A+の眠り

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梗 概

A+の眠り

アキラには何度も見る夢があった。大学生の自分が成績表を見て、単位が二つ足りず留年が決まる夢だ。絶望の中で目を覚ますと、現実では彼はすでに大学を卒業し、企業で研究職に就く35歳になっている。

睡眠障害や悪夢が「解決済みの問題」となった時代。国が認定する《最適夢プロトコル》が全市民に適用され、入眠速度や深睡眠比率は数値化され、睡眠は常に理想値へ最適化されていた。悪夢や金縛りは統計上ほぼゼロとなり、人々は快適な日常を送っている。

この最適夢プロトコルを開発した研究チームに、晃自身も所属していた。しかし彼だけは、導入後も同じ留年の悪夢を繰り返し見る。睡眠評価はAで医学的異常はない。同僚の拓良タクラによれば、都市部で長時間労働に従事する高年収者の一部に限り、「取り返しのつかない失敗」を描いた同一構図の悪夢が報告されているという。

晃は拓良から、後輩研究者の更紗サラサを紹介される。彼女は成果を上げる一方でミスが多く、問題視されていた。更紗は睡眠の最適化を無効化し、酒を飲み、不眠不休で研究する生き方を選んでいた。彼女は密かにアンチプロトコルを開発しており、その状態でも成果を出しているのを見て、晃はある仮説をもつ。

調査の結果、晃たちが設計した最適夢プロトコルと、国が実際に頒布しているものが意図的に改変されていることが判明する。拓良は真相を明かす。プロトコルは国民の健康ではなく、生産性向上のために作られたものだった。99%の一般労働者には睡眠最適化が有効だが、1%の異常者エリートには後悔や嫉妬の悪夢を与え、不安によって現状に満足させないほうが爆発的な成果を生む。それが「A+の眠り」だった。

晃自身も、かつて留年と不眠に苦しんだ落ちこぼれだった。取り残される恐怖を原動力に努力し、その恐怖を抱えたままプロトコルを完成させたのは他でもない彼自身だった。

更紗が成果を上げながら評価されず、チームから外される。更紗は「自由ならいい」と言って微笑むが、その目は虚ろ。「君は本当に、自由だと言えるのか?」と問うと、更紗は壊れたように笑い、泣き崩れる。その夜、晃は悪夢の続きを見る。落ち続ける追試と「いつまで追試受けるの? 大学やめれば?」という試験官の言葉。晃は恐怖そのものからの解放を選ぶ。

晃はA+でも更紗の自由でもない第三の選択として、脳内の負債を完全に消去する《最適“無”プロトコル》を起動する。全国民の睡眠評価はAやA+から「N」へ置換され、不安や劣等感は消失した。「更紗、君は地獄から解放されるんだ。本当の自由は、恐怖に縛られない世界だ」。

数年後、晃はA+が並ぶ成績表の夢を見るが、何も感じない。朝、彼はよく眠れた理由を考えようともしない。晃と更紗は家庭を築き、穏やかな生活を送る。不安も喜びもない世界で、彼らの人生には、もはや眠れないほど大切なものは存在しなかった。

文字数:1194

内容に関するアピール

怖いもの

「留年する悪夢」を何度も見ること。

その悪夢が怖いものである本質

自分だけが周りから取り残される事への恐怖。己の怠惰により落ちこぼれ、取り返しがつかなくなってゆく恐怖。それらの恐怖を、まるで忘れさせないように、定期的に突きつけられる恐怖。

問い

周囲と自己を比較し不安になる恐怖は人間に必要な恐怖なのだろうか?捨てたらどうなるだろうか?

テーマ

「睡眠の質」SF

構成

・謎に迫る展開
・国家の陰謀モノ
・お仕事小説の系譜
・ユートピア/ディストピアに至る結末

メモ

A (Aggressive / Anxiety): 不安と攻撃性を維持させる、トップ層のための「覚醒的睡眠」。
+ (Plus): 常に「もっと(More)」を求め、現状に満足できない呪い

文字数:312

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A+の眠り

第一夜 
 
 こんな夢を見た。
 
 七畳ワンルームの室内に僕はいる。狭く、細長い部屋だ。壁際に寄せて置かれたベッドの上に僕はいる。マットレスの上であぐらをかいて座る僕は、右手の手首に触れ、大学の情報システムのサイトにアクセスする。立体映像を起動し、空中に描画されたサイト画面を叩いて、学生証のIDとパスワードを入力する。「成績通知書印刷」のボタンをタン、と叩く。PDF形式のファイルを出力する。鼓動が強く拍を打つ。身体の中心に冷気が流れ込み、逆に身体の表層は熱を帯びる。表示された文字列を凝視する。鼓動が浅くなり、速度がみるみる上がる。壊れたメトロノームのように。
「留級」。通知書の右上に視線が釘付けになる。小さな汗の粒が額に浮かび、顔の脂を含んで滴る。僕の双眼に焼きつく二文字を中心に、脳内に無数の可能性が巡る。通知表を上から下まで視線を走らす。アルファベットが並ぶ。D、D、B、F。カレンダーを立ち上げる。三月一日、来月から四年生。就活を始めていたところだった。今のところうまくいっていないが、いずれは何かしらの企業には就けるだろう、そのために筆記の勉強をして、学チカと志望理由を完璧にして、卒論にも取り組み、それから。それから?
 目の前が真っ暗になった。大学受験に失敗して浪人が決定した日を思い出した。学費を払ってくれている親に何て言えばいい?就活の模擬面接やろうと言って約束していた友人には? というか、今日のバイトは? 無断欠勤では? そもそも。
「あ、う」と、まるで風船の留め具が緩んだみたいな音が漏れたあと、言葉にならない大きな声を吐き出した。頭の後ろで鳴り響く、古いデバイスのアラーム音のようなその声はどこか無機質で機械的で、人の心を不快にする響きを伴って聞こえた。それが僕の叫びだった。

