古く平和な機械

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梗 概

古く平和な機械

 都市を離れ、緑の地獄とでもいうべき光景が続く中を私はバイクで走り続ける。日に焼かれ、一日中振動と戦う慢性的運動不足の老婆、それが私だ。荒れたアスファルトを時折小動物が横切り、巨大な山里保全機〈熊〉が姿を見せる。熊たちは産業に従事し、環境を保守する労働機だ。巨木ほどの大熊から、分子レベルの塵芥を分別する熊虫まで〈最適化〉に従事している。
 舗装道路がインフラストラクチャーの座から転落した現在、車輪による移動は確実でも安全でもない。しかし国家は老人の愚かさを、最大限認めている。〈最適化〉から外れたアンプラグド老人の体験と体感は、危険で不快だ。しかしだからこそ、人間の生活を維持させる貴重なリソースなのだという。言い換えれば私が自分で姥捨山に登るのは、社会にとって好都合だということだ。
 樹間の水田を世話する小熊を通して、私は都市で暮らす依頼人たちへ語りかける。自分の指示通りに熊が働いているか、生身の人間に証言されたい人々だ。今回のツーリングではいつもと違って、生身の人間に運ばせたいという荷物も預かっている。数冊の薄い本だ。
 川沿いで軌道車が私を追い越す。貨物と人を乗せ、悠然と橋を渡るはずが、橋は崩落する。軌道車が水しぶきをあげる時、無数の洗い熊が水に飛び込むのが見えた。
 燃料を手に入れるため、なじみのタバコ栽培者の家に寄ると、見知らぬ男がいる。〈最適化〉推奨外の作物を作るのだという。意気投合し、焚き火を囲むが、翌朝男は姿を消している。荷物が探られ、本は燃やされている。
 私は通報せず、燃料の対価を置いて出発する。私は知っている。世の中は、自分には理解できないルールで運営されている。だから私は無謀であると同時に用心深い。本は義肢の中に入れている。燃やされたのは複製だ。
 本の依頼人は〈熊〉オペレーティングシステムを確立させた富豪で、その子は政府の要職に就いている。本の内容は、現在では違法な、当時でも恥知らずなもので、かつて彼女の起業資金を稼ぎ出したという。実物を破棄すれば、残る電子データは無数の複製と虚偽に紛れ、過去は洗い流される。だが彼女は、それが自分のものなら、罪も不名誉も手放さないと語る。そして屋敷に続く牧場に、壊れかけた大熊を置いている。自分を痛めつけるように働き続けながら、熊は引退させ、アンプラグドとして遊ばせているのだ。
 富豪の息子が空輸機でやって来る。それは焚き火の男。自分の地位にしがみつき、〈最適化〉を利用していたのだ。男は熊を操り、母親ごと家を壊そうとする。私は大熊の弱った足に、バイクを当てて倒す。つぶれ、引火するバイク。消火と塵芥処理で熊蜂の群れが飛来する中、私は男を捕縛し、母親が彼を告発する。
 熊に礼を言われる。
 世の中がどう〈最適化〉するのか、誰にわかるだろう。けれど機械を愛している人間なら、誰でも知っている。機械は必ず、愛を返す。

 

 

文字数:1192

内容に関するアピール

 バイクがただの機械であるとすれば、本はただの紙切れです。けれどどちらも、その機能以上の、過剰な意味を持つ存在です。
 バイクも本も、それに関わる人間を幸福にし、絶望させ、万能感を与え、愚かにし、時には人を成長させてくれるのかもしれないけれど、限りある個人の時間をはなはだしく無駄遣いさせてきたのです。
 本作では、バイクと紙版書籍を重ね合わせて、主人公〈私〉の行動を描きます。
 舞台は近未来の辺境。経済成長の限界と〈最適化〉という理念から、ほとんどの人間は都市に集団生活しています。産業(生産・加工・サービス)の多くを労働機が行い、人間は時折実労し、「判断」をすることで社会が維持されています。
 変質する社会と、それに対応しきれない人間の生活を示す背景として、道路・車輪・石油・紙を用いない未来を仮定しました。物流は地下輸送と軌道輸送、水運、空輸が主で、内燃機関は滅びようとしています。辺境の土地では労働機「大熊・小熊・熊虫・洗熊」が、生産と環境保守に従事し、〈最適化〉しています。
 登場人物のほとんどは辺境に生きることを選択している「老人」で、体内に情報端末を持たない、独立独歩のアンプラグドです。モータリゼーションが滅んだ世界でバイクに乗る〈私〉は、強情な老女。自分の愚かさや頑迷さを自覚しているからこそ、時に勇敢な選択をし、危機を乗り越えます。
 一台のバイクと一冊の本を、取るに足らない卑小な、そのくせ人の心を離さないモノとして描くことで、変容する世界に従わない人間を書きたいです。

