ゲノム・マイノリティ

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梗 概

ゲノム・マイノリティ

しばらく子供ができない俺たち夫婦は、恐れと期待を抱えて不妊治療クリニックに検査結果を聞きに行った。だが俺が”健常者”であることが分かってがっくりと肩を落とす。妻に問題がないことはすでに判明していた。ひょっとしてと期待したのが馬鹿みたいだった。

「じゃあコンドームたっぷり買っておくから」と明るく振る舞う妻。その日の行為の後、妻の友達からメッセージが入る。友達の旦那の検査結果が出て不妊症だったらしいと俺に告げる妻に俺は「そうか、うらやましいね。」と調子を合わせた。

スポーツクラブのスパで、心なしか屈みながら前を隠している中高年の男たち。その一方で堂々と前を隠さずに歩く若者たち。彼らには揃って陰毛がなく、ペニスが大きい。それは気のせいではないのだった。俺はため息をつきながら、とりわけ剛毛が濃い自分の陰部を洗った。俺のペニスは陰毛に隠れて、小さく縮こまっていた。

三十数年前、ゲノムDNAの改変による男性不妊治療が可能となった。ゲノムの改変は子孫にも受け継がれて永続する。その悪影響を危惧する慎重派が世界の多勢だったが、宇宙開発、人工知能など産業化に直結した科学技術分野で遅れをとる日本は、焦りからか異様に早くゲノム改変男性不妊治療を認可した。効果は目覚ましく、ほぼ100%の治癒率で男性に原因がある不妊は解消した。結婚している男性の5%を占める不妊に悩める男性は争って新治療を受けた。

出生当時はまったく正常に見えたゲノム改変による新生児たちが思春期を迎え、世間は騒がしくなった。陰毛がまったく生えないのである。頭髪は正常なのだが男女ともに陰毛が全くない。彼らは中高等学校で陰湿ないじめの標的となった。

ゲノム改変不妊治療は一気に下火となった。マイノリティ人権団体が声をあげた。水泳の着替えを別教室にするなど、大人たちは右往左往した。当事者の親たちは世間の好奇の目にさらされ、医療機関への集団訴訟も起こされた。俺はそんな狂騒を横目でながめていた。

大人たちの狼狽をよそに、ゲノム改変によって生まれた当人たちはいじめを陽気に受け流す傾向が高かった。彼らは社交的、楽天的な性格の子が多く、自分の肉体を自然に受け入れていた。彼らの髪の毛はまるで陰毛の代わりのように、やさしくカールしていた。体毛も少なめなので全体につるっとした印象の子が多く、やがて子役やモデルとしてデビューする子が相次いだ。彼らはNPH(ノンピュービクルヘア)と呼ばれた。

さらに成長するにつれて、ゲノム改変男児の陰茎長の平均値が日本人平均を3センチも上回っていることが週刊誌によってスッパ抜かれた。しかも男女共に平均IQが高いことまで明らかになった。ゲノム改変不妊治療は再び大人気となった。

やがてNPHの芸能人たちは次々とカミングアウトを始めた。高い知性と明るい性格、ゆったりとウェーブした髪、そして脱げば体毛も陰毛もないつるりとした肉体と、大きな性器を持つ彼ら。NPHの子孫はみなNPHとなる。今後、彼らが作る一族は子々孫々に至るまで祝福されたNPHの家系となるのだ。若者の間ではNPHへの憧れが高まっていた。

NPHの子供たちが成人を迎えるにつれ、婚活市場での彼らの人気ぶりが社会現象となってきた。特に、一時ゲノム改変不妊治療が下火となった時期に生まれた数少ない「レアNPH」の男女には人気が集中した。結婚相談所は密かにNPHの会員を優遇し、興信所は争って個人ゲノム情報を欲しがった。NPHに憧れる人々が殺到し脱毛エステ産業は大流行りとなった。

大学生の頃、俺にNPHの彼女が出来た。「剃っちゃえばわからないよね。別に特別じゃない。」と彼女は言う。それは違うと俺は思う。後から剃毛や脱毛をした性器とはまったく違う、体毛すらも薄いことによるすべすべした感触は格別だった。俺は生まれつきそうなっている女と寝たことはないから比較はできないが、少なくとも本物のNPHと偽物の区別がつかないということはない。そして、みんなNPHと寝たがる。彼らはなんと言うか、繁殖力が旺盛なのだ。おれは一年も経たないうちに彼女と別れた。NPHではない、”普通”の女の子と恋に落ちたからだった。

