梗 概
あなたのために血のジュレを
「吸血病」が蔓延し、人々が血液を飲まないと生きていけなくなった社会。大手製血メーカー〈サングイーニ〉の研究所に務める紅沢花は、〈疑似人血〉と呼ばれる人工血液の製造について研究していた。彼女が取り組んでいるのは、携帯型製血装置〈ミニコル〉の開発。水さえあれば疑似人血をどこでも簡単に作り出すことができる装置だ。疑似人血が不足している地域では、人血目当ての犯罪が問題化している。貧しい家庭で生まれ育った花は、あらゆる人に血が行き渡る世界を実現したいと考えていた。
花は会社同期で海外事業部の松代高志と付き合っている。二人はともに料理が趣味。休日には互いの家で洒落た人血料理を作り、夜になると愛を交わしながら互いの血を啜る。
ある晩、花は高志の社用スマホに届いたメッセージを見てしまう。メッセージでは、サングイーニが発展途上国の子どもたちの血を密かに輸入していることが示唆されていた。花は高志を問い詰めようと思いながら、彼を失う怖さから切り出すことができない。そうこうするうちに高志のI国現地法人への出向が決まる。高志は花にプロポーズする。花は迷いながらもそれを受け入れ、同じくI国の研究所への出向を願い出る。
I国に渡った二人は当初、穏やかな結婚生活を送る。しかし徐々に幸せに影が差す。花は現地でミニコルの普及に邁進するが、夜な夜な強制的に採血される子どもたちの夢にうなされる。一方の高志は異国で働くストレスから、吸血の頻度が上がっていた。やがて中毒症状に陥った高志は、疑似人血では満足できなくなり、執拗に花の血を求めるようになる。花が拒むたびに、高志は不機嫌になっていく。人血料理を作っても見向きもしない。
ある晩、深夜に高志が家を抜け出す。不審に思い後をつけると、高志が違法な人血提供店に入ろうとしていた。止めようとした花を、高志は突き飛ばす。「おまえが悪い」「ミニコルなんてしょせん自己満足のお遊びだ」などと暴言を吐き、店に入る。花は逃げるように帰宅すると、高志の社用端末にログインし、サングイーニの搾取的児童労働・偽装表示等の証拠を入手する。その夜のうちに花は荷物をまとめて家を出ていった。
帰国した花は退職し、メディアに情報をリークする。サングイーニの評判は地に落ち、I国現地法人は閉鎖に追い込まれる。同時期に花の妊娠が発覚。花は高志との連絡を断ち切り、一人で育てることを決意する。
十年後、花はI国で子どもと暮らしている。現地の大手製血企業に勤める彼女は忙しい。I国は十年で経済的にも技術的にも飛躍的に成長し、花の務める企業がサングイーニを買収するという話も出ている。実現すれば、ミニコルの技術を転用し、より大規模なプロジェクトも進められるだろう。
休日——子供を習い事に送り届けた花は、ミニコルで製造した疑似人血を飲んでひと息つく。今日は久しぶりに、凝った人血料理でも作ろうかと思いながら。
文字数:1193
内容に関するアピール
採血が本当に怖いです。注射針が刺され、ゆっくりとどす黒い液体が吸い取られていく様子は、何度経験しても見ていられません。
血に限らず、自分の体の一部が奪われることに対する恐怖感があります(歯が抜ける悪夢も頻繁に見る)。でも、それは恵まれていることの裏返しともいえるでしょう。根源的には、「持っているものを失いたくない」という恐怖なのだと思います。
血が資源となった世界においては、貧富の差が血の配分によって現れるだろうという発想から物語を考えました。主人公の花は携帯型製血装置〈ミニコル〉を開発することで、ささやかながらこのシステムに対抗しようとします。一方、パートナーの高志は搾取する側として登場させました。
ミニコルがあまりプロットの中でうまく使えていないので(携帯型である必要性がない)、実作までに詰めたいです。
文字数:358
日曜日に血のジュレを
ここしばらく、頭痛がしている。
それは、脳髄の奥からどくどくと脈打つタイプの痛み。放置しておけば、やがて胃の底へと落ち、吐き気となって横隔膜を圧迫するであろう、なじみ深い不快感。
原因はハッキリしている。血が欲しいのだ。
「花ー? クッキングシートどこだっけー?」
キッチンから高志の声がする。私は閉じていた目を開き、ため息を吐いた。トイレから立ち上がって水を流す。軽い立ち眩みがして、一瞬、また目を閉じる。今回はいつもより生理が重い気がする。
「上の戸棚。左の方にない? ちょっと奥にあるかも」
ジーンズを引き上げて、念のため汚れがないか確認する。長い付き合いだからといって油断は禁物だ。
そんな私の緊張とは裏腹に、返ってくる高志の声はどこまで暢気だ。
「えー、ないよ。アルミホイルならあるけど」
キッチンに戻ると、高志ががさごそとシンクの上の戸棚を探っていた。身長が高い高志は私より見通しが効くはずなのに、なぜか物を探すのは下手だ。
「ちょっと、どいて」
私はつま先立ちになって、手の感触だけで戸棚の中を探った。すぐにクッキングシートが出てくる。
「はい」
「ありがとう」
にこっと笑う高志の口元から、尖った犬歯が覗く。一瞬覚えた苛立ちもすぐに霧散した。私は高志の犬歯に弱い。