文字数:643

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古く平和な機械

※興味を持って下さった方、すみません。筋を大分替えた上に、3章までしか整いませんでした。これは習作です。

§ 1

 草の下で焼けたアスファルトは、行く手を陽炎で歪ませる。足の間で、腹の下で、エンジンはうなり、振動は腕を麻痺させる。私は私の機械が立てる音だけを聞き、走路だけを見続けようとしながら駆け続けていたが、汗と陽炎にかすむ眼に映る光景は、次第に道らしさを失い、ただ緑の流れへと変わっていた。森を切り拓いたかつての幹線道路は、緑の樹木の間を縫う、緑のうねりとしか見えない。
 都市を除く舗装道路が放棄された現在、草は道の両端から蔓を伸ばし、伸び、茂っている。今朝から走った幾ところかでは、固い路面を割って樹木が伸びていさえした。いきなり、アスファルトが噴火のように盛り上がって、若木が枝を広げていたのだ。その幹も枝も、蔓に巻かれ幾種もの葉を茂らせる木の脇を、私はバイクを押して通り過ぎて来た。
 人がいなければ地上は穏やかに調和するのだと、都市に住む者の多くは考えているが、お笑いぐさだ。夏に向かう今、植物は支配する領土を求め、静かに争い、時には共倒れして朽ち、その上に新たな緑が這い登り覆い尽くしている。緑したたると言いたいが、それは緑の地獄。そこには植物たちの凶暴なまでに粘り強い意志が感じられるほどだ。いや、意志ではない。永続不変を誓いながら、はかなく絶え、どのようにも変わってしまう意志などではない。植物はただ、生きている。

 荒れた路面で、できうる限り安全な走路を確保するために、私は行く手の地べたばかりを見ていた。それでも春先からの黄色い花や、夏に従って増える白い花はいくらでも見られた。強い直射日光を受ける場所で咲く花は、ほとんど白か黄だ。そして目をやることができないけれど、日光が和らぐ茂みの中には、青や朱の花も隠れていると私は知っている。そして踏みつぶしているツル草も、可憐な稜線の先端に、柔らかな新芽をつけている。越冬する種類の蝶は大方小さいから見逃しているけれど、余裕さえあればその精緻な姿を見られるのだろう。地上は見渡す限り、ただ乱雑に、そのくせ細部には美しさをたたえ、生命をあふれさせている。
 だからこそ、
「人類滅亡後の地球、だよ」私は声に出してつぶやいた。今日、一度もしゃべっていなかったから。
 一人きりで、好き勝手な独り言を言えるから。
 まるでそれを聞きつけたように、路側の木立から、鳥の声がした。高い警告の叫びだ。今、小鳥たちは、つがう相手を求める季節。懸命に練習したさえずりがあちこちでしているのだが、今聞こえたのはそれでは無い。私が縄張りに入ったことを、抗議しているのだ。
「鳥も、人間は邪魔だって」
 それから、ここでは私のつぶやきは鳥の声より無意味なのだ、と思った。鳥の声は言語の役割を果たしているが、私のつぶやきはバイクの排気音よりも、伝わる相手がいないのだから。

 

