背に腹を変えろ!

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梗 概

背に腹を変えろ!

六年生になった日に、学校から帰るとヤンじいちゃんが遊びに来てた。

「おお、親愛なる我が初孫エリク、また少し背が伸びたんじゃないか。けっこう、けっこう、きわめてけっこう」  ヤンじいちゃんの大きな手がボクの腹を撫でる。

「おじいちゃんのお話しを聞かせていただく前に宿題終わらせちゃいなさいよ。お話しを聞いたらお腹いっぱいになって宿題できなくなっちゃうわよ」 ママはいつだって、宿題、宿題、宿題! ヤンじいちゃんの話は腹ペコで聞くのがいちばん美味しいのに。

ヤンじいちゃんの話はどれもこれもとびっきりだ。今日は、どうしてヤンじいちゃんとその仲間が「偉大なる六年生」と呼ばれるようになったかって話だ。ボクが六年生になったら話してくれるという約束だった。

ボクは大急ぎで宿題のプリントを胃袋に入れた。今日の宿題は腹半分ってとこかな。でも、ヤンじいちゃんの話なら、満腹になった後でも平気かもしれない。いわゆる別腹っていうやつだ。

 

腹がよくなるためには、たくさん勉強すればいいのはわかっている。けれど、腹がいっぱいになるとそれ以上は勉強できなくなる。教科書を読んだり、先生の話を聞いたり、計算をしたりして、新しいことを学習すると腹がふくれる。腹のいいやつはたくさん勉強できるけど、ボクみたいにすぐに腹が下るタイプはあんまり無理はできない。せっかく勉強しても体内に最低七時間は留めておかないと知恵にはならない。何時間も勉強した後に消化不良を起こして腹が急降下したときの、ものすごくがっかりする気持ちは腹の強い奴にはきっとわからないと思う。

 

ヤンじいちゃんの話が始まった。

ヤンが六年生の時にとんでもない病が流行った。腹が弱い者だけでなく、誰かれかまわず腹を下すという恐ろしい流行病だ。学校では授業をいくらしても生徒は何一つ知恵を身につけることができなくなった。学級閉鎖も試みたが、病の流行は収束せず、やがて病は先生にも広がり、ついに学校閉鎖に踏み切った。

この病が広がれば世界の進歩は止まってしまう。そして知恵を習得できなくなった人々はやがては衰退していくだろう。そんな恐怖に人々が因われ始めた時に、ヤンは森の中の沼のことを思い出す。森へ行くことは禁じられていたが、ヤンと仲間たちは大人の目を盗んでは森で遊んでいた。

沼では、弱って這うようにやってきた動物が、じっと水辺で何かを待っていることがあった。そうした動物は沼の中からぷかりと白いものが浮いてくると最後の力をふりしぼって沼に入るのだった。そして、白い物体を食べるとたちまちに見違えるように生気を取り戻すのだ。

ヤンはあれこそが、この流行病から自分たちを救うものに違いないと考え、まだ発病していない仲間と森に入る。病に倒れる仲間を助けながらヤンたちは沼から白い物体を採取し、ついに病人に食べさせてみるが、下痢は止まらない。

 

ヤンたちは、身体の底面にある14対の脚のうち、作業をする前脚と後ろ三対の歩脚を除く10対の脚の先から消化酵素を出し、食料を脚の跗節から吸収できる低分子レベルにまで分解してから体内に取り込む、いわゆる体外消化生物だった。

ヤンは、白い物体に含まれる薬効成分が、体内に取り込まれる前に分解されることで効能をなくすのではないかと気づく。せっかく見つけた薬なのに、自分たちには体内に取り入れる術がないのか。

そして、ついにヤンにも病魔は襲いかかる。ひっきりなしの下痢。一度は理解したことが、下痢の後ではまたわからなくなってしまっている絶望感は、ヤンから生きる力を奪った。弱ったヤンは足を滑らせ沼に沈んでいく。

ヤンは沼の底で大量の白い物体を発見する。白い物体はきのこのような水中植物の傘の部分だった。熟してまさに浮き上がろうとしている傘を両手に持ち、さらにむりやり胃袋にも入れ、傘の浮力でなんとか浮き上がりヤンは助かった。そして、ヤンはすっかり下痢が治っていることに気づく。胃袋の中に入った沼の水に含まれていた微生物が、きのこの傘を分解し、胃袋壁から薬効成分が吸収されたのだ。薬効成分の吸収には微生物との共生が必要なことに気付いたヤンは、早速、かたっぱしから発症している仲間の胃袋に沼の水を入れ、そこにきのこの傘を突っ込んだ。

こうして、ヤンたちが持ち帰った沼の水ときのこの傘で病人は次々と回復していき、ヤンたちは偉大なる六年生と讃えられた。ただ、一度共生した微生物は二度と胃袋から出て行ってはくれなかった。

そんなわけで、いまでもワシの腹の中には奴らが住んでいるのさ!