花は台所に並べられた食材を眺める。中心に置かれているのは、大きなガラスのボウル。中には、深紅の血が満ちている。
「たまにはいいやつをと思って。馬の血を原材料にした疑似人血なんだって。珍しいでしょ?」
嬉しそうに話す高志の言葉はほとんど入ってこない。漂う鉄っぽい匂い。自然と涎が湧いてきて、ごくんとそれを飲み込む。頭の痛みは、ずきずきと増している。
高志とはもうすぐ付き合って二年になる。同じ会社の同期である彼は、最初はただの同僚のひとりに過ぎなかった。
距離が縮まるきっかけになったのはお弁当だった。
私は料理が趣味で、毎日、会社に手作りのお弁当を持参している。天気のいい日は近くの公園まで歩き、ベンチで食べるのが日課だった。その公園で出会ったのが、高志だった。
「紅沢さんもお弁当なんだ~」
当時の高志は、まだ私のことを名字で呼んでいた。私も彼のことを、「松代くん」と呼んでいたと思う。
とにかく、ふたりとも料理が趣味だとわかってから、私たちの距離はぐっと近づいた。知り合ってから三か月で私たちは付き合って、半年も経つと頻繁に互いの家を行き来するようになった。
いつしか、人血料理をいっしょに作ることが、私たちにとってかけがえのない時間になっていた。
「塩を少々、だって」高志がスマホでレシピを見ながら言う。「いつも思うんだけど、少々ってどれくらいが正解なんだろうね」
「人差し指と親指でつまんだくらいの量」ニンジンを細切りにしながら、私は即答する。「ちなみに、『ひとつまみ』が人差し指と親指と中指でつまんだ量」
顔を見なくても、高志が大げさに目を見開いているのがわかる。
「花ちゃんはやっぱりすごいなあ。伊達に研究員やってるわけじゃないね」
「関係ないと思うけど」
私は切り終えたニンジンをパターに移す。料理好きといっても、高志は大雑把で、最終的に美味しく食べられればいいと思っている。私はもっと神経質で、分量も正確に測らないと落ち着かない。
一時間後、私たちは出来上がった料理を前に満足げに立っていた。今日の献立は五品——野菜と血のジュレ、ミネストローネ、レアステーキ、付け合わせのローストポテト、デザートには血のムース。社会人の休日のディナーにしては、上出来だと思う。
リビングの窓から、強い西日が射しこんですべてを茜色に染める。純白のテーブルクロスが血の色に染まって私の食欲を搔き立てる。
私たちは席に着くと手を合わせた。
「いただきます」
カトラリーを手に、料理と、血をいただく。至福の時間が訪れて、私の頭からさーっと痛みが引いていく。
高志の鋭い犬歯が、私の首筋に突き立てられている。
すこしささくれ立った唇が、貪欲に血を吸い上げて、私は思わず声を漏らす。その声がさらに高志の渇きを促す。私の首を抑える手に、力が入った。
ふだんはすこし広すぎるダブルベッドは、高志がいることで完成される。のしかかる熱と重みから体をよじりながら、私も高志の血を吸いたい、と思う。だけど私が高志の首元にそっと歯を当てると、熱はわずかに温度を下げ、重みがふっと軽くなる。
それを誤魔化すように、私はそのうなじに顔を埋める。
マットレスが軋んで、高志の手が下の方へと伸びていく。
「だめ」
さっきも言ったはずなのに、と思いながら、私はなるべく優しく言う。
「いいじゃん、別に」
子どものようにごねる高志を可愛いと思っていた時期もあった。今でもある。でも、生理二日目の深夜一時となると話は別だ。
私はふーっと息を浅く吐いて、無理やり高志の顔を私の首筋に押し付ける。
「こっちで我慢して。ほら、もっと吸っていいから」
「ケチ」
こっちはただでさえ血が不足しているのに、なにを言っているのだろう。頭の奥で、擬人化された頭痛ちゃんがこちらに手を振っている。私はこっちに来ないで、しっしと彼女を追い払おうとする。
そっと高志の首筋に爪を立ててみる。赤子のように私の血管を吸っている高志はなにも気づかない。
そのまま、すっと爪を滑らせた。暗い部屋に赤い筋がうっすらと浮かぶ。
「ね、私も吸っていい?」
返事も待たずに舌を這わせる。私たちは獣のような唸り声を上げながら、互いに貪るように首を吸い続ける。
痛みは再び遠のいていく。少なくとも、今のところは、大丈夫だ。
高志と私は、サングイーニという大手製血会社で働いている。
二十一世紀初頭に発生した〈吸血病〉は、あっという間に全世界に拡大し、世界の常識をがらりと変えた。吸血病患者は、日常的に他者の血を欲する。欠乏すれば死に至ることもあり、当初は社会に大混乱をもたらした。
やがて動物の血から〈疑似人血〉なるものを製造するようになってからは、人々の病状は多少落ち着いた。人間の血への渇望は抑制され、「真正の」血を飲むことは、恋人や家族など、親密な関係性の者たちだけの間で許される行為となった。
その疑似人血を製造する会社の最大手が、サングイーニである。
「紅沢さん、この試料、低温室に保管してくれる? 終わったら、Bグループのミニコルでサンプル作り始めてちょうだい」
「はい、わかりました」
私は実験室で製血されたばかりの疑似人血を受け取る。仕事場にいると、不思議と血への渇望は薄れる。試験官の中のどす黒い液体は、ただの実験サンプルに過ぎない。
