虚実皮膜

印刷

梗 概

虚実皮膜

一九九七年、山あいの美朝村で育った中学二年生の西久保丈は、学校になじめず鬱屈した日々を送っていた。唯一の救いは深夜のプロレス中継であり、特にトップレスラーの滝原剛一に絶対的な崇拝を寄せていた。クラスでプロレスは虚構だと馬鹿にされても、狂信的に理論武装したプロレスオタクの丈は「滝原こそ最強」と信じて疑わなかった。

そんな折、滝原がブラジリアン柔術家ヒカルド・グラシオと総合格闘技ルールで戦うというニュースが流れる。クラスメートの揶揄に触発された丈は衝動的に家出し、東京ドームでその試合を目撃する。しかし滝原が完敗したことで丈の信仰は崩れ落ち、「世界は信じたものを裏切る」と絶望する。

失意の帰路、丈は山道で足を滑らせ重傷を負うが、意識を失う直前、空から極彩色の飛行体が近づくのを見た。目覚めたとき傷は不自然なほど治癒しており、丈が「UFOに救われた」と訴えても誰も信じなかった。医師は「酸素不足が見せた脳の幻覚」と断じた。

この出来事を境に丈はオカルトに傾倒し、かつて信じたプロレスと通ずる曖昧で神秘的な「虚実皮膜」の領域に救いを見出すようになる。高校卒業後は本物のUFOを求め、オカルト番組の制作会社へ就職。しかし現場にあったのは超常現象を「演出」で捏造する欺瞞ばかりで、丈は失望し匿名でヤラセを告発し退社する。

故郷に戻る途中、かつての極彩色の飛行体を再び目撃した丈は信仰心を取り戻し、美朝村でUFOを核にした村おこしを始める。私設博物館の建設、ゆるキャラ、そして村を挙げたUFO捜索隊……。虚構性を逆手に取った観光戦略は成功し、村は活気を取り戻す。

二〇二五年。中年になった丈のもとを、オカルト誌「パンゲア」の記者、百川が取材に訪れる。丈は村の様子を案内しながらUFO信仰の核心を語る――「正体が曖昧だからこそ、人はそこに想像を託せる。実在を信じるかどうかは重要ではありません」。百川は興味を示しつつ、丈を裏山へ連れ出す。

そこで百川は正体を明かす。彼は地球を調査するため人間に擬態したプレアデス星団出身の宇宙人であり、かつて山中で丈の命を救った存在でもあった。百川はこの村のUFO信仰を知り、地球人に化けて丈に再接触したのだ。百川は調査を終え、これから地球人に自分たちの存在を明かすつもりだと告げる。

丈は激しく動揺する。彼にとってUFOはかつてのプロレスと同じく「神話」であり、曖昧であるからこそ信仰の価値がある。実在を証明されることは神話の死を意味した。「真実を暴いてはならない」と丈はロラン・バルトのプロレス論を持ち出しつつ熱弁するが、百川には当然理解されない。

会話は決裂し、百川が去ろうとした瞬間、丈は衝動的に彼を崖下へ突き落とし、さらにとどめを刺して古井戸へ遺体を投げ込む。すべては神話の保護のためだと、自らの行為を正当化しながら、丈は空を仰ぎ、村人たちのいるUFO捜索隊の列に加わるのだった。

文字数:1199

内容に関するアピール

このところ、昭和後期から平成初期にかけてのプロレスとオカルト番組を調べています。

本来まったく異なるジャンルですが、両者には「虚実をあえて曖昧なまま提示し、視聴者が半信半疑で楽しむ余地を残す」という共通点があります。
かつてのプロレスにおける「あえて演技か本気かわからないようにしている強さ」も、オカルト番組の「本物か演出かわからない怪奇」も、受け手が想像力で補いながら参加できる娯楽でした。

しかし、こうした“核心をぼかすエンターテインメント”は、良くも悪くも現代のマスメディアでは成立しにくくなりました。受け手側の許容度も、この頃ほどおおらかではありません。

私はリアルタイム世代ではないものの、偶然の出会いからこの二つに強く惹かれ、プロレスとオカルトに通底する構造――虚実の曖昧さが生む魅力――をテーマに、フィクションを書こうと思いました。

文字数:369

印刷

虚実皮膜

 プロレスラー、牧原剛一こそ世界最強――

 一九九七年までは、そう思っていた。

 山がある。山しかない。美夜村は、そんな田舎だった。四方を低い稜線に塞がれ、どこに行くにも山を越えなければならない。

 村の中学生、西久保丈は、二年生になっても学校に居場所を作れずにいた。誰かに嫌われているわけではない。殴られたこともなければ、無視されたこともない。だが、クラスの輪にはいつもいない。

 休み時間になると、誰かの机の周りに自然と人が集まり、テレビやゲームの話で盛り上がる。丈はその外側で、カバンから「週刊レスラー」を取り出し、ページをめくって時間が過ぎるのを待っていた。

「なあ、西久保」

 その日、宮田が声をかけてきた。村長の息子で、クラスの中心にいる生徒だった。背が高く、口がうまい。だが、丈にとってはいけ好かない男だった。

「まだプロレスなんか見てんの?」

 周囲がくすりと笑った。

「親父が、ああいうの嫌いでさ。プロレスは八百長だって、いつも言ってるぞ」

 宮田は丈の隣の席に座り、続ける。

「実際、そうだろ? 勝ち負けが最初から決まってるんだろ?」

 丈は顔を上げた。黙っていると、肯定したことになる気がしたのだ。

「決まってるわけじゃない」

「でもさ、本気で試合してたら、あんなに技を受けに行くのおかしくないか? 普通、殴られそうになったらよけるだろ。あと、レスラーってロープに振られたらなぜか戻ってくるしさ」