文字数:1845

内容に関するアピール

栄養も知識も外から体内に取り入れ、身につけるということに変わりはないのに、栄養吸収が消化器系というかなり完成された臓器と酵素のシステムによって成り立っているのにひきかえ、知識の習得というのは曖昧で個人差が大きいなと以前から考えていました。そこで今回は、知識の習得が人間でいうところの消化器系のような部分で行われている知的生命体の世界を設定しました。勉強をするとお腹がいっぱいになる世界です。

この世界の栄養吸収は、体外消化の形をとると設定し、ヤンやエリクはシャコのような姿形を想定してあります。二足歩行はしませんが、尾の部分で立ち上がることはでき、一対の前脚が私たちの手のような働きをします。

その世界で困る病気ってなんだろうと考えると、お腹を下すことだろうなと思ったのですが、考えている内に、自然に脳内で、カルヴィーノやラファティっぽい語り口になったので、素直にそれに従いました。

この世界での百マス計算テストや、漫画の読みすぎ、教育熱心なママのおかしさなど、腹で勉強するという設定であるがゆえのおかしみを前半で織り込みながら、後半のヤンの冒険はホラ話テイストで書いていこうと思っています。

文字数:493

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ヤンの恩返し(背に腹をかえろ改題)

「よーし、今朝は百マス計算やるぞー!」
「えー」
「連続三枚だ!」
「えーー」
アレクセイ先生の言葉に教室がどよめく。
「なんでもかんでも、すぐに、えーっていうのやめなさい」

プリントが配られると、もう一度クラスが「えー」という声で満ちた。今日は三桁の計算だよ。ムリ!
百マス計算ていうのは、マス目の縦と横に十個ずつ数字が書いてあって、それを順番に二つずつ足すと、百回足し算の練習が出来て、掛けると百回掛け算の練習ができるプリントだ。もちろん引き算や割り算のこともある。速さと正確さを競うんだけど、とにかく面倒くさい。おまけに今日の数字は縦も横も三桁だ。それが三枚。こんなの無理だよ。先生は、競う相手は他人ではなくて己だとかいうけど、やっぱり、クラスで何番目になるかとか気になっちゃうし、あんまり遅かったり、間違ったりすると恥ずかしい。

ちょっとだけふっくらした柔らかな問題用紙とは別に、解答用紙も配られる。問題用紙は胃に入れて、解答は解答用紙に記入する。ボクは百マス計算プリントの味のなさが、かえって鼻について好きじゃない。下手に味をつけると飽きるからって先生は言うけど、味がなんだろうが百マス計算にもう飽き飽きであることに違いはない。
「はじめ!」
先生がそういうやいなや、隣のマリエちゃんが問題用紙を三枚重ねてバキバキ四つ折りにして口から胃袋にぐいぐい押し込んだ。げー、やめてえ、見てるだけで吐きそう。すげえよなー、腹のいい子はやることが違う。ボクなんかそんなことしたらすぐにオエオエしちゃう。

マリエちゃんもさすがに苦しいのか、上を向いたまま目を見開いている。黒目がちなマリエちゃんの目が半分くらい白目になってパタパタしてる。マリエちゃんて優しくてかわいい子なんだ。それでボクはけっこう好きなんだけど、勉強してるところを見るといつもちょっとだけ引いちゃう。すごく腹がいい子だから仕方ないんだけど、マリエちゃんの勉強の仕方って、見たことがないほど強引なんだよな。
そんな荒業のできない腹の弱いボクは一枚目の問題用紙をちぎり始めた。一枚を八個くらいにちぎって、一個ずつ胃に収めていく。それだって辛い。あんまり急ぐと咳き込んでしまうんだ。反対隣のイゴルは端っこからちまちま噛んでいる。勉強のやり方って、三年生くらいまではわりとみんないっしょなんだけど、そのうち、それぞれのスタイルになっていく。ボクはわりとオーソドックス派だ。

ボクが一枚目を全部胃に収める前に、マリエちゃんが隣で猛烈な速さで解答用紙の百マスを埋め始めた。やっぱ、すげえや。もう答えが出始めてるんだな。腹のいい子は消化も早いんだよね。
「はい、そこまで!」
先生がテストの終了を宣言した時、ボクはまだ最後の一枚には手付かずだった。もうお腹いっぱいだよ。まだ、朝テストしか終わってないというのに。
「残りは宿題だ」
教室が、また「えー」という声で満ちた。

朝テストの時間が終わると、一時間目だ。今日は国語。今日から新しいところに入るので、まずは黙読だ。国語はまあまあ得意な科目だけど、なんせ百マス計算が胃の中でもたれていて、なかなか教科書が読めない。目で追うけど胃に入って行かない。
本を読むのは好きなんだけど、いつもちょうど話が面白くなってきた頃にはお腹がいっぱいになって読み続けることができない。その点、マンガはわりとたくさん読めるから楽しい。でも、マンガを読んでるとママが「そんなもの読むスペースがあるんなら、勉強しなさい」って必ず言う。マンガは胃のスペースを無駄に使うというのがママの主張だ。けれど、パパの意見はちょっと違う。子どもの間は、なんでもいいからたくさん読んだり見たりすることが大事だって。楽しいことで胃をいっぱいにすることで、胃が大きくなって、そのうちたくさん勉強できるようになるって。
腹がよくなるためには、たくさん勉強すればいいのはわかっている。けれど、腹がいっぱいになるとそれ以上は勉強できなくなる。
教科書を読んだり、先生の話を聞いたり、計算をしたりして、新しいことを学習すると腹がふくれる。腹のいいやつはたくさん勉強できるけど、ボクみたいにすぐに腹が下るタイプはあんまり無理はできない。せっかく勉強しても体内に最低七時間は留めておかないと知恵にはならない。何時間も勉強した後に消化不良を起こして腹が急降下したときの、あのものすごくがっかりする気持ちは腹の強い奴にはきっとわからないと思う。