サンプルを低温室に運ぶ。中に入るとひんやりとした冷気が私を迎える。支給された白衣が無防備に感じて、私はそっと襟を引き寄せる。
オープンラックには無数の試験官が並んでいる。私は渡された試験官のラベルに日付とミニコルの識別番号を書き込むと、その列の末端に置いた。
〈疑似人血〉を作る鍵となるのは、携帯型製血装置——通称〈ミニコル〉。かつては巨大なタンクを使って、動物の血やら栄養素やらを混ぜ合わせて作られていた疑似人血だったが、サングイーニが開発したミニコルによって、特殊な使い捨てフィルターに水を通すだけで製血が可能になっていた。持ち運びができる製血装置は画期的で、災害時やレジャーなどの場で重宝された。まだまだ単価は高いが、現在は海外の製造拠点を増やして発展途上国での販路も拡大しようとしている。
私は低温室から実験室に戻り、サンプルを準備し始めた。水筒のような形をしたミニコルの、上部の蓋を開けて水を注ぎこむ。
研究所の作業は単調だ。つい思考は休日の鉄っぽくどろっとした時間の流れを辿ろうとする。贅沢な人血料理と高志の血の味——。
私は首を振って目の前のサンプルに集中する。昼休憩になれば、お弁当を食べられる。不足している血はサプリで補えばいい。
以前は、昼休みも高志と公園でいっしょに食べることができた。しかし、私が本社から離れた研究所に異動になってから、平日に会える頻度はぐんと下がった。
高志は本社の海外事業部で順調に出世街道を歩んでいる。今度もインドに新しくできた工場を視察しに出張に行くと言っていた。地味な研究職と違って、海外営業は華のある仕事だ。私は高志のことを羨ましく思う。
ミニコルの蓋を開ける。中の疑似人血がはねて、私の白衣に小さな染みを作った。
平日は車窓の景色のように、ぼやけて過ぎ去っていき、忘れた頃に束の間の休息が訪れる。
土曜日の夜。今度は、私が高志の家に行く。はっきりと決めているわけではないけれど、だいたい週おきに交互に家を行ったり来たりしている。
駅の近くのスーパーで食材を買って、ふたりでエコバッグを持って家に向かう。三月の上旬、まだ寒いけれど、ちょっぴりと春の匂いが夜風に混じり始めている。
「私、春が一番血の匂いがする季節だと思う」
思い浮かんだ言葉をそのまま放り投げると、高志は自然にそれを受け取ってくれる。
「どうして? 秋の方が赤いし、冬の方が死を感じるけど」
「うーん。秋は肉で、冬は骨。夏は肌で、春が血って感じなんだよなあ」
「なんか、よくわからないけど、ちょっとわかるのが悔しいな」
高志はそう言って白い首をのけぞらせる。青筋が浮いていて、ほら、今そこに春が流れてる、と私は思う。
夜、血と肉と申し訳程度の野菜で腹を満たした私たちは、高志のベッドで寝る。高志は血を吸うと満足してすぐに寝てしまう。私はしばらくその白くて大きい背中に顔を埋めながら、じっと彼の温もりを吸う。
ふと、暗闇のなかに青白い光が浮かぶ。私は高志を起こさないようにそっと体を起こした。ベッドの脇で充電されているスマホ。高志の社用スマホだ。
再び頭を枕に寝かせようとしたけれど、画面が何度も明滅し、さすがに気になった。そっとベッドを抜け出して、スマホを覗き込む。メッセージアプリからの通知。しかも何件か立て続けに届いている。そっと通知のタブを押してみるけれど、内容までは読めない設定になっている。
社用スマホで浮気をする男の話をSNSで最近見た気がする——その考えが一度頭をよぎると、私は自分を抑えきれなくなった。社用スマホのパスワードは四桁の社員番号だ。簡単に開けることができる。
ベッドの上をちらりと見ると、高志はいびきをかき続けている。私はスマホのロックを解除した。すぐにメッセージアプリを開く。
目に飛び込んできた言葉は予想していないものだった。
「インドから輸入した人血は質がいいと評判らしい。研究部には鶏の血だと偽っているが、被験者の中毒性がちょうどよいとのこと」「インドは未成年の血液提供者も多いらしい」「若い血が美味いというのはどこの国でも本当なんだな」
ひときわ大きないびきが聞こえて、私は我に返る。スマホをそっと元の場所に戻すと、目がひりつくようなブルーライトが消え、暗闇に蛍光色のシミが残った。
メッセージの送り主は、海外事業部の部長で高志の上司にあたる人だ。だが、その内容はにわかには信じがたい。疑似人血に本物の人血を混入させることは禁物だし、それが海外の未成年者から採られたものならなおさらだ。本物の人血は、中毒症状を引き起こしやすい。私だって、高志の影響で生血を飲むようになってから、頭痛に悩まされることが多くなった。それでもやめるのは難しい。疑似人血に混入していることが世に出たら、大問題になる。
ベッドに戻った私は再び高志の顔に鼻を埋めてみたが、さっきみたいな安心感はもうない。しばらくして、私は寝返りを打った。
朝になったら高志に聞かなくてはならない、と思う。適当なところもあるが、根は優しい男だ。そんな違法行為の片棒を担ぐようなことをしているわけがない。
いや、聞けない——だが、聞くしかない——でも、本当だったら?