「それは――」

 丈は言いかけて、言葉を探した。

「リングロープは張りが強いんだ。トランポリンみたいな弾力があって……」

「へえ」

 宮田は鼻で笑う。

「じゃあ、場外に逃げるのは?」

「逃げじゃない、戦術だ」

「戦術ねえ」

 宮田は肩をすくめた。

「真剣勝負なら、リングの外に出たら負けだろ。逃げ回って、椅子とか使ってさ。あれ、完全に演技じゃん」

 周りのクラスメイトたちがうなずいた。

「それにさ、一年で百試合とかやるんだろ? ボクシングじゃ考えらんないよな」

「プロレスラーは減量しない。ボクサーとは身体の使い方も違う」

 苦しい理屈だという自覚はあった。雑誌で読んだ言葉を、必死で組み立て直しているにすぎない。相手を説得するためではなく、自分を納得させるための言葉だった。

「でもさ」

 宮田は、そこで少し声の調子を変えた。

「プロレスが本当に強いなら、格闘技の試合とか出ればいいじゃん」

 丈の胸が、わずかに跳ねた。

「他の格闘家とまともに戦えば、八百長とか言われずにすむだろ」

 一瞬、教室が静まった。

「……プロレスは、そういうもんじゃない」

 丈は、ようやくそう言った。

「強さだけじゃない」

「じゃあ、何だよ」

 宮田は笑った。

「筋肉ショーか?」

「少なくとも、牧原は違う」

 丈は自分が大ファンであるレスラーの名を挙げた。

「本当に強い」

 宮田は一瞬だけ黙り、それから「まあいいや」と呟いた。

「チャイム鳴るぞ」

 宮田とクラスメイトが席に戻っていく。丈だけが、その場に取り残された。

 丈の中には、確かにプロレスに対する矛盾があった。派手な場外乱闘、過剰な実況。どこか芝居じみたお約束の数々。それらを見ていると、これは本当に強さを競っているのか、考えてしまう瞬間がある。だが、その疑いが形になる前に、牧原の姿が浮かぶ。

 牧原剛一は、違っていた。

 ギリシャ彫刻のごとき無駄のない、理想的なプロポーションの肉体。俳優のように華麗で、かつ肉食獣を思わせる野生を隠した精悍なマスク。

 ファイトスタイルも従来のレスラーとは全く違う。派手なアピールをしない。場外にも出ない。凶器攻撃なんてもってのほかだ。フリースタイルレスリングで鳴らした鮮やかな組技に、キックボクシングの打撃を巧みに織り込んでいる。

 これが不純物のない、本当の強さなのだと丈は思った。牧原の技に過剰な装飾はなく、工芸品のような美しさと実用性がある。それでいて、プロレスラー特有の、観客の目を引きつけ、声援に応えるカリスマ性も牧原にはあった。

 その牧原が、総合格闘技の試合で戦うというニュースが流れた。

 相手はブラジリアン柔術家、ヒカルド・グランド。何百戦もの実戦を重ね、しかもその全てに勝利してきたという。勝つために、相手を壊すことを躊躇しない世界の住人。試合会場は東京ドームということだった。

 丈はニュースを見て、背筋に冷たいものが走るのを感じた。

 それでも、牧原ならやってくれる。

 そう信じるしかなかった。

「おい、西久保」

 翌朝、登校してすぐに声をかけてきたのは宮田だった。

「今度、牧原の試合があるんだってな」

「そうだけど」

「ふうん」宮田は、いかにも軽い調子で言った。

「お前、本気で牧原が勝つと思ってるの?」

 丈は一瞬、言葉に詰まり、なんとか声を絞り出した。

「……勝つよ」

「無理だろ」宮田は半笑いで返した。

「相手、柔術家なんだろ? ああいうの、マジで人を締め落としてきた連中だぞ」

 丈は反論しようとしたが、いつもの理屈がすぐには出てこない。

「勝てるわけないって、プロレスはプロレスだ。ショーなんだから。いくらお前の好きな牧原でもさ」

 宮田は、わざと名前を強調した。

「それに」宮田は続ける。「どうせ八百長野郎だしな」

 笑いが大きくなる。丈は、今度こそ言葉を失った。

 八百長。

 その言葉は、これまで何度も聞いてきた。だが今回は違う。他の格闘家と戦えば、勝ち負けという形ではっきりと現実が突きつけられる。理屈でごまかす余地がない。

「まあ、見なくてもわかるよな」

 宮田は去っていった。

 その言葉が、妙に耳に残った。丈は、その場では何も言い返さなかった。

 ただ、その日のうちに東京ドームに行くことを決めていた。

 

 丈は試合のある土曜日、昼過ぎに友人宅に行くと嘘をつき、貯金をかき集めて家を出た。実際には休日に遊びに行くような友人などいない。両親の顔が脳裏をよぎったが、罪悪感はすぐに消えた。これまで信じてきたものを確かめるために、どうしても行かなくてはならないと決意していたのだ。

 電車とバスを乗り継ぎ、東京ドームに辿り着いたとき、そこはまるで別世界だった。人の波、熱気、そしてドーム全体から発散されているピリピリとした緊張感。村ではありえない光景だった。丈はドームに入り、自分の席に腰を下ろした。

 先に牧原が入場した。

 歓声がドームを満たす。牧原は両腕を広げ、観客の声を受け止めるように歩いてリングに上がった。その一挙手一投足に、期待と興奮が集まっていく。丈の胸も高鳴った。

「これこそ、プロレスラーだ」

 続いてヒカルドが現れた。

 ヒカルドは表情を変えず、リングへと淡々と歩いた。歓声も罵声もない。ただ、重い気配だけが一歩ごとに広がっていく。丈は、はっきりとした不安を覚えた。

 第一ラウンド。

 牧原は組むのを嫌がり、距離を取った。近づいてくるヒカルドを前蹴りで突き放し、遠距離からジャブとローキックを放つ。焦らない。削る。体力を奪う。理にかなった戦い方だった。ヒカルドはこれまで毎回、対戦相手の関節を破壊、あるいは首を締め落としてきた。そのヒカルドに身体を掴ませることは死を意味する。

