梗 概
シンドローム、朝に沈む
例えば、あるクランケの世界には、空を見上げた隅っこの電柱柱の上に猫の死体が引っかかっていた。
「何か気がかりなことがあるのですね」
脳の神経信号の奔流から読み取れる深層の心象パルスをプロットし、精神解析空間に写像しイメージ化した結果にはそんな風景が立ち現れる。健常者の心象風景には正のイメージ、精神疾患者の心象風景には負のイメージを連想させるものが現れる。
――飛び立った飛行機は太陽から逃げるように墜落し/
ごみ捨て場になった星の瓦礫の上で小さな女の子が泣き続け/
世界は空と海に沈んで窒息している――
彼らの内側には荒涼とした世界が佇んでいる。
精神調整士であるホナミの元にやってくるのは大抵、通常の処方薬での精神療法では成果の見込めない者たちである。精神調整士は、精神疾患者に対し対話と併せて調整器によって心象パルスに正のフィードバッグを刷りこませることを繰り返し、社会との調和を図る。
彼女のもとに、また新しいクランケがやってきた。
彼はとりわけ感情に乏しい青年だった。
「とくに楽しいことも哀しいことも最近はありませんよ、先生」
彼の世界には、広くそして有機的な栄養の与えられていない拓けた空間があった。調整すべき感情の素地に乏しい彼には土壌を作ってやる必要がある。春には薄紅の花びらが舞い、夏には夜空に花火が浮かび、秋には森が深紅に染まり、冬には銀の結晶が降り注ぐような、そういう太陽と月によって生命が移り変わっていく世界が必要なのだ。彼には身の回りの環境の変化に目を向けるように説き、身近な出来事を聞き、芽吹いた心象パルスをチューニングをしていった。
数ヵ月がたち、彼にもようやく有機的な風景が生まれはじめた頃、精神疾患者を主体としたイクスシンクロニズム団体<グッドモーニング>による声明がネットに流れた。
「われわれは、われわれの世界を可能にしたい。荒涼とした美しい世界があることを実現したい。太陽の光の届かない暗がりに閉じ込められても忘れられない記憶を刻みたい」
「われわれは、われわれの世界を可能にしたい。荒涼とした美しい世界があることを実現したい。太陽の光の届かない暗がりに閉じ込められても忘れられない記憶を刻みたい」
それから、同時多発的に珍妙な事件が起こり始める。飲食店の食後の皿にニコちゃんマークが描かれ、ビルの窓がシルエットのように切り抜かれ、殺処分された動物たちのビラが配られたりした。
社会からの逸脱性から団体のシンパらはこう名付けられた――解離社会同期性症候群――。
しかし、事件が起こるたびに、彼女のクランケたちの精神は快方に向かっていた。社会の混乱とは裏腹に快方に向かうクランケたちをみて彼女は疑念を持つ。果たしてこれは疾患なのだろうかと。
茫と公園で思索に耽っていると団体のシンパらが、子どもらが遊ぶ水場を大量の浄化材で浄化しているのに遭遇した。彼女には彼らがとても健常者らしく見えた。
「先生、ぼくは行くよ」
彼は言った。これがぼくの世界だったんだと。
だからきっと、この世界のもくろみは失敗したのだった。
クランケたちが一人、また一人と<グッドモーニング> へと旅立っていく。
ああ、――世界はまるで水平線に真っ逆さまに垂直落下していく魚のようだ。
文字数:1248
内容に関するアピール
重めの精神疾患の方には通常見えていないものが見えてしまうことがあるので、そういった通常の日常と違う世界の見え方のイメージをどう捉えるのかを描くSFの設定としました。精神疾患の治療のために特別な許可のもと、精神世界を具体的なイメージとして増幅させて動画像やVRにより描画できるという設定です。冒頭で違う見え方がイメージとしてわかる、ということとその設定を説明するようにしました。精神世界を描くので、ややポエム感を出しています。
主人公は、クランケの社会とのギャップを、精神の調整によって治療しようと試みる存在ですが、ある程度治療の効果があったとしても、精神調整士によって調整された結果、人の手では完全には人の精神を調整しきれないところで結局は社会との歪が生まれてしまう、という話を描こうというものです。
文字数:349