私はその夜眠れなかった。寝返りを打つたびに、考えが変わった。高志の背中、壁の暗闇、背中、壁、背中、壁……。
翌朝起きた高志は「おはよう」と言って眠そうに私の首筋を噛んできた。
メッセージのことは、結局聞けなかった。
高志のインド現地法人への出向が決まったのは三月のことだった。
「すごく急な話で申し訳ないんだけど」
珍しく神妙な様子で切り出した高志は、海外事業部がインドでの事業を拡大しようとしていること、現地法人の駐在員として高志が抜擢されたことを説明した。
「花が開発してるミニコルも、今後インドでの需要が増えていくと思うんだよね。普段、花が研究頑張っているのを見てるからこそ、俺もそこに力を入れていきたいと思っててさ」
高志は珍しく饒舌だった。私たちは食卓を挟んでいる。今日は私の家で、夕方から料理を作っていた。そのときから春の人事異動については話していた。
私たちが務めるサングイーニは従業員数が多く、他部署の情報はほとんど入ってこない。海外事業部と研究開発部のように、接点のない部署どうしはなおさらだ。
たわいもないゴシップばかりだと思っていたら、食事が始まった瞬間とんでもない爆弾がことりと机に置かれた。
「もうすぐに、なの?」
私は衝撃を覚えると逆に真顔になってしまう。なので、内心は動揺しまくっているが、表情は冷静そのものに見えているだろう。
「うん。ビザとか家の関係で、たぶんゴールデンウィーク明けとかからになるけど、なるべく早くって言われてる」高志はなぜか表情が硬い。「それで、その……花に言わなきゃいけないことがあって」
私はスプーンをランチョンマットの上に置いた。甘噛みするように咀嚼していた血のジュレが、するりと喉を滑り落ちていく。
うっすらと、血の匂いが鼻腔を突く。
「なに?」
「結婚、してほしい」
予想外の言葉に、私はどう反応したらいいのかわからなかった。迷ったあげく、目を閉じた。いったん世界をシャットアウトする。脳裏には先日見てしまったメッセージが浮かぶ。インド——高志はそこでなにをさせられるのだろうか? ただの営業活動なのか、それとも。
だけど、ここで断ったら——頭の奥の方で、再び痛みがちらつく。今となっては馴染み深い痛み。贅沢な生き血の味。
私は一瞬、別れを覚悟した。高志がそう切り出すのかと思った。そのときに真っ先に思ったのは、高志の血が吸えなくなるということだった。耐えられるだろうか。この休日の食卓なくして、私は生の実感を得られるだろうか?
「もちろん、今すぐに返事をくれる必要はなくて」
外の世界では、高志が早口で防御線を張っている。いつもの高志らしい。私はパッと目を開けると、はっきりと言った。
「結婚、しよう」
目の前の高志の顔は青白かった。安堵したように、だらしなく口元が緩み、尖った犬歯が覗く。
ただし、と私は続ける。
「私もインドへの出向希望を出す。向こうにも研究所があるでしょう? 籍を入れたら、会社も説得しやすくなるはず。私も、高志といっしょにインドに行く」
駅から降りた私はむせかえるような暑さに迎えられた。
頭に巻いた薄いスカーフを口元に引き寄せて、行き交うリキシャやオートバイを避けながら、足早に歩いていく。橋の下を抜けると交差点があった。そこには信号がなく、四方から車と人が押し寄せ、ひっきりなしにクラクションが鳴り響いている。露店をやっていた近くの青年が腕まくりをして出てきたかと思えば、勝手に交通整理を始める。私はその中をなるべく目立たないようにすり抜けていく。腕にはバックパックを抱えている。中には、大切なミニコルが入っていた。
インドに移り住んでから三か月が過ぎた。その間、私と高志は甘美とは言い難い新婚生活を過ごしていた。初めての異国の地での生活は想像の何倍も過酷だ。香辛料がふんだんに効いた食べ物、脳みそが蒸発してしまいそうになる熱さ、そして良質な疑似人血の不足。ミニコルを持っているとはいえ、動物の血から作られた種類豊富な疑似人血が、この国では宗教的な理由も相まって販売が限定されている。
この国にはまだ、満足に血にありつけない子どもたちがいる。私が足早に向かっているのは、研究所の提携先のひとつでもある聖メアリ病院だった。クリスチャンの協会の脇に建てられたその病院は、ストリート・チルドレンを無料で診療していた。私たちはそこにミニコルを提供し、代わりに子どもたちの健康状況をデータとして収集している。
病院に着くまでの短い道のりで、何人もの子どもたちが血をねだってくる。「あなたの血を吸わせて」とせがんでくる。私は心を痛めながらそれを断る。あまりにもやせ細った子や、しつこくついて来る子どもには、持っているお菓子をあげる。だけど、血を吸わせるわけにはいかない。一度その味を覚えてしまえば、より重篤な中毒症状に陥る可能性が高いし、私がなんらかの病気をもらわないとも限らない。