一日中なんだか冴えないまま終わってしまった。放課後の遊びの誘いもなんとなく気が乗らず断って帰宅した。
学校から帰るとヤンじいちゃんが遊びに来てた。
「おお、親愛なる我が初孫エリク、また少し背が伸びたんじゃないか。けっこう、けっこう、きわめてけっこう」
ヤンじいちゃんの大きな手がボクの腹を撫でる。さっきまで塞いでた気持ちが急に明るくなる。やったー、ずっと楽しみにしていた話が聞ける。六年生になったら話してくれると約束してた話があるんだ。

「ねえねえ、今日はあの話を聞かせてもらえるよね」
「あの話って、なんの話だったかな」
「おじいちゃんが前に、ボクが六年生になったら話してくれるっていった話があっったじゃない」
「えーっと、そうだったかな」
「ボク、六年生になったんだよ」
「そうか、そうか、もう六年生か。早いもんだ」
「だから、約束してた話をしてよ」
「よし、よし、話してやろう。どんな話だったかな。まあ、話してるうちにきっと思い出すだろう」
ヤンじいちゃんの話はいつもこんな感じだ。でも、始まってしまえば大丈夫。どれもこれもとびっきりの話だ。
「おじいちゃんのお話しを聞かせていただく前に宿題終わらせちゃいなさいよ。お話しを聞いたらお腹いっぱいになって宿題できなくなっちゃうわよ」
まただよ。ママはいつだって、宿題、宿題、宿題! ヤンじいちゃんの話は腹ペコで聞くのがいちばん美味しいのに。
ママはいつも、ちゃんと勉強しないとおじいちゃんみたいになるわよ、って言う。おじいちゃんの胃はちょっと小さいのよね、とも言う。ちょっとそれって失礼じゃないかなと思うけど、でも、ヤンじいちゃんがあんまりいろんなこと覚えていられないのはボクも感じている。パパは、おじいちゃんも年を取ったなというけど、それだけじゃなくて、確かに、ヤンじいちゃんの胃は少し小さいのかもしれない。大事なボクとの約束もすぐに忘れてしまうんだ。

ボクは大急ぎで宿題を胃袋に入れた。朝テストで残してしまった百マス計算プリントは途中でゲップが出るくらいうんざりだったけど、ヤンじいちゃんの話が早く聞きたくてがんばって終わらせた。宿題全部やると、腹半分って感じだった。でも、ヤンじいちゃんの話なら、満腹になった後でも平気かもしれない。いわゆる別腹っていうやつだ。

「宿題、終わった!」
「よし、よし、じゃあ、話すとするか」
ヤンじいちゃんとボクはリビングのソファに並んで座った。
「お義父さんすみません、お夕飯が用意してあるのでエリクと食べてやってください。今日は少し遅くなりますがお願いします」
ママはPTAの集まりがあるとかで出かけていった。

「よし、まずは食べるか」
「えっ、おじいちゃん、さっきは話すとするかって言ってたじゃない」
「そうだったかな。まあ、いいじゃないか。まずは食べよう」

ママの用意した夕飯をテーブルの上に広げて、ボクとヤンじいちゃんは五対の食肢を夕飯に乗せ、かき混ぜる。食肢の先から唾が出て夕飯をどろどろにしていく。唾の中には食べ物を分解する酵素というものが含まれていると習ったばかりだ。食べ物はそのままでは大きすぎて体内に取り込めないので、酵素で小さな小さな物質にまで分解してから、食肢の先の跗節(ふせつ)という場所から吸収する。吸収した栄養は体液で末端の細胞まで届けられる。

「おまえのママは料理がうまいなあ。みるみる分解されていくなあ」
「うん、パパもいつもママを料理上手だって誉めてるよ」
「死んだおばあちゃんの料理はなかなか吸収できなくてなあ、食事に時間がかかって困ったもんだった」
「うん、そのこともパパがよく話してる。朝ご飯を吸収してると学校に遅れそうになって困ったって」

そんなことを話している間にも、十本の食肢は絶え間なく動いて夕飯を分解していく。

「ママは包丁の使い方が上手いんだって、パパが言ってたよ」
「なるほど、切り方で消化の時間が変わるってわけだな」
「そうなんだよ。だから、ママはテストも同じだって言うんだ」

