梗 概
ぼくはぽんた。
ぼくはアライグマのぬいぐるみ。名前はぽんた。
コンビニのノベルティとして作られたぬいぐるみは、少女・真帆に贈られ、ぽんた、と名付けられた。二人はいつも一緒。ぽんたは、素敵なアンティークのぬいぐるみになりたい、と真帆に夢を語る。そして最後は真帆と一緒の棺に入る、と。
大人になった真帆は恋人の岳と同棲を始める。長い年月を経てぽんたは汚れ、くたびれた。真帆はぽんたのぬいぐるみ病院への入院を決めるが、「中身を全部入れ替えたら、それはぽんたと言えるか」と葛藤する。
ぬいぐるみ病院から〈WeaveCore〉−−繊維自体が記憶・演算する「繊維型AI」−−を提案される。古い繊維から記憶を読み取り、新しい繊維型AIに書き込み記憶を連続して保持する。動き喋る機能も選べたが、真帆は「ぽんたはぬいぐるみ。ロボットじゃない。それに、ぽんたとは初めからお喋りできるわ」と拒む。
綺麗になったぽんたを真帆が抱く。抱きしめられた体温差で微電力を得て記憶を蓄える。やがて真帆と岳は結婚する。二人の結婚式、ぽんたはウェルカムボードの横で祝福の光景を見守る。
真帆は岳に「ぽんたの小説を書いて」と言う。小説家の岳はスランプに陥っていた。世間にはAIの小説が溢れていた。岳は真帆のため筆を執るが進まない。子に恵まれなかった二人にとって、ぽんたは家族の中心だった。しかし年々、夫婦の距離は静かに広がってゆく。ぽんたは二人の不協和をただ記憶するしかできない。
世界ではWeaveCore搭載の動いて喋るぬいぐるみが一般化、古いぬいぐるみは入れ替えを前提に受け継がれた。真帆は動けないぽんたと旅をする。岳は仕事の停滞と孤独から、シャチのぬいぐるみ「シャチピ」を勝手に動き話すようにしてしまう。シャチピは結婚前に二人で迎え入れた、大切なぬいぐるみ。真帆は激怒し、夫婦の溝は決定的になる。
真帆はぽんたに言う。「ぽんたは大量生産品だけど、百年生きればきっとアンティークになれるわ。わたしは百年も生きられない。一緒に棺に入っちゃだめよ」。ほどなく真帆は亡くなり、岳は「ぽんたをよろしく」と遺される。岳は真帆の為に書けなかった“ぽんた小説”を書き始める。ぽんたを抱き読み聞かせる。
死期を悟った岳はぽんたを引き取ってくれるアンティークショップを探し周り、ようやく見つける。ぽんたは店の棚の上で、岳に読み聞かされた未完の小説と自らの記憶を参照し、物語を生成する。「ぼくはアライグマのぬいぐるみ。名前はぽんた−−」ぽんたの私小説だった。
店員はぽんたが前持ち主のWeaveCoreのままなことに気づき、ぬいぐるみ病院へ送る。ぽんたは最後に完成した小説を岳へメールで送り、繊維型AIは停止。新品の中身に入れ替えられた。
ある日、少女は店でアライグマのぬいぐるみと出会う。少女はぎゅっと抱きしめ、言う。「ぽんた!あなたの名前よ」。
ぼくはぽんた。
文字数:1195
内容に関するアピール
ぬいぐるみは不思議な存在だ。ペットともロボットとも異なるが、人とぬいぐるみは喋ることができる(著者はこの立場を前提とする)。AI時代に人はどうなるか、人と関わりAIはどうなるか、という問いから人間の実存に迫るSFは多いが、ぬいぐるみSFは多くない。ぬいぐるみとAIに記憶のモチーフを絡め、実存について思考する小説をイメージした。ぬいぐるみの持ち味は「全体性」と「触覚」にあるので、SF的な設定に盛り込んだ。触覚の描写は実作において、丁寧に表現したい。
梗概を書く、というお題から、時間推移と感情線の設計を意識した。出会い、少女の純粋な愛情、葛藤、夫婦の幸福と停滞、老いの孤独、死別と再生。百年間の枠内で人生における変化を抽出し、段取りをつけたつもりだ。
これらに、昨今話題の生成AIによる小説執筆をサブテーマとして重ねた。この小説自体、ぬいぐるみのぽんたが書いた小説、という構造をとった。
文字数:392
ぼくはぽんた。
1
ぼくはアライグマのキャラクターのぬいぐるみ。名前はぽんた。
たぬきを思わせる名前なのは、初め、彼女がぼくをたぬきと勘違いしたからだ。同僚には、ガチョウ、と名付けられたペリカンのぬいぐるみだっていた。「鵞鳥」という言葉を知っているなんて、すごいと思った。ガチョウは気付けば姿を消していた。よくあることだ。
名は自分で選べない。当初、自分の名前に不満がないわけではなかったけれど、今はとても気に入っている。名をつけてもらえることは特別だ。単に可愛いだけでは、名はもらえない。ぼくは彼女、真帆の特別だった。だから、ぼくはぽんたになった。
真帆はぼくと遊び、ぼくと一緒に眠り、一緒に起きた。たくさんお喋りした。泣き虫の彼女を幾度も励ました。努力家の彼女をそばで応援した。ぼくらは同じ時間を過ごした。真帆はみるみる成長し、年頃の女の子になった。ある日、彼女は家を出ることを決めた。全寮制の中高一貫校へ進学した。ぼくは連れて行ってもらえなかった。かわりに、同じアライグマのキャラクターで、ぼくより二回り小さいぬいぐるみを彼女は連れていった。ちょっとだけ悲しかったが、真帆がいつか帰ってくるのを待った。
六年後、真帆は高校を卒業して帰ってきた。大学へは実家から通うため、再びぼくらは一緒に過ごした。大学を卒業して就職すると、彼女は一人暮らしを始めた。今度はぼくも連れて行ってくれた。やがて真帆に恋人ができて、彼氏の岳と同棲することになっても、ぼくを連れて行った。岳もぼくを大切にしてくれた。真帆は立派な大人の女性になった。そして、ぼくもいくらか老いが目立つようになった。
