渇きと願い

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梗 概

渇きと願い

 この惑星にも終末のときが近づいていた。
 星の終わりの大枯渇期――世界が渇き、その深い青色からは彩りが失われ、やがて黒く変色して枯れていく。そんな光景を何度も見届けながら、これまでいくつもの惑星への移転や拡散を繰り返し、その種族は永らえてきた。
 マヨールは移転先の惑星の環境調整を行う技師として働いていた。調整技師は《種蒔き》と揶揄されある種の賤業とみなされていたが、移転準備のための重要な仕事であり、また、別の世界を調査しながら理想的な場所へと作り変えていく作業にマヨールはささやかな楽しみを見出していた。
 別の惑星に送り込まれた「種」は、一定の条件下で内部のシステムを発動させる。システムによって発生した「泡」は、周囲の物質を融かしながら適切な環境へと改善していく。また泡と同時に発生する「波」は、そのゆらぎであらゆるものに触れながら惑星の情報や記憶を収集していく。
 マヨールは波によって集められた情報を分析して実地観測用の生体サンプルを作成し、移住先で生活する際のシミュレートや環境改善のサポートを行っていた。虫のような小さなものから、鼠や鳥、魚、大型獣、さまざまなサンプルを作成するなかで、その惑星で「人間」と呼ばれている生物だけがうまく再現できず、マヨールは悩み続けていた。
 ようやく小さな人間のサンプルを完成させたマヨールだったが、その個体はコントロールに従わず、自ら意思を宿して「シタル」と名乗りマヨールに呼びかけてきた。勝手な行動をとろうとするサンプルに戸惑いつつも、好奇心からマヨールはシタルと交流をもつことにする。マヨールの目的を知ったシタルは、いますぐに「侵食」を止めてほしいと訴えるが、その意思も権限ももたないマヨールにはシタルの言葉は届かない。シタルの行動を敵対的であると判断し、危険を感じたマヨールは、その存在を消去するためにシタルをシステムから切り離してしまうのだった。

文字数:800

内容に関するアピール

 テーマは「種の保存という目的のために生きる」です。

 二人の価値観を対比させることで、テーマのもつ意味やその強度について問うてみたいと考えています。
 マヨールたちを、情報を蓄積して膨大なアーカイブを作成・保管し続けることを目的とした管理者やアーキビストのような存在として描き、移転先の環境を「改善」しながら、そこにあった情報や記憶を収集していくということを、善悪の判断を差し挟まない常識的・本能的な行動とします。それはシタル側の世界にとっては侵略行為のように映り、何とかして抗わなければならない状況となるため、シタルの訴える内容もまたテーマとリンクする形になります。
 主にマヨール側の視点から描いていく予定ですが、今回のテーマの片面をシタルに訴えさせることで、連作として以降の展開を膨らませたいと思います。その他、テラフォーミングやオーバーロードもの的な雰囲気を入れて少しでもSFっぽさが出せれば。

 

文字数:399

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渇きと願い

 

  0

 

「ねえマヨール、あなたの本当の願いは何なの?」と、その小さな《人間》の少女は言った。
 その問いかけには答えず、少女を前腕の第二関節部に乗せたまま、マヨールは光の薄れた深く暗い色をした世界を眺めた。その色は彼女たちの世界では「青」という名で呼ばれているのだと、マヨールは少女から教えられた。
 少女の暮らしていた世界には、青のほかにも、赤、緑、黄、白、黒などたくさんの色があるのだということを、マヨールも収集した情報を分析していく過程で把握してはいたのだが、情報として送られてくる映像のもつ色はマヨールの目にはすべて「青」にしか見えなかった。だから、少女が「この世界の色は青だ」と教えてくれるまで、マヨールは自分の目に映っているのがいったい何色なのか、知ることができなかった。
 光の加減によって深みや鮮やかさを変化させていく青を、少女たちの世界の言葉を使って、マヨールは「朝の青」「夜の青」などと呼んで区別するようになっていた。そんな情報をマヨールたちの仕事を統括している思考体のミュルカに伝えると「マヨール、担当している世界の文化に関心をもつことは大切だが、技師がそれに影響を受けるのは適切ではない」と諭されてしまい、ほかの技師たちからも「だからマヨールは二流なのだ」という評価を下されてしまった。
 技師に一流も二流もない、という事実を確認するため、マヨールはこれまでに収集されてきたあらゆる情報が蓄積されている記憶媒体アアプに意識を接続(アクセス)させて権限の及ぶ範囲で「調整技師」の項目から情報を引き出していった。
 この世界で生まれ、まだそれほど長い年月を経ていない、下位の活動体であるマヨールには、第一層までの情報へアクセスする権限しか与えられていなかった。早く成果をあげてより深い層へとアクセスできる権利を得るために、マヨールは与えられた仕事をこなしていた。
 調整技師の仕事は、収集した情報が飽和して、現在の世界が終わりを迎える前に、次の移転先としてふさわしい場所を選定し、その環境を自分たちにとって住みやすいものへと調整して最適化することだった。
 環境調整の開始までにはいくつかの段階があり、はじめに思考体の一つである設計技師が環境調整用のマシンを設計し、その設計図をもとに上位の活動体である構築技師が実際に環境改善プログラムの構築とマシンの製造を行う。
 そうして完成したマシンは、調整技師によってさまざまな時空間に向けて射出されることになるが、飛ばされたマシンのうち移転先としてふさわしい条件に適った場所へと到達できるものはほんの一部にすぎなかった。
 調整技師は射出したマシンの行方を見守りながら、一つでも多くのマシンが適切な場所にたどり着けるよう進路の調整を行う。マシンがある地点に到達したら、今度はマシンが起動条件を満たすまで、しばらく待つことになる。そして無事にマシンが起動すれば、そこからいよいよ調整技師の仕事は本格的にスタートするのだ。
 マシンが起動するための場所を見つけだして、環境調整のためにつねに世話をし続けることになる調整技師は《種蒔き》と呼ばれ、移転にかかわる技師のなかでもその作業には多大な労力と複雑な身体機能が必要とされた。それはいわば川下の仕事であり、思考以外のさまざまな「身体的」作業を伴うという理由から、一種の賤業とみなされていた。
 マヨールたち調整技師は、そうした複雑な作業を行うための活動体から解放され、よりシンプルな構造をもつ思考体へ、そしてさらに純粋な存在である情報体となって、いずれはすべての《アアプ》のなかを何不自由なく自在に動き回ることができるようになることを目的としていた。
 マヨールに願望というものがあるとすれば、それが唯一の「願い」だった。