 道の両側に木立が続いて見通しが利かない上、きつい日差を受け続けていたから、道が大きく曲がった瞬間は嬉しかった。太陽から逃げられる。
 しかしそこで、私はバイクを止めることになった。
 私はメットのバイザーを上げ、降りた。何時間も座っていた後では、フルフェイスのヘルメットを着けているだけで体の重心が取りにくいのだが、一度外すと再び着ける時、蒸れた感触が気味悪い。緑を踏んで降り立った私は、ぎこちなく体を伸ばした。
 曲がった途端に、見通せる限りの道は一変していた。完全にクズに覆い尽くされて、アスファルトの痕跡すら消えかかっている。
 道の周りも、目に入るのは陽に焼けて赤茶けた雑草。樹木もクズヅルに絞め枯らされて、その中にくたびれた建物が点在している。錆びたトタン。歪みくずれた屋根。閉ざされ、落書きされたシャッターは、その落書きも退色している。そのくせ腐り果てた立て看板には、〈開店中〉の文字が読み取れた。
 私は溜息をついた。わざわざ壊す価値も無いのだ、と思った。
 この土地に何らかの利用価値が認められれば、ここまで見捨てられた光景にはなるまい。 道を幾重にも覆い尽くすクズヅルからして、この一帯にはもう、住人がいないのだ。見捨てられた土地でも、そこにへばりつくように住み、命永らえる人間がいれば、道は一条でも残り続ける。私はここまで、それをなぞって走ってきた。しかしたどり着いたこの窪地の道は、クズに殺されている。
 クズは蔓植物だが、細く柔らかなツル草では無い。太さは大人の腕より細いが、剛毛に覆われ固く、それが幾重にも重なり合っているこの道は、なまじな車輪では進めないだろう。私のバイクではまず無理だ。
 私の単車は、石油燃料時代からの遺物だ。そして私は有能な整備士ではない。古い部品を継ぎ合わせ、ごまかし、だましながら乗っている。走行音の異常を聞き逃さないことは、私の命綱だった。タイヤももう寿命が来ている。
 しかしこの道以外、走路は無いのだ。迂回路は無く、目的地も近い。
 私は背囊に入った二本の筒の内、一本を取りだした。
(こっちは使いたくなかった、な)ここまで来て使うことになるとは、予想外だった。しかし仕方ない。
 筒を使用時形態に伸ばし、燃料ボンベの装着状態を確認し、そして汗を拭っていたタオルは、鼻と口を覆うように後頭で結んだ。
 足先に構え、レバーを引く。カチッ。
 轟音と共に炎が噴出する。
 火炎放射器は、私の目掛ける場所、クズの葉群を舐め、焼いた。クズの茎までは焼き払えないが、茂って路面や異物を隠す葉は払える。この先しばらくバイクを押して歩く事になるのだろうが、危険物だけは視認できるようにしたい。
 縮み上がり、焦げ消えるクズの葉。羽虫が焼け爆ぜる音を立てるが、録に見えはしない。ただコバルト色のしっぽをゆらせてトカゲが逃げるのは目に入り、私はその行く手から火炎放射器を逸らす。逃げろ、と思う。上手に逃げなよ、と。
 走路にしたい道の中央だけを焼き続け、炎を先導に歩みを進めてどれほど経ったろう。
 森の一角から、騒がしく鳥の群れが飛び立つ音がして、私は手を止めた。
 柴の折れる音。炎を収めてその方を見上げると、木立が黒く膨れあがったように見え、膨れた黒い森はそのままずるずると動いた。草木をなぎ倒し踏みしだく音がし、近づいて来る。樹冠から見え隠れする黒い影は木々をざわめかせ、そして木の間を抜けて、巨大な塊が眼前に現れた。

〈大熊〉だ。

 その姿は体表の質感こそ熊に似て、黒く底光りする対紫外線ポリマーで覆われている。しかし近くで見れば、熊というより、巨大カタツムリに近い。脊椎動物の造形では、数メートルを超えて機能を維持することは難しいのだ。外殻モジュールを巻き貝のように継ぎ足した体躯の底部からは、ひだとブラシの移動足が覗き、その間から一本の触角が伸び出して、その先端のレンズは、私をとらえていた。
 外殻は張力を持ちながら柔軟で、樹間を移動していた先ほどは体を薄くしていたが、今は路上に全身を表し、丸くなっている。遠目には確かにうずくまる大熊のようだろう。丸まりながらも木立より背が高いのだから、ただの労働機ではない。これだけの巨躯を持つのは、廃棄物分別をしているのだろうと思われた。山林の手入れをするだけなら、ずっと小さくて済むはずだ。
 大熊の巻き貝様構造は、必要に応じて殻を継ぎ足し増やすものだ。実際の巻き貝は成長するにつれ、新しい大きな部屋を螺旋に作っていく。それは人間が私物所有に価値を置いていた時代の、住居の建て増しに近い。部屋がいっぱいになると新しい部屋を付け足すように、この〈大熊〉は、外殻の一ブロックごとに分別した廃棄物を詰め込む。しかし巻き貝と異なり、この巨大な熊ちゃんは、部屋がいっぱいになったら部屋を切り落とし、輸送に回す。仕事が進めば進むほど、熊は小さくなり、そしてまた新たな部屋を増設する。
 植生の世話だけなら、ヒューマノイドタイプの〈小熊〉で済む。