 * 
 
「おはようございます。昨夜の睡眠スコアは98、評価はAです」。
 電子音声が身体の内側で反響する。男性と女性の声が重なり合ったような波形。左手の中指の先で、右手の手首に何度か触れる。立体映像で数字が浮かび上がる。心拍数は140。
 意識していなかった呼吸と心臓の鼓動のテンポの不一致が気になり、煩わしい。かき消すように首を横に振る。前髪が揺れ、視界に柳の影が落ちる。左手で髪をかきあげ、ベッドから起き上がる。隣で眠っていた燻んだ金の毛並みを持つ彼の温もりが、僕の身体からそっと離れた。
 長さ70センチほどの、ゴールデンレトリバーのぬいぐるみだ。名前はわんわん。頭の毛は全体的に禿げ上がり、右腕は怪我をしたみたいに局所的に毛がダマになっている。腹の上部は全身の中でも長い毛に覆われ、比較的綺麗なままだ。かつては光沢のある金色の毛並みをしていたわんわんは、今や緑がかった黄土色をしていた。
 洗面台に向かう。歯を磨き、顔を洗う。鏡を見る。鏡に内蔵されたセンサーが今日の僕の表情を計測、分析し、昨日との差分の数値とグラフが鏡面に表示される。肌の乾燥状態や皺の増減、前髪の生え際の後退度の進行具合まで。右手の手首が一度、陽だまりのような優しい光が灯り、消える。
 鏡に映る現実の僕は、中年の顔をしている。左右のバランスが悪い、不恰好な顔。既に大学を卒業し、企業で研究職に就く35歳の自分だ。遠い昔とまではいかないが、少なくとも日常生活で思い出すことは稀なくらいには、大学時代から時が経っていた。自分を若いと思うことはなくなったし、かといって、おじさんとも認めたくない。健康面で問題はないが、衰えを感じないわけでもない。そういう年頃の、今ここにいる僕だった。
 
 僕は悪夢を見る。この時代に、この僕が。
 今日が初めてじゃない。時々。けれど確実に、定期的に。

 
 睡眠障害や悪夢が解決済みとなったのは一年前のことだ。十二歳以降、利き手と逆の手首への設置が義務付けられる《拍動端末》パルス・デバイスの標準アプリケーションとして、国が認定する《最適夢プログラム》がインストールされた。入眠速度や深睡眠比率は数値化され、睡眠は理想値へ最適化された。深刻な睡眠障害は勿論、悪夢や金縛りは統計上ほぼゼロとなった。健やかな眠りを手に入れた人々は、快適な日中を過ごすようになった。
 
《最適夢プログラム》。
 ”僕ら“が開発した完璧な睡眠を実行するための計画プログラム
 そのはずだった。

第二夜
 
「変な顔してるぞ」
聞き慣れた声が、僕の鼓膜を揺らした。
 
 そのフロアにオフィスチェアやデスクは存在しない。従来のオフィス什器はなく、物理モニターやデバイスもなかった。コントラストのないベタ塗りのグレーのオブジェクトが、まるで氷河のように連なっている。いくつもの塊があり、面があって、それぞれの面に座ったり、ペーパーを広げたりして、マルチな利用を可能とするフロアだ。背の高い塊がそびえる箇所では、オブジェクトがパーテーションの役割を果たす。いわゆる”研究室”的なフロアで仕事をするよりも、僕はこの共有スペースが気に入っていた。
 十八時過ぎ、研究室の共有スペースで作業をしていた僕のそばへやってきて、そう声をかけたのは、同僚の永安拓良タクラだった。
「個性的な顔、と言ってくれ。いつものことだ」
「水場を探す蛙みたいな顔をしてる」
 拓良は言語学で博士課程を卒業した上で、うちの研究チームに加わった。精神分析や哲学、倫理学にも強く、理系の出自が多い中で貴重な存在だった。
「で、何かあった?」
 彼は時たま下手な比喩を使って僕の顔を揶揄するが、それは僕の表情から平常時との差分を察した時だった。
「僕の睡眠に、少し問題がある」
「君の?」
「ああ。毎日ではないんだ。時々、忘れた頃に悪夢を見るんだ。内容はいつも同じ。嫌な夢だ。最適夢プログラムに問題はない。脂汗を垂れ流しながら《拍動端末》パルス・デバイスを見てみれば、睡眠評価は常時A」
 拓良は何も言わない。僕の言葉を聞いておらず、何か考え事をしているようだった。時々、彼は自分の内側に意識の先を向け過ぎて、世界の側を無視する。よくあることだ。彼が”こちら”に戻ってくるのを、僕は気長に待つ。彼とは学生時代からの長い付き合いだ。その付き合いの長さに比べれば、文字通り一瞬のことに過ぎない。
 拓良はふと顔をあげ、左手首に触れ、僕に言う。
「なあ、晃。今日夜ちょっと時間あるか?」
「業後は一度ジムに行くから。その後なら」
「二十一時、そうだな、久しぶりに僕の家で」