 

  1

 

 この世界にも終わりのときが近づいていた。
 あらゆる情報を吸い尽くされた世界の寿命を知らせる大枯渇期が、とうとうここ、ファルウでもはじまりつつあった。
 マヨールが歩みを進めるために右の前足を上げると、足の裏に貼り付いていた微細な砂粒状の《クラアプ》が音もなく剥がれ落ちていった。
 地表近くを濃密に覆って世界の湿度を保っていた霧は、《クラアプ》が情報と結びつく際に湿度を奪われていき、すでにだいぶ薄れはじめており、ほんのすこし移動するだけでも体表の渇きや息苦しさを覚えるほどになっていた。ファルウのあらゆる場所に積み重なるように林立している方形の記憶媒体アアプ、その表面にも乾燥のために徐々に亀裂が走りはじめていた。
 それでもまだもうしばらくはこの世界の寿命は尽きないだろうと考えられていたし、すでに環境調整が完了して移転作業が開始されている世界や、間もなく調整を終える予定の世界もいくつか準備されていた。
 マヨールはファルウが終わりのときを迎えるまでに、担当している世界、リィキウと呼ばれているその場所の環境調整を完了させることを目的として、仕事をすすめていた。ファルウでの仕事をきっちりと成し遂げて、成果をあげることで、移転先となるリィキウでは存在の階層を一段でも上へとシフトさせ、そこでは調整技師としてではなく、より高度な思考体として、さらに次の環境が整うのをゆっくりと待つ側に回りたいものだと考えていた。それはマヨールの個的な欲求というよりも、種の遺伝子に刻み込まれている、より根源的、本能的な願望だった。
 まだ世界に濃密な霧が充満していたころは、それを思い切り吸い込めば、霧のなかに含まれている《ヴェフト》と呼ばれる保湿成分が全身に満ち溢れていって、活動のためのエネルギーを得ることができたが、霧が薄れてしまった昨今では、容器のなかに集めた霧を《クラアプ》と混合して思い切り圧縮させた《チフ》と呼ばれる小さな薄い板状の固形物を摂取して栄養を補給する必要があった。
《クラアプ》は、この世界のあらゆるものを構成している微細な粒子であり、非常に情報に馴染みやすい性質を具えていた。《クラアプ》は一定以上の湿度を保った環境において情報を表面に吸着させて結合していく。そのもっとも純粋な結合体は、世界の根幹をなす記憶媒体の《アアプ》であるが、マヨールたちの操っている活動体や、生活を営んでいる空間に存在しているあらゆる物体は《クラアプ》を主成分とし、《ヴェフト》をエネルギー源として構成されていた。
 マヨールたちが活動体として、環境調整中の移転予定先から送られてくる大量の情報を受け取り、処理し続けていくためには、つねに《クラアプ》と《ヴェフト》による栄養補給が必要だった。
 活動体から解放されて、より自由な存在である思考体や情報体になることができれば、《チフ》からエネルギーを得る必要もなくなるのだ、と考えながら、マヨールは配給された《チフ》を一枚、前腕の先端の触指でつまみとって、そっと摂取した。

 

  2

 

 設計技師のエリクシャと構築技師のピナーによって開発されたマシンは球状の解析被膜を採用したもっともスタンダードな構造のもので、外圧に強いという球の性質を活かして、さまざまな環境で使用されていた。
 微小な無数の泡状に圧縮されてマシンに詰め込まれた解析被膜は、マシンの起動と同時に周囲の環境に応じた速度で展開していく。被膜は触れたものを包み融かしながら、それを最小単位まで分解し、その構成要素を解析していく。そして解析の結果をもとにそれらを《クラアプ》へと変換し、情報の器となる《アアプ》を形作る。外枠のできあがった《アアプ》は内部にある空間を埋めるように、世界の情報を収集していく。
泡状の被膜は広がる際にパッと弾けながら《ヴェフト》を含む霧を発生させ、さらに弾けたときの衝撃は複雑な振幅をもった「波」となって周囲へと広がっていく。波は触れた情報の輪郭をなぞるように波形を変化させて、その情報の形状を記憶していく。「波」は時間をゆらぐT波と空間をゆらぐF波の二つに分かれており、泡の弾けた場所を中心として特定の範囲の時空間に存在するあらゆる情報に触れて、それらをさらっていく。
 波によって集められた情報によって一つの《アアプ》が満たされると、情報は継続性を保ちながら別の《アアプ》へと保管されていく。調整技師は関連性をもった《アアプ》同士が連結するように移動させながら情報を整理していく。そうして《アアプ》は複雑に組み合わさり、積み重なって、その世界のすべての情報を保管するアーカイヴを形成していくのだった。
 調整技師は集められた情報のなかから、その世界の環境下で活動するのにもっとも適した形状を解析して、現地で環境改善の作業をサポートするためのフィギュアを作成し、それを量産して調整作業の効率化を図っていく。
 フィギュアは泡状の解析被膜によって分解された生物の構造を解析して、それを構成しているパーツの一つひとつを《クラアプ》と《ヴェフト》を混ぜ合わせた粘土状の《グルヴェム》によって再現し、組み合わせることにより作られる。《グルヴェム》を扱って細かい形状のフィギュアを作りだすためには、繊細な作業を可能とする複数の触指が必要であるため、この仕事はマヨールのような複雑な機能をもった下位の活動体にしかできない類のものだった。
 まずは粒子状の《クラアプ》を合成用の容器のなかに集めて液状化した《ヴェフト》に融け込ませ、そこに形状を指示するための情報を流し込んでいく。それから流し込んだ情報を固形化した《グルヴェム》をこねて、フィギュアを触指を使って形成していくのだ。完成したフィギュアのモデルの情報を記録すれば、あとはそれを基にいくらでも複製が可能となる。もちろん素材となる《クラアプ》と《ヴェフト》が必要にはなるが、マシンが正常に作動している限り、移転先の物質を変換することによっていくらでも素材は手に入るし、形成したフィギュアを解体して、同量の素材に戻すことも可能だった。
 調整技師はつねに新しい情報にふれながら、さまざまなものを作りだしていくという点で、重要な仕事ではあったが、そうした既存の情報をトレースしてコピーするという業務内容も、劣化した情報を扱うという点で、調整技師が賤業と蔑まれる理由の一つとなっていた。