 

 〈大熊〉が伸ばしたレンズは、私を捕らえ続けていた。そして
「火は危険です。危険行為はおやめ下さい」と声がした。森中に響く警告音も出せるはずだが、極めて慇懃な、いわゆる「執事声」である。カタツムリの発声器官はどこにあるのだろう。
「ああ、」私の声はすぐに立ち上がらなかった。しわがれて、まぬけだ。
「ええ、と。注意しながら焼いていたんだけど、だめ?」大熊の声に対して、私の返答は全く間抜けだ。しかしそれが善意の第三者であるように聞こえることを期待した。森林放火未遂を言い立てられることはあるまいが、悪意で火を掛けたと判断されてはたまらない。
「失礼ですが、あなたは、ああ   」熊が言い淀んだ。ためらうことも形式通りなのだろう。発声器官は、殻の中央部あたり、人間にとっては声が降ってくると感じるあたりにあるようだ。
「アンプラグドかって聞きたいの?」
「はい、左様です。ですから、身元照会ができません」丁重な調子で、しかし威嚇のように上方から流す声、明らかに巨獣にそぐわない声質もそらぞらしい。
「そんなん必要?」私は不謹慎な気持ちになる。
「危険行為をなさいましたので」
「そ。」そうね。
「お名前と生年月日をお願いします」
「フカマチ・カオリ、四十九年、五月四日」数秒間、熊は黙った。そして、
「左様ですか。あなたの旅がフォースと共にあられることを」と言った。なめらかだが、この場にはちぐはぐな言い方だ。多分五月四日が話題になった時の決まり文句なんだろう。今まで何度も言われたメイ・ザ・フォースだが、怪獣に言われるなんて楽しむべきなんだろうか。
「はるか遠い銀河に行くでなし。ねえ、早いとこ解放してよ」
「左様ですね。今少しお待ち下さい」
「私は大丈夫な人物でしょ?」
「はい、天体観測ツーリングで登録されています。あとは、本人同定です」
「何するの?」
「お顔を見せて下さい」
「ああ、そうね」私はメットを外した。汗に濡れた灰色の、ほとんど白化した髪が肩にこぼれた。私は熊に、ほとんど抗老化していない顔をさらした。この熊は、完全自律機なんだろうか、それとも、誰か遠くから操縦してるんだろうか。操縦しているとしたら、その誰かさんは私の顔にぎょっとしているんだろう。私の顔の、老齢に。
「ありがとうございます。顔認識は時間がかかりますので、今少しお待ちください」変わらぬ声の調子では、その向こうに人間がいるのかどうか、わからない。
「待ってる間、も少し草を焼いちゃ駄目かな?」暗くなる前に、この窪地を抜けたい。
「あなたの旅が確認されれば、除草は、私がいたします。最適化順位が上がりますから」
   ありがたいわ」それは本当にありがたかった。「そんならいくらでも待つ」私は怪獣との会話が楽しくなって、けれどぞんざいな口を続けた。熊の言葉遣いに慣れない反感を、ささやかに示すつもりもあった。礼に非礼で返すとは、何てバカな年寄り。
 けれどそれ以上の会話は必要なかった。待たされたのはほんの少し。その間熊は殻の内側で、ずっと蠢動し続けていた。採取物を分別しているのだろう。これから除草する隙間を作っているのか。私の顔データが人並みにあれば、もっと早かったろうし、顔認証なんか必要なのはアンプラグドだけだろうけれど。
「あなたは確かに深町香織様、昭和四十九年五月四日生まれと確認しました」
 ショーワ、か。久しぶりに聞く時代だ。
 やっぱり私は、はるか彼方の銀河系から来た気がする。
「除草は最低限だけいたします。この森を抜ければ私有地ですから私は関与しません」
「そう。とにかくありがたいわ。あなたは親切ね」
「最適な親切を心がけております」そんなことを言いながら、やっぱり大熊は不気味な怪獣なのだった。
「じゃ、熊さん、よろしく」
 森を抜けた先に私の目的地はある。