少しでもミニコルの単価を下げられたら、と思う。この国に来てから何度も感じていることだった。
インドにもミニコルの工場はある。現地で製造することでコストはある程度抑えられるが、ミニコルの装置の中核をなすフィルターは、まだこちらで作ることはできない。この装置の製造費を下げられないことがボトルネックになっていた。
「別の仕組みを考えるしかない」
熱のこもったスカーフの中に、私はぶつぶつと独り言を漏らす。最近はずっとそれについて考えている。通りで物乞いの子どもたちを見るたびに自分の幼少期を思い出させられた。食べ物はあるのに、血が十分ではなかったあの時代。決して豊かではない家庭で育った私は、満足に疑似人血にありつけなかった。
砂場で他の子どもに噛みついて怒られた。本当に飢えがひどいときは自分の血を吸って我慢した。腕には歯形が常についていた。
それでも、世界標準で考えれば、私は圧倒的に恵まれている方だろう。それは経済的にも健康的にも。
だから少しでも、世界に与えられるようになりたい。返せるようになりたいのだ。
トマト、パプリカ、ブロッコリー。色とりどりの野菜をカットしたら、さっと茹でて、疑似人血を火にかける。沸騰直前に火を止めてゼラチンを入れたら、放置して粗熱を取る。グラスのカップに注ぐと、小さな血の池の出来上がり。そこに野菜を入れると、まるで宝石のように食材がきらきらと輝く。見た目が整ったら冷蔵庫へ。
食欲がなくなる夏は、血と野菜の冷製ジュレが私たちの定番メニューになる。作り置きにして、休日の朝に食べてもいい。
時計を見るともう午後九時を過ぎていた。スマホを見ても高志からの連絡はない。どうせ、今日は外で食べているのだろう。
インドに赴任してから、高志は明らかに家の外にいる時間が長くなった。帰れば機嫌が悪く、ご飯を食べてすぐ寝るか、私の血を吸おうとするかのどちらかだ。
吸血の頻度も上がっている。私は密かに中毒症状が出ているのではないかと危惧していた。もともと鋭い犬歯は最近、さらに長く鋭くなっている気がするし、頬はこけて青白くなっている。どちらも重度の中毒症状を起こしている吸血病患者に見られる変化だ。
一方の私は、吸血頻度が減り、頭痛も軽くなっていた。それよりも、悪夢に悩まされていた。
あの夜、寝室で盗み見てしまったメッセージは、靴の裏にこびりついた泥のように、なかなか取れない。夜な夜な現地の子どもたちの柔らかい肌に、鋭く清潔な針がすっと刺され、どす黒い本物の血がぐいぐいと吸い取られていく様子を夢に見ては、はっと起き上がる。そういうときは、吸血をしていなくても口の中に血の味を覚えるのだった。
以前と比べて、人血料理もすこし控えるようになっていた。血が不足するとやはり朝はつらい。だけど、少しでもミニコルを節約して、現地での調査に使いたかった。
玄関から鍵の回る音がする。
「おかえり」
私の呼びかけは、沈黙で返される。のそのそと高志がリビングに現れた。シャツはよれて、スラックスには撥ねた泥が付着している。
「ご飯、食べてきた」
高志の声には後ろめたさが滲んでいる。私は特に気にしていない。連絡くらいはしてくれてもいいのにとは思うが、結婚して数か月も経ち、お互い仕事をしていればこんなものかもしれない。
それよりも気になるのは、血の匂いだ。高志からは血の匂いがする。それも、本物の。
「……会食だったの?」
迷った末に聞いてみると、高志は鋭い視線をこちらに寄越してきた。
「そうだよ。なに、疑ってんの?」
「違うよ、聞いただけ」
「……ったく、こんな国でまともに遊べるかよ」
私だって別に夜のお店に行ったとか、女と会ってたとかを疑って聞いたわけじゃないのに、高志はやけに攻撃的だ。それは罪悪感の裏返しであることを私は知っている。
「会食は、どこで?」
それでも努めて穏やかに訊ねると、高志は一瞬目を見開いた。不自然な間が生じる。高志は嘘をつくことに慣れていない。元来、素直な性格なのだ
「コンノート・プレイスの、いつものとこ」ぶっきらぼうに言う彼の視線は泳いでいる。「……疲れたからもう寝るわ」
寝室へと去っていく彼の背中を目で追いながら、私は久しぶりにミニコルに手を伸ばす。頭の奥がずきずきと痛み始めている。今夜ばかりは、疑似人血を少しは飲んだほうがいいかもしれない。
その夜、高志は激しく私を求めてきた。正確には、私の血を。
私がベッドに潜り込むなり、鋭い犬歯が首を刺す。思わず悲鳴を上げる。とっさに腕を突き出すと、手首を掴まれて押さえつけられた。疲れたから寝る、とはなんだったのか。
「吸わせろよ」