 

  3

 

 リィキウという世界の環境調整を担当することが決定し、はじめにマヨールがサポート用のフィギュアとして作成を試みたのはネズミと呼ばれる小型の生物だった。リィキウでの活動において適度なサイズと強い繁殖力をもち、そのコンパクトさゆえに必要となる生成素材が比較的少なくて済むため複製や解体、再構成も容易であるという点でマヨールはネズミを気に入った。さらにリィキウではさまざまな実験にネズミが利用されているという情報もあり、環境下における被験体としての「実績」も主要なフィギュアとしてネズミを量産する決め手となった。
 フィギュア作成の過程では、まずはあらゆる情報を正確にトレースした完全モデルを作り、そこから徐々に不必要な機能を排してシンプル化しながら、活動のために最低限必要となる機能を探っていく。リィキウには時代と呼ばれる時間の層があり、時代によって同じ地点でも気候などの環境が異なっている場合があるため、そうした差異を調査して改善作業をスムーズにすすめていくためにはできるだけ広範囲にフィギュアを散布する必要があった。それには大量のネズミが必要となるため、なるべく一体の作成に必要となる素材の量を少なくして効率を上げなければならなかった。
 これまでに環境改善が行われてきた世界のなかには、もともとその世界に存在していた物質を融かして環境を変化させていく泡の拡散に抵抗を示す生命体が存在する場合も少なくなかった。そうした存在は環境が情報にとって最適な状態へと改善されていくということを受け入れられず、拒否反応を示し、さらにエスカレートしてその世界の大切な情報を蓄積している《アアプ》を自らの手で破壊しようとすることさえあった。マヨールの担当しているリィキウでも、そうした抵抗活動が見られるようになっており、マヨールはリィキウの文明を保存している《アアプ》を保護するために、ネズミよりも強力で大型の活動体を作成する必要があった。
 リィキウには数多くの種類の生物が存在しており、マヨールのもとに送られてくる情報は生物に関するものだけでもすでに膨大に蓄積されていたが、その無数に存在する種族のなかで泡が拡散し、環境が《クラアプ》化していくことに抵抗を示しているのはたった一つ「人間」と呼ばれているものだけだった。
 泡と波によって解析された人間に関する情報は次々に送られてきてはいたが、それは他のリィキウ上の生物に比べると含有情報の個体差が激しく、また思考機能と活動機能の統合状態も非常に不安定であった。それ以外にも身体構造の物理的な脆さや活動のためのエネルギー効率の悪さなどから、まったく活動体としての適性の低い欠陥だらけの生物であるとマヨールは判断していた。
 しかし、それぞれの個体がもつ情報のばらつき、外部からの刺激に対する変化のしやすさ、しかもその変化は一時的なものにとどまらず恒久的に継続、あるいは機能が刷新されていくことさえあるらしいという性質をもつ人間には、リィキウでの活動のために、マヨールの理解の及ばない何か特別な要素が含まれている可能性が高かった。そうでなければ、なぜ人間がリィキウにおいてこれだけ繁栄し、どのようにして支配的な立場につき、どうして自らの環境を泡から守るためにこれほど強い抵抗を示すのか、理由を見つけられそうになかった。
 その理由を探るために、マヨールは、複数の時代から送られてくる人間の情報、その時間の経過による変化を分析しながら、人間のなかにある不変の部分と環境によって左右されやすい部分について調査を続けていった。
 そして、活動体としてはまったく不適切な存在である、という判断は維持しながらも、マヨールはリィキウを長いこと支配し続けてきた人間のフィギュアを作ろうと試みた。その形成過程を通して、「人間」の本質をより正確に理解することで、リィキウという世界への理解の正確性もまた向上するのではないかという期待があった。
 だが、マヨールの試みは簡単には成功しなかった。ほかの生物と同様、まずはじめに種としての特徴の平均値を求め、それに近い個体をもとにとして形状をトレースすることは比較的容易だったが、思考をコントロールし活動を統御するための脳と呼ばれる部分を再現することは困難だった。
 人間のフィギュアの製作に行き詰ったマヨールは、これまでに移転してきた世界のなかに、人間と類似した特性をもった生物に関する情報の蓄積がないかどうか、《アアプ》で検索をかけてみたが、他の世界の生物に関する詳細な情報は機密レベルが高く、現在のマヨールの権限ではアクセスすることができなかった。
 仕事を効率よくすすめるために必要な情報を得られないというのは不便だが、調整技師のようにはじめて触れる純粋情報を扱う機会の多いものにとっては、これまでに蓄積されてきた別の世界の類似情報を知ることによって、調整過程に恣意的な操作が加わってしまう恐れがあるため、担当している世界の《アアプ》が完成するまではなるべくほかの世界の情報に触れないでいるということが情報体によって定められている暗黙のルールだった。

 

  4

 

