Social Engine Optimization

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梗 概

Social Engine Optimization

お前の理想論を聞くために高い金を払ったわけじゃない、と言われた数が千回に達した頃、糸はある依頼を受ける。彼女はヒューマン検索エンジン「Omnia」のSEOSocial Engine Optimizationコンサル会社で働くシニアコンサルタント。善い人が正しく評価される社会の実現という理想を抱く。

個々人が広告枠を持ち販売する仕組みが開発された結果、誰しもがメディアとなった。ヒューマンネットワークとOmniaが実装され、世界中をナノクローラーが徘徊し、リアルタイムで個人の評価とランク付けが行われるように。人々は「ilashアイラッシュ」をまつ毛に装着し、瞬き一つでリアルとネットが接続される。

アルゴリズムは不明だが、何がOmniaで評価されるか推測はできる。SEOコンサルの仕事は、人々のランキング競争を煽ることでもなければ、順位を操作するテクニックを施すことでもない、と糸は考える。Omniaが目指す社会、すなわち「他者のために、善く生きる」ことの実行が唯一の王道と捉える。

ある日会社のかつての同期の線からメッセージが届く。Omnia上のあらゆる検索結果から線が表示されないようにしてほしい、という依頼だ。糸は線に、線の高いSEO評価を称えその価値を説くが、彼女は取り合わない。「この世界の理想論を聞くために高いお金を払うわけではないの」と彼女は言った。「私は私の理想を叶える」。

依頼は絶対に口外しないでほしいと線は言う。「なぜ私なの?」と糸が聞くと、線は「あなたは自分の理想を持っている。私の理想とは異なるが、理想を持つ人の方が信じられる」と述べた。

糸は一年で自然な形で線の評価を下げ、最後にnoindexタグを設置する。これで線を検索できなくなった。「これからどうするの」と問う糸に、線は本当の目的として、Omniaから糸を完全に抹消し、「ダークグラウンド」へアクセスすることを告げる。ダークグラウンドは、Omniaのナノクローラーも届かない秘匿のヒューマンネットワーク。犯罪行為の温床とも言われるが、線は自由の地と捉える。

「人が生きる目的は、スキルを磨き評価を上げて報酬を高める、という、誰かが描いた成功像に人生を最適化することではない」と線は言う。何者でもなく、ただこの私として自由に生きること。そのために一度、この私を捨てる。一緒に来ないかと線は糸を誘う。糸は首を横に降る。「意志とは常に他者への応答で、その積み重ねが、あなただ」と言う。線は微笑み、ウィンクして言う。「あなたの説教を聞くために高いお金を払うつもりはない」。

線は一人去る。彼女が別の世界で生きているのか、糸にはわからない。線の報酬で糸のSEO評価は上昇し、マネジャーへ昇格した。糸は新人アナリストに理想を説く。瞼の内側に焼き付いた線のウィンクを思い出す。本当にこれは自分の理想と言えるのか。答えは出ない。

文字数:1197

内容に関するアピール

生成AIの登場でSEOはオワコン化したのかが話題となり、「AIO」や「GEO」などAI最適化ワードがデジタルマーケティング界隈を賑わしていた。ある種の枠組みの中においてコンテンツが、環境内で上位に選ばれるために「最適化」をする、という考え方自体は50年後もありそうだ、と考えた。

マーケ界隈では「推し」や「インフルエンサー」が依然注目されている。これらがSNSやウェブといったデジタルの空間内にとどまらず、リアルの生活にも侵食し、すべてがマーケティングコミュニケーションの領域となった世界を想像したとき、あらゆる人がインフルエンサーであり、日常生活のおしゃべりがコンテンツとなり広告枠を持ったメディアとなってゆくのではないか。そのようなイメージからアイデアを膨らませた。

物語としては比較的静かな構成なので、糸の信念の感情的揺らぎや線の決意の背景などを、実作化にあたっては丁寧に描写したい。

文字数:393

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00.

わたしはここにいる。

わたしはこの世界にいる。

色鉛筆を一本左手に取り、黒い線で囲まれた白い世界に色を塗る。ひとつの世界にひとつ、色が灯る。

右手にはペットボトルが握られている。左手を動かすことに疲れると、右耳の傍でペットボトルを小さく振る。半分ほど水の入った透明な容器から、海の一番小さな波の音が聴こえてくる。

自分以外に誰もいない白い空間で、わたしは塗り絵に勤しんだ。正確で均一な色塗りが出来るようになると、グラデーションの技法や立体感を出す塗り方を学んでいった。中でも難しいのが、線を消す、技術だった。

枠の黒い線のおかげで綺麗な絵が描けるが、黒い線が目立つと塗り絵感は残ってしまう。白色の色鉛筆を黒線の上に塗ってゆくと、黒が白によって完全に消えることは無いが、黒線は目立たなくなる。枠の中に色を塗る際も、影になる部分は濃い色を黒線の上から塗ってゆく。光が当たる部分には黒線の上から白色で塗り始め、黄色や水色など薄い色を乗せる。力を入れすぎず、撫でるように軽く。いくつもの新たな線が引かれ、黒線はそれらの線のひとつとして溶け込む。

曖昧になってゆく輪郭を見つめ、わたしは海へ行ったことを思い出した。あなたは、表面がすべすべとした細い薄茶色の枝を右手に持ち、海水を含んだ灰色の砂浜に絵を描いていた。時々小さな波が打ち寄せ、あなたの描いた絵の一部を消してしまう。波が絵をさらう度に、あなたは嬉しそうに笑った。消失した絵はその度ごとに描き換えられ、別の絵になった。ヨットは一輪車に、ラクダはトナカイになった。あなたと海に行ったのはこの一回だけだったと思うし、あなたが描くあれだけ多くの種類の絵を見たのも、この時だけだった。

黒い枠の線は消えたわけではない。新たに塗られた色の下に、確かに存在する。塗り絵は同じ塗り絵のまま、見え方を少しずつ変える。右手に空のペットボトルを握り、わたしは左手を動かし続ける。

わたしはこの世界にいる。

わたしはここにいる。

 

01.

