ラカン・ライン
博士は、研究室に掲げられた標語を見上げた。
〈ラカン・ラインを越えよ〉
人造生命研究に携わる者なら、誰でも知っている言葉だった。
幼児が自己と外界を区別し、鏡に映った反射像を単なる刺激ではなく「自分」と認識し、さらにそこから主体として振る舞い始める段階――。
それこそが精神分析家、ジャック・ラカンの提唱した「鏡像段階」であり、人造生命研究においては意味合いが簡略化されたうえで「ラカン・ライン」と呼ばれていた。
世界中の研究者が、この一点をブレイクスルーとみなしている。ラカン・ラインを越えた人造生命は、ただの思考装置ではなく、自我を持つ存在だと認められるのだ。それは人類や人工知能とは異なる、独立した知的存在になると期待されていた。博士と助手は、今日こそその瞬間が来ると信じていたのである。
培養槽の中で、博士の作った人造生命体が静かに脈動している。槽の中に浮かぶものはクローンではない。炭素や水素や酸素等の元素から、膜と核と分裂の仕組みを組み立て、細胞を一からデザインし、増やし、つなぎ合わせた合成生命だ。その生命体は、外界を知るための感覚器官と、思考のための脳を持っており、その思考過程は手元のモニターですべて確認できるようになっている。
それはこれまで地球上に存在したどの生物にも似ていなかった。リソースの関係上、各種器官の配置は合理性を優先し、手足の代わりに申し訳程度の突起があるばかりで、全体としてひどく歪な形をしている。だが知能の発達は、すでに幼児のそれをはるかに凌駕していた。
「問題は、いつラカン・ラインを越えるかだ」博士は言った。
助手はモニターを見ながら答える。
「自己参照ループ、安定しています。外界モデルとの分離も確認済みです」
培養槽の前には、巨大な鏡が設置されている。生命体は、それを見つめていた。次に、自分の突起を少し動かした。鏡の中の像も連動して動く。生命体は、もう一度、今度は逆側に動かした。鏡の像も、また同じように動いた。生命体は角度を変え、間を空け、動作を繰り返した。
それは反射に驚いている反応ではなかった。「たまたま見えているもの」ではなく、「自分の動きと結びついている像」だと確かめているようだった。
博士は、その様子を見て息を呑んだ。
研究者としては「自己像の統合が始まった」と言えばいい。しかしそこには全く別の何かがあった。
これまで生命体は、光や音や刺激に反応するだけだった。だが今は、鏡の中の像に向かって、自分から問いかけるように動いている。
「おまえは誰だ」と確かめている。しかも、その答えが「自分だ」という形で返ってくる。
無邪気なその往復が、博士には奇妙に清く尊いものに見えた。それはもはや実験の一過程ではなかった。先ほどまで細胞の塊でしかなかった存在が、まさにいま自己という輪郭を形作ろうとする瞬間だったのだ。
数秒後、モニターに表示が出た。
〈ラカン・ライン突破〉
「来ました」助手が言った。「自己像を自己として統合。象徴処理に移行しています」
博士は深く息を吐いた。
「成功だ。ついに越えた」
二人は固く握手した。長年、世界中の研究者が到達できなかった地点。生命体は、単なる生物ではなく、自己意識を持つ「主体」になったのだ。
だが、その直後だった。生命体の反応が、急激に変化した。
「……?」
助手が眉をひそめる。
「自己像処理が、異常に加速しています」
博士は培養槽と鏡を交互に見て、理解した。生命体は、映っている像を「自分」だと確かに認識した。そして同時に、その姿を評価し始めたのだ。
「自己像と……理想像の差異を検出」助手が淡々と報告する。「深刻なストレス反応が発生しています」
「待て」
博士が言った。
「ラカン・ラインを越えたばかりだ。まだ安定——」
言葉は続かなかった。
生命体は急速に代謝を落とし始めた。心拍が低下し、血圧が崩れ、脳への血流が途切れる。数十秒で、生命維持機能が止まっていった。
「……心停止しました、つまり、ショック死です」
培養槽の表示は、静かに沈黙した。しばらくして、博士は口を開いた。
「なるほど」
「何がわかったんですか?」
「ラカン・ラインは、単なる認識の通過点ではない」博士は言った。「自己像の欠陥と自己嫌悪を理解する地点でもある」
助手は少し考えた。
「つまり……」
「自己を認識した瞬間、『自分は醜悪だ』ということも理解してしまう」博士は培養槽のスイッチを切った。「次の課題は明確だな」
「はい」
「ラカン・ラインを越えた実験体は、『私は醜くてもいい』という思考回路を持たねばならない」
助手は苦笑した。
「博士」
「なんだ」
「そんな都合のいい機能、人間にもついていませんよ」
博士はそれには答えず、鏡を無言で見つめた。そこに映っているのは、非道徳的な研究に熱中した結果、実験体を死なせたばかりの、疲労をため込んだ老人の姿だった。
博士はその像を、長くは見つめなかった。
文字数:1993
内容に関するアピール
本作では、「美しさ」を、視覚や聴覚で捉えられる属性としてではなく、人工的な生命が自己を発見し主体的な存在へと進化する、その瞬間と定義しました。
私は昔からSF第一世代のショートショートに強く惹かれており、今回はフラッシュフィクションという形式の中で、二〇〇〇字という制約を活かし、シンプルな「物語」としての起伏と余韻をどこまで凝縮できるかを意識しました。古典的な構成を踏まえつつ、現代的なテーマに接続することを目指しています。
文字数:212