高志の、激しい息遣いが聞こえる。私は脚を引き上げ、覆いかぶさる黒い影の中心を思いっきり蹴った。うめき声と悪態。私はベッドを転げ落ちるように抜け出る。そのまま寝室を出て、玄関で裸足のままスニーカーをつっかける。ほとんど反射的に、ミニコルが詰まったバックパックを拾い上げ、扉を開ける。
背後で高志がなにか叫んでいる。しかし、止まって聞いている余裕はない。
私は夜の道に飛び出た。この街の騒がしさは夜も健在だ。それにここまで感謝する日が来るとは。
いつもは煩わしいリキシャの客引きも神の手引きに思える。私は最初に通りかかったリキシャに飛び乗り、真っ先に思いついた場所を口に出した。
「聖メアリ病院へ」
乗ってから、現金もスマホも置き忘れていたことに気づいた。
拙い現地の言葉で説明すると、鋭い目つきの運転手は黙って頷いて運転を続けた。降ろされると思った私は逆に警戒した。到着したら何を要求されるだろうか。やはり、血か。
しかし、聖メアリ病院に到着すると、男はなにも言わずに降りるように促した。
「支払いは、どうすればいい?」
「今日はいらない。持ってない人からはもらえない。自分が持ったら、他の人に与えればいい。持ち回りだ」
運転手は淡々と言うと、去っていった。けたたましくクラクションを鳴らして、道行く他の車をどかしながら。
病院の戸口を叩くと、バタバタと足音がしてスタッフが出てきた。幸い、私がミニコルの実証実験を行った際に担当してくれた看護師だった。
「ハナ! どうしたの、こんな時間に」
その瞬間、高志の人の変わったような叫び声が脳内でリフレインして、私は、その場に崩れ落ちた。ミニコルの入ったバックパックが鈍い音を立てて地面に落ちる。
涙は出てこなかった。今の私は、空っぽだった。血だって、吸っても出てこないかもしれない。
自分が恵まれているなんて思い上がりだった。私はなにも持っていなかった。
聖メアリ病院の朝は早い。陽が昇ると看護師たちは起きて、患者たちの朝食を準備し始める。この病院にいるのは貧しくて大きな病院に通えない人ばかり。小さな子どもたちも多い。
「うちは孤児院も兼ねてるの」
あの夜、私を匿ってくれた看護師が説明してくれる。彼女の名前はデボラ。彫りの深い顔には憂いと強い意志が滲み出ている。
「身寄りのない子どもたちを引き受けて、その代わり元気になったら、病院の手伝いをしてもらう」
「お金は? 薬品は? みんなの食費は?」
デボラは笑った。
「そんなものはないに等しい。いつも、寄付でなんとか回してる。足りないときは他の病院や近くの協会に助けを求めに行く」
「助けてくれるんだ?」
「お互い様だからね。もちろん、その人たちも余裕がなければ断る。お互い、それは分かった上での助け合いだから、無理はしないの。その代わり、彼らが困ったときは私たちが助けるよ。世界はそうやって回ってる」
私は持ち込んだミニコルを病院に寄付した。会社は無断で欠勤した。高志が警察に届け出ているかもしれないので、なるべく病院から出ないように、一週間を過ごした。
子どもたちは私の存在を珍しがり、ミニコルで疑似人血を作ってやると喜んだ。
「ハナ、ハナ、血を出して」
せがまれると私はミニコルで魔法のように血を作ってあげた。会社のものを無断で使い、この贅沢に慣れさせてしまうのは良くないと思いつつ、自分ができるせめてものことをしたかった。
結局、血だってまたお金と変わらない。資本主義の枠組みからは逃れられない。お金と違うのは、身体性を伴うということ。吸い取られていくときに、心の一部も持っていかれてしまうということ。
あの夜から、私は疑似人血を飲んでいない。
「ハナも血を飲まないと」
デボラは私の顔を見て案じてくれた。鏡で見る自分の姿は見るからにやつれ、青白かった。頭痛がまた戻ってきていた。
「私は大丈夫」
そう言って、私はミニコルをデボラに押し返す。
このままこの生活を続けられないのは私もわかっていた。また戻らなければいけないのは分かっている。高志のもとへ、サングイーニのもとへ。だが今の私にその余力はあるだろうか? あの血生臭い現実に、身を浸す気力などあるのだろうか。
一方で、私の中で乾きが生じていることも事実だった。血を吸いたいという乾き。高志の首筋に浮かぶ青い血管に歯を突き立てたいという欲求。
血とお金には、もうひとつ決定的に違うことがあった。お金は誰のものであっても価値に変わりはない。血にはある。
私は高志の血の味を忘れられない。あれだけひどい仕打ちをされても、もう一度、あの人の血を吸いたいと思っている。
日曜日の朝に、私はインターホンを押す。一週間ぶりの帰宅だった。
「おかえり。大丈夫?」
ドアを開けた高志は無精ひげが目立っていたが、一週間前の出来事が嘘のように穏やかだった。
