「考える」=「かむかふ」=「迎える」ということ

「考える」=「かむかふ」=「迎える」ということ

新生ゲンロン新芸術校第6期の記念すべきグループ展Aは、「かむかふかむかふかむかふかむかふ」という呪文のようなタイトルだ。キュレーター(金子弘幸/中村馨)の1人・中村馨(CL課程)が、今回の展示を「考える」=「かむかふ」を実践するフィジカルな装置と見立てたことについて、ステイトメントで述べている。

 

では、「かむかふ」とは何か?

 

ステイトメントによると、「考える」という言葉の古い形は、「かむかふ」というらしい。

批評家の小林秀雄が「考える」ということについて、本居宣長の論をわかりやすく捉えて、「む」は身、すなわち自分の身で、「かふ」は「交わる」ということだから、「考える」ということは、自分が身をもって相手と交わるということで、対象と自分とが、ある親密な関係に入り込むことであると説いている。

 

この捉え方を基に、本展覧会のコンセプトが練られているのだが、さらにこの「かむかふ」について調べていくと、小林秀雄による別の論説にも辿り着く。

……彼〔宣長〕の説によれば、「かんがふ」は、「かむかふ」の音便で、もともと、むかえるという言葉なのである。「かれとこれとを、比校(アヒムカ)へて思いめぐらす意」と解する。[…]考えるとは、物と親身に交わる事だ。

*『考えるヒント 2』文藝春秋、84頁、〔〕は筆者による。

 

そんなわけで、「考える」=「かむかふ」=「迎える」と繋がってくる。

 

また、これを受けて、哲学者の鷲田清一も、『「聴く」ことの力』(筑摩書房)の中で、「かむかふ」は物事の経験においてではなく、他者との語らいというかたちで他者の面前に立つときには、張りつめた場に自分を置くことを意味する。なぜなら他者に語りかけることだけでなく、他者からの言葉の受け取りかたも他者への語りかけのひとつとして意味をもつからである……といったことを語っている。

 

では、「かむかふ」が「むかえる」に通じるのなら、一体誰をむかえるというのだろう。

たとえば、ラテン語で「むかえる」を意味する言葉は、療養所・休憩所をさす「ホスピス(hospice)」で、この「ホスピス」とは、「敵/見知らぬ人」を意味する「ホスタイル(hostile)」と同じ由来(「ホスト(host)」)になる。他者とのコミュニケーションに緊張を伴う本質的な理由はここにあると言えるのかもしれない。
*(参考:「京都アカデメイアblog 哲学とは? その6:日本語で考えるということ」http://kyoto-academeia.sakura.ne.jp/blog/?p=7339

 

そんなグループAの展示は、すっきりとリニューアルされたホワイトキューブ感を醸し出す空間に各作品が設置され、作家の6名はそれぞれ作品のタイプも手法も異なっており、一口に「かむかふ」と言っても、これだけ多彩な振り幅があるのだということを表していた。

 

その中で「かむかふ」装置として機能しているように感じられた作品として(順位付けということではなく)、まずは、祭壇のように設えられた宮野祐《偽扉》《庭園》《粘菌と胞子》を取り上げてみたい。
確かに私たち日本人の宗教観は薄っぺらいつぎはぎの集積で、表面上は甘いファンタジーに彩られているのかもしれない。ステイトメントでは以下のように続く。「……私たちは画面の向こう側に本当に行くことはできない。私たちが死を迎えた時、その向こう側へと越境できるかもしれない。この作品は死と生の接合面である」

私は《偽扉》の縁に腰かけて一休みしながら、ふと「ナルニア国物語」のことを思い出していた。洋服箪笥の向こうに続く神秘の王国ナルニアに通じる扉のことを。

そんな郷愁を思い起こさせる祭壇が薄っぺらな段ボール製で、《偽扉》というタイトルなのは頷けるし、他の観客たちが《偽扉》に腰かけて語らっている姿を眺めながら、「かむかふ」の実践のように感じられたのは確かだが、一方で、魔術を仕掛けようと試みてはいても、死と生の接合面というよりも、甘いファンタジーであることから逃れられない印象を持ったのも否めない。

 

そして、いきなり目に飛び込んで来る川﨑豊《正しさの巨人(赤/青)》の出現に驚かされる。
この暴力的なまでのエネルギーはどこから来るのだろう? さらに目を凝らすと、巨人の足元には地獄で蠢く小人たち。しかし、後ろ側に回り込んで見ると、威嚇する暴君のように映った巨人が、生贄として吊るされ怯えているようにも見える。見る角度によって微妙に異なるのだ。さらに取り囲むように、欲望の模型3種《渇望/ふくらみ/性交》が配置されている。

自身の欲望の正体がおぼろげながら掴めかけてきた頃、作品テーマが予期せぬ事態によってズレることになった理由について、「“言う事ができない”。それはあらゆる正しさが、私を取り囲んでいるからである。言いたい。でも言えない。……芸術は正しいものたちだけのものか」とステイトメントで記している。当然、「芸術は正しいものたちだけのもの」であるはずはない。そもそもそこで躓いていたら、グレーゾーンはどうなるのか。