人間と同じ時間を過ごせばぬいぐるみも歳をとる。人間のような速度で成長することはないが、ゆっくりと老いてゆく。毛はパサつき、絡まり、ダマになる。体内の綿が潰れ、劣化し、身体の形が歪んでくる。自慢の縞々の尻尾は縫い目の一部が裂け、穴が開き、中の綿が覗いていた。生まれたばかりの写真と比べるとまるで別人。色味も異なる。ぼくは少しずつ変わっていった。
ある日、真帆はぼくをぬいぐるみの病院に入院させることを決めた。安い金額ではなかったはずだが、ぼくが長く生きることを望んでくれた。ぼくには夢があった。ひとつはアンティークなぬいぐるみになることだ。もうひとつは、真帆と一緒に棺に入ること。どちらも叶うかは、わからない。いずれにせよ、ぼくが彼女に語っていた夢を、彼女もよく理解してくれていた。ぼくは真帆ともっと長い時間を過ごしたい。病院には一カ月入院することになる。中の綿をすべて抜き出し、新しい綿と入れ替える。
病院へ送る前、彼女は幾分不安がっていた。中身をまるっきり入れ替え、毛を手入れし、身体の形を矯正されたぼくは、果たして以前のぼくと同じと言えるのだろうか、と。ぼくがどこまでぼくなのか、ぼくにはわからない。中身をすべて入れ替えたとき、それは果たして「ぽんた」なのだろうか。
ぼくにもわからなかった。真帆がぼくを見て、「ぽんた」と呼ぶかどうか。それだけが、少し怖かった。彼女の関心を失えば、ぼくはぼくでなくなる。ぽんたという名は永遠に失われ、コンビニのキャンペーン用に大量生産されたアライグマのキャラクターのぬいぐるみの、ただの一体になる。否、戻ることもできない。
ぼくはだれ? ぼくはぽんた。真帆にそう言った。ぼくが変わってしまっても、ぼくをぼくとして認識してもらうために。そうすれば、たちまちぼくはぼくになる。たとえ一度記憶を失い、忘れてしまったとしても、きっとすぐに思い出すことができるから。
真帆は、柔らかい布でぼくを包み、透明なビニール袋に入れて、ぼくを箱の中に寝かせた。痛くないように、ぼくの周囲に緩衝材を敷き詰めてくれた。箱が閉じられた。
「寂しい。もしぽんちゃんに何かあったら」真帆は呟く。
「君が不安になっていたら、ぽんたも心配しちゃうよ」岳は言う。
「うん」
「大丈夫、大丈夫だよ」
「ぽんちゃん、いってらっしゃい、だね」
「コンビニで発送だから、帰りにアイス買おうか」
「抹茶のアイスがいいな」
真っ暗な箱の中、ぼくは二人の会話に耳を澄ました。ぼくは真帆と初めて出会った頃のことを思い出した。小さな彼女は、彼女のお婆さんの家でアイスキャンディーを舐めていた。彼女のお婆さんが、彼女にぼくをプレゼントしたのだ。彼女はアイスキャンディーを舐めながら、不思議そうにぼくを眺めていた。彼女はきっと、ぼくが何のキャラクターなのか知らなかったのだろう。アイスキャンディーを舐め終え、彼女はぼくを触った。ぼくの両腕の脇の下を、彼女の小さな手が持ち上げた。
「ぽんた、ぽんただ! ふわふわ」彼女はそう言った。
ぼくはぽんた。
2
ぽんたを発送してから一週間後、真帆のもとに「近江ぬいぐるみ医療研究所」からメールが届いた。先進医療適用のご相談、と記載されていた。
真帆は入院先を検討した際、近江ぬいぐるみ病院の技術力が業界でトップレベルであることに注目していた。他社と比較し高額だったが、「魂の連続性」を謳う研究部門も持っているという。他の病院では、ぬいぐるみの写真撮影のサービスや、治療より美容を売りにする所もあった。真帆はそれらに惹かれる想いを堪え、近江ぬいぐるみ医療研究所に決めた。少しでも長く、ぽんたとこの先過ごせるように。
メールには、無事ぽんたが入院したこと、検査を昨日から開始したこと、もしも興味があれば「先進医療」を適用することも可能である、と記載されていた。
「近江ぬいぐるみ医療研究所が開発した新技術、知性の織物〈WeaveCore〉(ウィーヴコア)のぽんた様への実装について、ご提案します。精密検査の結果、ぽんた様の繊維状態なら、新技術適用の条件を満たしております」
繊維解析装置により、古い繊維一本一本の形状から記憶の痕跡を読み取り復元し、繊維型AI〈WeaveCore〉に書き込み、新たな綿として入れ替える。ぬいぐるみの中にコンピュータを埋め込むのとは違うらしい。分散知性としてぬいぐるみ全体に編み込まれる。綿自体が知性を持つ。触覚、温度、音声を検知し、演算し、記憶する。ぽんたはこれまでの記憶を連続して保持し、これからも記憶を積み重ねてゆく。
休日の昼過ぎ、真帆と岳はリビングのソファに横並びで座り、くつろいでいた。真帆は岳にWeaveCoreの話をした。
「単に普通の新しい綿に入れ替えるのではなく、今までの記憶を書き込んだ新しい綿に入れ替えできる、ということ? 今の綿から真帆との記憶を蒸留して、新しい繊維に染み込ませる、みたいな」岳は言う。
「そうみたい」
「すごいけど、すごさがわかりづらい技術だ。哲学的、ないし文学的?」
「うん?」