 だが、観客はそれを理解しなかった。

「前に出ろ!」

「逃げてんじゃねえ!」

 ブーイングが起きる。丈は歯を食いしばった。違う、と叫びたかった。これは勝つための立派な戦術だ。

 第二ラウンド。

 牧原はその声を無視できなかった。プロレスラーの習性として、観客の声に応じることが体に染みついている。開始早々、ジャブをフェイントにして両足タックルを仕掛け、見事ヒカルドに背を着かせた。観客が驚きと喜びの混じった声を上げる。

 しかし、牧原はそこから動けない。タックルが入った瞬間、ヒカルドの右腕が蛇のごとく牧原の首に巻き付いていたのだ。

 ギロチンチョークだ。しかも完全に極まっている。頸動脈を絞められて、みるみるうちに牧原の顔が紅潮していく。

 丈は祈るような気持ちで思った。

 タップアウトだけはしないでくれ、と。

 逆転できそうもないのはわかっているが、牧原が自ら屈服する姿は見たくなかった。とにかく降参せずにこの場をしのげば、突如巨大な落雷がドームを襲い、停電で無効試合になるかもしれないではないか。そんな滅茶苦茶な考えが、現実味を帯びて頭を占める。

 観客は恐怖を打ち消すように声援を上げ、牧原コールが、うねりとなって広がった。

 牧原は、健気にその声にも応えようとした。

 ヒカルドに首を抱えられたまま、無理やり膂力だけで立ち上がった。

 そのままヒカルドを叩きつけようと、上体を捻る。

 そして――

 パキッ。

 乾いた音を、リングのマイクが拾った。

 巨木が倒れるように、牧原の体が崩れ落ち、そのまま、マットに叩きつけられる。ピクリとも動かず、あらぬ方向に曲がった首。牧原の目は、まばたきひとつせず、ただ空を仰いだままだった。

 丈は理解した。

 同時に、理解したくなかった。

 これはただの一本負けではない。

 自分たちの歓声が、牧原を立たせ、無理をさせ、取り返しのつかないところまで追い込んだのだ。

 プロレスラーという、強さを表現してきた男が、リアルな強さを体現した格闘家に、完膚なきまでに敗れた。

「プロレスが、負けた」

 そこに残ったのは、戦慄と、消せない罪悪感だった。

 丈の頭の中で、牧原を最強だと支えていた理屈は、いまは沈黙していた。

 ただ、現実だけがそこにあった。

 

 *

 

 そのあと、どうやって帰ってきたのかは覚えていない。気がつくと、村に通じる山道を登っていた。山の裾をなぞるように続く、街灯の乏しい坂道だ。時刻は既に深夜を回っている。

 なかば放心状態で歩いていると、後方からエンジン音が急に近づいてきた。トラックだ。この時間帯に歩行者はいないと思ってか、常識外れの速度で丈の背中に迫ってきていた。

 反射的に、丈は道の端へ跳んだ。

 勢いあまって足が地面を踏み外し、腰がガードレールに当たる。そのまま低いレールを乗り越え、視界が反転し、底の抜けた暗闇に飲まれていく。

 落ちた。

 斜面を転げ落ち、背中が何度も石に叩きつけられる。肩に枝が絡み、皮膚が裂ける。衝撃が途切れなく続き、どこがどう痛いのか分からない。

 やがて背中が、硬い何かに叩きつけられ、丈の身体はようやく止まった。岩にぶつかったのだと思った。だが、違った。角の取れた、丸くならされた石の感触がある。

 古井戸だった。半ば土に埋もれ、蓋が苔に覆われた石積みの井戸が、斜面からわずかに突き出している。

 丈は息を吸おうとして、それができないことに気づいた。

 違和感に導かれるように腹部へ視線を落とすと、黒く太い枝が、背中から右腹部へ突き抜けているのが見えた。

 そこでようやく、痛みが来た。

 遅れて、激しく、逃げ場のない熱が腹の奥から広がった。だが、それよりも先に、身体が理解していた。

「これは、助からない」

 そのときだった。

 丈の真上で、夜空の一部が不自然に沈み込んだ。星も雲もあるはずのない空間が、わずかに歪み、焦点を失ったように揺れる。闇そのものが、重さを持ったかのようだった。

 次の瞬間、空が紙細工のように折れ曲がった。裂けたのではない。空間そのものが別の角度に畳まれ、その折り目の奥から、まばゆい円盤状の飛行体が滑り出してきた。

 極彩色だった。原色がラメのように散りばめられ、万華鏡のように数秒ごとに模様が変わる。赤が青に溶け、緑が金に散り、また別の配置になる。

 丈は驚愕した。だが、恐怖とは別の感覚が胸に広がる。

「敵意は、ない」

 理由は分からない。ただ、そう感じた。飛行体は丈の上空で静止し、ゆっくりと距離を詰めてくる。

 意識が沈む。

 視界がゆっくりと、白に溶けていった。

 

 *

 