ママは、ボクがテストを胃にいれる時の分け方が悪いんじゃないかと思っていて、自分が野菜を切ったり魚を切ったりするときの包丁の入れ方をいつも教えようとした。
漢字テストは千切りみたいにするといいというのがママの持論だ。それで、テスト用紙を千切りみたいにちぎる練習を毎日させられたこともあるのだけれど、上手にちぎれるようになったからといって、特に漢字テストの点数が上がったりはしなかった。それでも、ママはめげることなく、今は、百マス計算用紙のちぎり方を研究してる。
以前は「お料理の本を出すのがママの夢なの」と言っていたけど、最近じゃ、テストのちぎり方の本を出すほうが売れると思ってるみたいで、タイトルももう考えてあるそうだ。『みるみる点数が上がる、魔法のちぎり方』。そんなの絶対売れないと思うけど、ママはけっこう本気だ。

「ねえ、ご飯も食べたし、そろそろお話ししてよ」
「そうだったな。なんの話をするかな」
「だからあ、おじいちゃんが六年生のときの話!」
「うん、よしよし。六年生の時の話だったな。そうそう、あの時は大ピンチだった」

やっとヤンじいちゃんの話が始まった。

 

「先生、プリントをもう一枚ください」
今日の欠席は三人だった。昨日より一人増えた。ヤンはもう三日も休んでいる近所の友だちの家に、毎日授業のノートやお知らせのプリントを届けていた。今日もそうしようと、先生に友だちに渡すプリントを余計にもらおうとしたのだ。
「ヤン、しばらくはお休みの人のところに寄らなくてもいいことになったの」
「どうしてですか」
先生はとても困ったような顔をした。
「みなさんも知っているように、最近、お休みのお友だちが増えています。六年生はまだ少ないのですが、他の学年では、もっとたくさんお休みの人がいるクラスもあります。症状はみんな同じです。お腹が痛くなってひどく下してしまうのです」
教室がざわざわとした。休みが多いのは知っていたが、みんなお腹が痛くなっているのだと先生からあらためて聞かされるとショックだった。ひどい下痢をしてしまうのなら学校に来ても仕方ない。いくら勉強してもなにも身にはつかないのだ。あまりひどいと記憶だってあやふやになる。
「まだ原因はわかっていません。効果のある薬もいまのところありません。たぶんうつる病気なのだろうとお医者様はおっしゃっています。だから、今日から、休んでいる人のお家にはプリントを届けたり、お見舞いに行くことはやめることになりました」
「えー」
「先生」
クラスでいちばん腹のいいマリカちゃんが声を出した。
「先生、学校を休んでいる人は……あのう……」言葉が続かなかった。ヤンにはマリカちゃんが何を言いたいのかすぐにわかった。病気でなくてもお腹は時々痛くなることはあるし、下ることもあるのだ。でも、お腹が痛くなるのは、あまり腹のよくない子が無理して勉強した時に起こることがほとんどだった。それをマリカちゃんは聞きたいのだ。でもそれを聞くってまるで「休んでいる人はバカな人が多いのですか」と聞くのと同じことになって、ちょっとそれは口にしづらい。それでマリカちゃんは口ごもってしまったのだ。

ヤンは大好きなマリカちゃんのために怒られるのを覚悟で自分が先生に尋ねることにした。

「先生、休んでる人って、腹があまり良くない人が多いんですか?」
いつもだったら先生はこんな質問は休んでいる人に失礼だと怒ったはずだ。でも、困ったような顔のまま答えた。
「成績には関係ありません。腹のよいお友だちもみんなとても苦しんでいます」
マリカちゃんが不安そうな表情で、歩脚をもぞもぞさせているのを見て、ちょくちょくお腹を壊すヤンは、もしかしたらマリカちゃんはお腹を下したことなんかないのかもしれないなと思った。
翌日もヤンのクラスの欠席は三人のままだった。けれども、四年生と二年生では学級閉鎖のクラスが出た。日を追うごとに三年生と一年生でも学級閉鎖になった。一年生は学級閉鎖になった翌々日には学年閉鎖になってしまった。
最初は、うちのクラスも早く学級閉鎖にならないかな、そしたら森に遊びに行こうなどと、ヤンも仲間のテオやドルと話していたが、仲間の中でいちばん勉強のよくできるミルが欠席するようになってからは、そんな軽口をたたく気もしなくなった。

「よりによってミルが腹が痛くなるなんてかわいそうだな」
ドルがぽつりとそうつぶやいた。テオがうなずく。
腹が治らない限り、どんなに勉強したってミルはもう知識を増やすことも何かを覚えることもできない。ヤンは勉強が好きではないし、腹もそんなにいいわけではなかったが、それでも、読んだ本を覚えていられなくなったり、宇宙のことを考えることができなくなるのはいやだった。腹のいいミルがどんな気持ちでいるか想像すると学級閉鎖になればいいのにと思っていた自分がいたたまれなかった。
「ミルが治ったら、またみんなで森に遊びに行きたいな」
ヤンの言葉に二人が頭をこくんと動かした。