お前の理想論を聞くために高い金を払ったわけじゃない、とクライアントに言われた数が千回に達した時、東京は三日前まで二十度を超えていたのが嘘のように、冬を迎えていた。後夏を終え、世間は冬支度を進め、会社は期内の実績と来期の予算作成が佳境を迎え、わたしは相変わらずクライアントに苦言を呈されていた。

視界の右下、メッセージを受信するたびにポップアップが浮かぶ。スカイブルーの地色のポップアップが表示され、思わず視線が右下に向く。二十字のサブジェクトを読み、両目を二度連続で瞑り、メッセージを開く。視線で円を描くと視界に時計が表示される。16時27分。社内のチームミーティングが16時30分から一時間。退勤可能な最短時間を算出する。メッセージに返信する。

ミーティング空間に入室し、事前に共有されていたメモを、二分間で読み切る。要するにミーティング後のフォローアップだ。先のクライアントとのミーティングの議事録とネクストアクションにあたって、懸念点の可視化と共有がメインで、解消のための具体的な実行策は無い。

ヒューマン検索エンジン〈Omnia〉のSEOSocial Engine Optimizationコンサル会社に新卒で入社し、八年目を迎えた。シニアコンサルタントとして、今のクライアント企業の担当として入ったのは二年前。クライアント企業の人事部の部長とは考え方が合わず、会議では頻繁にコミュニケーションの軋轢が生じていた。契約更新は絶望的だったし、わたしが担当を外されることも十分予想できる。聞きたくないことを聞くために、わざわざ高いお金を払う人間はいない。わかりやすい成果が必要だが、わたしのやり方は短期で成果を出すものではない。互いにやり方は譲らない。わたしも、先方も。お手上げだ。

「要するに、クライアントは直近のSEOトレンドを追った、具体的な打ち手を要望している」

「SEOはランキング競争を煽る仕組みでもなければ、順位を操作するテクニックでもない。本質に基づいた改善に取り組まなければ、見かけ上の些細なランキングの上下でつかの間の喜びを与え、それに対して、お金をむしり取ることになります」

「糸、君は正しいことを言っているのかもしれない。だが、会社としてもこの件はやり方の変更を望んでいる」

「クライアントが言っていることに従うだけで、我々の価値はありますか?」

「今のやり方はコミュニケーションの側面から見ても、指導の側面が強すぎる。今後は伴走の意思を出していく」

「ポジティブな方向へ走っているのであればアグリーですが。誰も好んで崖から落ちたくは無いので」

上司の視線が円を描く。顔の中央に向かって刻み込まれた皺の彫りが深まる。これ以上お互い不毛な議論が続くことは無さそうだ。わたしは会議前に届いたメッセージを思い出す。

鏡に映るわたしが、わたしを見つめる。定規で線を引いたように切り揃えられた黒色の前髪の下、真紅に光る睫毛が際立つ。先月発売されたばかりの新型〈ilash〉アイラッシュ。カメラの性能やUIの変更に興味はなかったが、ルビーレッドと名付けられた今作の色味はボルドーワインのような深みのある色合いで気に入っていた。ilashの色彩が瞳の水面に僅かに映り、溶け出し、真紅を黒星の内に宿す。鏡に入射した光の粒が、わたしの瞳に帰ってくる。次の瞬間、鏡の表面にバナー画像と端的なテキストが浮かび上がり、わたしに最適な化粧品をリコメンドする。いたるところで、広告と遭遇する。

世界のあらゆる物理空間がメディア広告媒体となった。あらゆる人もまたメディアとなったのは、それからすぐのことだった。かつて、テレビや新聞や雑誌といったオールドメディアの時代が終わり、インターネットとSNSがメディアの主軸となった。一方向的な情報発信から双方向的、多方向的な情報発信へ性質が変わり、インフルエンサーと呼ばれる存在が生まれ、個人がメディアとなる時代が到来した。そんなインターネットの時代も、様相が変わり始めた。

インフルエンサーによるステマや、過剰に消費を煽る発信が社会問題化したことは大した話ではない。問題は、当初は個人メディアとしての性格を担ったインフルエンサーも、影響力を持つと結局はかつてのマスメディアと立ち位置が入れ替わったに過ぎなかったことだ。歴史を繰り返すように、インターネットとSNSは信用性を落とした。

かといって、人のメディア化の流れは止まらない。むしろ加速した。インフルエンサーの発信より、口コミを。口コミサイトより、信用できる友人の紹介を。「ヒューマンメディア」の概念が議論されるようになった。すべての人間がメディアである、という考え方だ。