特に問い詰めることもせず、「そこに座ってて」と私を食卓の前に座らせ、早速料理を作り始めた。次々と並べられていく疑似人血料理にお腹が鳴った。私は衝動的に家を出ていった自分を恥じた。こんなにいい夫が、サングイーニの悪事に手を貸しているわけがない。
すべての料理が並ぶと、高志は私に食べるように促した。
「いただきます」
窓からは朝陽が射しこんでいて、嘘みたいに平和な休日だった。私は高志が作った野菜と血のジュレをスプーンで掬った。薄紅色の半透明のジュレは優しく舌の上で崩れた。すこしだけ、高志の味がした気がした。
「最後のミニコル、使っちゃった。それでも花に食べてほしくて」
高志は食べずに、私の後ろに立つ。ぼんやりとそれを意識しながら、私は一週間ぶりの血の味に恍惚としている。
「会社には、いっしょに謝りに行こう」
その言葉で現実に引き戻される。一週間の無断欠勤。勝手に病院に寄付してしまったミニコル。
「月曜日になったら、ふたりで。ね?」
高志の指が私の髪の毛を優しく撫でる。気づけば首筋に歯が当てられていて、私の血が吸われている。私はスプーンを持ったまま、食卓の上で踊る木漏れ日を見ている。
家にはひとつだけミニコルが残っていた。
それを思い出したのは深夜のことだった。それまで悪夢にうなされていた私はがばっと起き上がった。子どもたちの悲鳴が耳にこびりついている。助けて、血を採らないで、吸わないで……。注射器で吸い上げられるどす黒い液体。夢の中で、私は必死にミニコルを探していた。そして、思い出した。流しの上の戸棚に、いつも予備のミニコルを入れていた。高志が気づかないようにこっそり隠しておいた、最後のミニコル。
寝ぼけたままベッドを抜け出して、ミニコルを探しに行く。電気も点けずにつま先立ちで戸棚に手を伸ばす。そのソリッドな円筒形を暗闇の先に見つけたとき、私は安堵感に包まれた。うっすらと頭痛の残滓が脳みその片隅にこびりついている。それを払拭するように、私はペットボトルの水を開けるとミニコルに注ぎこんだ。製血装置が起動してヴーンと低い音が心地よく響く。
私は出来上がった疑似人血を、コップにも移さずに、直接ミニコルから飲んだ。息もつかずに、一気に流し込む。喉の奥がかっと熱くなった。意識が澄み渡っていく感覚。
無我夢中で飲み切ると、私は寝室へと戻っていった。
そのときになってようやく、高志がベッドにいないことに気づいた。
自分が起き上がったときに、高志はすでにいなかっただろうか? 必死で記憶を辿るが確信を持てない。私は再び起き上がった。トイレにでも行ったのかと思ったが、玄関まで行くと靴がない。外出したのだ——こんな時間に?
そのとき、表の通りの方から、誰かの叫ぶ声が聞こえた。
「高志——?」
意味がないとわかりながらも、玄関に向かって声を出してみる。返事はない。慌ててサンダルをつっかけて、手にはミニコルを持ったまま、マンションの外に出てみる。一週間前の光景が嫌でも蘇る。違うのは、今度は自分が追いかけている側ということ。
外に出ると高志の後ろ姿はすぐに見えた。大声で呼びかけようとして、やめる。歩き方が変だ。ふらふらと酔っ払いのように揺れている。まるで夢遊病者のようだ。
私は黙ってついていくことにした。
橋の下をくぐり、コーンノート・プレースの方へと歩いていく。この時間にはさすがに人通りも少ない。露店は閉まり、路上生活者たちも布を敷いて寝ている。その脇を高志はゆらりゆらりと歩いていく。ときたま、立ち止まっては路上生活者たちを覗き込む。私は嫌な予感がした。
と、ひと際小さな影の前で、高志は足を止めた。ぼろ布にくるまっているのはまだ小さな少年だ。高志は手を伸ばすと乱暴に布を引き剥がした。少年は目覚めると短い悲鳴を上げた。しかし、高志はさっとその口を手で覆った。
鋭い犬歯が光り、まっすぐに少年の首元目がけて突き立てられようとする。
考えるよりも先に動いていた。私はミニコルを握ったままの腕を振り上げ、高志に向かって突進した。振り下ろしたミニコルは鈍い音を立てて高志の後頭部にのめり込んだ。
高志はうつぶせになって倒れた。暗い黄色の街灯の下で、赤黒い血がちょろちょろと溢れ出ている。少年は怯えた目で私と高志を交互に見ながら、暗がりへと後ずさった。
私はぼーっと高志の血を見ながら、もったいないな、と思った。そして、傷口に唇をつけると、飽きるまで血を吸った。
ふと我に返った私は、辺りを見回した。夜道には誰もいない。血を飲み過ぎて、気持ちが悪い。
私は倒れた高志をそのままに、急ぎ足で家へと戻った。そこからの記憶は早送りの動画のように部分的にしか覚えていない。私は機械的に高志の社給スマホからデータを自分のスマホに転送し、家にある自分の荷物をまとめた。そこからタクシーを呼び、空港へと向かった。
