嗣は壁際で止まり振り向く。壁の周囲の建物――啓嗣の住む公共団地プロジェクトも――が左右に裂けて一直線の巨大な道ができて、その道を数台のM1エイブラムス戦車が走行し、戦車の先頭には久遠がいたが、その足は地面を滑るように進んでいた。
「処分を受けなさい」
「――誰がお前の言うことを聞くんだよ」
「じゃあ、最後に言い残すことは?」
 啓嗣は久遠を嘲笑った。
「悪いな、俺は壁を抜けるよ」
 啓嗣は背中から壁に倒れた。壁はすでに物理的な意味を持たなかった。啓嗣の体は壁をすり抜けたがしかし、すぐさまM1エイブラムス戦車から機銃が放たれた。
 倒れる啓嗣は壁の中を見上げた。虚無の闇だった。弾丸は倒れる啓嗣の真上を通過した。そしてそのまま啓嗣は奈落へと真っ逆さまに落ちていった。
 その虚無の空間には、数多の人の形が亡霊のように浮かんでいた――父と久遠がいた。啓嗣に二人は微笑んで、静かに手を振った。

 

――啓嗣の意識が戻って目覚めると、柔らかいベッドに横たわっていた。
 どうやら病院のようだった。窓の外は仙台に似た街で雪が降っていて、中庭を職員らしき人影が歩いていた。だが突然、職員は何の前触れもなく建物の壁をすり抜けた。周囲のほかの職員たちも平然と壁を抜けて進んでいく。
 脳内で輪廻の愉快そうな声が聞こえだした。
「ようこそ。ようやく最初の階層を出てきてくれたな」
 つまり、この世界もまた――。
「ここもシミュレーションか?」
「面白いだろ? このシミュレーション世界は複雑な入れ子構造をしていてさ。お前のいる場所は特に階層が深い。そもそも本当に抜け出せるかすらまだ断言できない」
「じゃあ、確実に現実世界へ行けるわけじゃないのか?」
「確率は五分五分だ。まあ、肉体の用意はしてある。外見はだいたい合わせこんでいるから安心しろ」
「――なぜ俺を助ける?」
 輪廻は、少しだけ言葉を選んでいるように溜めて答えた。
「調査の一環で、お前と一緒に電子密林を這いずり回った。お前は戦友だ。ひとりだけ戦場から帰って現実世界にいても、妙につまらなくてな」
 国家に仕える人間がそんな私情で規則は破らないと啓嗣はすぐに悟った。輪廻の言葉は方便できっと実利的な理由が別にあるはずだが、それを問い詰める気力がいまの啓嗣には湧かなかった。
「ところで久遠は?」
「あいつはまだ駆け出しで、大人の事情なんてもんを理解できないんだ。許してくれ」
 輪廻との通信はそこで途絶えた。
 啓嗣は呆然として、もう一度窓を見た。
 ――雪はすべてにひとしく降りそそぐ。鈍色の世界には相変わらず壁が建っていた。
 ここにもまだ、壁があった。

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