 * 
 
 もしも僕が神を信じているとすれば、それは数字と筋肉の神以外にいない。
 
 数字は嘘をつかない。僕が二番目に好きな言葉だ。
 筋肉は裏切らない。最も、僕が好きな言葉だ。
 
 僕が崇める”マスマッスル神”は、トレーニングを積むことによってのみ信仰度合いを測られる。トレーニングに真摯に取り組めば、その分だけ身体に成果が表れる。正確な数字がフィードバックされる。数字は嘘をつかないし、筋肉はいつだって裏切らない。
 《拍動端末》パルス・デバイスをランニングマシーンに接続する。連日の数値記録と今日の身体コンディションから、己に課す最適な走行距離と時間、傾斜が設定される。ランニングマシーンに搭載された立体映像が立ち上がり、異国のジャングルの景色に囲まれる。いつもは都市の整備された海岸沿いのコースを選ぶことが多いだが、こうゆう場所を走るのも悪くない。
 傾斜20度、30分で5キロを走った。インターバルを入れた後、マシーンをこなす。ラットプルダウン、バックエクステンション、レッグプレス。上半身と下半身も満遍なくこなす。最後にスミスをやって、シャワーを浴び、ジムを出る。
 

第三夜
 
 7区の高層タワーマンションの一室、仰け反った巨大な芋虫みたいなソファに座る。身体が想定より沈み、底なし沼に嵌ったような感覚になる。正面に置かれた光沢のある黒色のコーヒーテーブルには指紋ひとつ付着していない。床はモルタル調のフロアタイルが敷かれ、埃ひとつ落ちていなかった。
「稀に、悪夢の事例は報告されているんだ」
 悪夢を見る人間の共通は、都市部で長時間労働に従事する高年収者。同じ悪夢を同じ構図で何度も見る。夢は「取り返しのつかない失敗」。拓良は言う。
「だが、これは我々が開発したプログラムの欠陥ではない。もちろん都市伝説でも陰謀論でもない」
「じゃあ、なぜ? 僕だけじゃないのだろう?」
「1%だ」
 僕のような人間の比率、か。
「僕は自分の任務上、たまたま知り得る立場にいただけだ。開発チームの中でも、ごく一部しか知らない。」
「ああ。誰にも言わないよ」
「まず、君の睡眠評価、実はAではない」彼は言う。「正しくはA+だ」

 * 
 
「最適夢プログラムは《睡眠最適化プロトコル》の中核システムとして開発された。一般にこのプロトコルは、国民の健康向上を目的に策定されたと言われるが、どうもそうじゃない」
 僕は拓良の言葉の続きを待つ。
「効率化、だ」
 拓良はコーヒーテーブルの上に置かれた《呼応端末》レスポンス・デバイスを立ち上げる。僕と拓良の間に、立体映像が立ち上がる。
「コンディション管理と効率」僕は気がつく。「労働生産性か」
「その通り」拓良は神妙な面持ちを保ち、言う。彼は立体映像をスワイプする。折れ線グラフと棒グラフが表示される。
 国民の「労働生産性」が先進諸外国と比較し低いことは、二十年以上の課題だった。要するに、日中の国民の労働効率を上げ、世界的に競争力を失って久しい我が国の経済回復の一手として、睡眠最適化プロトコルが策定されたわけだ。
「プロトコルはあくまで国民の睡眠にまつわる行動指針と生活遂行手順、そのインフラ整備に過ぎない。フィジカルの部分において、確実に睡眠をコントロールする術として開発されたアプリケーションシステムが、我らが《最適夢プログラム》だったわけだ」
「待て。なら、黒幕は国か」
「ああ。どうやら運用保守を担うA社に弄ってもらったものを、国民の端末に配信しているらしい」
「肝心の部分がわからない。なぜ僕は未だ悪夢を見る? 君の言った睡眠評価A+というのは?」
 拓良は、まるで空気中に描かれた目に見えない絵を観察するみたいに、宙に視線を彷徨わせた。やがてふと、意識が戻ったように、再び僕の方に視線を向ける。
「君の眠りは《A+の眠り》と呼ばれる」
 それは意図的に引き起こされた悪夢、と彼は言う。
「国の目的は労働生産性だ。そのために、人々の睡眠を最適化させる。それが必ずしも、全国民の睡眠の質を良化させること=最適化、とは限らないらしい。シミュレーションによれば、99%の一般労働者は睡眠の最適化により生産性が上昇するが、1%の人間は違う」
 顔の毛穴が拡張するような感覚に襲われる。
「1%の異常者エリートには、後悔や嫉妬の悪夢を定期的に見させ、不安を煽ることで、結果的に爆発的な生産とイノベーションをもたらす」
「まさか」呻くようように、僕は呟く。
「それがトップ層のための覚醒的睡眠、通称A+の眠り、と呼ばれるものの正体だ」
 室内はコンクリートの壁に囲まれた地下室のように冷たい沈黙に満ちていた。自分の鼓動の音が聞こえた。端末を確認するまでもなく、心拍数の上昇を感じた。唇が乾燥し、ひび割れ、舐めると鉄の味がした。
「順番にいいか」僕は言う。
「腹が減った。続きは明日にしないか?」彼は《呼応端末》レスポンス・デバイスをスリープモードにする。
「そんなわけにいくか」
「やれやれ」と彼は言う。「君だって、疲れが顔に出てる」
「ジムに行ってきた後だから」
「ジムか、良いことだ。人生常に、今日が一番若い日だ」
「急になんだ?」
「人生、今更遅い、はないってことだよ」
「時間が不可逆である限りにおいては」
「あるいは、今が常に最適状態とも言える。過去との比較において」
「なあ拓良、昔から君は唐突によくわからない話をするな」
「話は以上だよ。僕がこれを知っていたのは、単に国の役人との窓口を担っていたからに過ぎない。君の話を聞いて、ぴんと来た。A+の眠りの対象者は、ある種のエリート層に偏っている。実際、国の役人どももA+の眠りの呪縛の中で、定期的に不安を悪夢という形で突きつけられながら、現状に満足せず、常人の手に余るタスクをこなしている」
 目を瞑る。瞼の裏側に極彩色が広がる。世界が揺らぎ、地平が不規則な波形でたゆたう。その感覚を鎮めようと試みるが、うまくいかない。
「しかし、まさか君が」思案するような顔で、拓良は小さく呟く。
 僕は不眠に苦しんだ過去を、そして研究と開発に明け暮れた日々を思い出す。
「やれやれ」と、僕は拓良を真似して言う。眩暈の初期微動を感じた。僕は疲れている。その通りだった。
「くだらない話をしよう」拓良は言う。「晃、結婚はしないのか?」
 