昔の城塞の名残だという崩れた石垣の向こうに広がる森に、子どもたちだけで遊びに行くのは危ないからと禁止されていた。けれどもヤンたちは時々こっそり森で遊んでいた。鬱蒼と木が茂っているのは最初だけで、そこを抜けると白い岩がごつごつとある草原に出た。白い岩にはたまに、貝や魚の化石が埋まっていた。広っぱの草の下や岩かげにはいろいろな虫や鳥が巣を作っていた。ヤンたちはよくここで、化石を探したり珍しい虫を捕まえて遊んだ。ここから代わり映えのしない風景の中をずっと歩いていくと、いつのまにかゆるやかに下り坂になり、最後にもう一度小高い丘を登るとその向こうに沼が見下ろせる。沼の周りにはまばらに木が生えており、向こう側にはまた鬱蒼とした森が広がっていた。遠いのでめったに沼までは行かなかったが、朝から遊びにいける日には沼で釣りをしてみたこともある。魚はかからなかった。その代わり、沼のそばでじっと身を隠していると時々四本足の動物たちが水を飲みにやってくるのを見ることができた。野生のダートが小さな子どもを連れてやってきたこともあった。ダートは抱っこをするのにちょうどいい大きさで、ペットとしても人気があって、飼っている人も多かったが、野生のダートを見たのはその時が初めてだった。

森の中の動物にかぎらず、四本足の動物たちは、体外消化するヤンたちとは違って、口から水やエサの草を食べ、それを身体の中で分解、消化して、栄養を吸収する体内消化動物だった。歩脚しかなく、ヤンたちのように触肢を持っていないのだから、あたりまえといえばあたりまえのことだったが、草をそのまま食べて栄養が吸収出来るというのがなんとも不思議だった。身体の中の器官の大半を栄養の消化吸収に使う動物たちは、知能を発達させるための器官を進化させる余地はなかったようで、あまり賢くはない。ペットや家畜として飼っていれば自分の名前くらいは覚えたが、それ以上の学習能力はなかった。

でも、もしかしてこのまま病気が広がり続け、治らないとしたら、ヤンたちの子孫も三代も経てばやがては動物のようになってしまうのかもしれない。ヤンたち子どもにも、この病気の底知れぬ恐ろしさは理解できた。死ぬことはないかもしれないが、技術や科学を発達させることはできなくなる。

学級閉鎖の効果はなく、確実に欠席者の人数は増えていった。校長はついに期限のない学校閉鎖を決意した。そして、まだこの病気の発生していない近隣の町の学校に状況を知らせた。
当然だが町は孤立した。そして、校長は激しい非難を浴びた。

 

「どうして校長先生はそんなことしちゃったの?」たまりかねてボクはおじいちゃんに尋ねた。
「校長先生は、この病気を絶対に町の外へ出してはいけないと考えたんだよ。町を隔離してしまいたかったんだ。例え自分たちが苦しむことになっても。立派な先生だった」

 

学校閉鎖が始まって一週間、収束するどころか、小さな子どもたちは次々と病気にかかっていった。
外に遊びに行くこともできず、ヒマを持て余したヤンが一人で留守番をしていると、部屋の窓の外からヤンを呼ぶ声がした。ミルの声だとすぐにわかった。慌てて窓を開けようとすると「開けちゃダメ。うつると困るから。そのまま話を聞いて」とミルが制した。

「ミル、大丈夫? 少しはよくなった?」
「全然ダメだよ。治らない。ヤンは元気?」
「うん、オレは大丈夫」
「お腹がいつ痛くなるか分からないしあまり長く話していられない。今思いついてることも、下ってしまったら忘れるかもしれないから、ボクの話を聞いて欲しんだ。一度しか話す時間がないかもしれない」
「うん、わかった」

ミルの声には力はなかったけど、でも、いつもの冷静さを失っていないことはヤンにも伝わってきた。

「ドルのお誕生日に、みんなで森に遊びに行ったときのこと覚えてる?」
「うん、大きな貝の化石を見つけてプレゼントした時だね」
「そうそう、あの時。沼のそばでいつもみたいに隠れて待っていたら、子どもをくわえたお母さんダートが来ただろう」
「うん、きたきた、子どもはもう死んでるのかもしれないって話したよね、あんまりぐったりして動かなかったから」
「あの時のこと思い出して欲しんだ。お母さんダートは子どもを草の上に寝かせて、沼に入って行ったよね。それで、沼に浮いてきた白い何かを取ってきて口移しに子どもに食べさせた。そしたら、子どもがぼくらが見ている前であっという間に元気になって驚いたね」
「うん、うん、そうだった」
「実は、もっと大きな動物がよろよろとやってきて、やっぱり沼の中から浮いてきた白いものを食べて元気になったのもボクは見たことがあるんだ。その時はあまり気にしてもなかったからみんなには話してないけど」
「そうなんだ」