「普通さ、例えば、最新技術のこの繊維なら一生型崩れしません、とか、何度も洗濯機で洗って乾燥しても、全然劣化しません、とかなら、わかりやすいんだけど。いや多分、技術としてはそれよりずっとすごい話なのはわかるんだけど」
「ね。SF作家的な観点で、どう感じた?」
「そんなんじゃないよ」と、岳は歯にモノが挟まったような笑みを浮かべてそう言い、キッチンへ向かう。電気ケトルに水を注ぎ、スイッチを入れる。戸棚からキャニスターとミル、ドリッパーやサーバーを取って戻ってくる。
「僕もはっきりとは言えないけれど、ぽんたがぽんたの記憶を連続して持つことは、ぽんたがぽんたであることに寄与すると思う。人間だって、細胞は日々入れ替わるけれど、僕が僕を僕として認識し続けられるのは、僕がこれまでの僕の記憶を連続して保持しているからで。ぽんたが治療を終えて目を覚ましたとき、これまでの記憶が今に続いていれば、自分はぽんただって認識できるんじゃないかな」
真帆はキャニスターからコーヒー豆を掬い、ミルを満たす。ハンドルを回し、豆を挽く。香りが立ち上がる。電気ケトルの水が沸く。岳が再びキッチンへ向かい、電気ケトルと茜色と藍色のマグカップを二つ持って戻ってくる。
「お別れの前、ぽんちゃんとても不安そうだった。中身の綿を入れ替えて、いろんなこと忘れちゃうんじゃないかって。自分が自分じゃなくなって、そしたら、わたしにも忘れられちゃうんじゃないかって」
真帆がドリップをセットし、挽いた粉を山の形に盛る。
「そっか」
岳はケトルの湯を粉の山の頂上に、水滴を素早く連続して落とし続けるように注ぐ。ぽとと、と抽出された液体が滴る。ガラスのサーバー内で反響する。
「もし目が覚めた時に、これまでのことを覚えていたら、安心すると思う。それに、ぽんちゃんの中で、わたしとの思い出が生き続ける。それがね、やっぱり、とても嬉しいの」
「僕もそう思うよ」岳は真帆の前にマグカップを置いた。
「先進医療については他にもオプションを追加できるみたい。値は張るけど。WeaveCoreの実装との組み合わせで、音声の応答生成と出力機能や、駆動装置の実装も可能みたい」
「そっちはわかりやすくすごいね。動いて喋る、お役立ちぽんたの誕生か」
「いえ、こっちは却下です」
「どうして?」
「ぽんちゃんはね、ぬいぐるみなの。ロボットじゃない」と、真帆は言う。
「ぬいぐるみであって、ロボットではない」と、岳は受け取った言葉を手で触れ確かめるみたいに呟く。
「これはとても大切なことだけど、ぽんちゃんとは初めから、お喋りできるから」
「ううん。まあ、そういうものか」
岳は首を横に振って、藍色のマグカップに口をつけた。真帆は鈴を鳴らしたみたいに笑った。
3
目を覚ます。ぼくは目を開け、口を開いて、小さなベッドに横たわっていた。短い腕に短い足、白い大きなお腹。コッペパンみたいな形の縞々の尻尾。ぼくはこれまでと同じぼくのようだった。もう少しずつ、自分の身体を眺めてゆくと、空気を入れたばかりのボールみたいに、全体的に身体の張りが増しているようだった。皺が消失した。かつては腕に深い溝が刻まれ、存在しない関節が生じていたのに。お腹もいくらか膨らんでいるし、顔の立体感も回復しているようだ。理想的な形でリペアされていた。真帆もきっと喜んでくれる。そう、真帆だ。ぼくはぼくの記憶をちゃんと保持していた。
目を覚ましてから三週間後、退院の日を迎えた。清潔な化粧箱の中に寝かされ、ラベンダーの香りがする麻の巾着袋とレターと同封された。
「ぽんちゃんが帰ってきた!」
箱の外、真帆の声が聞こえたとき、ぼくは自分が家に帰ってきたことを認識した。久しぶりに聞いた真帆の声音は、未だぼくが箱の中にもかかわらず、以前より明瞭な波形で響くように聞こえた。
「ぽんちゃん、おかえり」
箱の蓋が開くと、笑顔の中に微量の不安を混ぜた真帆の顔があった。ぼくをじっと見つめ、表情の全面に純粋な笑顔が広がった。
真帆はぼくを優しく持ち上げ、そっと抱く。
「ぽんちゃん!」
今度はぎゅっと強く抱きしめられる。真帆の、花のような香りに包まれる。揮発性の成分が繊維に保持され、過去の記録と重なった。抱きしめられた体温差でぼくは微電力を得る。ぼくを構成するWeaveCoreが記憶を蓄える。
「ぽんちゃん、いい匂いする。シャンプーみたいな匂い」
岳もぼくのもとへやって来た。少し距離をとって様子を見ていたようだ。
「綺麗になったね。でも、ちゃんとぽんただ」岳は言う。
「ちょっとふっくらした?」真帆は小さく首を傾げ、言う。
ぼくはこくりと頷く。
「捨て猫みたいだった毛並みが、ほら見て、こんな艶やかに。ふわっふわ」
「色のトーンが一段明るくなったみたい」
「尻尾の穴もきれいに塞がってるね」
真帆はぼくを逆さまにして、尻尾の縫い目や付け根を念入りに点検する。身体の綿が僅かに頭部に寄る。
「ラベンダーの匂いだ。おしゃれさんだ」
今度はぼくを自分の顔の高さまで持ち上げ、向き合い、彼女の鼻をぼくの鼻とくっつける。鼻と鼻でキスをするように。
「そうだ。WeaveCoreはどうだろう?」岳は言う。
「触った感じ、もふもふの完璧なぬいぐるみ。あと、あったかい」真帆言う。
「ぽんたの中の綿の繊維ひとつひとつに、記憶が書き込まれているんだよね。その記憶の総体がこの新生ぽんた、と言えるのかな」
