「分断時代のモニュメント」
参加作家: メカラウロ子、きんたろう、甲T、加治屋弘樹
(※いずれも、新芸術校第6期生)
会 場: おだわら市民交流センター UMECO
会 期: 2021年7月31日(土)~8月26日(木)<27日間>
展示コンセプト:「ポスト二宮金次郎像」――偶像破壊、その後。
ブラック・ライブズ・マターに端を発し、各地で銅像を損壊する事象が相次いでいる。米国ではコロンブス像やジェファーソン・デイビス像が路上で引き倒され、英国では17世紀の奴隷商人エドワード・コルストンの像が海に投棄された。
銅像は、重要な歴史の一場面や、偉大な人物の功績を後世に伝えるため、これまで世界中で大小さまざまに制作をされモニュメントとして設置されてきた。日本国内において著名なものの一つとして思い浮かぶのは、二宮金次郎像であろう。薪を背負いながら本を読む、実直で勤勉な少年の像である。1945年以前に建てられた学校の多くに設置され、その数は実に千体を越えていたとも言われる。量産された彫刻作品として、最も頒布したものとして間違いないだろう。
小田原生まれの二宮金次郎は、成人後は二宮尊徳と名を変え、藩の財政を立て直したり、関東圏を中心とした農村を復興するなどして生涯を全うした。彼の思想は「報徳」と呼ばれ、内村鑑三の『代表的日本人』にその名が挙がるなど、その人格や思想の教育的側面が評価されて、学校への像の設置ブームが起こると共に瞬く間に日本全国に広まり、プロパガンダの役割を果たすことにもなった。私利私欲を排して公のために尽くした二宮尊徳の姿を一つの理想形として捉え、彼の幼少期の姿をロールモデルに、同年代として感情移入がしやすい形として提示したのが二宮金次郎像であった。
しかし、近年の学校には、この金次郎像は無くなりつつあると言う。子供が働きながら勉強をする、という有り様がそもそも現代の社会状況に適合しなくなったことや、歩きながら本を読む姿が、歩きスマホを助長する、といったことまで、理由は様々である。私はこれを、理想的な教育シンボルの破壊、つまり偶像破壊(イコノクラスム)の一種として捉えることができるのではないかと考えた。
社会環境・教育環境が大きく移り変わりを見せる現代に、もし、二宮金次郎像に取って代わる 「ポスト二宮金次郎像」 が現れるとしたら、一体どんなものになるだろうか。私たちは未来を担う子供たちに向けて、どのような理想を提示できるだろうか。本展では、そうした観点からアートに何ができるかを考えるべく、以下4名の作家を選んだ。
1. 分断のその先へ (メカラウロ子)
メカラウロ子が提出した個展プランに関心があり選出した。彼女が掲げるコンセプト(自覚・分断・分離)すべてに共感するわけではないが、提出されたプランに教育的側面を見出すことができ、今回のテーマを受けてどのような作品を提出するのかを見てみたいと思った。彼女が経験してきた性差別を、さらに広く敷衍して痛みとして捉えた時、それを癒し、同時に倫理観を問う表現をすることができる作家であると考えている。また、彼女の作品は映像作品を中心に、観客のイデオロギーを取り込みながら作品として成立させる点で双方向性があり、一つのイズムに縛られない柔軟さを持ち合わせてもいる。
2. 共感性エンハンスメント (きんたろう)
個々人に降りかかる、些細だけれどもクリティカルな別個の経験をもとにしたものを「主観的成長」とし、その集積として一個人が成立する。同時に、それぞれの経験は異なるが、しかし共通して得られる「共感性」についてもまた、きんたろうは思考を巡らせている。個と全体を往復する中から、みんなのものであって、同時に各個人のものでもあるもの。そうした両義的なモニュメントもあり得るのではないか。また、個展プランで提出されたフラッグ状の作品のように、スケール・モチーフ面で、キャッチーさを表現できるのがきんたろうの強みであると考えている。上記理想を組み入れながら、子供に親近感を持ってもらえるようなモニュメントを見てみたい。
3. 存在の萌芽 (甲T)
甲Tが個展プランで提出した過去の自分を肯定する作品は、単に個人的なトラウマの克服を果たしているようでいて、同じように迷いをもつ子供たちに希望を与える普遍性があると捉えている。子供たちは成長するに連れて様々な挫折に直面するだろうが、それでも尚立ち上がろうとする生命力のシンボルとして最適であると考えた。同作品はゴミで作られた芽それ自体で成立するものではなく、その周りの環境やストーリー付けも必要条件であるため、組み合わせによるインスタレーションを展開してもらいたい。
4. インビジブル・オブジェクト (加治屋弘樹)
情報社会に適した回答にアプローチして欲しいのが加治屋弘樹である。人類が積み上げてきた歴史は情報となり、いまも更新・修正・改竄をされ続けている。それを継承し、さらに次代へと繋いでいくのが子供たちであるならば、情報をテーマにしたモニュメントはどのようなものになるだろう。個展プランとして提出された「HISTPEDIA」は、蓄積された情報を修正経緯も含めて提示する。たとえばこれが、各学校や教育機関に設置され、日に日に個別の情報が更新されていくことで、歴史の積み重ねと、将来積み重ねられるかもしれない可能性、つまり、自分たちの現在の行動にも間接的に影響を与える装置として、応用できるのではないか。そうして蓄積された情報は、いつの日かオブジェクトたる端末が撤去されたとしても、目に見えない情報データとしてたしかに残り続けることになるだろう。
情報通信技術が進化し、グローバル化と共に世界がフラットに繋がりつつある一方で、既得権益側とそれに対抗する側とで、再び分断に向かう動きが露わになってきた。国家、人種、宗教、ジェンダー…対立点は無数に存在する。対立に直面したとき、自らの権利を主張することは必要であるが、同時に、他者の痛みを知り共感することの重要性が今後さらに増していくであろう。”自分は常に誰かを傷つけうるのだ” と自覚すること、そしてそのことをアートが媒介となって伝えることができると信じている。
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