こうした中、広告代理店は個人が広告枠を販売する仕組みを開発した。それは主に個人副業として人気を博してゆく。広告枠の買切販売もすぐにDSPやSSPが導入され、リアルタイム入札が基本となる。当初、ヒューマンメディアは「メディアの終焉」として語られたが、終わるどころか、空間も人もすべてがメディアとなる時代が幕を開けた。   

すべてがメディアとなる時代を決定づけたのが、ヒューマン検索エンジン〈Omnia〉オムニアだ。Omniaが実装されると、人々は自分の評価の多くをOmniaのランキングに依存するようになった。より高いランキングに位置付けることが、自らの価値の上昇であり、Omniaで上位になることが、会社での出世に繋がり、個人事業主への道を開き、プロとしての箔に繋がり、社会における唯一絶対の評価となった。

人々はilashを睫毛に装着し、瞬きひとつでヒューマンネットワークにアクセスする。世界はナノクローラーが巡回する大地となり、人々の行動を記録し、収集し、整理する。リアルタイムでランキングが更新される。

鏡に表示されたバナーを置き去りに、化粧室を出る。業務中にilashが受信したメッセージに記載された待ち合わせ場所は、会社からすぐ近くだった。メッセージの送信者は“線”。我々は新卒入社の同期だった。会うのは彼女が五年前に退職して以来だ。

 

02.

炎が揺らめいていた。およそ五メートルの長さがある透明なガラスのシールドの中で、炎は音を立てず、絹のような光の帯が空気を抱き込み、ゆるやかに湾曲させる。その光は燃焼というより、発光を思わせた。レストランの中央に設置されたバイオエタノール暖炉が、室内の適切な温度と静寂を担保していた。

「普段外食をしないから。こういうところに来るのは久しぶり」

フォークで起用にパスタを巻き取りながら、線は言う。

「今は何を?」

「何だろう。そうね」

「会社辞めてからのこと、聞かせてよ」

「企業に勤めることはしていない。フリーランスで、その都度仕事をもらって、こなしている。最初はいくつかの案件を並行して持っていたけれど、今は気が向いたときだけ。まとまったお金は既にあるから、生活は問題ない」

「フリーランスでは、具体的などんなことを?」

「頼まれたことをひとつひとつ、こなしてきたから、何をと聞かれると案外説明が難しいの。企業や部署、チーム、あるいは団体の、何かしらの方針を定めるための情報収集と整理を行う類いの仕事が多かった。道をつくるような。ある時は今ある迷路みたいな道を潰して一本の道をつくり直すし、ある時は何も無い場所に一から道をつくる」

「道づくり」

「そう。その過程で付随して発生するタスクにも対処していたら、気がつけば何でも屋みたいになっていった。上流から下流まで、根から幹、枝葉まで」

「SEOコンサルもした?」

「いえ。それはまったくやっていない。依頼はもちろんあったけれど、なるべく断った。必要な場合は、他の人に入ってもらった。コンサルから人事に異動した入社三年目のときに、それは二度とやらない、と決めていたから」

「あなたはアナリストとして優秀な成績を出して、同期で最速でコンサルタントになった。なぜ?」

「どうしてか。向いているけれど好きではなかった、というのが、近い理由になる。やりたくない、と言ったほうがいいかもしれない」

端的な語り口と、はぐらかすような語り口を細かく使い分けるのは、昔の線と変わらない。我々は互いの近況を一枚一枚裏返されたカードを捲るように確認し合った。

デザートのチーズケーキを食べ終え、コーヒーに口をつけた後、彼女は口を開いた。

「Omniaの検索結果に出ないようにしたい。そのためのコンサルを、あなた個人に依頼をしたい」

短く説明された想定外の本題に当意即妙な返しができるほど、わたしは機転が効かない。表情の筋肉を動かさず、一度コーヒーを啜る。

「どういう意味?」

「まず、わたしのSEOの順位を限りなく下げたい」

「一度、抽象度を上げて説明してほしい。あるいは経緯から話して。それから、少しずつ具体を」そう言い、わたしはilashの自動議事録を作動させる。

「わたしのSEO評価はいくつかのキーワード検索において、かなり高順位をつけている。そのことは理解している。学生時代の成績、課外活動の取り組みから、業界最大手のSEOコンサル企業への就職。就職先の企業でも悪くない結果を出してきた。コンサルタントとしては早々に切り上げ、人事や広報の仕事も早いうちに携わった。それはわたしという人間が持つネットワークを一層多様なものにした。コンサルタント時代に育まれたコネクションに、人事や広報時代に広げたコネクションは、まったく異なる領域のものだったから、若いビジネスパーソンとしては悪くないネットワークのハブになっていた。結果としてわたしのSEO評価は、わたしが望んだ以上に、想定しない形で上昇していた」

「知っている。あなたのSEO評価が素晴らしいものであることを。そして線、あなたはそれを、とても自然に得た。目の前の仕事をこなし、クライアントの最善に答え、自らのキャリアの幅を広げて、技能と知見を増やした」

「他方で、わたしの中でうまく言葉にできない違和感はあった。痛みの無いしこりみたいに。わたしは会社を辞めた」

「会社に不満があった?それとも、SEOコンサルという職業に?」

「会社に不満はなかった。コンサル自体がどうこう、でもない。SEOのランキングを中心とした評価社会に、と言うことはできるかもしれない」

「あなたの人柄と能力が、多くの人間から信用を得た。あなたはランキングを上げるためにランキングが上がったのではなく、ランキング上位にあるべき存在として、ランキング上位にいる。例えばだけど、評価に対し後ろめたい感情があるのであれば、それは間違っていると、わたしはあなたに伝えることができる」