 人間のフィギュアを作成しようと苦心を続けていく過程で、マシンから送られてくる人間に関する情報のなかに、一つだけ他の個体と比べて大幅に情報量の少ないものが見つかり、マヨールは絶え間なく流れ続けていく情報のなかから、特にその個体の情報を抽出してみた。原因を探ってみるとその理由はすぐに判明した。その個体には人間のもつ情報の大部分が含まれている部位、すなわち脳を含む頭部が欠けていたのだ。
 マヨールは粘土状の《グルヴェム》を使ってその個体の身体部分を複製してみたが、当然、思考を司る脳をもたないそれは、自律的に活動することができず、ただ関節と筋肉の反応にまかせてふらふらと歩き出しては周囲の壁面にぶつかって倒れる、ということを繰り返していた。しかし、はじめのうち不安定に無秩序な動きをしていたかに見えたそれは、少しずつ新しい身体に慣れていくように、しばらくすると緩慢だが確かな足取りで歩くようになっていった。
 その個体の頭部は、いかなる方法によってか、泡によって融かされることを免れて、今もどこかに存在したまま切り離された身体をコントロールしようと、情報を送り続けているらしかった。
 マヨールはその個体の頭部の所在を特定しようとした。しかし、マヨールが調査可能な範囲は、すでに環境調整が完了して《クラアプ》で満たされているエリア内のみであり、そこには目的の頭部は見当たらなかった。それでも時折、それらしき反応が感知されることもあったが、それはほんの一瞬のことであり、追跡を試みてもすぐに圏外へと消えてしまうため、マヨールはなかなかその実体を捉えることができずにいた。
 必ずしも本来の業務に必要ではない、そんな些末な事象に終始かかずらわっているわけにもいかず、マヨールはその個体の存在を気にかけながらも、環境調整作業をすすめ続けていた。リィキウの環境との相性が悪くマシンの反応が鈍いため、改善速度は非常に緩やかだったが、ネズミの改良を重ねることによって、まだ《クラアプ》で満たされていない場所での活動も可能となり、少しずつ作業の効率は向上していった。
 集まった情報によって容量を満たされた《アアプ》は内部の情報を整理して固定化し、以降その構造を改変することができなくなる。そうやって完結した《アアプ》に対しては基本的に検索以外のアプローチはできず、新たな情報を付加するためには、追加情報を含んだ別の《アアプ》と接続させる必要があった。
 また一つ、完結した《アアプ》の内容を確認していたマヨールは、その内部を移動している「情報」が存在していることに気がつき、慌ててその「情報」を確認してみると、それはしばらく放置していた、頭部を失っていたあの個体だった。そしていつの間にか、欠損していたはずの場所には、彼女の「脳」を含む頭部がしっかりと収められていた。少女は複雑な《アアプ》の迷宮のなかを、その内部に収められている無数の情報に触れながら歩き回っていた。
 身体を維持した状態で情報の結合体である《アアプ》の内部に存在することなど、不可能なはずだった。《アアプ》のなかに存在できるのは情報のみであり、そこに自在にアクセスできるのは最高位の存在である完全な情報体のみで、だからこそマヨールのように複雑な構造の活動体をもつ存在は、情報体になることを目指して活動を続けているのだ。しかしいまその前提が、一人の人間の少女によって揺るがされていた。
 マヨールは少女を注視した。時空を隔てて向けられているはずのその視線に気がついて少女が顔を上げると、《アアプ》の内壁を透して、互いの視線が重なった。
「人間……?」思わずマヨールは呼びかけていた。
「少し前までは。でもたぶん今は違うと思います」と少女は応えた。
 一度、瞬きをして、マヨールのほうへと手を差し伸べるように《アアプ》の壁に触れながら、少女は「私はシタル」と名乗った。
 なぜ、違うと思うのかとマヨールが訊ねると、シタルは「それは、もう何日も歩き続けているのに、疲れないし、お腹も空かないし、眠くもならないし……それに、前よりずっと頭がよくなったから」と自分に言い聞かせるように呟いた。それは最高純度の《クラアプ》によって埋め尽くされた《アアプ》のなかにいるからだ、とマヨールは考えた。
 環境調整を担当した世界で形成された《アアプ》内の情報に関しては、マヨールにもすべてのアクセス権限が与えられている、はずだった。シタルの存在が《アアプ》の内部でどう認識されているのかを確認しようとしたマヨールはシタルの脳に接続しようと試みたが、それは権限外の行為として拒絶されてしまった。
 その拒絶には二つの可能性があった。一つは、シタルの脳がもつ情報がマヨールがアクセスできる層よりも高次であるという場合、もう一つはシタルの「脳」がまだ《アアプ》に取り込まれておらず、マヨールの権限の及ぶ環境の外側にある場合、だった。
 シタルの「身体」がすでに《アアプ》に取り込まれているということは間違いがなかった。マヨールは彼女の身体に関するあらゆる情報を簡単に引き出すことができた。身長をはじめとする全身の形状やサイズ、体重、心拍数、視力から毛髪の本数にいたるまで、数値化することができたし、実際にその情報をもとに彼女のフィギュアを作りだしたのだ。しかし一方で、マヨールには、いま彼女が何を考え、感じているのかについては何一つ知ることができなかった。
 表情というものをもたないマヨールの頭部を見つめながら、シタルはその心を読んだかのように「私のことが知りたいのなら、あなたのことも教えてほしいです。それで構いませんか、マヨール、さん?」と名を呼んで微笑んだ。まだ名乗っていないはずの名を彼女はすでに知っていた。それはシタルの意識がマヨールの意識とつながって、情報をやり取りしているということを意味していた。

 

  5

 