 * 
 
「なるほど、現状結婚予定無し、彼女も無し。仕事と筋トレと時々悪夢の日々、と」
「君はどうなんだ。結婚してないよな?」
 僕の言葉には答えず、拓良は話題を自分から逸らす。
「そうだ。最近中途でうちのチームに参画した後輩に、ちょっと面白い女性がいる。赤間更紗サラサと言うんだが、大変優秀でいくつも成果をあげている反面、ミスが多くちょっとした問題児でね。案外、君と気があうかもしれない。どうせチームのメンバーと、仕事以外でコミュニケーションとっていないだろう?まして、後輩の女性など」
「その通りだから、何も反論がないな」
「紹介するよ。別に、付き合えとかそういうんじゃない。悪夢の件、彼女にも相談してみるといい。仲良くなれば、彼女から色々教えてもらえるだろう」
 何かしら含みのある言い方な気がしたが、靄に包まれたように、僕はそれを明瞭に捉えることはできなかった。
「まあ、チームメンバーとのコミュニケーションに関しては、課題に感じていた。僕ももう、若手じゃない。マネジメントを覚えなければと思っていたところだ」
「真面目だな」拓良は優しく笑った。それを見て、僕も思わず口角を少しあげた。
 散々弄られたが、彼とは長い仲だ。僕を気遣う素振りに気づかないわけでもない。
 彼の家を後にし、完全自動運転走行のタクシーに乗って自分の家へ帰る。「A+の眠り、国家、それに後輩、か」。車窓から街の灯火をぼんやりと眺めながら、そういえば聞き忘れたな、とふと思った。「君も、A+の眠りなのか?」と。

第四夜
 
 古い油のにおいが店内を満たしていた。
 
 終業後、二十一時。更紗が指定したハンバーガーショップに一人で入る。彼女は作業が押しているようで、十五分ほど遅れる旨の連絡があった。約束の時間、五分前に。
 店内は乾いた血のような、くすんだ赤色のソファとスツールが並ぶ。ターコイズブルーの壁面には旧世代の物理ディスプレイが設置され、単純なアニメーション付きの動画でメニューが表示されていた。天井からは様々な蛍光色の紐のエジソン電球がぶら下がり、油の膜の上に埃と塵が付着し、人々に踏みならされてすっかり曇ったステンレスの床に、光が鈍く反射していた。空いていたボックス席に座る。否、全ての席が空いていた。客は僕以外にいない。
 先に食べててください、との彼女の言葉をそのままに受け取り、ハンバーガーセットを注文する。十分後、青色のプラスチックのトレイが目の前に置かれる。ハンバーガーを手に取る。
 包み紙からは昔の新聞のようなインクの匂いがした。今時の店ならまず嗅ぐことはない。紙を開くと、ハンバーグがバンズから飛び出すように挟まれ、赤いケチャップがバンズの縁にこびり付いていた。ケチャップのつん、としたにおいが鼻を刺したあと、死んだ動物の肉のかおりがゆっくりと鼻腔を撫で上げた。店のドアが開き、ベルが鳴った。一瞬、ハンバーガーを持つ指が硬直したが、すぐにかぶりつき、思わず目を見開く。
「いや、美味いんかい」
「でしょ」
 僕の前に更紗が座り、得意げに言う。
「驚いた。舐めてた」
「見た目はイマイチだけど、味はピカイチなの」
 変な言葉を使う娘だ、と思ったし、初めから敬語が行方不明だった。彼女の辞書には敬語が存在しないのかもしれない。
「わたしの辞書に敬語の二文字は存在するわ。使ったことないだけ」
「うちはそれなりに就職難易度高いはずなんだがな」
「待たせてごめん」
「かまわないよ。店、ありがとう」
「面接で測れる能力って、意外と限られたものだから。私はね、自分に自信があるの。相手も自信を感じられるとね、あ、こいつはなんか、やれるんじゃないかって、信じちゃうんだよね。結局。喋り自体は得意なのよ?それに私はスキルもあるし、研究実績もあった」
 更紗の前にハンバーガーセットが置かれる。ハンバーガーの包み紙に触れることすらせず、ポテトから食べ始め、いつまでもポテトのみを食べ続ける。
「どうしたの?」
「いや、ポテトばかり食べるんだな」
「揚げたてのうちに食べたいじゃない。まずポテトを全部食べる。次にハンバーガー。最後にドリンク。これが一番。というか、これ以外ありえない」
 僕がハンバーガーを四分の三食べ終え、ポテトを二分の一消化し、思い出したように先に頼んでいたアイスコーヒーに再び口をつけた頃、彼女はポテトを完食した。それからようやく包み紙を開き、ぬるくなったハンバーガーにかぶりついた。
「いつからその食べ方なの?」
「最初からじゃない? 覚えてないよ。覚えている限りじゃ、最初からこう」
 二十八歳の更紗は、長い黒髪をソバージュにし、黒いセルの縁のメガネをかけていた。座った状態で僕と視線が同じラインにある。背が高い。痩せているが、骨ばった印象がなく、どこかむちっとした質感を抱かせるのは、骨格の問題か、あるいは身長に対して童顔だからかもしれない。
「先輩とこうして話すのは初めて。私のこと、知らなかったでしょ?」
「存在は知っていたさ。同じチームだから」
「同じチームといっても30人以上いるし、先輩、普段研究室にも第一オフィスにもいないから」
「拓良から何か聞いてる?」
「まあね」
 僕らは簡単に自己紹介をする。現在の仕事の担当の話と、会社のこと。二人の共通項を探り、確かめ合うように。
「晃。先輩はさ、何かに怯えてるみたいね。不安なんだ」
「怯えてる?」
「寂しがり屋のうさぎみたいに? 周囲をひどく警戒している感じ? ううん、他人を信用していない?」探るように、複数の角度から彼女は僕を捉える。「あ、劣等感かな」
 大して意味のあるコミュニケーションはとっていないのに、この後輩はよく観察していた。
「先輩が優秀なことは知ってる。成果も。この短時間で、嫌な感じは一切しなかった。わたし、自分がこうだから、他人から見下されることにとても敏感なの。馬鹿なふりして、そうですねえ、って言いながら。わたしをリスペクトしない人は、わたしもリスペクトしない。その意味で、先輩はリスペクトに値する。まあ、わたしの食べ方の順番に納得がいかないのはよくわかったけどね」
 おどけるように彼女は小さく笑った。
「怯えている、と君には見える」
「客観的な印象と実際の振る舞いにわずかに乖離が見られる、そんな感じ。普通はわからないと思うよ。そういう機微に、わたしはちょっと冴えてるから」
「なるほど。けれど、これはそんな難しい話じゃない。僕は事実として、優秀な人間ではない、というだけだ」
 彼女は何も言わなかった。話はそこで一度途切れた。
 