「糸、あなたの信念は今も変わらないようね」

「わたしは変わらない。それはこの世界が求める理想でもある」

「この世界の理想論を聞くために高いお金を払おうってわけではないの」と、小さな微笑を浮かべ彼女は言った。「わたしはわたしの理想を叶える」。

線は視線を一度切る。たゆたう波のような炎に目を向ける。

「わたしが築いた評価とネットワークによって、わたしは生きてこられた。他方で、わたしが築いた評価とネットワークに、わたしは永遠に縛り付けられるのかもしれない。だから、わたしは一度わたしを消したい。Omnia上から。この生身の身体を持つわたしの生を保ったまま、Omniaに記録される線を抹消する。それがわたしの望み」

「もう一度言う。あなたのSEO評価は素晴らしい。それはあなたが世界に貢献した成果と、他者のために善く生きた結果を反映したもの。あなたはあなたを否定するの?」

「わたしはわたしを肯定する。これまでも、これからも。それはOmniaとSEOにされるものではない。わたしがわたしを肯定する」

「ランキングの上昇ではなく、下落を依頼する」

「すぐにコンサルを辞めた身だから、わたしには大した知識も経験もない。信用できる専門家に伴走してほしい」

「伴走、ね」

「誰かに見届けてほしいのかもしれない」

「なぜ、わたしなの。優秀なコンサルはいくらでもいる。きっとあなたのリストには。プライベートな案件で、おそらく情報を公開したくないものでしょう?」

「ええ、この件は完全に秘匿にしてほしい。わたしと会ったことは話してもいいけれど、案件の話は特に」彼女のスカイブルーの睫毛が伏せられる。

「わかった」わたしは言う。

「受けてくれる?」

「先に尋ねた、もうひとつの回答次第」

蓋をしていたスカイブルーの睫毛が上を向く。ガラス玉のような瞳が、わたしの身体の奥を捉える。

「あなたは自分の理想を持っている。私の理想とそれは異なるけれど、理想を持つ人間の言葉は聞くに値する。それが理由」

ilashのアラームをセットし、ベッドに横になる。快眠サプリのタブレットを二粒飲み込む。社会人になってから、すっかり快眠サプリの常習者になっていた。初めてクライアントに強く叱責された日、わたしは一睡もできなかった。翌日眠らぬまま会社へ行き、機械のように働き、快眠サプリを買って帰り二粒飲み込み、ベッドに倒れた。泥のような眠りから目が覚めると、自分がクリアになっていた。叱責されたことも大した問題ではないように思えた。

線との会話を思い出す。彼女は理由を説明しなかった。なぜ線は自らの評価を無にしたいと願うのだろう。彼女がそう想うに至るには、一体何があったのだろう。

目を閉じる。真紅の睫毛が視界に映り蓋をする。睫毛は目を閉じる瞬間にしか見えない。その短い毛が、私たちの視界をずっと守っている。

 

03.

老女は都内の商店街の片隅で、裁縫店を営んでいた。皺だらけの彼女の手は、針と糸を扱い出した途端、魔法のように動き、どんな破れた布でも綺麗に直してしまった。

ある日、少女が小さいパンダのぬいぐるみを抱えて店を訪れた。

「どうしたの?」

「この子が」

老女は少女をじっと見つけ、ぬいぐるみに目をやり、再び少女に視線を向ける。

「見せてごらん」

「腕がとれちゃった」

老女はゆっくり微笑み、糸を通した針を手に取る。

「お母さんがくれたの」

「大切にしていたのね」

「名前はちび。ちいちゃん」

「かわいいお友達だ」

作業の間、少女は興味深そうに尋ねた。

「どうして、そんな風に上手に縫えるの?」

老女は顔を上げて答えた。

「そうだね、糸って何だと思う?」

「糸はわたし」

「糸はあなた。そして、私が今手にしているこの糸も、ただの細い線じゃない」

「ただの細い線じゃない」

「繋ぎたいって気持ちがこもると、強くなる。布と布、人と人、思い出と今。あらゆるものが、目に見えない糸で繋がっている」

少女はしばらく俯き、黙っていた。

「さあ、できた」

老女がそう言うと、上から糸で引っ張られたみたいに少女は顔を上げた。目を見開き、幾度か瞬きして、笑った。少女の瞳に星屑が散った。睫毛を滑走して溢れた光の粒が、宙に閃光を描き、消失した。

「おばあさんの糸が、わたしとこの子を、また繋いでくれたんだ」

老女は言う。

「大事にしてあげてね。これまでと同じように、これからも。その糸はもう見えないけれど、きっとほどけることはないのだから」

少女は大きく頷き、老女の瞳を見つめ返す。老女のベージュ色のilashが煌めく。カメラが起動する。ウインクする。少女が再び見せた刹那の笑顔を切り取り、写し、記録する。

