セアカホムラの朝を見る
朝五時の野鳥観察公園は薄暗い。吐く息は白く浮かび上がると、闇に馴染むように消えていく。
和信は観察小屋の定位置に着くと、ナップザックから双眼鏡を取り出した。
「おはよう、あんちゃん」
外から管理人の竜崎の声がする。煙の匂いがぷんと漂う。今朝も焚き火を熾しているようだ。
和信は返事をせずに、双眼鏡のピントを合わせた。
観察小屋からは、公園の中央に位置する池と、その周囲の木立がよく観察できる。小屋は四角い覗き窓が空いた開放的な木造建築で、暖房は一切なく、冷蔵庫の野菜室のように冷えきっていた。
「寒いやろ。ほら、これ。コーヒー」
じっと動かずにいると、竜崎が入ってきて、缶コーヒーを差し出した。
和信は双眼鏡から目を離さないまま、片手で受け取った。手袋越しに熱が伝わり、皮膚から肉、骨へと順に沁みこんでいく。たまらず手袋を脱ぎ、掌全体で包みこむ。
「立派なもんやで」竜崎は半ば呆れるように、半ば感心するように言う。「若いのに、毎朝早起きして……ほんで、見たらどうするんや。もう来なくなるんか」
「見れたら、それで終わり」
和信はぶっきらぼうに答えて、わずかに身を屈ませた。
「まあ、それがええわ」不愛想な態度を気にすることもなく、竜崎は喋り続ける。「老人趣味はほどほどにしときや。まだ学生さんやろ? 青春せな」
「……」
「ほな、焚き火の様子見てくるわ」
竜崎はごま塩頭をぼりぼりと掻きながら、観察小屋を出ていった。
和信は身じろぎひとつせず、観察を続ける。頭の中では暗唱できるまで読みこんだ『野鳥観察ガイドブック』の一節を、指でなぞるように思い浮かべる――《セアカホムラ。体長60センチ。羽毛は赤みがかっていて、狩りのときに発火する。背から尾までの鮮やかな朱色の帯が特徴的。「幻の鳥」と呼ばれ、ほとんど人前に姿を見せないが、火がある場所に近づく習性がある》。
外で焚き火の枝がパチパチと弾ける音がする。竜崎は和信が通い始めてから、毎日焚き火を熾してくれていた。
手中の熱を逃すまいと、和信はさきほどより強く、缶を握る。
東の空が白み始めていた。冬特有の、凍えるようなインディゴ色の空が、果実が熟すように色を変えていく。世界の明度がカチカチと上げられ、辺りはどんどん明るくなっていく。
すっかり冷めてしまった缶コーヒーを、和信は飲み干す。双眼鏡を覗けば、水面を泳ぐユキミギリが見える。
体長40センチのこの中型の冬鳥は、細長い優雅な首と、パドルのような平べったい脚、そして純白の羽毛が特徴だ。頭頂部からは雪の結晶のような冠羽が突き出ている。
和信はしばらくこの優雅な鳥に照準を合わせた。セアカホムラはしばしば、ユキミギリのような水鳥を狩る。
チリチリチリ、とわずかな音が空気を揺らす。
和信はさっと双眼鏡の向きを変えた。
チリチリチリ……。
木立の中からだ。和信は血液が沸騰し、どくどくと巡るのを感じた。
竜崎が観察小屋に入ってきて、物音を立てずに隣に座った。
「おるな」
押し殺した声に、和信は黙って頷く。
観察小屋の窓は、東に面している。ちょうど池の向こう側から卵白のような曙光が漏れ始めていた。
和信は双眼鏡で木々の間を探る。しかし、セアカホムラの紅の羽毛は見えない。五分、十分と時間が過ぎる。太陽が地平線を割り、白い光が空気を満たしていく。黒い影絵に過ぎなかった枝葉が、ざらりとした質感を纏って立ち現れる。独占と秘密を許す夜が終わり、万人に平等な朝が始まろうとしている。
――ちろりと炎が舞った。
バチチチチチ、と弾けるような音がして、火光に包まれたなにかが茂みから飛び出した。それはまっすぐにユキミギリへと向かう。ふたつの影が、衝突した。
双眼鏡のレンズを通して、和信はユキミギリが勢いよく燃え上がるのを見た。脂が燃料となり、水面上に一瞬、小さな太陽が浮かぶ。
火はすぐに消え、ほんのりと焼け上がった死骸を紅い影が攫っていく。和信がその姿を捉えたのはわずか数秒であった——しかし、炎の色をすべて煮詰めたような羽毛と、野火のようにはためく翼は、和信の網膜に強く焼き付けられた。
和信は竜崎と並んで、しばらく無言で日の出を眺めていた。やがて陽が昇りきると、コーヒーの礼を言って、去っていった。
和信が去った後、竜崎は一人、仕事に戻った。
ふと、観察小屋の脇にナップザックが置いてあることに気づいた。
「なんや、あいつ……」
遺失物として管理をするには、中身は確認しておく必要がある。竜崎はジッパーを開けて中を見た。
――朝の公園は静かだ。竜崎の目には、まだセアカホムラの姿が焼き付いている。
「見られてよかったなあ」
竜崎はナップザックを焚き火の中へ投げ入れた。黒い煙と橙色の炎があっという間にそれを呑み込む。
「ほんまに、よかった」
チリチリチリ、とどこかから、セアカホムラの鳴き声が聞こえる。
文字数:1988
内容に関するアピール
小さい頃、庭先にやってくる鳥を眺めるのが好きでした。
庭にはバードフィーダーという、小さな餌やり用の筒があり、小鳥たちはかわるがわるそこから餌を啄んでいきました。腹部が橙色のロビン、鮮やかな朱色のカーディナル、涼やかな青色のブルージェイ。自分の好きな鳥を見られた日は胸が躍りました。
美しいものと私たちの間には、往々にして距離があります。星、太陽、雲、木漏れ日、虹、朝露、舞い落ちる花びら……。触れられないもの、保存できないものを前にして、人間にできるのは観察することくらいではないでしょうか。
今回の課題では、発火する幻の鳥・セアカホムラと、それを観察する青年を描きました。なにかが美しくあることに、それ以上の意味を付与する必要はないと思います。ですが、私は人間が美しいと思う気持ちそのものに希望を見出したいので、すべてを「終わり」にしたいと思っていた和信が考えを改める結末にしました。
文字数:394