 

§ 2

「本の寿命は、昭和で終わったの」と、幸子は言った。一週間前の事だ。
「あるいは九十年代かな。社会主義と共に終わったのかも知れない」ベルリンの壁は石とセメントでは無く、紙で築かれていた、などという抽象論ではない。幸子が言っているのは、物体としての本の話だ。
 幸子の住む家は、まさに紙の本自体が壁となって、そそり立っている。更に書庫には「気持ち悪いほど」(と幸子は言う)、夫の集めたアンダーグラウンドコミックがある。手に負えないほど大量の物を所有することは、大昔でさえ愚かなことだった。まして現在、手に負えないほど所有していいのは、金ぐらいだろう。
「こんな世の中になっても、資本主義が残ってるのには驚くよね」私は応じた。
「本にまつわる平成六年の秘密って、知ってる?」私の発言は無視された。
「阪神大震災?」
「それは秘密じゃない」  私の答えは否定された。とにかく幸子は語りたいことがあるらしい。この思わせぶりな話にあいづちを打つ必要は無かったのかもしれない。
 別に不快ではない。幸子と私は、長い友達なのだ。私は卓上の急須に湯を入れ、互いの茶碗に、勝手に茶をついだ。それぐらいの、なじんだつきあい。
「昔は、さ。 “刷り立ての本の良い匂い” って、良く聞いたでしょ?」
 確かに今、その言い回しを耳にすることは無くなった。紙版書籍は今もあるのに。娯楽書は好事家用だけになったが、電子データは脆弱で、一次資料の地位を未だに獲得できないでいるらしい。
「子供の頃はみんな教科書を嗅いだね」教室中で、開いた本に鼻を押し付け合う記憶。新しい教科書には確かに芳香があった。
「だいぶ前から、子供はそんなことしない。平成五年で全部変わっちゃったの」幸子は言葉を続ける。
「あの年、印刷が石油から大豆インクになったの。あれから本はみんな、精密カラー印刷以外みんな、大豆油カスの嫌な匂いになった」書棚を仰ぎ見て、
「平成五年に、死んでれば良かったよ」と言った。その頃私たちは二十歳前。
「まあ、生きててくれてありがたいわ」
 私はその話を聞きながら、違うことを考えていた。石油系インクの芳香。エンジンも本も、石油に頼っていた昔。
 私は幸子とは程度が違うが、本は好きだった。本を買う行為には、今ではおよそ顧みられない、物を所有する喜びがあった。植物繊維を漉きあげた紙。束ねる糸。接着剤、背張布、光沢を帯びた表紙の加工は金属とは異なる有機的な存在の魅力に満ち、そして機械的な裁断と研磨による紙の断面さえ、アウラをまとう物体を作り上げようとする意志に支えられていた。
 人間が機械を操って作り上げたモノ。私は機械で何かを作りたかった。
 幸子が読書好きな女の子のなれの果てであるように、私は子供の頃、分解衝動に駆られて家中のネジを外したガキの、なれの果てだ。
 機械をばらばらにして、機械を組み立てて、機械で何かを作りたかった。
「私はプラグインしてからずっと、本の収集保存は個人で行えるものではないって、言われ続けてる」それは命令ではない。ただ客観的かつ正しい判断を伝えるだけだ。最適化システムは、人が愚かな選択をすることを、指摘はする。しかしとがめはしない。
「全く。私のコレクションはどこの地域にも残ってる上に保存状態も悪いから、無価値なんだって」そこで言い切ってから、「私以外には」と付け加えた。
 年寄りらしい愚痴だが、幸子には珍しい。幸子は数年前好きな作家名やらが思い出せなくなったショックでプラグインしたが、都市の公共住宅に移住することは拒否している。
 数十年間田舎の税務署を勤め上げた幸子は、夫と共に趣味の蔵書蔵付きの住居を建てた。この家は水田と畑に囲まれ、絵本にでもありそうなのどかさに満ちているが、屋敷はどうでも、書庫の方を手放せないおかげで、都市の公共住宅に移住しないのだ。今は自宅周辺の農園を管理しているのだが、それは損得でなく、好きな人生を歩んで来た結果だ。
 幸子はずっと長いものに巻かれもしないが、世の中の有り様に不平も言わない人間だったのに。ただ自分の楽しみを知って生きてる人だったのに。
「プラグ抜いたら?」実際にはプラグをコンセントに差し込む訳ではないが、最適化ネットワーク端末を体内の中枢神経につないでも、当人の自由意志で外せると政府は謳っている。
「あんた、外部情報無くたって、好きなことは全部覚えてるでしょ」好きだったって、覚えてれば充分でしょ。