「あのさ、秘密の話があるんだけど、聞きたい?」
 更紗は言う。妖しく笑む。その目が僕の目を捉え、絡みつく。
「教えてあげてもいいよ、特別に」

第五夜
 
 かつて、僕は落ちこぼれだった。
 
 それなりの進学実績を誇る私立高校に入るまでは良かったが、いざ高校では周りのレベルが上がりついていけなくなった。数学は得意だったので理系を選択した。周りが文武両道と言って部活動に入る中、僕は勉強一本に絞ったわけだが、にもかかわらず、僕は大学入試で合格を得られず浪人した。予備校に一年間通い、現役の際に受けた大学よりひとつ偏差値の低い大学を受験し、合格した。そうして入った大学三年生の時、僕は留年した。原因は怠惰もあったが、純粋に試験や実習の不可が積み重なった結果でもあった。
 将来に対し、不安を抱かない日はなかった。自分はどうなってしまうのだろう。やりたいことはないし、やるべきことはやりたくない。夜は眠れず、日が昇った頃、観念したように眠りにつき、悪夢にうなされ、昼過ぎに目が覚めた。何もしないまま、マットレスの上でぼんやりと過ごしていると日が暮れた。そんな日々を繰り返した。不眠症になった。
 それでも、少しずつまた大学へ行くようになった。結局は時間が不安を曖昧にさせていった。それから僕は院へ進んだ後に卒業し、この会社に就職した。
 僕は同期で最も使えないやつだった。僕は同期の倍働いた。結果が出なかった。同期の三倍働いた。ミスが増えて結果は悪くなったが継続した。その頃、ジムにも通い出した。やがて同期と比べ経験値の観点でいくらか上回り始めた。ミスは徐々に減り、小さな成果が出た。少しずつ周囲の評価が高まった。僕はなお働いた。働いて、働いて、働いてきた。気づけば最適夢プログラムの開発チームのエースとして、ミッションをやり遂げていた。当初はプロジェクトの周辺雑務処理担当に過ぎなかったにもかかわらず。
 僕自身が「自分だけ取り残される恐怖」を抱えながら、最適夢プログラムを開発した。プログラムを導入した後も、僕の中に存在する不安は健在だった。僕の精神には深く、広域に強固な根が張り巡られており、その根は絶えず僕の精神中の不安を吸い上げる。吸い上げた不安を養分に咲く花のように、僕は悪夢を見る。あるいはその悪夢は僕が求めた結果とも言える。

 * 
 
「わたしも、覚醒的睡眠対象者なの」更紗は言う。「《A+の眠り》よ」
 ハンバーガーショップを出て、彼女を僕の家に招いた。更紗は自らの秘密を話す。
「秘密二つ目。わたしは、最適夢プログラムを無効化できる」
 透明なグラスに注がれた炭酸水を飲む。気泡が喉をざわめかせる。
「短時間だけだけどね。アンチプログラムをこっそり開発した。天才でしょ? とても楽しいの。呑みたい時に酒を飲み、研究に没頭する時は不眠不休で働く。遊びたい時はたくさん遊ぶ」
「なぜ?」僕は短く尋ねる。
 彼女は言う。「自由に生きたいの」

第六夜
 
 僕はA+の眠りを必要とする人間だった。望むと望まざるとにかかわらず。悪夢は人間全般に必要なのか。逆にもし、恐怖を取り除いてしまえば、自分も更紗も、幸福なだけの廃人になりはしないか。不安に煽られ努力し結果を得ることや、悪夢を拒絶し仮初めの自由を享受する喜びは、果たして無くなってしまったほうがよいのだろうか。99%の人々は、今何を考え、どう生きているのか。
 いつも通りの日常を送った。決まった時間に起床し、身支度を整え、出社する。共有エリアのオブジェクトの影にポジションを陣取り、仕事をする。拓良とくだらない会話をして、時々更紗と社内外で会う。僕らは親密な関係になった。更紗と過ごす時間は僕に彩りと安らぎ、ちょっとした刺激を与えた。炭酸水のような。忘れた頃に悪夢を見る。朝起きて「睡眠評価A」の通知を確認し、鏡の前に立つ。36歳に近づく自分を見つめる。身支度を整え、出社する。繰り返す。

