この包まれた場所から

この包まれた場所から

幼い頃、母に抱かれたときに感じた、やわらかい肌、体温を感じるあたたかさ、その周囲に漂っていた空気が、展示全体を覆う薄い膜の中に詰まっている。なつかしさをも想起させる世界。

 

 それがグループ展A「かむかふかむかふかむかふかむかふ」の印象だった。

 

 こちらが考えようとするよりも先に、身体的に侵入してくる親密な空気。この時点ですでに、鑑賞者としての自分は「かむかふ」装置の中に取り込まれてしまっていたのかも知れない。

 

 グループ展Aの展示構成を振り返りながら、この鑑賞体験を紐解いていきたいと思う。

 展示は、6名の作家によって構成されており、共通して「境界」という言葉がキーワードとして見えてくるように思う。

 

 会場に入ると、まず右手に宮野かおりの作品。幼い頃、少女漫画雑誌で見たようなキャラクターたちが画面いっぱいに構成されている。少女漫画雑誌に出て来る、というとおり、このキャラクターたちは、多くの場合、女性向けに描かれたものである。

 幼い頃、絵がうまいということは、すなわち漫画のキャラクターの絵がより上手に描けることであったし、多くの女性達にとって、少女のころは、誰しも持ち得る、自己表現の手段であっただろう。彼女は、アートを志す世界に入ってから、途方もなく巨大なアートの文脈に沿うよう、また、周囲の期待に応えるよう、いつしかこの表現を抑えこむようになったという。

 アートというものに深く踏みこんでいくにつれ、明らかになる周囲の評価基準と、自己の表現との隔たり。結局、他者の評価によって自己の表現の道筋は決まってしまうのか。果たしてそうだろうか。彼女の作品は、「彼女たちの世界」と、現代アートというもうひとつの大きな世界、その境界に揺さぶりをかける。

 

 自己の立つ世界線から、他方へ向けて、もうひとつの矢を放つのは、宮野かおりの向かいに展示されている圡金の作品だ。彼は様々な素材を不定形な形に切り取り、あらゆる方法でエイリアンを描く。誰もエイリアンを見たことはないが、そのモチーフは我々にとって、さほど遠くはない親しみを感じる対象だ。SF映画や漫画では、決まっていつも我々とは違う世界に住み、異なる背景を持ち、理解が及ばない対象として描かれる。場合によっては、敵にも味方にもなる。

 なんだかそれは、日常生活で出会った、どうコミュニケーションを取ればいいか分からない異なる他人のようだ。他者を理解しようと、こちらが歩み寄っても、近づけば近づくほど、他者そのものになることはできない事がよく分かる。

 いかにしても、自分のものさしを通してしか、他者を見ることができないからだ。

 相手を想い、見ていると感じていた私達は、結局、自分自身のまなざしを見ていただけだったのかもしれない。

 

 圡金の垂れ下がった薄いビニルの膜に描かれた緑色の人体と、大きな黒い丸の作品の向こう側に写っているのは、川崎豊の作品だ。

 彼の作品は、自己に焦点をあてながらも、同時に常に他者の存在を感じさせ、その両者の関わりを考えさせる。粘土で作られた赤と青の立像は目と口に大きな穴があいていて、表情が剥奪されており、こちらを見下ろすほどの巨大さも相まって、恐ろしい印象を受ける。

 その隣には生々しく指の跡が残った造形物や、人が抱き合う様子の立体物、どの作品も素朴な粘土造形で、それゆえに作者の身体的な軌跡が見て取れる。異性に対する欲望が表現されているが、それは一方的で、暴力的に感情を吐露すると言うより、ある一定の疑問を呈しつつ、おそるおそる、表現されているように感じる。

 性に対する欲求は、相手からの反応を返されて初めて心身ともに満たされるものだろう。その完成された形に対し、欠損している部分を彼自身がよく分かっているのではないだろうか。この表現により、誰かが傷つくかも知れない。という危険性を感じながらも、行き場のない自己のエネルギーが表現にぶつけられる。だから、彼の作品を見ると、彼の熱い欲求を感じるとともに、彼が気にしている、他者の存在を感じる。

 無垢に生きたいと願う上で、感情を表に出すことを躊躇してしまうとき、他者の反応を伺うときに感じる一種の怯えや、歩み寄りたいのに理解されず、拒まれてしまったときのような、自らが生み出してしまう他者への壁を感じるのだ。

 

 そんな、やや不穏な空気を感じながら、目線は向かいの堀江理人の作品、堀江家の肖像に移る。全体として落ち着いたトーンの屏風には、部屋の一角に集合した堀江家の家族像が描かれている。作品からは、実家の居間で昔インスタントカメラで撮ったときのような、特有のライトの暗さを感じさせる。絵の隣にはモノクロームの写真を元にした作品郡、傍らに置かれたラジカセからは父と子の会話が聞こえる。どこの家にもあるような扉付き棚には、写真や戦艦の模型が置かれており、まるで実家の一角だ。