「多分ね。でも十年前はさ、ビジネス街の公園で、昼飯食べてる若い人たちに円周率一〇〇桁まで言うだけで稼げた位だった」みんな驚いて小銭を投げたらしい。無意味な記憶はジャグリング並の芸になったのだ。
「二〇桁くらいのとこで一回わざと間違って言い直すと、拍手が湧いたっけ」外部情報を遮断しているのに生きている、驚異の老人という見せ物は、敬意でなく滑稽さと憐憫を与えただろう。以前の幸子は、そんな自分も面白がれたのだ。
「若い人って、脳を記憶に使わないの?」
「最適順位が高い事項を自動的に覚えるらしいよ。電子機器のフォーマットみたいに均一な知識を書き込むって」
「ホント?」
「どうかな。まあ特定の錠剤飲むと数学のリクツが理解できるらしいね」幸子は無駄話に乗ってきた。
「相対性理論理解レベル薬とか、って馬鹿にされてるみたいな気がするけど」体にプラグをジャックして、クスリで記憶を流し込んで生きることに、私は慣れることがないだろう。
「それより今のジュータクさ、ゴミを分子レベルで分別するって」公設集合住宅は、ふさわしい呼称を持たないまま、ジュータクと呼ばれている。
「寝てる間に、シワの間から古い角質を削り取ってくれんの? そんなら移住したくなるね」全く本気ではない。
「いっそ体に入って、体脂肪を捨ててくれたらね。ま、体からゴミ全部取ったら、私は跡形無く消え去るかね。ま、分子レベルはデマらしいよ。でもさ、気取った女がデート中にメイクをはぎ取られるとこ想像したら、楽しいわ」
 屈託無く、同時に底意地悪く、幸子は笑った。それは若い時分とは違う表情。若い人間の顔面は口の端に笑みが浮かぶと同時に頬の筋肉が跳ね上がり、単純で直截だ。経年疲労でたるんだ分、幸子の顔は、口元と目が完全に違う感情信号を送ることができた。
「で、本題なんだけど」唇に力を入れると、口の端に縮緬皺が寄る。幸っちゃん、老けたねえ。   私と同い年。
「ダンナの本がね、貴重な文化資料として認められるの」
「ぷ。」私は吹いた。「ああ。ああねえ。さっちゃんががっかりしてたのはそういうことなんだ」
「そうよ、全く。平成五年に死んでりゃ良かった」
 幸子の夫は極めて温厚な農業指導員であったが、妻によれば “しょーもないもんに入れあげてる男”  なのだった。二十世紀のアンダーグラウンドコミックコレクター。ほとんど電子化されず散逸しているという点では貴重ではある。
 幸子は茶を煎れ直した。
「で、それが?」
「で、ダンナはこの家全体が保護指定される前に、売れそうな物を売りたいって」
「うん」売れる物なんてあるのか?
「あんた、バイクを直したいんでしょ」
「うん。そろそろタイヤ交換したい」タイヤは入手が困難なのだ。物を所有することを好まなくなった現在では、廃棄された同型車は容易に手に入る。金属部は腐りきっていても、気長にレストアする。樹脂製品は、今では一点だけでもプリンタ成形できる。金型が不要になったことは実にありがたい。そしてバルブ類は転用して誤魔化せるものが多い。ただ、タイヤは入手困難だった。どんどん手に入りにくくなることはわかっていたが、経年劣化するタイヤは抱えていられない。
 人間の居住状況が異なる地域では、まだバイクは現役の実用品だ。しかし南半球からタイヤを個人輸入するのは高くついた。
「骨折って、稼いでくれない? なんか相当払ってくれるらしいよ」
「私とその本が、どうつながるの」
「内密に運んで欲しいんだって。本は機密保持される信書に当たらないから、陸運でも空輸でも、スキャンされるからって」それがまずいくらい、 “しょーもない” 本なのか?
 私の顔から読み取って、幸子は言った。「あ、中身は見たよ。まあ、犯罪じゃない程度のモノだった」しょうもない。
「向こうが来ればいいのに」この家は都市とさほど離れていないし、空輸機が安全に離着陸できる土地もある。
「そうだけどね。この話聞いたら、あんた行きたくなるに決まってる」
「タイヤを買えるならどこだって行きますよ」
「熊システム創業者の家らしいよ」
「そりゃ豪邸だろうね」それまで、私は乗り気ではなかった。金欲しいけれど。
「天文台もあるって」幸子は湯飲み茶碗の向こうで、にんまりした。
「うん。  行くに決まってる」私は大げさに、幸子の手を取った。
 仲良しに対しては、はしゃいでしまうのだ。たとえ老婆でも。
 私がバイクを手放せない理由の一つは、人跡の絶えた場所で、天体観測するためだ。
 年寄りは、綺麗なものが見たいのだ。

