人蝶

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人蝶

せめて死ぬときは洒落た服を着たかった。ジャケットはフランクリーダー、腕時計はハミルトン。それ以外の服も装飾品も、すべて趣味のよいもので固めている。死に装束としては悪くないだろう。
 ――自宅隔離から二週間が経つ。区役所が委託した業者が毎日、玄関先まで弁当を届けてくれていたが、いつからか水すら喉を通らなくなり、食べる気力もない。発症当初は毎日、田舎から実家の両親が電話越しに励ましたが、連絡は日に日に少なくなり、もう三日も電話がかかってこない。
 いよいよ死ぬのだと悟った。学生向けのマンションの部屋。壁際のアップライトピアノ。哲学書を詰めた本棚。フローリングの床にはもう何本飲んだかわからない、ウイスキーの空き瓶が転がり、俺もその床に寝ころんでいた。
 目の前にカフカの『変身』が落ちていた。本を取ろうと手を伸ばした。しかし手を開こうにも指がまったく動かない。――いよいよ始まってしまった。
 死んだ「あと」のことも考えると外に出たほうがいい。足をもたつかせながら立ち上がり、玄関へ向かう。
 ドアを肘で開けると桜吹雪が吹きつけた。
 春の夜の、神経を末梢からいたぶるような、蒸してぞわぞわさせる空気。――朧月が夜闇の頂に昇っていて、不定形の輪郭が不気味にすら思えた。
 オールデンのストレートチップを履いてワンルームマンションの廊下に出る。
 マンションの真向かい、通りを挟んだ大学のキャンパスに桜並木があり、街灯の冷たい光に照らされていた。桜の木の枝を縫うように大きな蝶たちが舞っていた。身の丈1メートルほどの巨大な蝶は、翅を羽ばたかせるたびに鱗粉を夜に散らしていた。
 俺ももう少ししたら、ああなってしまう。
 人蝶病。感染経路は粘膜同士の接触で、人蝶ウイルスに感染し長期間潜伏する。発症すると体が縮小して体の動きが鈍くなる。やがて体が硬直して、全身の皮膚が脱げる――つまり蛹になり、末期段階になると蛹から蝶が飛び出してくる。この病気がいつどこで生まれたかは定かではないが紀元前300年頃の中国にはすでにあり、胡蝶の夢の話が実は人蝶病のことを指していたという説もある。
 この致死率100パーセントの病は突如世界中に流行した。人類はほとんど無力だった。せいぜいやれることといえば、蛹になる直前、まだ人間としての意識があるうちに外へ出ることだった。羽化して蝶になったとき、閉じ切った部屋から出られずそのまま死ぬ事例がうんざりするほど数多く報告されていた。
 廊下の非常階段の下からいびきが聞こえた。階段の下を覗く。申し訳ない程度の広さしかない踊り場には禿げあがった男がスーツを着てぶつぶつと寝言を口走っていた。
 こんな男が生きて、まだ若い俺が死ぬ。
 不条理という言葉がこんなに似合う瞬間はない。
 ふたたび玄関の前に戻る。マンションの壁は桜の花びらがべったりとくっついていた。人間として死ぬ前に、廊下で月でも眺めていようかと思った。せめて、他に誰かいてくれればと思った。彼女は、俺が人蝶病になったと知るとたちまち音信不通になった。まだキスもしたことがなかったのに。
 隣の部屋のドアが開く。姉さんが現れた。休みの日のタクシードライバーのような、擦り切れたジャージを着ていた。事実、姉さんはタクシードライバーだった。
「いい靴の趣味してんな。オールデン? 若いくせに背伸びしてんな」
 姉さんはプルームをポケットから取りだし聞いてきた。
「いまから俺、蛹になるんですよ。怖くないんですか?」
「全然。空気感染しないんだろ? むかしのコロナ禍に比べたらまだかわいいもんだ」
 俺のラウンド型の眼鏡に桜の花びらがついた。真っ暗なキャンパスからはスケボーの転がる乾いた走行音がやかましく聞こえる。
 ひとりで静かに死ぬのは嫌だなと思った。
「もしよかったら、俺が蛹になるところ、観察します?」
 姉さんは一瞬だけ固まると、プルームをくわえ白い煙を吐きだす。その間、俺を値踏みするように見ていた。
「どうしてだよ」
「証人になってもらいたいんです。俺は彼女にも、家族にも見放されました。蝶になる前に誰かに看取られて人として死んで、蝶として生まれ変わりたい」
「――仕方ねえな。明日も休みだ。蛹になる瞬間なんてそうそう見られないしな。つきやってやるよ」
 俺は安堵すると壁にもたれかかる。その瞬間、体の奥で内臓が熱を帯び流動するように感じた。
「もうそろそろです」
「早いな。じゃあ最後に、なんか言っとけ」と、姉さんは俺の背中へ手を回した。
「――彼女に、って言いたいところですけど」
「けど?」
「この世界に、です。――また会いにいきます、って」
 皮膚の内側から別の膜がせり上がる感覚。頭の中がすーっと冴えた。開けたままの口から真っ白な糸を吐く。空中に飛びだした糸は月光に照り輝き煌めいた。
 ――はは、これから蝶になるんだ。夢みたいだ。ならこの夢をずっと見てみたい。

文字数:2000

内容に関するアピール

中国の古典をたまに読むのですが荘子の「胡蝶の夢」の話が好きでして、あの物語の美しさをどうにかしてSFで表現できないかと思い今回の作品を書きました。

文字数:73

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