ヤンはミルの言いたいことがだんだんわかってきた。

「ヤン、ボクはあの沼に浮いてくる白い何かが腹の病気にも効くかもしれないと思ってる。効かないかもしれないけど、でも試してみる価値はあると思うんだ」
「わかった、ミル、オレにまかせてくれ。取ってくるよ。だからミルは家で待ってて」
「ありがとう……なんだかね、こんなにずっと腹の具合が悪いと、もう生きていても仕方ないような気がしてくるんだ」
「ミル、そんなこと言わないで。大丈夫だよ、ミル。絶対取ってくる。テオとドルにもすぐに話してみるよ」
「ありがとう、ヤン。また腹が痛くなってきた。帰るよ。ヤンもみんなも気をつけてね」
「ミル、元気になったら、次はいっしょに森に行こう」
「うん、行きたい。でも、腹が下ったら、こうしてヤンと約束したことも忘れてしまうかもしれないんだ」
ミル、泣いているのか。ヤンは思わず窓を開けようとした。
「ダメだ、窓を開けちゃダメ!」
ヤンは手を止めた。何か言うと声が震えそうだった。しばらく我慢してから窓を開けた。ミルは思ったより遠くにいた。急いでヤンの家を離れたのかもしれない。
「ミルー、待っててねー」
ミルが振り返って手を上げた。ヤンも手を振り返した。

話を聞いて、すぐにでも出発しようというテオを、まあまあ落ち着けとなだめ、家に一度帰って準備をして翌朝早くに家を出ることにした。テオはヤンの家へ、ヤンはドルの家へ、ドルはテオの家へ行くと家族には話した。まあ、バレてもその時はその時のことだ。もしかしたら、今夜は森へ泊まることになるかもしれない。

早く着いたヤンが城塞の石垣に座ってテオとドルを待っていると、マリカちゃんがやってきた。
「私も行く」
「どこへ?」
「沼へ行くんでしょ。とぼけないで、ミルに聞いたんだから」
「森へは子どもだけで行っちゃいけないんだよ」
「知ってる。でも、今はそんなこと言ってられない。私も沼へ行ってミルのために薬を探す」
「女は連れていけないよ」
「なによそれ。かっこつけちゃって。腹のよくない男ばかりで行くより腹のいい私もいっしょに行くほうがいいに決まってるじゃない。ミルを治してあげたいの。いっしょに行くのがいやなんだったら、私は一人でも行くから」

そうか、マリカちゃんはミルのこと好きだったんだ。ヤンは失恋した上に、大好きなマリカちゃんに「おまえはバカだ」と言われたようなものだった。こんなときだけど、少々おちこむ。
そこに、テオとドルがやってきた。
「なんで女なんか誘ったんだよ」
勘違いしたテオが口をとがらす。
「ヤンに誘われたんじゃないの。昨日、ミルのお家へいって、沼の話を聞いたの、窓越しにだけど」
ヤンたちに会えなければ、一人でも森に入って沼まで行くつもりだったと話すマリカにテオもドルもすっかり感心している。
「早く行きましょ!」

歩き始めたマリカの後を三人も追うように森へと入っていった。森の中には細い道が続いているので迷いようはないが、朝の光はまだ弱く、いつもよりもっと暗く感じた。
しばらくして、マリカちゃんを先頭にして歩いていることに気づき、ヤンはさりげなく歩みを速めてマリカちゃんの前に出た。
「この道、歩き慣れているから」
誰に言うともなく声に出した。

木がまばらになり、明るくなってきたなと思ったら、突然目の前に見渡すかぎりの草原が姿を現す。太陽がもうかなり高くなっている。いつもは遊びながら歩いているので気にならなかったが、森も草原も急いで歩こうと思うとあまりに広い。四人は三対の歩脚を黙々と前へ進めた。
太陽が頭の真上にきた頃に、やっと沼が見える丘の上に着いたので、四人は持ってきた昼ごはんを広げて食肢を差し込んだ。
「森のこっちにはこんな場所があったんだね」
「うん、オレらも最初に来た時は驚いたよ」
「カルスト地形だよね」
「へー、そうなんだ。マリカちゃんってほんといろんなこと知ってるよね」

マリカちゃんはヤンの言葉には答えず、テオを見ている。
「テオ、どうかした?」
テオが手脚で歩脚を抱えるように丸まって震えていた。
「テオ」
ドルがそばに寄る。
「寄るな!」
「テオ、どうした」
「腹が痛いんだ。とうとう病気になったみたいだ。近寄ったらみんなにうつっちゃうよ」
半べそだ。
「テオ、まだわからないよ。腹が弱い人がよくなるいつもの腹痛かもしれないじゃない」
マリカちゃんが、また天然っぷりを発揮した。テオが恨みがましげにマリカちゃんを見上げる。
「いくら腹の弱いボクだって勉強もしてないのに腹痛起こしたりしないよ」
「あ、それもそうか」
マリカちゃんはテオに手を差し伸ばした。テオはぽかんとマリカちゃんの顔を見上げている。
「さ、歩けるうちに沼まで行こう」
「いっしょにいたらみんなにもうつっちゃうよ」
「大丈夫。沼に行って薬を絶対探すんだから、うつっても大丈夫」
マリカちゃんは自信に満ちていた。