二年間携わったプロジェクトのメンバーから外された。次のプロジェクトにアサインされるまで、やることがなくなる。糸の依頼を受けた今、良いタイミングだった。

男が背後に立つ気配があった。すぐに声をかけず、数秒黙ったままそこにいた。

「お疲れ。相変わらずやってるんだ」

わたしが振り向かないのを諦めたように、彼は言った。

「そうね。お疲れ様」

「で、バリュー出てる?」

彼の質問を無視する。

「糸のプロジェクト、僕が引き継ぐことになった。これまでの資料纏めて共有しておいてくれ」

「茎なら、どうせ過去の資料一通り目を通しているでしょう。わたしのやり方を継ぐわけでもないし、不要では?」

「知っておいて損はない」

「そう」

「いつまで、そのやり方を貫くんだい?」

「いつまでも」

「我々にはマーケティング思考が必要だ。私が何をやりたいか、何が良いと思うか、全部関係ない。世界は君のために周っていないし、君のために立ち止まることもない。違うか?」

茎は評論家みたいな語り口で説く。彼もまた新卒同期の一人だった。

「ドリルを売るな。穴を売れ。顧客はドリルを欲しいと言っていても、本当に必要なのは穴だ」

「君は穴を欲していない人間にまで、穴を布教しているだけだ。そいつはただドリルが手に入ればいいと言っているのに、片端から君が欲しているのは穴であるべきだ、と説いて回っているに過ぎない。単に君の理想論の押し売りだ」

「SEOの本質よ。結果的にクライアントの願いに適う」

「本当に、クライアントはSEOを本質から攻略することを望んでいるのか?」

「そうよ」

「そんなことはない」

「たとえば?」

「ただ、SEOを攻略したい。ある場合は裏技的な快感のために、ある場合は楽するために、一生懸命に無駄な努力をしている隣人を横目に、自分が一歩出し抜きたい」

「ねえ、わたしとこういう話をして、楽しい?」

「楽しくはないね」楽しそうに、彼は言う。

一年間かけて糸の評価を徐々に下げるプランを作成した。急激な変動は他人の目に留まる。線は糸に、目立たないことを求めた。自然な形でランク下落をさせた後、最終的にはnoindexタグを設置し、Omnia上の検索にかからなくする。やることはシンプルだ。

アルゴリズムは公開されていないが、実際のランク上下の動きと人がとった行動の相関から、何がOmniaで評価されるかは推測できる。世の中の役に立つ実績を積むこと、人の為になる行動履歴を増やすこと、SEO評価の高い人間との相互コミュニケーションの履歴を持つこと、など。巷には小手先のテクニックが溢れているが、結局はこれらの本質を踏まえて生きること、凡庸に言えば、「善く生きること」の実践のみが、SEOを理解し、生きるということだ。評価を下げるなら、逆をすればいい。線の跳ね上がったランキングを徐々に下げるのであれば、何も「悪いこと」をする必要はない。活動量を落とし、社会における線という人間の履歴を減らせば、結果的にランキングは下降する。仕事をせず、他人と関わらず、発信や生産を行わない。

隔週で線とミーティングをする。時々リアルで会って、近況を共有した。半年が経過した頃、作成したプラン通りにランキング下落の曲線を描いていることを確認し、やり方が間違っていないことがわかった。以降、ミーティングは実質的にお茶会になった。糸は他人と必要以上にコミュニケーションをとることを制限された状態だったし、わたしは元来友人が少ない。互いにとって、ただ一人の親友のような存在になっていった。少なくともわたしにはそう思えたし、線をそう捉えていた。日に日に線の存在が自分の中で比重を増していった。

 

04.

初夏を迎えた頃、我々は再開した日に訪れたレストランで食事をした。珍しくワインを開けた。線は自分について語り出した。かつての恋人の話だった。

「とある画家の男の話。彼は一本の線を描くことに人生をかけていた。最初はただの練習のつもりだったの。真っ直ぐな線を描く。良い絵を描くための基礎練習。けれど、やがてそれは彼の生き方そのものになっていた」

毎朝、真っ白なキャンバスの上に、一本の線を引く。真っすぐな線の日もあれば、震えるように曲がった線の日もある。気分が沈んだ日には、線はどこにも辿り着くことなく終わることもあった。

彼の恋人は、彼の絵を見ながら尋ねた。

「そんな単純な線を毎日描いて、意味があるの?描いていて楽しい?」

画家は答えた。

「線とは選だ。どちらに向かうかを決めた瞬間、他の無数の可能性はすべて、描かれなかった線になる」

「わかる気がする」

「そう。僕らはその一本を生きるしかない。好むと好まざるとにかかわらず、ただ線を引くことによってのみ、生きてゆく」

それから、少し困ったように笑って付け加えた。「まあ、楽しいかと聞かれると、どうかな。でも、悪くないよ」

彼のアトリエには何千枚もの線の絵が並んだ。どれも似ていた。あるいは、どれも違っていた。

彼は若くして病気を罹っていた。少し特殊な、難しい病気だった。日に日に体力は衰え、手に力が入らなくなり、長い時間活動することが困難になっていった。彼は目に見えて衰えていったが、最後まで入院して治療を受けることを拒んだ。彼はアトリエに居続けた。線を描き続けた。それが彼の選択だった。

「死の直前、彼は最後の線を描いた。これまで描いてきた中で最も長い線だった。初めて途中で止まることなく、線が引かれた。カンバスを超え、どこまでも続いていくように見えた。彼がその線を眺め、何を感じたのかはわからない。その線を描いた後、彼は亡くなった」

感情を垣間見せない平板な声音が、逆に線の感情を表していた。間をつくるように、彼女は緩慢な動作でワイングラスに口をつけ、液体を口に含み、小さく喉を揺らし、流し込む。ひとつひとつの工程を確認するような動作を見届け、わたしは口を開く。