「あれは絶対、UFOです」

 丈は医師に向かってまくし立てた。言葉は止まらなかった。

「光ってて、色が変わって……。ヘリとか、飛行機とか、そういうのじゃない。空が、折れたんです」

 病室は静かだった。ベッド脇の椅子に座った医師は、白衣の袖口を整えながら、丈の話を聞いていた。

「空が折れた、ねえ」

 医師は相槌とも取れない声を出し、カルテに視線を落とした。

「空というか空間が、こう……折紙みたいに。そこから、出てきました。俺の上に」

 丈は必死に説明した。色鮮やかで、模様が万華鏡みたいに変わったこと。うまく表現できないのがもどかしい。

「先生、あれは夢じゃないです」

 医師はため息をついた。

「本人には、そう感じただろうな」

「じゃあ、信じてくれるんですか」

「おいおい、信じるかどうかは別だ」

 医師はそう言って、眼鏡の奥から丈を見た。

「ニュースを見たよ。東京で格闘技の試合があって、首をやったレスラーがいたそうだな」

 丈の胸が一瞬、詰まった。

「……現地で、見てました」

「らしいね。親御さんからファンだったって聞いたよ。試合を見た帰りだったんだろう?」

 医師は続ける。

「強いショックを受けて、深夜の山道を歩いた。疲労もある。頭も打っている。そういう状況なら、脳が幻覚を見せることは珍しくない」

「でも!」

 丈は声を荒げた。

「俺、死ぬところだったんです。腹に枝が刺さって……それでも、助かった。あのUFOが助けてくれたに決まってます」

「運が良かった」

 医師は即座に言った。

「二〇メートルも転がり落ちたにしては、擦り傷も少ない。なぜか打ち身もアザもほとんどない。逆に、不思議なくらいだ」

 それ見たことか。丈は息を詰めた。

「ほら、先生もおかしいと思ってるじゃないですか」

 医師は答えなかった。代わりに、カルテを閉じた。

「ショックは一時的なものだ。時間が解決する」

 丈は、それ以上食い下がれなかった。

「……わかりました」

 理解したふりをした。大人の言葉に従うふりをした。そうするのが正しいと分かっていたからだ。

 だが、内心では確信していた。

 さっきの試合で、丈の世界は一度終わった。丈の中にあった、プロレスに対する信仰、最強の神話は、群衆の中で砕けた。

 しかし捨てる神があるなら、拾う神もある。

 丈は目を閉じ、静かに息を吸った。あの極彩色の光が、まだ目の奥に残っている。生きている理由は、あれしかない。

 ――UFOに、救われた。

 証拠はない。満足な説明もできない。それでも、その確信だけが、丈を支えていた。

 

 *

 

 翌朝、丈はいつも通りの時間に登校した。教室の扉を開けた瞬間、クラス中の目が丈に集中した。狭い村のことだ。すでに昨晩の事件は皆に伝わっているらしい。

 宮田はすぐに近づいてこなかった。だが、丈が席に着くと、少し間を置いてから声をかけてきた。

「……大丈夫か」

 それだけだった。からかう調子ではなかった。医師が知っていたくらいだから、当然宮田も牧原のことはニュースで知っているだろう。丈をああいう形で挑発したことを、本人なりに反省しているらしかった。思っていたほど、悪いやつではなかったらしい。

「大丈夫だよ、ありがとう」

 丈は答えた。

 その様子を見て、クラスの態度が変わった。その日をきっかけに、これまでろくに交流もなかったクラスメイトが、丈に普通に話しかけてくるようになったのだ。クラスの中心人物の宮田が距離を詰めた分だけ、周囲も同じように距離を縮めてくれたのだ。

 その変化を、丈は静かに受け入れた。

 

 牧原の試合以降、丈はプロレスを見なくなった。嫌いになったわけではない。ただ、以前のように試合を見ることはできなくなった。プロレス独特の試合運びや間の取り方が、どこか前とは違う、縁遠いものに感じた。

 代わりに、同じ深夜枠の別番組に目が向くようになった。UFO、心霊、超常現象といったオカルト番組。画面の中では、いつも核心が語られなかった。決定的な証拠は欠け、科学的説明は「あと一歩」で止まる。完全決着はありえない。

 その構造に、丈は既視感を覚えた。

「これ、プロレスと一緒だ」

 プロレスの場合、事前に試合の結果が決まっているか否かは明言されない。台本、いわゆるブックの存在はファン同士の噂として流通するが、公式には言及されない。技の効き方も、受けたダメージの実態も、最後まで語られない。

 信じるかどうかは、見る側に委ねられている。

 本気だと思えば本気で見ていいし、演出だと思って見ても自由だ。

 オカルトも同じだった。

 幽霊や宇宙人やUMAの存在を信じてもいいし、笑ってもいい。

 そして、誰もが評論家になれる。

「この怪しい影は間違いなくツチノコ」

「この霊能者だけはガチ」

 そんな恐ろしく主観的で雲をつかむような議論に、みんなが夢中になっている。いわば現代人による新たな形の神学論争だ。

 丈にとっては、あの時、命を救ってくれたあの飛行体はまぎれもなくUFOだった。他人の意見などどうでもいい。

 丈は、そのオカルトの曖昧な虚実の皮膜の中に、牧原を失ったあともなお、自分が信じていられる何かを見つけることができた。

 

 *

 

 丈が東京のオカルト番組制作会社に勤め始めたのは、高校を卒業してすぐのことだった。

 村に残るか、外へ出るか。その二択の中で、丈は外を選んだ。履歴書を書き、面接を受け、あっという間に採用されていた。

 雑居ビルの三階にある、零細制作会社だった。入口に社名は出ていない。廊下の壁に貼られた番組ポスターだけが、ここがテレビの世界につながっている場所だと示していた。

 「火曜ユニークMM冒険団」と書かれたその番組ポスターには、心霊写真、UFO、ピラミッドが写っている。どれも丈が深夜に見続けてきたものだった。

 初日は雑用だった。

 機材の積み下ろし、ロケ車の運転、弁当の手配。役割は固定されていない。先輩に言われるがまま、丈は動いた。

 胸の奥には、まだ期待があった。

 半信半疑ではあったが、オカルトの世界が完全なデタラメだとは思えなかった。少なくとも、あの夜に見た謎の飛行体の正体に、ここなら何かしら近づけるかもしれない。だからこそ、この仕事を選んだのだ。