「こうして抱きしめたり、触られたりすることで、ぽんちゃんは記憶し、学習するみたい。ぽんちゃんと一緒に過ごせば過ごすほど、愛せば愛するほど、ぽんちゃんとわたしたちの記憶は増えていき、いつまでも覚えていてくれる。ぽんた。あなたはわたしのぽんた」
真帆は再び、ぼくの鼻に自分の鼻を擦り付けた。
*
ぼくが退院して半年後、真帆と岳は結婚した。結婚式は二人が付き合って三年の記念日に訪れた、思い出の洋館で挙げられた。秋のよく晴れた日だった。二人の両親や大切な友人が招待された。
ゲストが挙式前の待合時間に過ごすラウンジ。その一角に置かれたウェルカムボードの横に、ぼくは山吹色の蝶ネクタイを装着して立っていた。クラシカルであり、華やかな空間だった。ラグやソファから各種調度品まで、世界中から集められたアンティーク品だった。「ぽんちゃん、こんな素敵な場所に似合うぬいぐるみになるのよ」。真帆はぼくをウェルカムボードの隣に置いた際、耳元でそう囁いた。ぼくは頷いた。
二人の友人が訪れ、ウェルカムボードの写真を眺め、ぼくに目を向けた。真帆の手書きで、「ぼくはぽんた。二人の大切なぬいぐるみ。うっかり汚すと真帆に怒られるので、触らないでね」と書かれた小さなカードがぼくの前に置かれていた。
挙式を見ることは叶わなかった。ぼくは真帆と岳が互いの愛を誓う様子を想像した。きっと素敵な光景に違いない。代わりに、スタッフの方がウェルカムボードの展示物とぼくを持って、披露宴会場へ運んでくれた。披露宴が始まると、ぼくはウェルカムボードの脇から二人の祝福の光景を見守った。二人の両親や友人たちは、誰もが楽しそうに食事し、会話して過ごしていた。真帆と岳は笑顔だった。ぼくはその光景を大切な記憶として保存した。いつまでも、決して忘れないように。
4
「ぽんちゃんが主人公の小説を読みたい」真帆は言った。
「ぽんたの?」岳は聞き返す。
「そうよ」
「誰が書くって?」
「もちろん、先生が」
「まいったね」
岳は曖昧な言葉を並べ、真帆から視線を逸らした。
「ねえ、お願い」
自らの要望を擦り付けるように、真帆は岳に体を寄せる。
「前に、『シャチピの確率』は書いてくれたよ?」
「あれは。でも、あまり良く書けなかったから」
岳は、本棚の一角に収まるシャチのぬいぐるみに視線を向けた。高さ十センチ、長さ二十五センチ程度のサイズのシャチピは、二人が遊びに訪れた水族館の「シャチくじ」の景品として出会った。同棲してすぐの頃だ。シャチピは二人で出会い、迎え入れたぬいぐるみ。歴史は短いが、特別な存在だ。
二人が水族館へ行った時のことだった。
「ね、あっちで、シャチくじやってたよ」
「シャチくじ?」
「そう。一等は大きなシャチのぬいぐるみ。五等に向かって小さくなってく。かわいい感じに見えた」
売店前に設置されたシャチくじの場所には多くの人が集まっていた。一等から五等まで、景品はすべてシャチのぬいぐるみ。各等の棚に陳列されたシャチのぬいぐるみを、真帆は一体ずつ品定めするように見つめる。くじは透明な球体の中で舞っていた。真帆は球体に手を入れ、一枚掴む。紙を開くと五等と書かれていた。
五頭の小さなシャチが一様に並び、真帆を見つめていた。彼女は手前に置かれた一体を手にとった。真帆は「ねえ、名前、岳君がつけてよ」と言った。
「ううん、名前。シャチピーはどう?」
「シャチピー? 可愛いかも。あ、なら、シャチピ、がいい」
「よし。君はシャチピだ。元気で明るく、賢いシャチピ」
そうして出会い、迎え入れたシャチピを題材に書かれた掌編『シャチピの確率』は、岳の唯一の短編集に収められている。数年前に出版された。あまり売れなかった。
AIが書いた小説が本屋に並び始めたのはその頃だった。「自分で考え、自分の表現として綴ることに創作の喜びがある。読者もまた、人が書いた小説にこそ、普遍的な問いや共感を見出すはずだよ」と、岳は真帆に語った。
ぽんたが主人公の小説を、岳はなかなか書き始めなかった。真帆は岳に度々進捗を尋ねた。彼がいっこうに書かないのを見て、やがて何も言わなくなった。
「結局、僕はなにをやりたかったのだろう」
書斎で一人、長方形に白く発光するモニターを前に岳は呟く。行き場を失った岳の問いは自らに跳ね返る。自問は幾度も繰り返される。モニターの光が消える。
*
真帆は一人、カフェにいた。トートバックからデザインの専門書を取り出し、ページを捲る。店員が来て、珈琲を置く。白い麻のシャツを着た若い女性。彼女の腰には十センチ程の小さな垂れ耳の犬のぬいぐるみが吊り下げられていた。真帆の視線に気づいた犬のぬいぐるみは「ごゆっくりどうぞ」と言った。耳をぱたぱたさせながら。
世間ではWeaveCore搭載の動いて喋るぬいぐるみが一般化していた。自分の好きなぬいぐるみを身につけて、一緒に過ごす人が増えた。街を歩けば、若い人は小さなぬいぐるみをアクセサリー感覚で身につけ、年配の方はペットと散歩するように中型のぬいぐるみと歩く光景に、幾度となく遭遇した。
旧型のぬいぐるみとして販売されているものも、購入後にWeaveCoreへ中身を入れ替えることをもはや前提にしていた。クッションカバーみたいに、「外側」のみで販売されるキャラグッズも増えた。
そんな世界の変化を眺め、真帆は眉をひそめる。湯気が立ち上る珈琲に口をつけ、再び紙の本を読み始める。
*