「彼は最期まで、線を描き続けた」

「もしかしたら、昔から線を描き続けていたというのは作り話で、ただわたしの気を惹くために、線を描き始めたのかもしれない。そして、最期まで線を描き続けた。誰にも評価されない絵を」

線の言葉に、感情の色が戻る。

「あなたのために線を描いた。ただ一人、あなたのための画家」

「話には続きがある。続きというか、話を締め括る文章が実はある。それはこう。死後、遺品を整理した彼の元恋人が、彼が最後に描いたその線を見つめながら呟いた。『ようやく、終わりのない線を描けたんだ』って」

「線、あなたは、彼の描いた終わりのない線の上を歩いているの?」

「わたしは彼の線上にいる?勘違いしないで欲しい。わたしはわたしの線を描き、歩く。他人が美しいと決めた真っ直ぐな線も、他人が逞しいと決めた太い線も、興味ない。誰かに終わらせない」

 彼女はそう言うと、一度話に区切りをつけるようにフォークで器用に生ハムを丸めて食べ始めた。わたしは彼女にふと、「描かれなかった線について、考えることはない?」と尋ねたいと思った。なぜそう思ったのかはわからない。わたしは尋ねることはせず、かわりにワインを口に含んだ。

「ねえ、あなたの話も聞かせて」線は言う。

「わたしには線みたいな物語は持ち合わせていない」わたしは答える。

「なんでもいいの。些細なこと。昔の恋人の話でも、子どもの頃の話でも」

咄嗟に頭に思い浮かんだのは、パンダのぬいぐるみのチビが、わたしをじっと見つめる姿だった。わたしは自分が幼い頃、大好きだった祖母の店に行った話をした。

「ぬいぐるみ、好きなんだ」

「悪い?」

「ぬいぐるみと喋る人はやさしい」

「なにそれ?」

「なんでも。あなたのことは、信用しているわ」

「ぬいぐるみと喋るのに?」

「ぬいぐるみと喋るから」

 彼女は愉快に笑い、ワイングラスを揺らす。

真っ直ぐに伸びる道は白く光っていた。純白を汚すように、時々豊かな蛍光色のポップが浮かび、短く太い文字が視界に飛び込んだ。タクシーは静かな夜を一定の速度で滑走する。無人の自動運転車の室内は音もなければ、匂いもない。わたしは目に見えない無数のナノクラーラーを見ようとするみたいに、窓の外をじっと眺めていた。

少し飲み過ぎた。特に心配する相手もいないのだから、大した問題はなかったが、明日の朝のコンディションを想像すると、些か気が重い。とはいえ、多少コンディションが悪くても、誰かに迷惑がかかわるわけでもない。この数カ月間、大きな案件にアサインされることなく時が過ぎていった。

「あなたのことは、信用しているわ」と線はわたしに言った。わたしは彼女から信用されるに値する人間だろうか。わたしの評価は近年停滞、否、緩やかな下降トレンドが続いている。満足な仕事の成果も上げず、他人とのコミュニケーションも活発ではない。スキルを磨き、自らの信念に基づき日々を生きようと、それがわたしの現実だ。

わたしが説くことが本当に正しいのであれば、評価としてフィードバックされるだろう。そうでないことを、見て見ぬふりをしている。すべての人がメディアとなった今、言葉の価値は暴落した。何を言ったか自体に価値はなく、誰が言ったか、がすべてだ。

線もまた、わたしの言葉の中身を求めてはいない。一貫した言葉を使うこのわたしを、信用すると彼女は言った。その信用の基準は、しかしSEOのアルゴリズムとは異なる線独自の物差しだ。そんな線を、わたしは信じることができるだろうか。線が信じるわたしを。

タクシーは速度を落とし、停止する。窓の外の視線を向けると、ひとりの少年の姿が見えた。初夏にもかかわらず、ダウンコートを着てフードをすっぽりかぶっていた。形も質感もかなり古い、年代モノのダウンコートに見えた。深夜の時間に、十四歳くらいの少年が不自然な服装で歩いている。奇妙な光景だった。

ダークグラウンド、という言葉が浮かんだ。Omniaのナノクローラーも届かない秘匿のヒューマンネットワークの総称。ある種の無法地帯の土地とそれらを繋ぐネットワークを指して使われる。山奥や、都市部の地下、廃墟などに存在するらしい。犯罪行為の温床とも言われる。少年の雰囲気は、ちょうどダークグラウンドの住人として一般にイメージされる姿だった。

交差点で停止するタクシーの前を少年は横切り、去ってゆく。ダークグラウンドの住人は、Omniaにインデックスされていない。それは実質的に社会の枠組みから外れ、存在しないということだ。彼らは日々、どのように暮らしているのだろう。タクシーが動き出す。

 

05.