四人はまた歩き始めた。さすがにテオはみんなの後ろを少し離れて歩いていた。沼のそばまでいくとテオはもう座り込んでしまった。どうやら本当に発病したらしかった。腹を抱えてうずくまっている。
「テオ、待ってろ、絶対助けてやるから」
そうは言ったものの、ヤンもただ白い何かが沼から浮いてくるのを待つことしかできなかった。
「浮いてきた!」
沼の真ん中ばかりに気を取られていたが、以外に岸から近くにそれはぷっかりと浮いてきた。マリカちゃんは赤いリュックの横につけてあった棒を引き抜くと、するすると伸ばし、その先に小さな丸いものを付けた。ビュンっと棒を振ると、先の丸い部分がパッと広がり網になった。
「パパの虫取り網なの、便利でしょ」
しかし、もう少しで網が届かない。ヤンが網を持ち、後の二人がヤンが沼に落ちないように手を繋いだ。網の先で少しずつ少しずつ引き寄せて、ついに網の中に白いそれを入れた。
「ゆっくり引き寄せて」
手元に引き寄せるとそれはひどく軽いものだった。遠目には柔らかそうに見えたが、細かい繊維が絡まってできていて、ゴワゴワした手触りだった。
「これ、なんなんだろう。食べられるのかな」
ドルが不安そうにのぞきこむ。
「テオに食べさせてみましょう」
マリカちゃんにはためらいがない。でも、もしマリカちゃんがいなかったら、オレらだけじゃ決心がつかなかったかもしれない。ヤンはマリカちゃんがいっしょに来てくれたことに少し感謝した。

横たわっているテオの食肢に白いかたまりをつかませる。テオは二本の手脚でそれを持ち、食肢を差し込んで懸命に消化しようとしている。いつも食べているものより時間がかかっているがそれでも、少しづつ絡まった繊維質の部分が溶け始め消化されていく。半分ほど食べたところでテオがもう疲れたと訴え始めた。それをなだめながら、もう少し、もう少しと食べさせる。
死んだようにぐったりしていたダートの子どもが食べてすぐに走りだしたのを思い出す。きっとテオもすぐに良くなるはずだ。
「テオ、腹はどう?」
「残念だけど、治ってない。むしろさっきより痛くなってる」
テオは食べるのをやめてまた横たわってしまった。
「効かないなんて。ミルは絶対にこれが効くはずだって言ったのに。どうして効かないのよ」
マリカちゃんが低い声で唸った。
ヤンは少し前からかすかに感じていた腹の中の違和感が、徐々にはっきりとした痛みに変わってきていることをもうごまかし切れなくなっていた。
「ダートには効いても、オレたちには効かないんだよ」
「なにか方法があるはずよ」

体内消化する四本足の動物には効くのに、体外消化の私たちには効かないってことは、たぶん、体外で分解している間に、薬として働く部分を除外しているか、分解しすぎているんじゃないかな。マリカちゃんの説明には説得力があった。
「でも、それじゃあ、オレたちは、せっかく見つけた薬なのに、身体に取り入れることができないってことになるじゃないか」
こうしている間にも、ヤンの腹痛は耐え難いものになっていっていた。無理に勉強した時に起きる腹痛とは全く違う、鋭く刺し込んでくるような痛みだった。ミルはこんな痛みに耐えながら、薬のことを伝えるためにヤンに会いに来たのだと思うと、ミルに薬を届けてやれないことが悔しくてならなかった。
気づくとマリカちゃんがじっとこちらを見つめていた。
「ヤン……」
「うん、オレもだめみたいだ。いっしょにいるわけにはいかないから、テオといっしょにここにいる。マリカちゃんはドルといっしょに家に帰るんだ」
「だめだよ、そんなの」
ドルが割って入った。
「みんなでいっしょに帰ろうよ」

どうしていいのか誰にもわからないまま、マリカちゃんの、とにかくもう一つか二つ白い物体を採取して持って帰れば大人がなんとかしてくれるかもしれないという意見に従い、ドルとマリカちゃんで採取を続けることになった。ヤンとテオはなすすべもなく二人から離れた場所で腹の痛みに耐えるしかなかった。
身体を丸めてうずくまっていたヤンは、テオが立ち上がる気配に目を開けた。テオがふらふらと歩き始めている。腹が下ってしまったのだろうとそのまま見ていると、足を滑らせてしまったのかテオが沼に向かっての斜面を転がり始めた。
「テオ!」
ヤンは慌ててテオを追いかけ、あと少しで沼に落ちるというところで追いついたが、すでに勢いのついたテオを止める力はヤンにも残っておらず、二人で沼に落ちてしまった。
テオは沈んでいく。ヤンは一度水面に上がって、もう一度テオを助けるために潜った。沼の水は思ったよりも透明度が高く、沈んでいくテオが見えた。テオを追いかけヤンも沼の底へと向かう。テオは気を失っているのか手足も動かさず沈んでいく。ヤンは食肢の根本の外殻をしっかり閉めて、その中で酸素を循環させるが、それでもそんなに長くは潜ってはいられない。テオも外殻をちゃんと閉めているだろうか。