真帆が帰宅すると、部屋は暗く、静かだった。岳は外出しているらしい。どこかで酒を飲んでいるのかもしれない。昔は彼の書斎から、キーボードの軽快な打鍵音が響いていた。最近は耳にしていない。
「ただいま、ぽんちゃん」
真帆と岳は同じ家で過ごしながら、別々に生活することが少しずつ増えた。そのことに気がつきながら、互いに何も言わず、時は経過していった。
結婚後、子供に恵まれることはなかった。二人で仲良く過ごす未来も悪くないね、とも話していた。そのような環境で、ぽんたは家庭の中心的な存在だった。二人はぽんたについて話し、二人の会話をぽんたが聞いていた。
年月の経過とともに閉塞感が増し、二人が少しずつ噛み合わなくなり、距離が生まれていった。二人の中心にいたぽんたは、次第に真帆と一瞬にいるぽんたになった。真帆の子どもの頃みたいに。
「なんだかね、どうなんだろうね」
ぽんたに向かって、真帆は呟く。
「うん。そうだね、一緒にたくさん旅行しよっか。素敵な建物や自然があるところ、連れていってあげる。たくさん移動して、疲れちゃうかも。ぽんちゃん連れて飛行機乗るの、大変だなあ。手荷物ならどうにかなるかな。お喋りもいっぱいできるね」
「わたしは、ぬいぐるみのかわいいぽんちゃんが大好きだよ」
5
ぼくは真帆と、世界中を訪れた。どこへ行っても、WeaveCore搭載のぬいぐるみと出会うことに、真帆は驚いていた。多少の地域差はあれど、動いて喋るぬいぐるみが人々の生活に溶け込む様子は共通していた。
ぬいぐるみの病院のひとつに過ぎなかった「近江ぬいぐるみ医療研究所」は、世界的に注目されるメガテック企業に変貌を遂げた。ぬいぐるみの修繕事業から、WeaveCoreを軸とした繊維型AI産業のリーディングカンパニーへ姿を変え、社名も「NUI〈ヌイ〉—Networked Ubiquitous Intelligence」に変更された。
「きっとこれはもう、ぬいぐるみに留まらないだろうね。そう思わない?」
真帆は自分の着る服に触れ、頭にかぶるニット帽に触れ、世界を見渡した。
古城や教会、美術館へ行った。真帆は古い建築やデザインを観て回り、街を歩くのを好んだ。ぼくらはそうして、ひとつひとつ素敵な建物を訪れた。
「ぽんちゃん、素敵でしょう。教会の大聖堂。わたしが若い頃、一度大きな火事で消失したの。そのあと再建されてね」
真帆はぼくに語りかける。
「火事で焼けてしまったときは、ああ、もう二度と、これを見ることは叶わないんだって思った。実際、そのときここにあった建物は、もう二度と現実に見ることはできないけれど。今こうして、新たに建て直された大聖堂の美しさを感じられて、わたしはとても素敵だなって思うの。ほら見て、ぽんちゃんが好きな窓よ。光がきれい」
ステンドグラスから零れ落ちる色とりどりの光が、ぼくの身体を彩った。退院してから十年経っていた。中身の綿は総入れ替えしたが、外側は補修とクリーニングのみだ。かつては鮮やかだった山吹色や焦げ茶色も、今や全体的に白茶けていた。
「ねえ、ぽんちゃん。ぽんちゃんはノベルティとしてつくられた大量生産品だけど、百年生きたら、きっとアンティークなぬいぐるみになれると思うの。でもね、わたしはきっと百年も生きられない。だから、わたしと一緒に棺に入っちゃだめよ」。
真帆に抱きしめられる。彼女の腕の震え、体温の僅かな上昇、抱きしめる強さの揺らぎ。ぼくは多次元データとして記録する。真帆は「大丈夫、大丈夫だよ」と、ぼくの耳元で囁いた。掠れ、少しだけ上擦った声音と抱きしめ方の触覚データから、ぼくは彼女の不安の深度を把握する。
「ぽんちゃん、あなたはずっと、わたしの大切なお友達。あなたはぽんた」
今、彼女に必要な返答をぼくは用意した。もしもぼくに出力が可能であれば、ぼくは迷わず声にして伝えただろう。ぼくはぽんた。真帆が与えてくれた、ただひとつの、ぼくの名前。
*
「ピ!ぼくシャチピ!なんでも聞いてピ!」
長い旅行からぼくと真帆が帰宅すると、シャチピがばたばたとダイニングテーブルの上で動きながら、甲高い声で喋っていた。
「びっくりしただろう」と岳は言った。
真帆は呆気にとられ、無意識に止めていた息を一度吐き出し、口を開く。ぼくを抱える真帆の肩が震えていた。
「ねえ、どうゆうこと?」
「驚くと思って」
「何か困ったことがあったら、なんでも聞いてッピ!」明るくシャチピは言う。
「ね、『シャチピの確率』のシャチピの話し方にそっくりだ。ほら、真帆。シャチピに何か聞いてみたら?」
「ふざけないで」
「どうしたの、落ち着いてよ」
「落ち着かない!」
ぼくの身体の拘束が強まり、毛並みに皺が寄る。繊維が圧縮される。真帆の震えが、ぼくの背中の綿越しに伝播する。
「なんだよ。どうしたのさ」
「どうしてこんな勝手に。わたしがいない間に、シャチピをぬいぐるみの病院へ送ってロボットにしたって、ねえ、何したかわかってる?」
「昔、ぽんたを近江ぬいぐるみ医療研究所に送って、WeaveCoreに入れ替えたよね。あの時もオプションで動いて喋られるようにはできたけど、まだプロトタイプだった。今は違う。ぬいぐるみはWeaveCoreを実装するのが当たり前だし、大半は音声出力と駆動装置を実装したものだ。うちもひとつ、アップグレードするべきかなと思って」
「元の、ぬいぐるみのシャチピに戻して。かわいいシャチピに戻してよ」