 リィキウの情報を収めた《アアプ》のなかからシタルを「情報」としてこちら側に呼び寄せることができないだろうかと、マヨールは考えた。いま、目の前で自律して活動している彼女は、いちおうその身体部分についてはマヨールが完成させた最初の人間のフィギュアであり、またフィギュアであるはずの彼女がこうして情報をやり取りし合うだけの知性を具えているということはマヨールの関心を引いた。
 シタルをファルウへ招待するために、まずマヨールは《グルヴェム》をこねて彼女の意識を宿すための仮の身体を作り出した。
 環境改善の過程では、基本的に泡に取り込まれた情報がこちら側に送られてきて、こちらからはフィギュアを形成するためのモデルの情報を送るというやり取り以外に、二つの世界の間でやり取りが行われることはなかった。
 しかし、環境改善が完了した後は、こちら側から《アアプ》をはじめとしたあらゆるものを移転先へと移していくことになる。マシンが正常に作動している状態であれば、波のゆらぎを利用することによって情報の受渡しが可能であり、シタルの意識だけをこちらへ転送させることもそれほど難しくないはずだった。
 マヨールはシタルをリィキウ側にあるマシンのそばへと誘導し、波の波形を調整することでシタルの意識を波に乗せて転送させ、ファルウ側に作っておいたもう一つの身体へと移すことに成功した。リィキウ側に残してきた身体と寸分違わない、《グルヴェム》によって作られたファルウ側の身体の感覚を確かめるように、シタルはその場で足踏みをしたり、肩を回したり、掌を開閉させたりしながら「こんにちは」とマヨールに向かって呼びかけた。
 マヨールは目の前で奇妙な動きを続けている、自分の前腕の先ほどしかない小さな人間を見守っていたが、挨拶の言葉をかけられて「こんにちは、シタル。ようこそファルウへ」とこれまでに収集した情報によって得られた人間の言語コミュニケーションに則った返事をした。
 シタルはマヨールの仕事場を見回していたかと思うと、作りかけの状態で放置されていたフィギュアを保管してある棚のほうへと近づいていった。そのなかで彼女の興味を惹いたのはちょうどシタルの膝くらいの大きさの小型犬のフィギュアだった。シタルは犬の正面にしゃがみ込んで、未完成の頭部をゆっくりと撫でた。その奇妙な動きをマヨールは注視していた。
「いったい何をしているのか」
 マヨールの問いかけにシタルは手を休めて「以前、一緒に暮らしていた子を思い出してしまって」とほんの少し目を細めた。マヨールの収集した情報によると、それは人間の浮かべる悲しそうな表情というものに似ているように見えた。
「悲しいのか」
 無機質な仔犬のフィギュアを抱き上げながらシタルは立ちあがり「悲しいというよりも、懐かしいんです。あのころの私は、こうしてあの子を抱いてあげることもできなかったから」と、やはり悲しそうな表情を浮かべて言った。
「そのフィギュアはお前にやろう」
 簡単なフィギュアを作ることはそれほど手間のかかる作業でもないため、また同じものを作ればいいと考えてマヨールは犬のフィギュアをシタルに譲った。まだ作りかけであり、活動するために必要な機能を有していない犬は、シタルたちの世界でいうところの人形のようなものだったが、少女というのは人形を可愛がるらしいという情報を、マヨールは得ていた。
「ありがとう」と犬を抱えたままシタルは微笑んだ。それは悲しい表情ではなかったため、マヨールは「どういたしまして」という感謝に応じるための言葉を述べた。
 マヨールは新たに別の犬のフィギュアを作成するために保管用のケースから粉末状の《クラアプ》を取り出すと、それを容器に入れて霧と混ぜ合わせて圧縮し、粘土状にしてこねはじめた。シタルはマヨールの前腕が作業している様子を、犬のフィギュアをかかえたまま間近に座り込んで眺めていた。マヨールの指先の細かい動きと、それに比べて大きなマヨールの身体を、シタルは交互に見つめていた。
「どうかしたか」
「いえ、ただ、すごく器用なんだなって、思ったんです」と感心した様子で呟きながら、シタルはマヨールの指先にさらに顔を近づけていった。マヨールはシタルの身体に前腕をぶつけないように注意を払いながら、淡々と新しい犬のフィギュアを形成していった。
 マヨールの指先によってフィギュアが形作られていく過程で、削り落とされた粘土の欠片が作業場の床に堆積していた。シタルはそれを掬い上げると、周囲に漂う霧を両手で抱え込むようにして集めて、粘土の欠片と混ぜ合わせて再び柔らかい《グルヴェム》にした。そしてその粘土を使って作りかけだった自分の犬の続きを作りはじめた。
「器用だな」
「見様見真似です」と手を止めずに返したシタルの様子を、マヨールはしばらく観察していた。先に犬を完成させたマヨールは、シタルの犬が完成するのを待ってから、次の工程へと作業を移行させた。

 

  6

 

「クン、という名前にしようと思います」とシタルは犬の行動情報を入力しながらマヨールに報告した。
 名前をつけることによって、そのモノは全体から切り離されて固有の存在となる。完全な情報体は個別の名前をもたず、末端で作業をする自分のような活動体が個別に名前をもっていることの意味を、マヨールはシタルの言葉から受け取った。
「なぜお前たちは名前をつけることを喜ぶのか」
 そう問いかけられて、シタルはしばらく思案してから「それは、名前を呼べば、お互いに特別な存在なんだって感じられる、から……?」と自信なさげに考えを述べ、それから笑顔を浮かべて「マヨールって、素敵な名前だと思います」と続けた。
 名前はそれぞれの個体を識別するための記号に過ぎない。識別する必要があるのは、それぞれが与えられた特定の役割を担っており、その責任の範囲を明確にするためだ。マヨールは、それが素敵なものであると考えたことは、一度もなかった。
 シタルは「真夜」という単語を思い浮かべて、その情報をマヨールに伝達した。
「私の友達が教えてくれた、漢字という文字です」それはシタルが《アアプ》のなかを彷徨っているうちに身につけた知識の一つでもあり、意味を与えるとすれば、とても深い夜、というようなものになるだろうか。
 シタルは作業場の外を指さして、ちょうど暗くなって色の深まっていた景色を見つめながら「この深い青がマヨールの色、この世界の色です」と呟いた。シタルたちの世界から送られてくる情報のうち「色」というものはマヨールには感知できないものの一つだった。色が視覚に関する情報に分類されているということは判明していたが、それが複数の名称によって区別されていることが、マヨールにはわからなかった。
「これが青という色なのか?」
肯いたシタルに「では赤とは?」とマヨールは続けて質問をした。周囲を見渡してから「ここに赤はありません」とシタルは答え「ここは青の世界です」と言った。ここが青の世界ならば、シタルたちの世界も同じく青の世界なのではないか、とマヨールは考えてみたが、この世界の色を、シタルが「青」であるとわざわざ区別して呼んでいる以上、彼女にはほかの色も識別できるのだろうと思い至り「どうやら我々には青以外の色は認識できないらしい」と結論づけた。
 マヨールは青という情報を意識に刻み込むために見慣れた世界を眺めて、それから光の加減によって明るく青が薄れていくことを朝、暗く深まっていくことを夜と呼ぶのだと、リィキウに関する情報を確認した。それは単なる星と星の位置関係の変化がもたらす現象についての呼称の違いではなかった。人間たちは、色が変化することに名前をつけて呼び分けるのだと、理解の及ばないその分類をマヨールは受け入れた。
 行動情報の入力作業を続けながらマヨールは自分の名前が「深い夜の青」であると言ったシタルの言葉について考えていた。色といういくら理解したところで感覚することのできない情報について考えることは、普段の思考に比べて余計なエネルギーを消費する行動だった。マヨールは一欠片の《チフ》を取ってそれを口元に運び、さらに小さな欠片をシタルにすすめた。シタルは訝しがりながらもそれを受け取って、ゆっくりと口元へ運び咀嚼した。
「何の味もしないんですね」と顔をしかめたシタルの言葉に、また味という感覚の及ばない情報が含まれていたことに、マヨールは一瞬だけ反応しかけたが、今はこれ以上、別の情報を処理することは難しいだろうと考えて「それは、甘くも、苦くも、辛くもないということか?」とシタルに訊ねた。
「それに酸っぱくもしょっぱくもないです」とシタルは笑った。人間がそれらの違いに対して敏感に反応を示すということはわかっていたし、それがどういうプロセスを経て処理される感覚なのかも分析できていたが、自分自身にはその感覚は与えられていないため、マヨールは甘さや苦さなどを情報としてしか理解することができなかった。
 マヨールはさっそく完成した犬のモデル情報をリィキウへと転送して複製を試みた。調査用のモニタを通して映しだされる犬の形成されていく様子をシタルは興味深そうに見つめていた。その隣にはシタルが初めて完成させたフィギュアである「クン」が並んで小さな尻尾を振っていた。