それでも芸術にこだわろうとするのであれば、自身が「言えないこと」について語りかけ、作り続けるしかないのではないだろうか。

 

そんな《正しさの巨人》と拮坑するように、堀江理人《室内・風景/昭和史/個人史/家族史》が落ち着いたトーンで展示されている。そのタイトル通り、家族史を描いた絵画と写真、そしてラジカセから流れる家族の対話。“途方に「くれ」て「くらさ」を描いた“とステイトメントでも語られているように、自分を取り巻く世界を徹底して見つめ、描写した結果なのだろうか。優れたドキュメンタリーが限りなく虚構の要素を孕んでいるように、優れたフィクションには限りなくドキュメンタルな「くらし」が息づいていたりする。そのスレスレの領域を行き来しながら堀江が「むかえる」ものは何だろう? 何もむかえるものは他者でなければいけないというわけではない。家族や、自分自身こそ遠い存在なのかもしれないのだ。

 

そして、一連の圡金作品《ダブルスコープ》《天体観測》《ワームホールウィンドウ》は、エイリアンや宇宙、異空間に対して、どこか洗練された詩的なタッチで表現されていて、その分フィジカルな要素が薄れ、遠い距離感がもたらされた印象を受ける。エイリアンという言葉は、そもそも映画『エイリアン』シリーズに登場する地球外生命体の通称であるが、本来は「異邦人」「外国人」の意味合いで使われていたらしい。彼等をむかえ、歓待するのであれば、いかにも「かむかふ」に適っている。

ただ、一般的に私たちがエイリアンと言う時、それはただの異星人ではなく、人間を襲い、宿主として捕食する、映画の中でのクリーチャーである。

もしかしたら、圡金にとっては、エイリアンを描くようになった独自のきっかけがあるのかもしれない。だとしたら、エイリアンとの間にどんなヒストリーが存在するのか知りたい気がする。なぜなら、圡金による圡金のためのエイリアン解釈と、大してエイリアンに興味がない人との間にある距離の方が、人間とエイリアンの間にある距離よりも大きいかもしれないのだから。

 

導かれるように奥のバックヤードで出会うのが、松岡湧紀のゲーム作品《Suburb Quest》だ。まるでミニマルミュージックのように無味乾燥な繰り返し。やがて、その規則正しさが心地良さに繋がることがある。

郊外、ベッドタウン、ニュータウン計画に則って生み出されてきた、「どこも同じで、どこでもない、なんにもないけど、なんでもある」と作家自身がステイトメントで語っているように、希薄な空気感の風景をアイデンティティとして俯瞰する試みと、淡々としたゲームの組み合わせは、その余白に瞑想のような安らぎ(と不安)を生み出す可能性を孕んでいる。

もし、その余白から得体の知れないものが立ち上がるために息を潜めているとしたら、私はその正体を見てみたい―などと思ったりしたのは、会期中にバグが発生したという報告を知ったからだ。

何も起こらないはずの平穏な日常で、不測の事態が生じることがある。そんな日常の悪夢や白昼夢を「むかえる」設定が松岡の装置に仕込まれていたとしたら……。遊び倒してみるのも悪くないだろう。

 

最後に、宮野かおり《シスター》。少女漫画のキャラクターを、花々やリボンなどと絡めてロマンティックに描いている。乙女の花園のように清く正しく美しい。それは、少女漫画の大事なポイントだが、その分、か弱く儚い印象にも映る。宮野はこれまで少女漫画LOVERとしてのアイデンティティが抑圧されてきたように感じて生きてきたという。ステイトメントには、「外部から与えられた理由によって、彼女達の尊厳は幾度となく失われていった」とある。

ただ、新たに誕生させる今作が新芸術校の土俵の上で展開されなければいけないのはなぜだろう。漫画ではなく芸術と呼ばれなければいけない理由は、外部からもたらされているのだろうか。 それはそのまま宮野にとっての芸術/漫画とは何なのか? という問いに返って来る。その闘いが宮野にとっての「かむかふ」だとしたら、ただ少女漫画のキャラクターを描くだけではなく、何らかの工夫が必要かもしれない。

もしかしたら、花々はもっと毒々しい仇花のようであってもいいし、リボンは呪縛する縄紐のようであってもいい。地獄の底から蘇った彼女達、そして宮野自身を見てみたい。

 

以上、全体的にトップバッターの緊張感が漂う中で、「かむかふ」装置を実践すべく、整然とした空間に優等な作品が展示されている印象を持った。宮野祐による、あたかも人型文様が連続するかのごときビジュアルデザインにも、この後続くグループ展が暗示されているようだった。今後のゲンロン新芸術校が「むかえる」ものへ向かって。

 

文字数:3991

課題提出者一覧