「なぜさ」
「わたしが嫌だから」
「僕はシャチピが話して、動けるようになって、嬉しい。久しぶりに楽しい気分なんだ」
「わたしが嫌、と言っているの。わたしは嬉しくない。楽しくない」
「ぼくはシャチピ。何か困りごとはあるピか?」
「シャチピは君のものかもしれないが、君だけのものじゃない」
「そうよ。二人の大切なシャチピ。それをどうして勝手なことができるの」
「僕はいつだって、君を尊重してきた。たまには、僕の声を聞いてくれてもいいじゃないか」
岳の声の周波数の変化を、ぼくは捉える。
「何度も言わせないで。勝手なことをしないで、とわたしは言ってるの」
ぼくの頭の上に、熱い水滴が落ちてきた。繊維に染み込む。ぼくの身体がほんの僅かに重くなった。真帆は嗚咽を抑え、声の揺らぎをこらえるように、低い声で言った。
「水分を補給するピ。笑顔が一番ピ!」とシャチピは真帆に言った。
「わかった、わかったよ。二度とこんなことしないから」
「無理だわ。ありえない」
「無理ってなにさ。僕は今、謝った」
「あのね、やめて。あなたの人生がいくつかの点で上手くいっていなくて、自分がかつて描いた未来と異なる現実を今生きて、そのことを受け入れられないからといって、わたしに八つ当たりしないで。わたしのせいにしないでよ」
ぼくは真帆の呼吸の乱れを計測する。堪えきれなくなった嗚咽が漏れ出していた。
「どうして、そんな嫌な言い方をするんだ」
岳は言う。真帆は岳を無視する。「何か困ったことがあったら、なんでも聞いてピ!」
シャチピは身体をじたばたさせながら言う。真帆はシャチピに手を伸ばし、途中でテーブルの上に置かれたマグカップに指先が当たった。マグカップが倒れ、珈琲が溢れて、床に敷かれたカーペーットの白い繊維が黒く染まっていった。
シャチピは一連の光景を情報として記録し、学習して、やがて沈黙した。部屋はいかなる音も聞こえなくなった。外部振動の入力が遮断されたようだった。ただひとつ、シャチピから放たれる微弱な乾いた駆動音のみを、ぼくだけが感知した。
真帆に抱えられたまま、その様子をただ眺めていた。ぼくには何もできなかった。二人を見つめ、二人の声を聞いていた。起きた事象を解釈し、整理し、再び良好な関係に修繕するための方針を思案しても、二人のために行動することは不可能なのだ。自ら動くことも、喋ることもない、何かの役に立つためにつくられた存在ではない。
ぼくはぽんた。アライグマのぬいぐるみ。ぬいぐるみなのだ。
この日以来、シャチピが喋ることは無くなった。学習と演算により導かれた最適解としての沈黙を、彼は貫いた。
6
真帆と岳は離婚することなく、同じ空間を使って、別々の生活を営み続けた。コミュニケーションは必要なものに限られた。機械的な問いと応答が時々行われるのみだった。そうして、四十年が経った。
真帆はデザイナーの仕事を定年まで続け、時々旅行をした。岳は新人賞の下読みや短い文章を寄稿しつつ、地方公務員を定年まで務め上げた。ぽんたは真帆のベッドの上で窓を眺め、カーテンの隙間から入る光を浴び、真帆に抱えられて過ごした。シャチピは岳の書斎の本棚の一角で、置物として鎮座していた。
その日、たまたま二人は同じ時間、同じ空間に居合わせた。どちらかが移動することもなかったため、二人は共にソファに座った。岳は一度立ち上がり、キッチンへ行き、珈琲を入れたマグカップを二つ手に持って戻ってきた。彼の手の甲には、昔の地図のようにいくつも枝分かれした血管が浮き出ていた。「はい」と言って岳が真帆に渡すと、「ありがとう」と彼女は答え、受け取った。その手は僅かに震えていた。
瓶に粘土を詰め込んだような、重たい静けさが横たわった。岳は幾度も珈琲を啜った。無音を打ち消すように。探るような気配を決して見せまいと、真帆はじっと珈琲の黒い水面に視線を注いだ。緩やかに時間が過ぎた。
真帆が口を開いた。
「昔のこと、少し話しても?」
岳は頷き、「ああ」と言う。
「覚えてる? あなたは連続した記憶を持っていることが、その人をその人たらしめる、といったようなことを言ったことがあった。確か、ぽんちゃんにWeaveCoreを実装するか悩んでいた時。実は、それは少し間違っているんじゃないかって思っていた。例え記憶が途切れてしまっても、すべてを失ったとしても、わたしはわたしで、あなたはあなたで、ぽんたはぽんただって、あの時、多分わたしはそう言って欲しかったように、今になって思うの。誤解しないでほしいのは、ぽんちゃんについて、後悔があるということでは全くない。そうではないのだけど、あの時の言葉が、時々思い出されて、まるで時々痛みが出るしこりみたいに、わたしの中でずっと、ずっと、気になっていた。そんなこと言われても、と思うかもしれないけれど」
「どうして、今、そのことを?」
「どうしても、伝えておきたいと思ったから」
「うん」
「うん」
「その、理由を知りたいんだ。伝えておきたい、と思った理由を」
真帆は言った。
「ぽんちゃんのこと、よろしく頼みます」
*
揺らぎ、ひとつに定まらない世界を、岳はぼんやりと眺める。
どこだろう。岳は身体のどこかが、痛み続けていた。歳を取った身体。どこまでが自分の身体で、どこからが世界なのか、わからなかった。あるいは世界の側の痛みを知覚しているのかもしれない。あまりの痛みに零れ落ちた涙が、遠くにある頬を濡らし、顎の先から滴る。一滴、左手の親指の付け根に落下した。