 

  7

 

 いくら活動に特化した身体をもつマヨールでも、永遠に働き続けることはできず、適度に休息をとる必要があった。
 活動体にはそれぞれが体を休めるための安息廟と呼ばれるスペースが与えられており、そのなかは濃い霧で満たされていて、しばらく横になっているだけで情報を処理し続けて疲弊し、乾燥してしまった《クラアプ》を回復させることができた。
 作業場と安息廟を往復する間、マヨールは前腕の関節部分にシタルとクンを乗せて移動した。自分の目線よりもずっと高い場所から青い世界を見渡すのをシタルは楽しんでいる様子だった。ファルウの景色について話をしていると、地表を埋め尽くすように並んで積み重なった《アアプ》は、関連する情報同士がそれぞれを補い合うような格好でつながっており、マヨールにはとても秩序立った並びをしているように見えるのだが、どうやらシタルには情報同士のつながりを感じることができないらしく《アアプ》が無秩序に並んでいるように見えているということがわかってきた。
 そこでマヨールは、作業をしていない時間を使って、シタルにこの世界の成り立ちや、情報体、思考体、活動体といった形態に分かれて存在している自分たちのことについて話をした。話を聞いたシタルは非常に好奇心を刺激された様子で、もっとファルウについて知りたいと言い出して、しばらくするとマヨールが作業を行っている間、クンをつれて青い世界のなかを探索するようになった。

* * *

 リィキウにいた間は《アアプ》のなかを自在に彷徨うことができていたはずのシタルは、しかしファルウに身を移して以来アアプの内側に身をゆだねることができなくなっていた。リィキウとファルウとでは、「シタル」という情報の質や在り方が異なっているからなのか、こちらの《アアプ》は決してシタルを受け入れようとはしなかった。つまり、ファルウの《アアプ》はシタルにとっては青色をした巨大で堅牢な立方体にすぎなかった。
 マヨールが作業をしている間、シタルはクンを連れて渇いて機能を失った《クラアプ》の塵が堆積した地表の上を歩きまわっていた。時折すれ違うファルウの住人たちは、マヨールとまったく同じ形態のものから、より小型で腕や脚の数が少ないもの、巨大なシャボン玉のような透明の球体の姿をしてふわふわと地面の上を転がっていくものなど数種類見られたが、マヨールの話によると、視認することのできない、より高次な情報体と呼ばれるものも存在しているらしかった。
 まだ渇いていない深い青色をした《アアプ》の表面は、滑らかなつやを帯びていて、触れるとしっとりとした心地よい感触があった。湿潤な《アアプ》の表面に触れながら「情報はつねに湿度を求めている」というマヨールの言葉をシタルは思い出した。
 ファルウの住人たちは、彼らに比べてかなりサイズの小さいシタルとクンの存在を気に留める様子もなく、ぼんやり歩いていると踏みつぶされてしまいそうで、シタルは周囲を警戒しながら、なるべく道の端のほうを歩くようにしていた。
 マヨールからはあまり作業場のそばを離れないようにと言われていたが、無数の《アアプ》が積み重なった静謐な青い世界のなかを歩いていると気持ちが落ち着いてくるのをシタルは感じて、つい遠くまで歩きすぎてしまうのだった。隣ではいつでもクンが小さな尻尾を嬉しそうに振っていた。
 かつてリィキウで一緒に暮らしていた本物のクンに比べると《クラアプ》で作られた青いクンは無口で大人しかったが、その尻尾だけはいつでも落ち着きなく揺れ動いていた。マヨールの真似をしてシタルが作りだした小さなクンは、四肢のバランスが微妙にそろっていないのか、その歩みもふらふらと不安定で、どこか頼りなさを感じさせた。

 

  8

 