 

§ 3

 

 森を抜けると、辺り一面に水が広がっていた。遠くに湖、目の前には広大な水田。稲を植える前の、浅く水を入れた田である。それは空を映して青く、流れる雲を映して白い。その中を整備された路面が貫通し、丘の上の屋敷に続いている。遠く、〈小熊〉たちが点々と見える。これだけの美しさを維持するには、大量の熊が必要だろう。今、辺境の土地の値段はタダ同然だが、所有し、保持するには莫大な経費が要る。
 どこまでも美しい自然だと人間が感じる景観の多くは、人間が絶え間なく管理しているものだ。そう感じさせる土地を見渡す限りに持っているとは、恐ろしいほどの豪奢だ。こんなものを見せつけられると、自分の一生がいかにつまらぬことにあくせくして尽きるのかと、想像もできない非我の差に愕然とする。
 とはいえ私は、同時に思っていた。(この道を走るだけで、充分幸せだ)と。久しぶりの、意地になって走るのでない、疾走感。輝く水の中を走る喜び。地面のすべてが空に変わってる。その中をただ過ぎる喜び。
 水田の先は丘一面に並ぶ発電器、そしてその上には大邸宅が見える。水の終わりに一度止まって、私は振り返った。とにかく、綺麗だ。
 小熊が一頭、四足で小走りに近づいてきた。あぜの中をとことこと駆ける小熊の背中は、細かい輝きをいっぱいに放ち、生物感をたたえている。小熊の外皮は大熊とは異なり、和毛に覆われている。濡れて作業効率を落とさぬよう、細毛が水分をはじき速やかに流す。そのため毛艶の良い野生動物めいて輝くのだ。もっとも極力擬人化を避けるような基本設計なので、頭部には感覚器が集まっているものの、小熊に顔はない。そして人間が容易にオペレートできるように四肢を持つが、自律行動の範囲は大きく、自律時は人間の動作をしない。
「お客様ですか」子供っぽい声。この持ち主は、熊を威嚇に使おうとしていないらしい。熊をかわいい存在と見て欲しい人間なのか。
「仕事で参りました。ご主人にお届け物です」あまのじゃくな私は機械的に用件を言う。
 熊は「お待ち下さい」と発声し、私に大熊と似たレンズを向けたまま、動かなくなった。やがて水音をさせて、無数の〈洗い熊〉が寄ってきた。小熊は固まったまま。
何十頭の洗い熊が私を取り囲むと、抱きつき、脚を持ち上げ、体を倒され、拘束された。そして背囊を取られた。極めて丁寧に、腰が痛むこともなかったが、洗い熊はおそらく水中の巨大外来魚を捕獲する要領で、私を水揚げするように、運び出した。
 私は獲物であるらしかった。

 

文字数:9491

課題提出者一覧