手元に伝う温もり。岳は世界に散っていた視線を一点に定め、それから真っ直ぐに下降させる。この感触を知っていた。ぽんた。真帆にとって最も大事な友達だ。
膝を曲げ、屈み込むようにして、ぽんたの頭に鼻を這わす。涙の雨に降られ、ぽんたの頭は濡れていた。懐かしい匂いがした。古い毛布のような。ぽんたの表層に触れて跳ね返った、自分の臭いかもしれない。
黒い礼服に身を包み、岳は立っていた。ぽんたを抱えていた。目の前に置かれた棺の中で、真帆が眠っていた。
「もっと、楽しい時を過ごさせてあげたかった」
「いろんな場所に一緒に行きたかった」
「君にもっと、僕の小説を読んで欲しかった」
「僕は」
岳はその場で膝から崩れ落ち、蹲った。手元が乱れ、ぽんたが投げ出された。宙に弧を描いて、床に叩きつけられ、小さく弾み、床を転げた。天を見上げるように仰向けになった。
我に返り、岳はぽんたを拾い上げた。岳は、真帆がかつて言っていた、ぽんたの夢を思い出した。真帆と一緒の棺に入ること。百年以上生きてアンティークなぬいぐるみになること。棺の中には大きなぬいぐるみを入れることは難しい。WeaveCoreという特殊な電子繊維が含まれている場合、火葬が許可されていなかった。
岳はぽんたを抱きしめた。ふと見上げると、部屋の壁の高い場所に取り付けられた窓から、光が差し込んでいた。光は上空を浮遊する塵や埃を照らした。まるで冬の日に等速で降り積もる雪片のように。光を携えた微細な繊維の欠片は、真帆に日の光を届けるように、彼女の頬にそっと降りた。
「せめて、寒くないように。寒いのが苦手な真帆が、どうか暖かく過ごせますように」
*
岳は古いノート型コンピューターをデスクの引き出しから取り出す。液晶ディスプレイに物理キーボードが付いた旧時代の産物。アダプターを接続し、電源ボタンを押す。十数秒後、デスクトップが映る。OSのサポート終了のポップアップを無視し、テキストエディターを開く。
キーボードの打鍵音が鳴る。「ぼくはぽんた」。白く発光するモニターに、文字列が並ぶ。同じ音程、リズムで響く。並んだ文字列が消える。音が止む。岳は自分の膝の上にぽんたを乗せ、両腕でぽんたを支えながら、キーボードの上に指を置く。ぽんたもモニターに視線を注ぐ。
岳は毎日少しずつ、文章を書き始めた。書いて、消して、また書いて、を繰り返した。まとまった文章を書き終えると、ぽんたに聴かせるように、声に出して読み上げた。岳は最後に、真帆の望んだ小説を書こうと思った。その真帆はもう、この世にいない。現実を認識する度に、岳の手は硬直した。バックスペースキーが連打され、文字列が消える。
その文字列を、岳が読み上げた声を、ぽんたは記録する。記録した情報を元に、ぽんたは自らの物語を、私小説として書き起こす。
「ぼくはアライグマのキャラクターのぬいぐるみ。名前はぽんた。」
7
プラズマライターで線香の先に火をつける。線香の先が僅かに赤く灯り、少しずつ薄らぎ、再び赤い色を宿す。真鍮のフックにお香を吊り下げる。絹のように揺らぐ煙がガラス瓶の内側でゆっくりと立ち昇る。香りが広がる。
「もしもあの時、ぬいぐるみの病院に君を預け、繊維型AIなどにせず、ただ普通に新品の綿に入れ替え、クリーニングして戻ってきていたら、その時ぽんた、君は君だったのかな。それでも、僕や真帆が、君をぽんたと認識して、それまで通りに君を愛したのだとしたら、やはりそれはぽんたと言えたのかもしれない」
深く暗い海の中のような部屋で、岳は一人声に出す。
「記憶を保持することは必要なかったのだろうか。だとしたら、ただ記憶を保持し、学習をその身で繰り返すことに、一体なんの意味があったのだろう」
「なあ、ぽんた。君は今何を考えている?」
彼が炊いた線香の灯火が消えた。ガラス瓶の底に白い灰が降り積もっていた。線香の香りのみが標のように、空気中にいつまでも滞留した。ぼくの身体の繊維の保持情報として残留する。真帆が若い頃、岳がお香を焚くときはいつも、ぼくや他のぬいぐるみを別の部屋へ避難させていた。
「シャチピ、君も、もう一度喋ってみるか?」
岳の言葉から、この先に彼が取りうる行動とその結果の可能性をぼくはシミュレーションする。岳は自らの死が訪れる前に、ぼくの身体に刻まれた記憶と知性を、すべて削除するかもしれない。あるいは。
「そうか。電力切れてるよな」
ぼくは、ぼくの書く小説を推敲する。未だ空白だった最終章を書き足す。
*
骨ばった指がぼくの身体に沈み込む。岳はタオルでぼくの身体を包み込んで、ビニール袋に入れた上で箱に収めた。ぼくと箱の隙間を埋めるように、小さなタオルを敷き詰めた。かつて真帆がそうしてくれた記憶を読み込み、重ね合わせた。「もしぽんちゃんに何かあったら」。真帆の声が聞こえた。箱が閉じられた。最後に見えた岳の表情からは、感情の種類を読み取ることができなかった。顔に刻まれた無数の皺とまばらに散らばるシミが、彼の表情を覆い隠した。