 ギャラリーの空間をも取り込んで創られた堀江家の肖像は、鑑賞者に自己の実家を想起させ、各々のドメスティックな記憶を呼び起こす。

 ここまで3名の作品を経て、自己と他者。その隔たりについて思考を巡らせてきたが、家族のなかの隔たりはどうだろう。とても個人的で守られた世界のなかで、培われてきた関係性。家族とは、自分が一番初めに、また一番強く、影響を受ける他者かも知れない。

 堀江家は、祖父の介護をきっかけに、それぞれの立場が大きく揺さぶられた。そのとき明らかになる、それぞれの葛藤。彼はアトリエに堀江家の居間を再現し、その家族を静観する。家族という親密な関係性のなかでも、自分とは違う他者として理解しなくてはいけないことはある。たしかに。そう思うと、自己と他者の隔たりとは、ただはてしない。

 

 ぼんやり上を見上げると、天井近くの梁に、宮野祐によって描かれた小さな、山々の絵を見つける。遠くに佇んで、我々を見下ろしている。

 これは山形県にある月山という山で、死者が現世と霊界を行き来をすると云われているそうだ。その山を目線で通過し、宮野祐の世界に足を踏み入れる。

 ダンボールの壁に描かれた、豊かな花園のような色彩が広がる世界に、鑑賞者は一歩だけ近づくことを許されるが、その奥には入ることができない。代わりに、彼は絵の中の世界を抽出して、ミニチュアサイズの模型のように画中の部分世界を見せてくれる。向こう側はとても、楽しそうな感じ。扉は、生と死の境界だという。生きているわたしたちは、絵の中の楽園にも、描かれた月山の向こう側にも辿り着くことはできない。

 ただ、こちら側の雑然とした生活世界から、向こうに広がる色とりどりの景色を、眺めるばかりだ。

 

 各作家が見せる境界と、その向こう側の世界に対し、ただ思いを馳せることしかできないもどかしさを感じながら、更に奥に進む。最後の部屋で、松岡湧紀の作品に突き当たる。

 彼の作品もまた、鑑賞者が彼の世界に足を踏み入れることを許す。ゲームという方式をとって、作品世界を自由に行き来することが出来るのだ。その世界観は、だれしもの記憶の中にあるような団地の風景。人が全くいない、空っぽの施設内は、不思議と時間が止まったような印象を与える。堀江家とはまた違った、既視感のある郷愁の風景。

 都市にも田舎にも属さない、その中間地点に位置する郊外という場所で、我々はとどまり、遊ぶことが出来る。

 ここまでの展示構成において、作家は境界のどちらか一方に立ち、自分の地平とは異なる向こう側の世界にまなざしを投げかけることが多い印象であったが、松岡氏の作品が表明する立場は、都市と田舎という2つの異なる世界に対し、そのどちらにも偏ることがない。

 郊外という中間地点のような場所で遊ぶという行為は、ちょうど、国境をまたぐ行為のようで、異なる両者の境界線上に立ち、両者を均等に眺めている気分だ。

 そのため、彼の作品はこの展示空間内におけるひとつの変わり種として、境界を行き来する通気孔のように機能しているように思える。

 

 以上、6名の作家の作品を「境界」というキーワードをもって語ってきた。

 

 Aグループの作家たちが向き合う境界は、自分の出自から、じっくり形作られてきたもののように思う。

 他者と交わることがなければ、気がつくことはなかったであろう、薄い膜。

 頭で理解するよりも先に、自分という身体を覆いこんでいた存在。それは、異なる他者と交わったとき、初めてひしひしと肌で感じるものである。作家たちは、そのこすれのような感覚を敏感に感じ取り、その感覚を表現によって我々に見せる。

 

 作家自身が、その境界となる薄い膜を指でなぞり、かたちを確かめ、その膜を破ったり、乱暴に壊すことなく、共存していく。そこには、諦めや、悲しむこととも違う、そのやわらかい行為には、一種の愛情のようなものを感じる。

 自己と他者を隔てる、その膜の存在を受け入れながら、その内側にある過去も、自己を形作ってきた生活世界も、ある意味で守られた世界を愛しているし、その向こう側を望むまなざしもある。

 グループ展Aに漂う、一種のあたたかい空気は、そういうことなのかも知れない。幼い頃、母の腕に抱かれたときに感じる、うちうちの安心感と、母の肩越しに見える、はてしなく広い世界。もうその時代に戻ることはできないけれど、あのときに感じた気持ちを、思い出す。

 

 「かむかふかむかふかむかふかむかふ」は、そんな仕組みが作用することで、鑑賞者が内と外の繋がりを肌身で感じ、改めて自己に取り巻く境界をも考えていく「かむかふ」行為に導いていく。そんな鑑賞体験を創り出し続けるのかもしれない。

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