 最初のロケは、北陸地方の山中で行われた、ヒバゴンによく似た大型類人猿の捜索だった。

 「昔から二メートルを超える巨大な人影を見たという噂がある」という触れ込みで、番組は構成されていた。丈は機材を担ぎ、山道を歩いた。湿った土の匂いと、虫の声。美夜村の山と、どこか似ている。

「ここで、音入れるから」

 ディレクターが言った。

 丈は、言われるままに大げさに藪を揺らした。草が揺れる音をマイクが拾い、イヤホン越しに大きな音が返ってくる。

「まあ、これなら使えるな」

「じゃあ、編集で足しましょう」スタッフが答える。

「丈ちゃん、次は五〇メートルくらい俺たちから離れて、カメラの前を横切ってくれ。いい具合にぼかしてさっきの音を入れて、『そこに類人猿の影が!?』って感じに仕上げちゃうから」

 丈は黙って従った。

 これは演出だ。そう頭では分かっている。だが、番組はそうやって作られるのだと、誰も疑問に思っていない。

 別のロケでは、証言者が用意されていた。

 台本が渡され、語る内容が細かく決まっている。丈は、証言者の前でカンペを持つ係だった。

「いいんですか? こんなことして」

 撮影終わりに思わず口にすると、ディレクターは怪訝な顔をした。

「こんなことって、何が?」

「完全にヤラセじゃないですか、これって」

「そうは言ったって、オカルト番組なんて、他に作りようがないじゃないの」

「たまには本物を撮ることがあったって、いいじゃないですか」

「本物? はは。そんなもん、一回も撮れたことないよ」

 冗談のような口調だった。

「だいたいねえ、本物なんて撮れたら困るのよ」

「困る?」

「もし本当にUMAだの宇宙人だのが見つかっちゃったら、そこで話が終わっちゃうじゃない。俺たちがやってるのは報道番組じゃないんだから。これは取材じゃなくて撮影なの。視聴者をぐいぐい引き付けて、結局、正体は未確認。これでやっとエンタメになるんだよ」

 丈は、その言葉を飲み込んだ。

 プロレスと、似ていると思った。核心を語らない。決定打を出さない。だが、根本的に違う点があった。

 ここには、信じる側への敬意がなかった。

 丈は、それでも仕事を続けた。

 嫌悪感はあった。だが、現場にいれば、何かが起きるかもしれないという期待が、完全には消えなかった。あの夜の体験が、まだ身体の中に息づいている。

「丈ちゃん、イエティの足跡を作ってくれ」

「はい」

「写真の右隅に幽霊を合成して」

「はい」

「そこの田んぼでミステリーサークルを作って」

「はい」

 丈は心を殺しながら、何度もヤラセに手を貸した。そのたびに、自分に言い訳をした。これは番組上の演出だ。

 それでも、自分があの日見たものだけは、本物だったはずだ。

 転機は、ある日の打ち上げの席で訪れた。

「視聴者なんてさ、ちょっと煽ればいいのよ」

 ディレクターが言った。

「変にマジメに考えてる連中ほど、見え見えの嘘に食いつくからね。多少出来が雑でも、向こうの方で無理やり解釈をひねり出してくれるから。信じたい奴が一番扱いやすい」

 笑いが起きた。

「騙される方が悪いんだよ」

 その言葉を聞いた瞬間、丈の中で何かが冷えた。

 信じることそのものを、愚かだと切り捨てる声だった。

 ほどなくして、丈は匿名でゴシップ誌に番組の実態を告発した。

 ただ制作のありのままだけを書いた。ヤラセが前提であること。事実より娯楽性を優先する構造。なにより、視聴者を嘲笑する空気。

 メイン視聴者のオカルト界隈の反応は素早かった。自分たちが馬鹿にされていたと知ると、その怒りは激しかった。視聴者が一斉に離れたことで番組は打ち切られ、制作会社はあっという間に倒産した。丈も暴露したことが露見しないか恐れていたが、その前に職を失った。

 丈に残ったのは、敗北感だった。

 失業したのはいい。しかし、オカルト番組の裏を見たいま、もしかしたら、自分があの夜に見たものも、ただの幻だったのかもしれないと今では思っていた。むしろ、そう考えた方がはるかに自然だ。

 丈はそう考えながら、故郷へ戻る電車に揺られた。美夜村に近づくにつれて、山が見えてくる。乗り継いだバスを降り、あの山道を歩く。以前、転げ落ちた斜面のあたりで、ふと足を止めた。

 何気なく、空を見上げた。そこに、まさに奇跡的なタイミングで、あの時の極彩色の飛行体が空を駆けていくのが見えた。万華鏡のように色を変えながら、虹色の尾を引いて、一直線に夜を切り裂いていく。

 丈は、大きく息を吐いた。そして、疑いを抱いた自分を恥じた。

「やっぱり、UFOは実在するんだ」

 世界はすべてが嘘ではない。信じるに値するものも必ずある。

 

 *

 

 二〇一〇年。美夜村に終わりが近づきつつあった。

 平成の大合併で隣の深里市に吸収され、独立した自治体としての地位を失って以降、旧美夜村は急速に痩せ細っていった。役場は支所となり、若者は都市部に行って戻らず、残るのは高齢者と空き家ばかりだ。村はまさに、藁にもすがる思いで救世主を待っていた。

 願ってもない状況だ。いまなら、自分の理想郷を作れる。丈はそう考えた。

 