 * 
 
 大学時代、学部の異なる僕と拓良は、とある公開講義の教室で隣同士になって、知り合った。グループワークの必要があって、講義後もなんとなく話をした。その時どんな話をしたのか、そもそもその公開講義が何だったのか、まるで覚えていないが、僕らは初めて出会ったにしては心地よいテンポで会話が交わされ、互いに何かしたら感じるものがあったのだろう、そのまま大学を出て駅前の居酒屋に飲みに行った。
 以来、僕らは大学の中庭で落ち合って、意味のない会話を繰り返した。膨大な時間の山を小さなスコップで削り取るように日々を送った。
「変な顔してどうした?」
「いつも通りだ。個性的なだけ」
「まるで、カラスの群れの中で自分だけ白いカラスだった、みたいな顔をしてる」
「なあ、カラスについて今までちゃんと考えたことなくてさ」
「実際どうなんだろうな。もし自分だけ白かったら」
「黒くなりたい、と願うと思う」
「自分で自分を黒く塗るかもしれない」
「え、黒ですが?って、堂々とトボけた顔して」
「逆に、あなたには何色に見えてるの?くらいに」
「ホラーだね。ただ、まあ」
「うん?」
「もしも黒のカラスたちから、本当は自分が白色なのにお前は黒だよな?って言われたら、それが一番怖いかもしれない。怖いというか、つらい」
 僕が留年して、落ち込んでいるときも、また同様だった。あるいは彼と話すために、僕は再び大学へ足を運んだのかもしれない。
 彼は彼らしく、僕を激励した。
「歴史が今を作るんじゃない。今が歴史を作るんだ。過去の上に今があるのではなく、今この瞬間によって過去の解釈は変わる」
「わかるような、わからないような」
「今やれること、やりたいことをして、生きればいい。今は失敗したなあ、って思っていても、いつか君が成功したり、何か幸福や安心を手に入れたりしたとき、その未来はこの今の延長線上にあって、その未来が今となった地点から”この今“を振り返った時、たぶん”この今”の意味は今と変わる。それが、23歳の自分を正当化できる、たぶん唯一の方法だ」
「拓良はどうするんだ?」
「院にいくよ。うちのじゃないけれど」
「そうか」
「もうしばらく学生だ。君も方針転換して例えば研究職を目指すなら、院に進むのかもしれない。そうなれば一年や二年の留年、大した話じゃない」
「考えてみる。時間はあるからね」
「それがいい」拓良は手首に視線を向ける。「そろそろ行くよ」

 * 
 
 更紗がチームから外されることになった。
 
 拓良は共有スペースのベタ塗りのオブジェクトに腰掛け、コーヒーを啜りながら告げた。彼女の突出した才能と、それに伴う制御不能な挙動。組織運営においては最適化を阻むノイズに過ぎない。そう、上は判断したらしい。
 彼女が最後に目撃されたという、地下の旧型サーバールームへ向かった。冷房が唸り声をあげていた。更紗は床にべたり、と座り込んでいた。
「更紗」
 僕は声をかける。振り返った彼女の顔には、かつての不遜な自信も、妖しい笑みも消えていた。
「自由なら、それでいい」
 更紗は無理に笑って言った。その瞳の焦点は僕を通り越し、背後の虚空を彷徨った。自分の右腕を左手で狂ったように掻き毟った。爪が皮膚を裂き、激情に駆られたミミズみたいに赤い筋が走るのが視認できた。
 僕は更紗に問う。
「君は本当に、自由だと言えるのか?」
「自由、自由なら。ねえ自由って何?」
 彼女は僕にすがりついた。
「わたしが自由になろうとするたび、この《デバイス》が熱をもつの。手首を焼き切ろうとするみたいに。アンチプログラムを走らせるたびに、『異常を検知しました』『最適化を開始します』って、耳の奥で誰かが叫び続ける、知らない誰か、煩い、眠れない、怖い眠れない、ただ、もう眠りたい。私だけ、どうして選ばれたの。ただ好きに自由に生きたかった、誰かこの不安を、この《わたし》をお願い止めて、だから」
 彼女の指先が僕のシャツをぐり、と掴み、血と汗の混濁した液体が僕の胸元を汚した。その指先が、高熱を出した病人のような激しい震えを僕に伝えた。
「あるいはもしも、この不安が、全部、無になっちゃえば」
 彼女は、血の滲んだ手首を僕の目の前に突き出した。
「これ、抜きたいの。いらない。わたしをわたしじゃなくしていいから。お願い、楽に」
 彼女の手首が、警告を示す赤色に発光する。
 立体映像が起動し、アラートが周囲に展開される。
 更紗は白目を剥き、痙攣しながら冷たいコンクリートの床に転がった。泡を吹く口元から、「ポテト、食べたい」と彼女は漏らした。

第七夜
 
 こんな夢を見た。
 
 七畳ワンルームの室内に僕はいる。「成績通知書印刷」のボタンを叩く。通知書の右上に視線が釘付けになる。小さな汗の粒が額に浮かび、顔の脂を含んで滴る。「留級」。通知表を上から下まで視線を走らす。目の前が真っ暗になる。いつもの悪夢。幾度となく繰り返し、決して逃れることのできない夢。
 その日は、夢の続きがあった。
 留年した僕はしばらく家に引きこもる。やがて引きこもっていてもどうしようもなくなって、仕方なしに大学へ行くようになる。講義を受け、期末のテストを受ける。落単する。追試を受ける。その度に落ちる。成績通知書を開き、留級の二文字を確認する。追試を受ける。落ちる。追試を受ける。落ちる。落ちる。何度も、卒業できない永遠に。
 試験官は僕に言う。
「なあ、また追試? いつまで追試受けるの? こっちも仕事とはいえ貴重な時間なんだ。平等な時間。俺、こんなことをしたかったんだっけ?って考えちゃって、虚しくなるのよ。惨めだよ。でも、そんな俺より君の方が悲惨だよね」
 試験官は僕に言う。
「いい加減、やめてくれないかな?」
 その顔は、僕の知っている誰かに似ている気がした。
 