線の依頼を受けて、一年が経過した。彼女の順位は当初立てたプラン通りに順位を下降した。結果は思った以上に上手くいった。これはわたしの成果ではない。線であれば、これくらいのことは初めからひとりで成し遂げられたのではないかと思う。

二人の最後のミーティングの場所に、線は自身の家を指定した。東京の二十三区の西端に彼女は住んでいた。真っ白な立方体の建築物。白く塗装された金属製の入り口と、サイズの異なる正方形の窓が複数設置されている以外に、いかなる凹凸も装飾も存在しなかった。入り口に立つと、ドアがスライドして開く。中へ入ると線が出迎えた。

「いらっしゃい」

たったひとつの部屋によって構成されていた。白い床に、白い壁、白い天井。驚くほど物が少ない。デスクとチェア、十着分の衣類がかかったハンガーラック、使用されているか不明なほど綺麗なキッチン。部屋の中央にはコルビジュエのLC2ソファが向かい合うように二つ置かれ、線が座っていた。わたしはもうひとつに腰を下ろした。

「仕事を済ませましょうか」

「ええ」

線はヒューマンネットワークに接続し、プロフィルにアクセスする。線がOmniaで誰からも見つけられなくなる方法は、極めてシンプルだ。自らのプロフィルnoindexタグを設置するだけだ。彼女は十分に調べて準備していたようで、まるで日々の作業みたいに慣れた手つきで設置を完了させた。

noindexタグの設置は「評価を受けること」の拒否だ。いくつか実生活上で不具合が生じる。定職につくことができなくなったり、ローンを組めなくなったりするが、生きていけないわけではない。評価され、ランク付けされることに疲弊した人間、ある程度の評価を既に得て、富を築いた人間がいわば「リタイア」としてnoindexタグを設置する、という話が無いわけではない。

「Omniaで検索をかけて、あなたがヒットすることはない。Omnia上には確かにあなたは存在するけれど、実質的にあなたを見つけ出すことはできない。世界の誰かがあなたを見つけるとしたら、それはこの物理空間において、直接あなたと出会うほかにない」

線はわたしと向き合い、視線を交わしていた。その視線がしかし今日一度もわたしを本当の意味で捉えていないことに気がついた。

「きちんと聞かないまま、この時を迎えてしまったのは、プロとしては失格なの」

わたしは言葉を一度切り、言う。

「この依頼、あなたの目的は何?」

線の視線がわたしと漸く絡む。

「最初に言った通り。Omniaの検索でわたしが引っかからないようにすること」

「それはきっと、目的ではないはず。目的のための手段では?」

「糸、あなたはわたしが何か、悪巧みをしているんじゃないか、と疑っているのかもしれないけれど、本当に何もないわ。わたしはただ、Omniaからわたしを消したい。それだけ」

「聞き方を少し変える。あなたはこれからどうするの?どこへ行こうとしているの?」

線は目元に手を当てる。スカイブルーのilashを外す。

「これまで、あなたはそのことを尋ねることをしなかった。わたしはそのことを、とてもありがたく思っている。もちろん、いつか話さなければならないとは思っていた」

「うん」

「わたしの目的は、Omniaから完全にわたしの存在を削除すること。そして、ダークグラウンドへ行くこと」

線の瞳に、真っ直ぐ見つめ返すわたしが映る。

「眠れてないだろ」茎はわたしに言う。

「別に、よくあること」わたしは答える。なるべく、素気なく聞こえるように。

「よくあるなら、余計よくない」

「確かに、その通り」

「やるよ。広告入ってないタイプ」

近頃、安価に買える快眠サプリメントには、「広告」が入っていた。人の無意識に働きかけ、購買を促す新たな媒体商品「睡眠広告」は、急速に市場を拡大させつつあった。翌朝起きれば、自分が夢で何の広告を見たのか覚えていない。

「別に、広告有りでもいいのに」

「自分の意志の領域に、もっと防衛的に捉えていると思っていた」

夢で広告を見たとして、夢はすぐに忘却される。無意識が消費行動に影響を与えるとして、逆に普段どれだけ自由意志に基づき選択をしているだろう。結局のところ、人は常にまず行動があり、後から自分の振る舞いに言い訳をするみたいに、意志を拵えるに過ぎない。

あるいは、たとえ無意識の刷り込みにより自分の購買行動が誘導されたとして、何が問題なのだろう。世の中は既に広告で溢れ、日々摂取する情報の多くは広告だ。誰かと会い、話せば、物を勧められたり価値観を提示されたりする。美味しかった食べ物について話し、大切なぬいぐるみについて語り、価値観を示す。入力し、出力される。その限りで、人は常に他人の影響を受け、与える。自由意志は他者への応答に過ぎない。

茎は小さく口を開き、言葉を発することなく黙り込んだ。珍しい仕草だった。やがて、初めて触れた石を丁寧に調べるように、彼は言葉を紡いだ。

「君が今、何を抱えているのかわからない。聞いたとして、僕は君の考えに反する意見を言うことしかできないだろう。だから、何も聞かない。そのかわり、とにかく、とりあえず、寝ろ。休んだほうがいい」

茎は踵を返す。彼がわたしに渡した快眠サプリの質量を手のひらで測る。軽い。上下に振ると、かさかさと音が鳴る。わたしの信念もまた、かつて誰かから受け取り、繋がれたものだったはずなのだ。

白い空間。すべてを白に囲まれた空間に、わたしはいる。線がいる。

この室内にも、ナノクローラーは入り込んでいるだろう。わたしの発言と行動は記録される。この世界は強力な独裁を敷く監視社会ではない。Omniaが評価する人間とは、他者のために生きられる者だ。他者のために生きられる人間の発信は人々から信用される。Omniaはただ、信用される情報発信者を評価するのみだ。