「UFOで村おこし?」

 宮田は明らかに動揺した声で言った。

「久しぶりに村に戻ってきたと思ったら、何の話だ?」

「だから、今言ったとおりだって」丈はコーヒーをすすりながら答えた。二人は村の喫茶店の隅の席に座っている。

 宮田は父の急死で地盤を引き継ぎ、二十代の若さで議員になっていた。村を立て直そうと奔走してきたが、結果は出ていない。これ以上失敗すれば、間違いなく責任を問われる立場だった。

 この状況なら、俺の提案も通りうる。丈はこの奇策に賭けていた。

「いや、正気か?」

「もちろん」

「説明してくれ、冗談じゃないなら」

「東京で、テレビ制作の仕事をしてた。MM冒険団ってオカルト番組だ」

「本当か? 聞いたことあるぞ」

 宮田が目を丸くした。美夜村のような田舎では、娯楽はテレビぐらいしかない。

「そこで、下っ端だけどADやっててさ。ずいぶんいろんな仕事をやったよ」

 丈はこれまでの経緯をかいつまんで話した。

「で、その話がどう村おこしとつながるんだ?」

「勘が悪いな」丈は頭を掻いた。「番組でやったように作っちゃうんだよ、美夜村にUFO伝説を」

「なに言ってるんだ?」

 宮田はなおも合点がいっていない。まあ普通に考えればそうだろう。丈は苦笑した。

「オカルトで地域振興っていうのは大して珍しい話じゃない。遠野はカッパ伝説があるし、屈斜路湖にはクッシー、東白川村にはツチノコがいる。同じように、美夜村をUFOの村に変えてしまうんだ」

「できるのか? そんなこと」

「できるさ」丈はニヤリと唇をゆがめた。「さんざん番組でやらされたからな」

 かくして、UFO村おこしプロジェクトは開始された。

 丈は円盤の目撃談を捏造するようなことはしなかった。代わりに、村に昔から残っていた神社や寺の由緒、山にまつわる言い伝えを丁寧に掘り起こした。夜明け前に日光を受けて、山々が淡く発光するように見える現象。日が昇るにつれ谷間に滞留する霧が突然裂ける瞬間。古文書に残る「空より来たりし光の車」という絶妙な記述。

 それらを一つ一つ並べ、「古来より、この地は光の車=UFOと縁が深かった」と語り直した。断定はしない。証明もしない。ただ、そう考えると辻褄が合う気がしないでもない、と提示する。さらには空き家を改装し、博物館を作って各地から収集したUFOにまつわる展示や解説を行った。そこには確かめようのない奇妙な証言や写真が並び、真偽を断定しない内容がかえって想像力を刺激した。ゆるキャラや限定土産も生まれ、口コミとネットを通じて人が集まり始める。忘れられていた村に足を運ぶ理由が生まれた。美夜村に活気が戻ってきたのだ。

 

 *

 

「月刊『アトランティカ』の百川です」

 男は、そう名乗った。有名なオカルト雑誌の記者だという。

 二〇二六年。深里市旧美夜村は、かつてない発展を遂げていた。丈も宮田も、四十代の中年になっている。

 その百川という男は三十代半ばに見えた。背は高くも低くもなく、眼鏡の奥の視線は穏やかだ。いかにも記者らしい鋭さや、オカルト雑誌にありがちな胡散臭さは感じられない。名刺を受け取った丈と宮田は、思わず相手の顔をまじまじと見た。

「……アトランティカ、ですか」丈が言った。

「ええ。アポなしで申し訳ないんですが、たまたま近くを通りがかったもので。UFOによる地域振興の成功例として、ぜひ取材させていただきたいと思います」

「じゃ、俺は捜索イベントの手伝いがあるからさ。あとは取材対応、頼むわ」

 宮田はそう言うと、丈の肩を軽くたたいて去っていった。

「そういえば十年くらい前にも、一度アトランティカの取材を受けたことがあるんですよ。千田さんはお元気ですか?」

 丈がそう言うと、百川は一瞬だけ眉を動かし、目線を泳がせた。

「千田さん? 知らないですねえ。まあ、編集部も長いですから。担当が変わると、そういうこともあります」

 それ以上、話は広がらなかった。百川は手帳を閉じ、「よければ村を案内してもらえますか」と言った。

 丈は百川を連れて、村にあるUFOをテーマにした土産物店、天体観測のできる民泊施設、それに私設博物館を見せた。施設の説明を受けるたびに、百川は興味深そうにうなずいていた。

 村の中心部に移動すると、折しも年に一度の「UFO捜索隊」の準備で賑わっているところだった。

 広場には大小さまざまなテントが立ち並び、受付と書かれた簡易ブースの前には、すでに長い列ができている。

 参加者の格好は実にバラバラだった。

 本格的な登山装備に身を包んだ中年男性、夜空を撮るために巨大な三脚を担いだカメラマン、なぜか銀色のマントを羽織った若者グループ。親に手を引かれた子どもたちは、ペーパークラフトの円盤を振り回してはしゃいでいる。

 目的はそれぞれで、半分は本気、半分はジョークとしてこの場に集まっているのがわかる。

「これ、毎年やっているんです」

 丈は百川に説明した。

「日没後に班ごとに分かれて、山の縁を歩きます。各班に無線機とライトは必須。勝手に山奥に入ると危険ですからね。熊鈴も忘れずに、って感じで」

 掲示板には、捜索ルートとともに注意書きが並んでいる。

〈未確認飛行物体を発見した場合、決して単独で接触しないこと〉

〈発見時は写真・動画による記録を推奨〉

〈ゴミのポイ捨て厳禁。宇宙人に誘拐されるおそれあり〉

「UFOの発見者は懸賞金が一億円もらえます」

 丈は言った。

「もっとも、誰も見つけてませんから。懸賞金はどんどんキャリーオーバーさせて、いまは十億円になってます」

「十億円?」

「でも条件が厳しい。JAXA、NASA、そのほか各国の宇宙開発機関が認めないと無効です」

 丈は笑った。「まあ、実質もらえません」

 一通り村を回ったあと、百川は尋ねた。

「いやあ、聞きしに勝る発展ぶりですね、UFOで町おこししている自治体はいくつかありますが、こんなのを見たのは初めてですよ。どうやってここまで発展できたんですか?」

