愛の論理

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梗 概

愛の論理

私は39の年に〈モークシャ〉をした。費用は20万ドル。安くはない。しかし、やってよかった。やらなければ、人生はひどいものになっていただろう。きっかけは娘の死だ。電気自動車の充電ステーションでグローバルリアル社のドローン型遊具で遊んでいたときに、娘は遊具の誤作動で壁にたたきつけられ、私の目の前で死んだ。3歳の誕生日の前日だった。悲しみ、憎しみ、怒り、絶望、そして後悔。あと30センチずれていれば。朝、自宅で充電をしていれば。孫に会いたがっていた両親のもとに連れて行ってさえいれば。妻からの責め苦にも耐えなければならなかった。「あなたが付いてたのにどうして?」当然だ。逆の立場でも同じことを思っただろう。グローバルリアル社の事務的な対応も、私たちの怒りを増幅させた。私たち夫婦に何があったか知っているのに、以前と変わらず船上パーティーやら家族団らんの様子やらをSNSで流しつづける病院の同僚や学生時代の友人たちにまで、抑えがたい怒りが湧いた。さみしさで胸が塞がる。

夜眠れなくなり、仕事のパフォーマンスが落ちた。鬱の兆候だ。私は担当していた手術をしばらく外れることに決めた。同僚の医師に〈モークシャ〉を勧められたのはそのときだ。富裕層や企業のトップらを中心に流行っているのは知っていたが、私たちの病院でもすでに半数近い同僚が受けているらしい。「とにかく合理的になれるし、物事の効率があがるよ。何より、すごく安らかだ。瞑想とか宇宙旅行とか自己開発セミナーとか、そういうものに時間と金を使わないでも、絶対的な安定を得られるんだ」。それで私は受けた。もっと早くに受ければよかった。妻にも勧めたが、妻は拒否した。 「あの子を失った悲しみを感じないようにするなんて。私はちゃんと悲しみを引き受けたい」「君は歯を抜くとき、痛みを引き受けるために麻酔をしないのか? あの子を産むときも、無痛分娩で出産しただろ? それと同じだよ。痛みやそれがもたらすダメージを必ず受けとめなきゃいけないなんてことはないんだよ」

〈モークシャ〉はサンスクリット語の「解脱(げだつ)」という言葉から名づけられた、感情や執着をなくす技術だ。なくすといっても、ゼロにするわけではない。喜びは生きるエネルギーになるし、嫌悪や恐怖心、他者への共感なども、身を守るために必要なものだ。だからどの感情も、自分でそうと認識できるくらいには残す。それでも強い感情の波から解放されて、私は楽になる。妻は相変わらず、娘のことで苦しみ、もがいている。もともと情緒的な性格ではあったが、まるで私が手放した分を引き取るかのように、感情を増強させている。ひどい言葉を投げつけてくることもある。私は以前のように影響されたり、傷ついたりすることはない。〈モークシャ〉のおかげで、一時の感情に惑わされることなく、自分のすべきことを冷静に遂行できる。妻に寄り添い、慰め、辛抱強く話を聞く。しかし妻は、他の男とセックスし、家を出て行く。妻が、開発途上の他星に移住したという話を、私は共通の知人から聞く。

 私は淡々と仕事をこなし、整形外科医として申しぶんのないキャリアを築く。30年の歳月が流れ、いまや地球上のほとんどの成人は、〈モークシャ〉を受けている。受けていない者は少ない上に、子どものように笑ったり泣いたり、大声で喧嘩をしたりしているのですぐに分かる。大方の人間関係はおだやかに、外交は理知的に進められる。芸術や娯楽の規模は縮小し、人々の関心は生活の充実と知の構築に注がれる。年末、地球上で数世紀に一度の大規模な流星群が観測できるというので、他星からも観光客が訪れる。オーロラと流星群が併せて観測できるグリーンランドの湖のライブ映像をみていた私は、そこに妻の姿をみつける。たくさんの感情に晒されてきたことを示すように、多くの皺が刻まれた顔。観測の感想をインタビューされた妻は、美しいものをみた感動で、かがやくような表情をしている。「ああ! こんな美しい星に住んでいても、それを感じるこころがないのだったら、何もないのと同じですね、あなたがた!」燃えるような目でこちらをみている。私は手を伸ばし、その目に触れた。

文字数:1718

内容に関するアピール

「決して相容れないものを並立させよ」という今回の課題はむずかしく、そしてとても興味深いものです。私たちは既に、「決して相容れないもの」が「並立」した世界に生きています。宇宙は宇宙の理論で動き、自然は人間の都合や情愛に一片の関心を払うことなしに、そこに存在しています。同じ人間同士であってすら、私たちは相容れないまま存在し、ちがう論理のもとにちがうものを見、ときにははっきりと敵対を表明しあいながら、未解決の物事を抱えこんでいるのです。これはよく考えたら、とても孤独でおそろしい状況です。

かつて人々は、天災が起こると「自分たちがしたことの祟りだ」、不思議なことがあると「神の力だ」と考えました。幼い子どもは、誰に教えられないでも、月や動物、時には身近な無生物を擬人化して、世界を親密なものとみなします。どこの国にも、アニミズム信仰や宗教、自然に対する儀式があります。こうした宗教は、その規模に関わらず、人間から自然へのいじらしい恋文のようです。超常的なものを信じる神経のメカニズムを、心理学者のバレットは「代理検出装置」と呼びました。不条理で「相容れない」、私たちに対してあまりにも無関心な自然や世界との軋轢を緩和し、つながるために、私たちの脳はこうした機能や感情、宗教や芸術を生み出したのではないでしょうか。

自分と自然がつながっていると思うこと、他者と分かりあえていると思うこと、そうした感情は、まぼろしに過ぎないけれど、その感情こそが、本当は相容れないものとして存在している自然と人間、人間と人間をつなげるものであるはずです。この梗概では、この、人間にとっていわば癒着材である「感情」を剥奪する設定を考えました。一組の夫婦が、人生の悲しみと不条理を乗り越えるために、互いに真逆のやりかたを選ぶことで、相容れなさを際立たせます。最初は精神的に、それから物理的にも離れてしまう。どちらがよい/わるいという二項対立ではなく、あくまで同等に並立させることで、各々の孤独を描きます。そしてその上で、これを愛の物語として書きたいと思います。

文字数:865

課題提出者一覧