 * 
 
 目を覚ます。
 
 汗で濡れたシャツ。張り裂けるような鼓動。僕の手がごわっとした毛束を掴み、抱き寄せる。金色の老犬は悲しそう目で僕を見つめる。僕がまだ、わんわんより小さかった頃、僕はいつもわんわんの上に乗って遊んでいた。おかげでわんわんはぺしゃん、と全体的に潰れてしまった。
 眠るとき、未だに僕はわんわんと一緒に寝る。わんわんを抱き枕の代わりにする。夏は暑苦しくて、寝ている間に蹴飛ばしてしまうことも多々ある。重く、暑苦しく、邪魔で、幾度も傷つけ、痛めてきたにも関わらず、僕はわんわんを手放すことができない。快眠の夜も、悪夢を見て起きる朝も。
 汗の粒が滴り、わんわんの頭部を濡らす。無理だ、と思った。悪夢にうなされること、それ以上に、自分だけが”選ばれて”悪夢を見させられているこの現状に。
 
 壊れてしまった更紗を思い出す。
 1%の人々を想像する。
 
 * 
 
 僕がこの研究チームの内定を決定させた、最終面接を思い出す。
 面接官から逆質問を求められた。研究との関連、働き方や異動、ワークライフバランスなど、いくつもの質問候補が浮かび、消え、脳裏にふと、白いカラスが飛んできた。
「カラスが」と声が漏れた。
「カラス?」と細身で禿頭の高年男性が聞き返した。
 僕は言った。
「御社は国と業務を遂行しています。例えばの話です。国が、もし黒いカラスを指差して『白だよな?』って言ったら、『白です、何故なら』という論理を組み立てますか?」
 そう言って、ふと、拓良との会話と例えの前提が逆であることに気がついた。白いカラスの自分がお前は黒だ、と言われた場合と、黒いカラスが当たり前の中で白だ、と言われる場合。いすれにせよ、この面接においてそれは大した問題ではなかった。
 細身で禿頭の高年男性が口を開く。 
「  」
 彼が何と言ったのか、思い出すことができない。 

第八夜
 
 日課のジムでのトレーニングを終える。鏡に映る自分を見つめる。刻まれてゆく肌の皺、後退する前髪の生え際、鍛え上げられた分厚い身体。
 A+の眠りを知ってから、二年が経った。未だ僕は悪夢を見る。更紗が壊れたあの日から、僕は計画を拵え、鍛え、研ぎ澄ませて来た。その間に、世間でも徐々に最適夢プログラムに対する陰謀論が広まり始めていた。A+の眠りの該当者が、可視化されつつあった。
 
「人類はアップデートされる」
 ジムのシャワーを浴びながら、僕は呟く。
 水音にかき消され、声は流されてゆく。
 
 * 
 
 更紗が選んだ仮初めの自由でも、国が強いるA+の眠りでもなく、言うなれば「完璧な無」をプログラムに上書きし、遡行的にプロトコル自体の方向性を変える。本当の意味で、すべての人間が睡眠の問題から完全に解放されるシステム。脳が抱える全ての負債を睡眠中に完全に消去、中和し、翌朝には忘却させる。真の最適化。それが僕の計画だった。
「行ってくる」未だベッドで眠る更紗に、僕は言う。
「行ってらっしゃい」更紗は言う。
 振り返ることなく、僕の後ろで部屋のドアが閉まる。ロックがかかる。
 休日の深夜一時。タクシーに乗って、研究所へ向かう。長い時間旅行を終えたような、そんな心地がした。まだ何も始まっていない。これからだ。タクシーが停止する。到着する。
 お気に入りの共有フロアに入室する。僕が立つ入り口を起点に、波形となって照明が灯る。波の果てに拓良が立っていた。
「いくら親友でも、適切な時間があるだろう」
「二人だけで話したかった。君のことだ。もう全て、わかってるんだろう?」
「晃。それはアップデートではなく、精神の平準化だ。認められたものじゃない」
 拓良は言う。「なあ、”今”が最適なんだ。壊す必要はない」
 僕は言う。「わからないな」
「君の過去の苦労も、更紗の才能の功績とその罪も、すべては今この最適解を構築するために、不可欠な足跡だ。もちろん、未来のことはわからない。それでいい。それを不自然に捻じ曲げたり、無かったことにしたりしてはいけない。それは単なる否定であり、人の歴史の退化だ」
「なあ、昔から、君が言うことは時々よくわからないんだ」僕は彼の元へ歩み寄る。「ひとつ言えるのは、僕は今、人生で最も不安だよ」
 彼は僕を取り抑えようとした。僕はその腕を掴む。
「そういえば、喧嘩、したことなかったな」
「最初で最後だ。どうせなら、論戦じゃなく、肉弾戦といこうじゃないか」
「後悔するなよ」
 僕は拓良の細い手首を掴み、彼のすらりと細長い身体をベタ塗りのグレーのオブジェクトへと叩きつけた。鈍い音が共有フロアに響く。垂れ下がる長い前髪の隙間から彼の歪んだ表情が覗く。一瞬その顔に気を取られた僕の胸元を突き飛ばし、彼は素早く距離を取る。運動センスがある人間特有の身のこなし。羨ましく思う。
「立派な暴力だ。ご自慢の筋肉の賜物だな」
 それでも、彼は140キロのウェイトを挙げることはない。
「暴力じゃない。強制終了シャットダウンだ」
 一歩踏み出す。長年のトレーニングで培った広背筋と大腿四頭筋が、僕の意志に忠実に、推進力を生む。拓良を壁際まで追い込み、その首元に右腕を押し当てた。
「拓良、君は今が最適だと言った。その今を維持するために、僕は悪夢を押し付けられ、更紗は壊れた。1%の人間が白目を剥いて泡を吹くことで成り立つ平和な社会なんて、理不尽な欠陥品だ」
「だから、すべてを無に書き換えると?」
 拓良は喘ぐように叫ぶ。僕の腕を必死に押し返そうとする。
「更紗は天才だ、君もまたその身に宿す劣等感が、今の君をつくった。君の本質だ」
「その通りだ」
「君は自分が白いカラスである恐怖から逃げている、自分の色を捨てようとしている」
「その通りなんだよ」僕は言う。「それでも、誰かだけが不安を抱える世界を、僕は完璧とも最適とも思わない」
 拓良は力なく笑った。その瞳には、僕への蔑みと同情の色が宿っていた。彼は抵抗をやめ、その場に崩れ落ちるように座り込んだ。
 俯いていた拓良は、唐突に顔を上げた。僕と視線が合致する。
「なあ、更紗はいい女だっただろう?」
「なんだって」
「僕が君に紹介したんだ。忘れたの? 更紗がアンチプログラムを開発しているのを知っていたから、悪夢に悩む君に紹介したんだ」
 僕は何も言わない。
「気がつかなかったのか? めでたいな。君の頭じゃわからないか。張りぼてのその肉体と同じだな。つまり僕は彼女の”秘密を知っていた人間”ということだ」
「更紗と付き合ってたのか?」
「晃より前に、ね。気まぐれさ。もっとも、君は本気で熱を上げてしまったみたいだけど」
 僕らの最初で最後の喧嘩は結局、肉弾戦と舌戦の二段構えとなった。前者は僕の勝利だが、後者に関しては何も言えない。この先僕が拓良と仲良く会話する未来はきっと訪れない。僕らの友情は初めからこういう性質のものでしかなかったのだと思うと、それが一番の敗北に思えた。
 