 丈は少し考え、それから簡単に答えた。

 昔、プロレスにのめり込み、ある出来事で打ちのめされ、UFOに救われたこと。

 詳しい話は省いた。ただ、自分が見つけたプロレスとオカルトの共通点を、ざっくりと語った。

「正体が曖昧だからこそ、人はそこに想像を託せる」

 丈は続けた。

「実在を本気で信じているかどうかは重要じゃない。UFOをネタに、楽しめる余地があるかどうかだと思うんです」丈は感慨深げに目を細めた。

「この捜索隊だって、ほとんどの人がUFOを見つけられるとは思ってない。でも盛り上がる。地域のお祭りと同じです。祭りに参加している当人たちはご祭神のことも歴史的経緯もよく知りませんが、要は面白ければそれでいいわけです」

「はあ」百川はしばらく黙っていたが、やがて、急に決然とした表情に変わって言った。

「ところで、そのUFOを見たという山道ですが、連れて行ってくれませんか?」

「いまからですか?」丈は怪訝な顔をした。

「ええ、ぜひ。どうしても確認したいことがありまして」

 

 山道に入ると、村の喧騒は嘘のように遠ざかった。

 夕方の光はすでに薄く、木々の間を吹き抜ける風に虫の声が重なる。村の人々の声が、かすかに途切れ途切れで聞こえていたが、それも次第に消えた。

「このあたりですね」

 百川は、地図も見ずに言った。丈は足を止める。

「……なぜわかるんですか」

「まあ、そういう仕事ですから」

 軽い調子だった。息も乱れていない。

 丈は、わけもなく心臓の鼓動が早まるのを感じていた。

 山道は、かつて自分が転落した斜面の上に出た。丈は、無意識のうちに、少しだけ距離を取って百川の後ろに立っていた。

「あなたはここで目撃したんですよね」百川は言った。

「色鮮やかな円盤。空間が折れ曲がるような現象」

 丈がまだ教えていないことを、百川は語り始めた。

「ちょっと待ってくださいよ。なんでそれを……」

「これが理由です」百川はおもむろに指を鳴らした。

 空気が一瞬、重く沈んだ。目の前の闇がゆっくりと歪み、空間が折りたたまれていく。折れ目の向こうから、極彩色の光が滲み出した。赤と青と緑が混ざり合い、万華鏡のように揺れている光の中心から、円盤状の飛行体が静かに姿を現す。丈は、あの時とまったく同じ光景を、息を詰めて見つめていた。

 やがて、光が静かに収束し、円盤は霧のように溶けて消えた。

「さて」百川は、眼鏡を押し上げた。

「これで説明の手間は省けましたね」

 丈は喉が渇き、声がうまく出なかった。

「あなた……本物の宇宙人なんですか」

「ええ、まあ。あなた方から見れば。そういうことになりますね」

 百川はポケットに手を突っ込み、どこか事務的な口調で続けた。

「申し遅れました。私はプレアデス星団知的生命管理局、第四五〇三観測隊の隊員です。名前は……まあいいでしょう。あなた方の発声器官では発音できませんしね」

「本物だとしたら、なんで地球にやってきたんです?」

「生態調査です」

 百川はあっさり言った。

「惑星ごとに文明圏を観察して、母星に報告する仕事です。地味ですよ。あなた方が思うような、侵略とか、銀河の命運を左右するとか、そういう壮大な仕事ではありません」

「でも……どうして俺を助けたんです?」

 丈は、自分の腹を貫いた枝の感触を思い出し、わずかに震えた。

「あの時、あれがなかったら、俺は死んでました。命の恩人です」

「偶然ですよ」

 百川は肩をすくめた。

「たまたま瀕死の知的生命体を見かけたので、応急処置をした。それだけです。あなた方だって、道路で弱った猫を見つけたら保護するでしょう?」

 確かに、言われてみれば筋は通っていた。しかし、丈の胸の奥にかすかな失望が滲む。

「じゃあ、どうしてまた村に来たんです?」

「あなたが有名になっていたからです」

「有名?」

「『UFOで村おこしに成功した男』ですよ。過去に私が助けた個体が、どうやら自分の目撃体験をきっかけに文化的変容を起こし、その結果、地域経済が活性化し、人口流入まで起こっている――という珍しい例として」

 丈は口を開いたまま固まった。

「観測員としては気になるでしょう?」

 百川は軽く笑った。

「だから実地調査に来ただけです。あなた一人のためにというより、経過観察ですね。まあ、興味本位と言われれば否定はできませんが」

「興味本位って、もっとこう、重大な使命とか、宇宙の意思とか、そういうのは……」

「ありませんよ。ありません」

 百川は即答した。

「私たちは高次元存在ですが、賢者というわけではありません。文明レベルの差はあれど、個々人の知能はあなた方と大差ない。三次元空間で実体化するにも許可がいるし、交代要員も全然来ないし。あなたを助けた時も後で始末書を書かされたんですよ。まったく面倒な話です」