NPHの大学生男子には様々な合コンが持ちかけられた。学生同士の間で、いつのまにかNPHイケメン手配師ネットワークとでも呼ぶべきものが出来上がっていたのだ。保守的な政財界の大物にも娘婿にNPH男性を迎えたがる者が多かった。

行き過ぎたNPH崇拝に対し、構成議員全員が非NPHの保守党政権はついに動いた。メディア統制の第一歩として、日本で初めて映画、テレビ、ネットにおけるヘアー全面解禁が施行された。陰毛が恥ずかしいものだという意識を払拭するため、むしろ積極的に陰毛の美を賞賛する作品が作られた。篠山紀信の回顧写真展が各地で開催されたが、却って「旧人類」のイメージが強まる一方だった。

NPHの人間たちは就職、転職市場でもますます幅をきかせていた。NPHの子孫を残したいからと離婚を申し出る妻に俺は動揺する。仮に別れたとして、NPHの配偶者を改めて見つけるのは至難の技だ。すでに彼らはより上位の「階級」なのだ。そのことは妻もよくわかっていた。なにより、妻と俺は愛し合っている。

俺は苦渋の決断をする。半ば公然と取引されている闇市場で「NPH精子」を手に入れ、人工受精するのだ。だが”健常者”夫婦の人工授精は新しい法律で禁じられてる。俺は妻に黙ってパイプカット手術を受ける。マイホームの頭金を使ってローンを組み、3回分の「NPH精子」を手に入れた。

戸籍データから算出したNPH人口推計をはるかに上回る勢いで、NPH人口は増加していた。理由は明らかに「NPH精子」の闇取引だが、規制は進まない。構成議員が全員NPHのマイノリティ政党「ネオリベラル党」の急進がそれを妨げていた。圧倒的なバイタリティでネオリベラル党は勢力を拡大していった。

衆議院総選挙でネオリベラル党を首班とする野党連合は圧勝した。ネオリベラル党党首は弱冠35歳。最初期のゲノム改変不妊治療によって生まれたNPHで、いじめや偏見に毅然として立ち向かい、マイノリティ活動家の英雄として若い時から活躍してきた恐ろしく優秀で立派な人物だ。彼の運動ポスター写真は堂々とした無毛の裸身だった。日本に新たな支配階級が誕生しようとしていた。

俺は駅前のディスプレーに映る新首相になるであろう巻き毛の人物の演説を見ながら急に腹が立って来て、群衆の中で叫んだ。「俺は、陰毛が、好きだー!ツルツルチ○コ野郎は引っ込んでろー!」ドン引きする群衆の中から、一人、また一人とおじさんたちが寄って来て握手を求め、やがてシュプレヒコールになっていった。男性だけではなく、若い女性も輪に入ってきた。

俺は、人生をかけて購入し、ローンも残っているどこかの”ツルツルチ○コ野郎”の精液が入った冷凍アンプルを地面に叩きつけ、めちゃめちゃに踏みにじった。地面に染みる液体と、こぼれ落ちる俺の涙と鼻水とが混じり合う。これが革命運動「遺伝子改変でない日本人の会」立ち上げの瞬間だった。

文字数:2903

内容に関するアピール

CRISPR/Cas9等のゲノムDNAを改変する新しい技術の登場によって、精原幹細胞の改変による男性の不妊治療が実用段階に入ったそうです。

小さいニュースですが、人間が人間のDNAを改変するという未曾有の事態が現実になってきているのです。

そうして生まれる「新しい人類」が旧人類と相容れない存在に成長してしまったら何が起きるのか、人間は身内の「進化」についていけるのか、というシミュレーション小説です。二つの勢力がバランスを変えながらも、最後まで対立したまま並存していく姿を描きました。マイノリティとは何か、タブーとは何かを考えるきっかけになる作品です。

どうぞよろしくお願いいたします。

文字数:291

課題提出者一覧