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1
 炊飯器の中には宇宙が広がっているらしい。我が家の炊飯器に宇宙があると君が言ったとき、僕は理解できなかった。毎日米を炊くが、普通の炊飯器だった。そんな僕に、君は一から教えてくれた。炊飯器内の真空について。暗黒空間には湯気のような星雲ガスが漂い、白い恒星の種が無数に広がっている、と。
「炊飯器宇宙には幅と高さと奥行き、時間がある。時間が厄介で、方向が安定していない。不安定に重ね合わさった状態にあり、もしくは停止している」と君は言った。エントロピーの増大が止まれば、時間は方向を失う。膨張しない宇宙は変化が失われる。出来事の差分が消え、時間は存在し、あるいは存在しなくなる。君はいつも僕に知識を与え、新しい場所へ誘った。
 僕らは宇宙を観測することにした。そこに宇宙があると知りながら、ただ静観するなどあり得ない。僕は黒色の炊飯器の中に広がる宇宙を想像しながら、いつも通りに米を研ぎ、水を注ぎ、スイッチを入れる。炊飯器から、ピー、と音が鳴ると、二人顔を見合わせる。僕らは蓋を開けた。僕の手の上に君の手が重なる。その重さは、蓋を開けない理由として十分だったかもしれない。炊飯器の中が観測された瞬間、君は姿を消した。立ち上がる湯気が行き場を失った僕の手に熱を伝えた。
 干し草の山から針を探すように、僕はこの世界で君を探し続けている。

2
 遥か未来に僕と君は出会った。僕には君と過ごした記憶がある。今はまだ君と出会っていない。至る所に未来があり、過去がある。時間はたまに収束し、すぐに離散した。世界は常に変化し、故に、常に変わらない。昔からこうだったか不明だが、考えても無意味だ。僕らにとって〈時震〉は日常であり、恐れても仕方がない。一度時震が起きれば今と過去と未来が入れ替わる。そういうものだ。
 遥か未来のあるところ、僕と君は同じ時間、同じ場所にいた。新しく炊飯器を買った。
「ねえ、炊飯器の真空って何だろう」
 僕は君に尋ねる。
「数千から数百Paくらい。空気を半分以上抜いたレベル」
「宇宙はどれくらい?」
「低地球軌道の宇宙空間だと10⁻⁶ Pa」
「宇宙に比べれば、炊飯器の中はとても真空とは言えないってことか」
「せいぜい、地上の空気をちょっと薄くした程度ね」
 新しい炊飯器で炊いたご飯を茶碗に盛る。君は視線で熱を送るみたいに炊飯器を眺めていた。米粒は半透明で表面が潤い、一粒ごとに内に光を宿していた。
「おいしい」
「味が違うな」
「野菜も食べて。血糖値が上がるから」
 いつのことかわからない、ある場所に僕がいた時、君はいなかった。今ここにも君はいない。いつか、かつて、どこかで君と再会するかもしれない。僕らの子どもと共に並んでいるかもしれない。そういうこともある。
 風が窓ガラスに吹きつけていた。外は一面に雪が降り積もっていた。白磁のように艶やかな表面は、ひとたび風に晒されるとシルクのように波打ち、たゆたう。過去と未来の雪片が層を成す。

3
 米を研ぎ、黒い釜に水道水を注ぐ。蛍光灯の光が流水に差し込み、スパークする。無数の星々が明滅を繰り返し、白糸を紡ぎ帯となる。炊飯器にセットし、スイッチを押す。僕は書斎に戻り、ノートを開く。ボールペンを手に取る。ペン先と紙の軋轢の音が、頭の少し上から聞こえた。文字を書き、文章を綴り、物語が立ち上がる。描写を研ぐ。文章が詰まるとペン先を左右に振る。犬が匂いを嗅ぎ分けるみたいに、あちらとこちらを行き来させ、黒い溜まりができる。物語は不安定になり、停止することもある。行を変え文字を書き出せば、新たな物語が創られる。水を与え、火にかける。ひとつの宇宙が駆動する。
 雪が降っていた。静かな夜だった。雪片は遥か高い場所からゆっくりと下降する。雪が大地に着陸し、夜の底を白く染めてゆく。積層する。あるいはきっと、雪の地層が上昇し、白の粒がひしめく宇宙を浮遊する。白い星が降る夜に、そうであれ、と僕は願う。
 ふと、大地が強く震え出した。白い粉を辺りに散らした。地震か、と呟いた僕の声は、ピー、と鳴った炊飯器の電子音に掻き消される。炊飯器を開ける。
「炊飯器の中には、宇宙が広がっている」
 君がいた。この世界で初めて出会った君は、そう言った。初めて会うにも関わらず、僕はすぐに君だと理解した。もっと君の声を聞きたかった。その声が、やがて失われるものと僕は知っていた。ペンを握る僕の手の上に、君の手が添えられる。存在しないはずの記憶の感触が、確かに重なる。

4
 テキストを打ち、句点を置く。キーボードの打鍵音が鳴り止む。月明かりに誘われ窓を見ると、雪が降っていた。長い時間、僕はその光景を眺めていた。すべての雪片が等速で下降していた。宇宙に僕以外に誰も存在せず、ただ僕独りのように思えた。
 再び、白く発光するモニタに目を向ける。蓋を開けていない器がある。開くも閉ざすも未選択の、炊飯器宇宙が。

文字数:1998

内容に関するアピール

私は新潟で育った。美しさの原風景に一面の白があった。最近、実家の両親が炊飯器をくれた。箱に書かれた真空の文字が目に留まった。宇宙が生まれた。炊飯器を観測装置と見立て、観測と物語生成の関係を描いた。「美しい」を考えたら、暴力に辿り着いた。一人称の語り手と「冷蔵庫の女」。構造の暴力を自覚し、悩み、書き手が引き受けた。

設定
・宇宙は小説内小説として構造化されている
 4:現実世界
  3:1を記述する世界
   1:小説世界
    2:1で観測した炊飯器内宇宙の世界
・「君」は「僕」の理想として描写される
・炊飯器宇宙(下部世界)の観測は、下部世界への確信が条件
・下部世界への確信が、観測する側の世界へ影響を与える(君の消失/出現)
・世界2では時間が失われ、出来事の意味も失われた結果、下部世界への想像力も失われた世界。〈時震〉という上部世界が拵えた新設定により、閉じだ世界内で消失を繰り返す

文字数:390

課題提出者一覧