翌日の夕方には、東京に着いていた。飛行機から降りたその足で、私はサングイーニの本社に向かい、退職届を提出した。
翌々日には大手メディアに勤める知り合いに、サングイーニの違法児童労働および表示偽装の証拠を送り付けた。詳しく話を聞きたいとすぐに返事をくれた彼女に、私は匿名を条件に洗いざらい知っていることを話した。
翌月には、サングイーニ社のインド法人閉鎖と立ち入り調査が報道されていた。その頃には私はもうサングイーニにも高志にも興味がなくなっていた。
日曜日に料理を作るのはやめた。代わりに、ファストフードを食べるようになった。体重は増えたが、頭痛はなくなった。
ミニコルだけは、使い続けている。
ハイブリッドのセダンは街の喧噪を静かに掻き分けていく。インドの経済は飛躍的に発展したが、破天荒な運転文化は相変わらずで、あちこちから威勢のいいクラクションが飛び交っていた。しかし並び立つ摩天楼や、新しく舗装された滑らかな車道は、インドがこの十年で遂げた変化を雄弁に示している。
車が駅を通り過ぎると、私は思わず出入り口をじっと見つめてしまった。ミニコルの詰まったバックパックを抱えた自分が、人混みを掻き分けて現れるような錯覚にとらわれたのだ。
「ここもすっかり様変わりしたよね」
誰にともなくつぶやいたつもりだったが、ドライバーのラケシュはしっかり聞いていたらしく「十年前と比べれば、それはそうです」と彼らしいぶっきらぼうな口調で肯定する。
「あなたが私を拾ってくれたの、もうそんなに前のことか」
「拾ってくれたのはあなたでしょう」
昔と比べたら、私の現地語の会話能力もかなり向上している。あの夜、お金もない私を乗せてくれたラケシュを、私は二年前にこの駅前で偶然見つけた。すぐに彼に気づいた私は、その場でハイヤーの運転手として雇った。
私は今、インド最大手の製血メーカーに勤めている。サングイーニを辞めてから、しばらく働かずにいた時期もあったが、結局はこの業界に戻ってきた。
「インドに戻って来たとき、私にはふたつやることがあった。ひとつは、以前受けた恩を返すこと。もうひとつは、もう一度ミニコル事業にこちらで挑戦すること」
セダンは滑らかに道をすり抜けて、オフィスビルの立ち並ぶグルガオンに差しかかる。
「ひとつ目は、ある程度できたかな」
「ふたつ目も、もうすぐ叶いそうですね。逆襲の成功だ」
私はスマホに目を落とす。そこには、自分の勤める会社がサングイーニを買収する旨の記事が掲載されている。あの事件以降、サングイーニは衰退の一途を辿っていた。世界の製血装置の七割がインドで製造されるようになった今、今回の買収は大きな驚きではない。買収が成立すれば、ミニコル事業も再編されるだろう。
「逆襲なんかじゃないよ。あなたも言ってたでしょう? 所詮、この世は持ち回りだから」
セダンが本社ビルのロータリーに滑り込む。私はすっかり慣れた熱気の中へと踏み出す。
日曜日の朝がやってくる。
私はいつもより少し遅めに起きて、ブランチを食べた。かつてのように凝ったものは作らない。ヨーグルトとサラダ、それにミニコルで作った疑似人血。
ミネラルウォーターを注ぎ込み、スイッチを入れると、聞きなれたヴーンという音を立ててミニコルが起動する。
出来上がった疑似人血をグラスに注いで、ソファに座る。テレビを点けると、ちょうどニュース番組でサングイーニの買収について報じていた。
「かつては世界最大規模を誇ったサングイーニですが、十年前に発覚した原材料の偽装問題をきっかけに、経営は急速に悪化しました……」
そう、この世は持ち回りだ、と私は思う。吸う・吸われる、搾取する・搾取される、加害者・被害者、助ける側・助けられる側。みんなぐるぐる回ってそれぞれの役を演じているに過ぎない。
私の手には、今でも高志を殴りつけたときの感触が残っている。ミニコルを通して伝わった、あの鈍い衝撃。
高志はその後、何度も私と連絡を取ろうとしてきた。反省と謝罪が書き綴られた手紙が大量に送り付けられてきたこともあった。しかし、すべて血で書かれているのを見て、破って捨ててしまった。
人づてに、会社を辞めたと聞いている。それからどうなったかは知らない。
ニュースはすでに他の話題に移っている。来年ニューデリーで開催される万博の話になり、キャスターの口調が明るくなる。私はグラスに口を付けた。深紅の液体が滑らかに入り込んでくる。私は年季の入ったワインを味わうように、それを口の中で丁寧に転がして、ごくりと飲み込む。
もうしばらく、頭痛はしていない。
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