 ただ《アアプ》がいくつも連なっているばかりで変わり映えのしない、青い世界の探索にも飽きはじめたころ、マヨールに紹介されてシタルは構築技師ピナーの工房を訪れた。外ですれ違うものたちと同様に、はじめのうちピナーはシタルの存在を気にも留めずに黙々と目の前に浮かんでいる球形の立体映像に向かって、何か記号のような細かい文字列を入力し続けていた。
 シタルはマヨールよりも一回り小さいピナーの少し後ろに立って映し出されている球形の像を見上げていた。ピナーが何かを入力するたびに、球の表面が波打つように歪み、しばらくすると元の綺麗なカーブに戻った。映像がズームアウトすると、同じサイズの球がいくつも並んで泡沫状に連なった様子が映し出され、ピナーが操作を続けるにしたがって泡はどんどん増殖して膨れあがっていった。
 とつぜんモニタに映った球がシャボンの割れるようにパッと弾けたかと思うと、それが無数の泡の粒に連鎖的に伝わっていった。割れた泡は小さな振動を生み出して、そのゆらぎが波となって周囲の空間に広がっていった。
 波は周囲にある物体に触れるとその形状をなぞるように形を自在に変化させていき、そのまま膜となって物体を包み、飲み込んでいった。物体を包み込んだ膜は複雑に折り重なりながら畳まれていき、小さく濃縮されて、無数の襞の表面に物体のもっていた情報を織り込みながら、内側に向かって複雑な層を成し、隣接する他の膜たちと結びついて、次第に立体となって《アアプ》を形成していった。
 のたうつように蠢きながら、あらゆるものを包んでその情報を取り込んでいく青い膜と、その表面でつねに揺れ動いている青のグラデーションにシタルは見入っていた。それはあくまでモニタ上に映し出されて展開していくシミュレーションの映像にすぎなかったが、《アアプ》が形成されていく過程は、シタルにはとても幻想的に見えた。
 作業に没頭していたピナーがようやく足元のシタルの存在に気がついて、何か懸命に情報を伝達しようと意識を飛ばしてきたが、シタルはピナーの送ってくる情報を解読することができなかった。そうしてシタルの頭のなかには読解不可能な情報が蓄積していって、しばらくすると頭のなかがいっぱいになって破裂しそうになった。
 情報を処理しきれずに爆発しそうになる寸前に、シタルはマヨールからもらった《チフ》を一かけら口にした。《チフ》を摂取することによって、シタルの疲弊した脳機能の一部が回復したが、またすぐにピナーが送り続けてくる情報の量に圧倒されてしまった。シタルが《チフ》を口にしたことで、ようやくピナーは、シタルの小さな身体に対して、自分の伝達しようとしている情報の容量が多すぎるのだと気がついたらしく、伝達を中止してその大きな眼球でにらみつけるようにシタルを見つめた。
 それからピナーは視線をシタルの横にいたクンに向けたかと思うと、今度はクンに向かって情報を発信しはじめた。ピナーの情報はシタルには判読できない文字列となってクンを構成する《クラアプ》へと刻みこまれていった。情報を受け取った《クラアプ》はその青い色味を深めていった。
 それまで揺れ続けていたクンの尻尾の動きが止まっていた。硬直して真っすぐに伸びた尻尾は情報を受信するためのアンテナのようだった。シタルがクンを守ろうとして抱きしめると、クンはどんどん膨れ上がっていき、その表面は急速な情報との結合によって乾燥してつやが失われていって、触れていた部分から小さな亀裂が走ったかと思うと、ぱらぱらと音を立てて崩れていった。
 シタルは動かなくなったクンを抱きかかえたままピナーをにらみつけたが、その強い視線を意に介した様子も見せず、ピナーは長い腕をシタルのほうへと伸ばしたかと思うと、まだ辛うじて形状をとどめているクンをシタルから奪うようにつかみあげた。
 もはや形と機能を失って青い塊と化したクンを、ピナーは容赦なく両腕で押しつぶして圧縮していった。「やめて」と叫んでみたところで、その言葉の意味はピナーには届かず、シタルは目の前でどんどん小さく潰されていくクンの姿を、ただ呆然と眺めていることしかできなかった。
 ようやく圧縮を終えたピナーは、片腕をシタルの目の前へと差し出した。その腕の先端には小さな《チフ》となったクンが載せられていた。無言で差し出されたそれをシタルは仕方なく受け取って、両てのひらで包み込んだ。また一緒にいられると思っていたクンは、こうしてあっさりとシタルの目の前から消えてしまった。
《チフ》を受け取ったシタルを、ピナーはじっと見つめ続けていた。その視線はシタルに《チフ》を口にするよう要求していた。しばらく躊躇ってから、シタルは意を決してそれを口元へと運び、一気に噛み砕いて飲み込んだ。その瞬間、ピナーがシタルに伝えようとしていた情報のすべてが正確に伝達された。こうしてシタルは「泡」と「波」がどのように設計され、構築されていき、実際にどう機能するのかを知ることになった。
 シタルが情報を受け取ると、ピナーは関心を失ったように視線をそらし、再び球状の立体映像に向かって作業を開始した。

 

  9

 

 シタルが作業場に戻ってきたのに気がついて、マヨールは「おかえり」といつも通り声をかけ「どうだった、ピナーの工房は?」と質問した。
 シタルがその質問に答えずにいるのを不思議に思い、マヨールはモニタに向けていた視線を外してシタルのほうを見ると、その隣にはクンの姿がなかった。
「クンはどうした」とマヨールが訊ねると「ここに」と言ってシタルは自分の頭を指さした。その指先に浮かんでいるシタルの悲しそうな表情から、マヨールはすぐに事情を察して「どうやらピナーにいろいろ教えられたらしいな」と抑揚のない声で呟いた。
 マヨールの前にあるモニタにはシタルの暮らしていたリィキウの様子が小さな立体映像として映し出されていた。その球形をした世界の表面には複雑なまだら模様が浮かび上がっていて、濃い色をした部分がすでに泡によって環境改善が完了した範囲を示していた。まだその範囲は球全体の二割にも満たないほどだったが、それでもゆっくりと確実に広がっていた。
「チキュウ、という星のことを知っているか?」マヨールは、送られてきた情報のなかから古い記憶をたどり、かつてチキュウと呼ばれた星の存在について知るに至った。「歴史の授業で聞いたことがあります。それから、ここに来る前、リィキウの《アアプ》のなかに保存されていた記憶にもその星についての情報がありました」とシタルはマヨールの腕につかまって第二関節の部分までよじ登りながら答えた。
「私たちの星は、とても長い時間をかけて、地球とそっくりに作り変えられた……と教えられました」目の前に浮かぶ立体映像の球体を見上げながら、シタルは記録映像でしか見たことのない、チキュウの姿を思い出していた。
「我々の集めた情報によると、チキュウは青い星、と呼ばれていた」とマヨールは言って「ファルウと、同じだ」と続けた。「それではかつて人間も、青、という色しか判別できなかったのか」とさらに続け「それならばいずれ我々も他の色を感じることができるようになるだろうか」とシタルに向かって問いかけた。
「それは、私にはわかりません。でも、いずれマヨールたちが移転する先は、すでに《クラアプ》によって改善されて青い世界になっているんでしょう?」シタルの言葉に「そのとおりだ」と人間を真似た肯く素振りを見せたマヨールは「では、こうして移転を続けるかぎり、我々は他の色を感じることはできない、というわけか」と呟いた。
 シタルは目の前に広がっている、さまざまな濃淡を表した青の折り重なった世界を、あらためて眺め回した。「私、この世界の色、好きです。とても綺麗で気持ちが落ち着くから」シタルの声が響くと作業場の壁を形成していた《クラアプ》の一部が、渇いて静かに剥がれ落ちていった。「それでもいつか、私はマヨールにも私の世界の色を、見せてあげたい。そして、それを見てマヨールがどう感じたかを、聞いてみたい」と微笑んだ。
「あなたたちはあらゆる情報を集めて、知ることができる」と自分の頭のなかにクンを通して送り込まれた情報をたどりながら、シタルは言った。「そして、その情報をもとに何だって作ることができる」と両手を広げて作業場全体を仰ぎ見ながら、そこに並べられているさまざまなフィギュアを眺め、それから広げた手を胸元に引き寄せて「私のことも、こうして作ってくれた」と《クラアプ》でできた自分の青い身体を抱きしめながらシタルは小さく肯いた。
 それでもあなたたちは青以外の色について知ることができない、という情報を、言葉にはせずにシタルはマヨールへと送ってみた。それは人間とは違うマヨールたちの行っているコミュニケーションの方法だった。
 何を考えている?
《チフ》を摂取することによって少しずつファルウでの情報の在り方に馴染んでいたシタルの思考を受け取って、マヨールは情報を送り返した。
 私たちは、あなたたちの感じられないことを教えてあげられるかもしれない。お前たちの情報を《アアプ》のなかに取り込み、保管することで、我々はそれを知ることが可能になる。でも知ることと感じることは違います。残念ながら我々にはそのために必要な器官が備わっていない。
 それでもずっと一緒にいれば、いつかは何かが変わるかも……しれません。
「共存? それはいずれ情報のなかで行われることだ。お前が泡に飲み込まれ、いつかは我々も情報体となって《アアプ》の連結により一体となる」マヨールは独り言のように呟いて「たしかに我々は色を感じることはできないが、それらがどういった条件で変化し、現れるのかは、理解している」と自らを説得するかのような調子で言った。「それ以外に、我々にとって世界の在り方は、ない」
 マヨールの目を見つめながら、その言葉を聞いていたシタルは、ゆっくりと瞬きをしてから「ねえマヨール、あなたの本当の願いは、何なの」と言った。

