作品プラン
《暴力の正当化、非暴力の難しさ》
大学で、広島のリサーチ旅行があり、そのリサーチで得たものについての話し合いの機会があった。そのとき留学生が「リサーチに行くまで、原爆というと『キノコ雲』のイメージを持っていた。」と言っていた。
私はそのリサーチには同行できなかったが、広島に5年ほど住んでいたことがある。そして私が原爆について抱くイメージは、キノコ雲でもなく、原爆ドームでもなく「溶けた人間の皮膚のイメージ」だ。それは、決して原爆だけから来るイメージではない。東海村JCO臨界事故のイメージでもある。
私は、ナショナリズムから来る被害者意識を持ってこの話をここで述べているのではない。ただ単に、ある出来事に関するとても大きな認識の差に、ひどく驚かされたという話である。そこで見てとれるのは「出来事をあるイメージに置き換えて、実際よりもとても痛みの少ない出来事として認識すること」とも言える。
そして、私は他の国における、ある出来事による被害の実態をどれだけ把握できているのだろうか、と反省してみる。そのとき、出来事をある単純なイメージに置き換えて、実際よりもとても痛みの少ない出来事として認識することが私の中にも明らかに存在していると感じる。
今回、それについて絵にしてみた。世の中に存在する、様々な場所、時代における人々の様々な痛みを直視することが正しいと主張するつもりはない。それを直視し、他人の痛みを想像し、それをなぞることに耐えなければならないとは思わない。ただ、見て見ぬふりや何か単純な「イメージ」に置き換えてしまうのは、違うとも思う。
また、人は何かを理由にある暴力を正当化することがある。非暴力を貫くことは難しい。そして、ある異常な状況(戦争など)における人間の暴力性を見つめることよりも、異常な状況が作られる過程に目を向けなければならないと思う。それについても絵の中に描きこんだ。
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