沼の底には一面にたくさんの白い傘が生えていた。小さなものは水底に沈んでいるが、成長したものは茎を伸ばして水中に浮き上がっている。まるで紐でつながれた風船のようだった。そうか、あの白い物体は水草の傘の部分だったのか。成長して開いていくと軽くなって浮かぶようになるんだな。
水底に沈んだテオに追いつき引き上げようとするが、ぐったりしているテオは重く、ヤン一人の力ではどうにもならない。早くしないと二人とも溺れてしまう。もうここで死んでしまうのかもしれない。テオを残して自分だけ戻るべきなのだろうか。腹の痛みがヤンから力も気力も奪っていく。
だめだ、だめだ、ここで死んだりするわけにはいかない。自分もテオも助かるんだ。とにかくなんとかして浮上しなくては。浮上……ヤンは成長して水中に浮き上がっている傘を茎ごと抜いてはテオの脚や食肢にくくりつけた。テオの胃にも傘を詰め込む。テオの身体がほんのすこし浮き上がった。
ヤンは自分も傘のついた茎を片手に何本も束ねて持ち、胃の中にも詰め込み、残った片手でテオの手をつかみ、歩脚を懸命に動かし水面へ向かった。傘のおかげで浮力がついたとはいえ、水面は遠くテオは重かった。もう、循環させようにも体内の酸素もほとんど尽きている。息苦しい。テオも苦しいだろう。がんばれテオ。もう少しだ。オレが助けてやる。

マリカちゃんの呼ぶ声で気がつくと草の上に寝かされていた。マリカちゃんとドルが心配そうにのぞきこんでいた。横をみると、まだ気がついていないテオが横たわっていた。
「よかったあ、死んじゃったかと思ったじゃないの」といってマリカちゃんが泣き出した。
「大丈夫だよ。それに、どこも痛くない」
「よかった。ほんとによかった」そう言いながら、またマリカちゃんが泣いた。
「ちがうんだよ、どこも痛くないんだ。腹が痛くないんだ。治ってるんだよ」
「えっ」
ヤンの腹はもう少しも痛くなかった。テオを慌てて起こす。
「テオ、腹はどうだ」
事情がよくわからずぼんやりしているテオに何度も尋ねる。
「腹が、治ってないか? どうなんだよ」
はっとしたようにテオの顔が明るくなる。
「痛くないよ。痛くないよ。もう全然痛くないよ」

 

気がつくと、ボクはヤンじいちゃんの身体にぴったりと自分の身体をくっつけて話に聞き入っていた。手を固く握りしめている。
「やっぱり、その白い傘が薬だったんだね」
「そうなんだ、ミルの言ったとおりだったんだよ」
「よかったあ、ヤンじいちゃんが死んじゃったらどうしようかと、すごく心配しちゃったよ」
ヤンじいちゃんが吹き出した。
「死んでたら、ここでエリクにこの話をできなかっただろう」
「あ、そうか」
ボクは笑い転げた。

この後、ヤンじいちゃんと三人は浮き上がるために使った水草の傘を持って町に戻った。その時に、マリカちゃんが、胃の中で草が消化されたり吸収されるはずはないから、絶対なにか沼に秘密があるはずだといって沼の水も持って帰った。これが、町に帰ってから大正解だったことがわかる。マリカちゃん本人だって驚いたらしい。
マリカちゃんってすごく腹のいい子だったんだな。もっと驚いたことに、ヤンじいちゃんと話しているうちに、マリカちゃんは、マリエちゃんのおばあちゃんだったこともわかった。マリエちゃんの腹の良さは、おばあちゃん譲りだったんだ。
後になってだんだんわかったことだが、やはりボクたちの身体ではこの水草の傘の薬になる成分は吸収できなかったんだそうだ。でも、沼の水には微生物が住んでいて、胃の中にこの微生物と傘を入れると、微生物がこの傘を食べて、薬になる成分の含まれた分泌物を出すことがわかった。その分泌物が胃壁から吸収されて病気を治したようだ。
四本足の動物たちは、消化器官の中にけっこうこうした微生物を飼っていて、だから草とか葉っぱとかも消化されるんだって。こういうのを消化共生っていうらしい。
ついでに言うと、ボクたちが、学校で消化のことをむやみと詳しく習うようになったのは、この病気が流行ってからなんだって。

「さーて、これで話はおしまいだ。でも、この話にはもう少しだけ続きがある」
「話して、話して!」
ボクはかなりお腹いっぱいになっていたけど、ヤンじいちゃんの話はいくらでも聞きたかった。
「ママは、おじいちゃんの胃は小さいって言ってるだろう」
おじちゃん、知ってたんだ。ボクは申し訳ない気持ちでいっぱいになった。ママも失礼だけど、ボクも正直なところ、おじいちゃんの胃は少し小さいんじゃないかと思うことがあった。
「ごめんなさい」
「いいんだよ。それは本当なんだ。胃の中に住みついた微生物は、二度と出て行ってはくれなかったんだよ。しかも、意外と増えて大家族になったんだ。だから、そのぶんだけ、胃が普通の人より狭い。ほとんどの人は病気が治ると胃洗浄をして微生物を胃から追い出したんだ。だけど、おじいちゃんは命の恩人に出て行けとは言えなかったんだ、当然だろ?」
「今も?」
「もちろん! 今でも、腹の中には奴らが住んでいるのさ!」

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