「ねえ、あなたは快眠サプリを使う?」わたしは線に問う。

「使わない。広告有りも、広告の無いものも」線は答える。

「そう」

「無意識で洗脳されている、とでも?」

「そういうわけではない」

「そもそも、ダークグラウンドに誘うような広告が認可されるわけない」

「それはそう」

「どうしてそんなことを?」

「ただ、今夜サプリ無しで眠ることはできないだろうな、と思っただけ」

「ごめんなさい、と言っておくわ」

「本当は、何とも思っていないのに」

自らが発した声音が、まるで不貞腐れた少女みたいに聞こえた。

「そんなことはない。本当に」

「ねえ」

「なに?」

「どうして、Omniaから自らを消したいの?なぜダークグラウンドへ行こうと思ったの?」

線は何もない白い空間を、一周歩いた。彼女の歩行で結ばれた円の中にわたしはいた。

「人が生きる目的は、スキルを磨きキャリアアップし報酬を高める、といった、誰かが描いた成功像に人生を最適化させることではない。自分は何者でもなく、ただこの私として、私であることを誇り、自由に生きること。そのために一度『この私』を捨てる」

「あなたが言っていること、まだわからない。それが、Omniaから自らを抹消する理由になると、本気で考えているの?本当に、それが理由?」

「そうよ」

「なら、あなたにそう思わせたのは一体なに?評価されずに亡くなった恋人?」

「たとえそれが何であっても、大した話ではない。たとえわたしが誰から、何を受け取ったとしても、わたしはわたしの意志によって決断する。だから、その問いには答える必要性を感じない」

強く突き放す線の冷たい言葉と裏腹に、彼女の音は優しく包み込む質感があった。

線は言う。

「追加で二つ依頼をしたい。ひとつは依頼というより、お願い」

わたしは言う。

「ひとつ目は?」

「ダークグラウンドへのアクセスルートの解析。あなたがコンサルタントとして、どのようなスキルを身につけ、日々勉学に励んでいるか、わたしは理解している。糸、あなたなら、それほど難しくはないでしょう?」

「もうひとつは?」

「わたしと一緒に来て欲しい」

わたしは目を瞑り、静かに首を横に降る。「自由意志とは常に他者への応答で、その積み重ねの歴史が、あなた。わたしの考えは変わらない。これ以上の協力はできない」

線は小さく微笑み、右目をゆっくり閉じ、開いて、言う。「あなたの説教を聞くために高いお金を払う必要はない、ということね」

線は一人で去った。彼女が今、別の世界で生きているのかどうか、わたしにはわからない。線はわたしに莫大な報酬を振り込んだ。わたしのSEO評価は一気に上昇し、気づけば複数の重要プロジェクトにアサインされ、結果を残し、マネジャーへ昇格した。わたしは小手先のテクニックではなく、SEOの本質を説き、他者のために善く生きること、そのための具体的な行動の実践をプレゼンする。言葉は変わらない。言葉を放つわたしの価値が変動したのだ。

マネジャーとなったわたしは、新人アナリストに指導をする。理想を説きながら、瞼の内側に焼き付いた線のウィンクを思い出す。これは本当に自分の理想と言えるのか。問いに答えは出ない。

今はただ、線が信用した、このわたしを信じているに過ぎない。

 

06.

わたしはここにいる。

わたしは世界の外にいる。

わたしは世界の外、もうひとつの世界にいる。

わたしは、消滅してゆく世界を日々描く。世界は極めて不安定で、昨日まで存在したモノが今日は無くなり、明日は別の何かが失われる。わたしが明日描くと約束をした少女が、翌日には姿を消した。それを幾度も繰り返した。掬い上げた水を零さぬよう、どれだけ気をつけても、水はわたしの両手の隙間から流れてゆく。わたしは左手に筆を常に握った。失われ続ける世界の一瞬を切り取り、次の瞬間には存在しなくなる景色を描くことで、世界を守ろうとしていたのかもしれない。

筆先がカンバスに触れる場所が、わたしと世界の境界だった。白いカンバスが、わたしには透明な薄い膜のように見える。僅かに揺らぐその膜を、突き破らないように、静かに、撫でるようにして、そっと優しく筆をのせる。虹色の絵の具が世界の表層を染めてゆく。

ある日、わたしは晴れ渡る青空の下、美しく刈りそろえられた芝生に座って、ひとりの少年を眺めていた。瞬きせず、ただの一瞬も見逃さないように。透明化したカンバス越しに景色を捉え、彼の姿をなぞるように世界の境界に筆をのせた。世界の色はやがて赤くなり、紫色になり、限りなく黒に近い青色へと移ろいだ。いつも通りの一日も、終焉を迎える。何度も繰り返された、世界の終焉。明日が来る。明日が今日となる。かつて今日だった一日が、過去なり、記憶は曖昧となって、やがて消失する。

美しい芝生の庭で、気がつけばわたしと少年は二人並んで座っていた。我々は何かを見ていた。何も見ていないのかもしれなかった。二人を置き去りにするように時が過ぎた。遠くへ行ってしまった時間の欠片を、わたしは右手で掴もうとした。完全に日が暮れると、隣にいた少年の姿は消えていた。太陽の光によって投影された幻みたいだと思った。

わたしは眠った。再び目を覚ますと、黒に近い青が、少しずつ淡さを取り戻していた。太陽が世界に帰還した頃、再びカンバスに、左手に握る筆をのせる。

わたしはもうひとつの世界を描く。

わたしは世界に触れる。

わたしはここにいる。

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