 僕は右手首を素早く触れる。《拍動端末》パルス・デバイスを秘匿回線に接続する。

第九夜
 
 管理者権限のバイパスを実行する。更紗がチームを去る前、彼女が僕に渡したたったひとつの裏口。最適夢プログラムの配信環境へアクセスできるバックドア。OSレベルの脆弱性を突いたルートキットだった。彼女は本物のイカれた天才だった。
 プロトコルを無視し、更紗のアンチプログラムを核にして不眠不休で開発したアップデート。《最適“無”プログラム》を解き放ち、上書きする。強制置換するスクリプト。
 僕の右手首から立ち上がるコンソール画面に、全国民の睡眠評価が描画される。画面上の評価ランクAやA+が、一斉に崩れ落ちる。数秒、立体映像にノイズが走った後、AやA+が、「N」へと置換されてゆく。長い時間をかけ、やがてアルファベットの「N」だけが整然と並んだ。
 僕は床にへたり込む。
「更紗、終わったよ」
 一度実行されてしまえば、再度上書きされることはきっとない。この国の中枢の人間もA+の眠りという呪縛をステータスとして言い聞かせていたに過ぎないなら、一度安寧を味わえば二度と不安を求めることはないだろう。すべての人々がフラットな地点に立ち返る。結果的には、コアアップデートがあった、その程度の感慨に落ち着くかもしれない。
「一切を人は忘れてゆく。人は忘れることによって、不可逆の時間の矢印に沿って、前へ進む」
 人々は自らの劣等に苛まれる苦しみから解放された。
 虚空を見つめ、僕は言う。
「更紗、君は地獄から解放されるんだ。本当の自由は、恐怖に縛られない世界だ」
 目を瞑る。極彩色の世界。
 帳が降りるように暗闇が来訪する。僕を眠りに誘う。
 僕は祈る。
「よく、眠れますように」

 * 
 
 その変更は三分後、正式なアップデートとして承認された。

第n夜
 
 こんな夢を見た。
 
 七畳のワンルームの室内に僕はいた。狭く、細長い部屋だ。僕は壁際に寄せて置かれたベッドの上にいた。右手の手首に触れ、大学の情報システムのサイトにアクセスする。学生証のIDとパスワードを入力する。成績通知書印刷のボタンに触れる。右上に書かれたているのは「進級」の二文字だった。通知表を上から下まで視線を走らすと「A+」の評価が並んでいた。それだけの夢。何も感じない。
 
 目を覚ます。
 ベッドから身を起こす。よく眠れた。よく眠れた理由を考えようともしない。隣で、黒色の髪がはらり、と揺れる。かつて更紗が泣き叫んで引っ掻いた手首は、静かに、優しい緑色の光を灯していた。ベッドは昔使っていたセミダブルではなく、クイーンサイズのものだった。ベッドの上に、わんわんはもういない。
 僕は更紗と結婚した。妻と子ども二人、健康で文化的な生活を送っている。更紗は仕事への過集中による快楽と絶望から解放され、人が変わったように穏やかになった。休日は妻と子供と一緒に公園を散歩し、僕がつくったサンドイッチと妻が揚げたポテトフライを食べる。泥のような安心に浸かり、そこに身を壊しかねない不安も激しい喜びもなかった。そのこと自体に、何ひとつ感じるものがない。
 
 僕らの人生には、もう二度と、眠れないほど大切なものは現れない。

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