 

  10

 

 小さく頭部を左右に振ったマヨールに「マシンを止めること、できないんですか」と、すでにその止め方を知りながらあえてシタルは問いかけた。
「マシンを止めたところで、すでに完成された《アアプ》を元に戻すことは、できない」とマヨールは言って「そして、このままの中途半端な環境の下では《アアプ》を長期間保持することは難しいだろう」つまり、放っておけばお前たちの世界の情報の一部が失われてしまうということだ、とシタルに伝えた。
 波のゆらぎを遡って、折り重なった膜を解きほぐしていけば、いずれすべてを元に戻すことだってできるんじゃないですか。というシタルの思考に、それはピナーが示した方法なのか、とマヨールは訊ね返した。
「それには永遠にも等しい時間が必要になる」そして、それまでにこの世界は渇ききって崩壊してしまうだろう。もちろん、ほかにも移転先の候補はいくらでも見つかって、そちらへ移っていけばいいだけの話だが、すでに作業を開始してしまったマヨールには、担当している世界を勝手に手放すことはできず、マシンを停止させることに意味を見いだすこともできなかった。
 こことは異なった環境へと飛び込み、自分たちとは違う構造をもった種と交流し、共存していくこと、そうして開けるかもしれない新しい世界を望んではどうかと、シタルは要求しているのだった。それは、マヨールたちの存在と、これまでに収集し、積み重ねられてきた《アアプ》のなかに保管されている情報の安定性を脅かそうとする危険な誘惑だった。
 環境に適応するための、進化。それはある種の生物にとっては生きながらえていくために必要な戦略の一つで、いま、シタルはその可能性に賭けてみないかと、マヨールにもちかけていた。しかし、マヨールたちは、自らを変化させることなく環境のほうを改善し、従わせることで、これまで種を存続させてきたのだった。それは何よりも強く刷り込まれた生きるための本能だった。
「お前の考えは、我々にとって危険だ」
「あなたたちにとって?」
 調整技師として、マヨールは改善の障害になるものを排除しなければならなかった。たとえそれが自分たちと同じ《クラアプ》によって作られた活動体をもっており、お互いに意識をやり取りできるような存在だったとしても。そして、その在り方がもしかしたらマヨールたちの種にとって新しい可能性をもたらしてくれるような存在だったとしても、マヨールは本能的にそれを消してしまうことを選ぶしかなかった。
「どうやら、お前を消してしまわなければいけないようだ」
「そう、ですか」とシタルは残念そうに微笑んだ。
「こういうとき、お前たちは何という言葉を口にするのだったか」
「さようなら、って手を振るんです」
 別れの言葉を口にして、シタルは小さな手をマヨールに向けて振ってみせた。
「さようなら、シタル」とマヨールは未だかつて経験する機会のなかった、意識を交わし合った他者との別れに際して、教えられた言葉をそのまま口にした。このままシタルを、マシンのシステムから切り離してしまうということは、彼女は泡によって融かされず、情報となって《アアプ》のなかに取り込まれることもないということだ。
 情報として残らずに消えてしまうとき、シタルの存在はどうなってしまうのか、マヨールには想像することができなかった。一度アアプに取り込まれた情報を意図的に削除することはできない。そしてマシンの泡はあらゆるものを情報として飲み込んで保管していくはずだった。
 そんな情報の世界から、いまマヨールは特定の存在を、切り離そうとしている。泡はあらゆる情報を区別しないのだから、当然そのなかにはマヨールたちにとって危険なものも含まれていた。それでも、いったん融かされて純粋な情報となってしまえば、その内容に影響されるようなことはなかった。
 思えば、リィキウに関してマヨールが影響を受けたことはすべて、シタルを通して伝えられたものだった。
 マヨールは今までに一度も使用したことがなかった機能を呼び出した。システムからの排除は滅多に行われることのない非常手段だった。シタルの脳が泡に飲み込まれて融かされて、情報として《アアプ》のなかへと収納されてさえいれば、マヨールはこの操作をしなくても済むはずだった。けっきょく、なぜシタルの脳が泡によって融かされずに残ったのか、その理由は最後までわからなかった。
「お前は人間、だったのか?」
「私の知るかぎりでは」と言ったシタルの笑顔を見つめながら、マヨールは排除プログラムの発動キーを入力していった。マヨールのコマンドは問題なく受け入れられて、そうしてシタルの情報は、世界のすべてを取り込んでいくはずのシステムから、除外された。いつかリィキウの環境改善が終了して、すべての情報が《アアプ》のなかに収められたとしても、彼女の存在をそのなかに見つけることはできないのだ。
 これから先、自分が情報体になったとしても、もう二度とシタルの情報にふれることはできないのだと考えて、マヨールは目の前で青い霧のように消えようとしている少女の姿を「情報」としてその目に焼き付けようとした。
「マヨール、さよなら」手を振りながら微笑んで「またね」と言って、シタルは消えた。

文字数:20288

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