 丈は、宇宙人が 「始末書」という単語を使うことに、どうしようもない違和感を覚えた。

「……あなた、本当に宇宙人なんですよね?」

「ええ。いまは炭素生命体に擬態してますが、本来は物理的実体を持ちません」

 百川は自分の腕を撫でて言った。

「この体、まあまあ気に入ってますよ。少し不便ですけどね」

 丈は言葉を失った。

 あの時、あの光は自分を救った。本物の神秘体験だと思った。自分が人生を懸けて崇拝し、死の間際まで記憶に残り続けるであろう超然とした存在だと信じられた。

 だが、目の前の宇宙人は――ただ優れた科学技術を持っているだけの、小市民にしか見えなかった。しかも知能は地球人と同じときている。こんなやつに、俺は青春を捧げたのか。暗澹たる気分が、丈の胸中を満たした。その幻滅が、丈に衝動的な言葉を吐かせた。

「お願いです。いますぐ俺の記憶を消してください。俺はこんなこと知りたくなかった」

「はい?」

「宇宙人なんだから、あの銀の棒みたいなやつ持ってるでしょ。あれをピカってやって、いまのやりとりを全部なかったことにしてください」

「持ってませんよ、そんなの。映画かドラマの見過ぎです」

 本当につまらないやつだ。丈がそんなことを考えていると、ダメ押しのように百川が言った。

「それに、あなた一人の記憶を消してもムダですよ。そのうち我々の存在を、全人類に公表するつもりですから」

「どういうことです?」

「いま言ったとおりですよ。各国首脳、それから国連に我々の存在を通知します」

「ちょ、ちょっと待ってください」

 丈は笑おうとして、うまく笑えなかった。

「それ、冗談ですよね」

「まじめな話です。地球を観測するフェーズは終わりました」百川は淡々と続けた。「我々は不干渉主義なので侵略も啓蒙も一切しませんが、宇宙人が実在することを知ってもらえれば、地球のためにもなるはずです。人類には戦争、気候変動、差別など様々な問題がありますが、広い宇宙には他の知的種族がいると知れば、自分たちを客観的に見られるようになって……」

 百川はくどくど話し続けたが、丈はろくに聞いていなかった。常識的な説教ほどつまらないものはない。内容がまともであればあるほど、丈はその凡庸さに失望した。

「でも……」丈は絞り出すように言った。「俺は、この村は、どうなるんですか?」

「どうもなりません」百川は不思議そうに言った。「さっきから、何を言ってるんですか?」

 丈は、はっきりと理解した。

 ――終わる。

 丈と美夜村がいままで死守してきた曖昧さが。

 自分が必死に守ってきた、真実と虚構のあいだにある余白が。

「……あんた」

 丈の声は、思ったより低かった。

「自分のやってることが、どれだけ無粋かわかってます?」

 丈は続けた。

「あんたのやっていることは、子どもにサンタクロースの正体を教えるようなもんだ。俺たちが夢を見続けるためには、本物の宇宙人なんて出てきちゃいけなかったんだ」

 丈はもはや涙ぐんでいた。

「あんたみたいなやつが、プロレスラーを総合格闘技にかつぎ出したんだ。純真な幻想をくだらん現実でぶっ壊して、なにが楽しい」

「またプロレスの話ですか」百川は完全にうんざりしている。

「さっきから聞いてたら、私のせいじゃなくて全部あなたの問題じゃないですか。付き合いきれませんよ」

「いいから、もうオリオンに帰ってくれ」

「プレアデスです」

「だまれ」

 丈は涙を拭った。

「このこけおどしのハッタリ野郎。お前なんか出て来なければよかったんだ」

 丈は百川の肩を激しく揺さぶった。

「やめてください。この体は脆いんです。修復不可能になったら、死んでしまいます」

「そうかい」丈の脳裏に、邪悪な考えがよぎった。

「それはよかった」

 丈は百川の両肩をつかんだ状態から、思い切り突き飛ばした。百川の身体は、驚くほどあっさりと宙に浮き、ガードレールを乗り越えて崖下の闇へと落ちて行く。やがて斜面の下から、鈍い音が返ってきた。

 ――ゴトン。

 丈はゆっくりとガードレールをまたぎ、暗く、滑りやすい斜面を注意深く下り始めた。

 やがて、黒い影が見えた。

 半ば土に埋もれた古井戸の縁に、百川の身体が引っかかるようにして止まっている。

 まだ生きているようだ。胸がわずかに上下している。だが、その目は焦点を結んでいない。

 丈はその上に馬乗りになって、百川の首を締め上げた。そのまま、全体重をかける。

 パキッ。

 どこかで聞いた音がした。

 百川は首を不自然な角度に曲げたまま、二度と動かなくなった。

 丈は井戸の蓋を外し、百川の身体を引きずるようにして、そのまま中へ押し込んだ。落下音はしなかった。闇が、すべてを飲み込んだ。

 

 村に戻ると、ちょうど捜索隊の集合が始まっていた。

「おい、西久保」

 宮田の声がした。振り向くと、腕章を巻いた宮田が手を振っている。

「取材の人は?」

「……帰ったよ」

「そうか。まあ、忙しそうだったもんな」

 宮田は深く考えずに言い、無線機を渡してきた。

「ほら、これからUFO捜索だ。お前も入れ、盛り上げろよ」

 丈は無線機とヘルメットを受け取り、列に加わった。ヘッドライトが点き、山道に光が連なる。

 誰もが空を見上げ、何かを探している。

 未確認のままの何かを。

 丈は夜空を仰いだ。あの極彩色の光は、もう二度と見えない。

 だが、それでいい。

 この村には、まだ「虚実の被膜」が残っている。

 丈は、ゆっくりと歩き出した。

 UFO捜索隊の一人として。

 

 ※本作は創作過程の一部においてAIを使用しています。

文字数:15938

課題提出者一覧