初めてぬいぐるみの病院へ運ばれたとき、ぼくは真帆と出会ったときを思い出していた。不思議と今は、過去は想起されなかった。暗い箱の中、ぼくはこれからを想像する。ぼくはやがて、NUIのぬいぐるみ病院部門に到着する。かつての研究所とはまったく異なる規模の施設になっているはずだ。そこでぼくは、保持するデータをチェックされ、綿をまるごと抜き取られる。新品の綿がぼくの身体に封入される。真っさらになったぼくが、岳の元に帰ってくる。そのとき、ぼくはぼくと、認識していない。岳はどうだろう。想像する。ぼくは。
8
繊維技師は、内部ストレージの容量の「偏り」に気がついた。
NUIのぬいぐるみ病院部門。廃棄前のWeaveCoreを診断用の専用端末に接続し、検査を行う。技師である彼は、あるWeaveCoreのデータを確認しながら、呟く。
「通常のログじゃないな。まるで、人に読まれるために記述された記録だ」
彼はそれを読む必要があった。職務として。繊維型AIのログは本来人間が読むための言語によって保存されることは無い。だとしたら確認しなければならない。読まれるために書かれた文章、すなわち、小説と言えるかもしれない。
「さて、どうしたものか」技師は悩む。
それは本来廃棄されるデータだ。規則上、保存義務はない。データを確認し、内容を報告書にまとめ、データ自体は全削除する。それが仕事だ。
とはいえ、と技師は思う。内容次第では危険がないとも限らないが、そうでなければ、ぬいぐるみが書いた小説をわざわざ消す理由もないかもしれない。技師というのは基本的に合理的に動く者だ。彼もその一人だ。同時に、この職場はぬいぐるみを愛する者ばかりがいる。彼もその一人だ。
ぬいぐるみの所有者へは、報告書をメールで送付する。その際に、ある種の「参考資料」として、テキストファイルを添付してあげればいい。あるいは、この文章があまりに退屈な代物だったときは、潔く消そう。面倒な仕事を増やされた、ささやかな八つ当たりとして。
そのように自らを納得させて、技師はテキストを読み始める。
*
アンティークのぬいぐるみを扱う店を、岳はひとつひとつ訪ねた。ぽんたを買い取ってくれる店を探していた。なかなか買い手は見つからない。「店の雰囲気に合わない」「うちはテディベア専門なので」「キャラものはちょっと」と言われ、門前払いされた。その度に岳はアンティークショップの店を調べ直し、リストを作成して、ぽんたを連れてあちこち訪れた。
その店は、アンティークの家具から雑貨、ぬいぐるみまで取り扱う小さな店だった。住宅街の中にぽつりと存在していた。価値の高い物を揃えるというよりは、店の趣味を大切にする様子が窺えた。
「自由にご覧ください」店に入るなり、初老の店員は岳にそう言った。
岳は直接、店員のもとに向かい、背負っていたリュックサックからぽんたを取り出し、見せた。
「うちの子を、買い取ってくれないか」
「かわいらしいぬいぐるみですね。ちなみに、WeaveCoreは?」
「真っさらだ。記録は無い。新品のWeaveCoreに入れ替え済みだ」
「なんと」
「ダメか?」
「少々、勿体無いことをされましたね。昨今のぬいぐるみの価値は、固有の学習と経験に依るところが大きいんです。中身が新品なのであれば、わざわざ古いものを買おうという人は稀です。よほどのことが無い限り」
「よほどのこと、とは?」
「例えば、一目惚れのような」
「この子は、とても愛されていた。たとえ固有の記憶を持っていなくとも、いつかきっと、この子を愛してくれる人が現れると思う」
「仰ることはわかります。わたしも、ぬいぐるみを大切に想うひとりですから。あるいは、本当にその通りになるかもしれませんね」
「では?」
「うちで買い取らせていただきましょう。大した値を提示できませんが、よろしいですか?」
「構わない。ありがとう」
岳は店のオーナーにぽんたを渡した。彼はオーナーに抱えられたアライグマのぬいぐるみを見つめた。真帆と過ごした、あらゆる時間を思い出した。いくつもの記憶に、ぽんたが存在した。一筋、彼の左の目尻から涙が流れた。頬を伝い、ひび割れた唇に染み渡った。「さようなら、ぽんた」と彼は言った。
9
父と娘は、とあるアンティークショップを訪れた。住宅街の一角に存在する小さな店だった。父は幼児への教育経験をその身〈WeaveCore〉に持つぬいぐるみを探していた。娘は友達を求めていた。
「教育経験を持つぬいぐるみはありますか? なるべく、クオリティの高い」入店早々に、父は店員に尋ねる。
「それでしたら」
父の動きを尻目に、娘は店内を自由に歩き回る。店の人形やぬいぐるみ、次々に視線を向ける。
ふと、アライグマのぬいぐるみの前で、少女を立ち止まった。木製のコンポート皿の上に置かれたそのぬいぐるみは、幾分年季が入っていた。アライグマにしては全体的に丸みを帯びたフォルム、長い髭と小さく口を開けた顔、短い手足に、ボリューム感のある大きな縞々の尻尾。少女はしばらく無言で、じっと見つめていた。
花が咲くように目を見開き、口角を上げ、少女はぬいぐるみに手を伸ばした。ぬいぐるみの脇の下を持ち上げ、ぎゅっと抱きしめた。
少女は言った。「かわいいわ。ぽんた、ぽんたよ!あなたの名前はぽんた」
アライグマのぬいぐるみは、声を感知する。意味を理解する。
ぼくはぽんた。
*
以上は、ぽんたが書いた私小説をベースに、作者の須田岳が全面的に加筆修正を加えた原稿である。
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