作品プラン
《人生をかけた雄大なる言い訳》 ステートメント
「日本の社会問題を描いてみよう」。口に出して読んでみると、なんだかそんなことはどうも自分には借り物のような気して、
それに傲慢にさえ思え、なんだか気がすすみません。
しかし好むと好まざるとにかかわらず、各々がこれを自明と認めるか否かは別にして、そもそも絵画という結果的状態や、あるいは絵を描くというはたらき自体に、どうしようもなく、社会というものに分かちがたく結びついてしまう性質を感じます。
例えば、「社会」というものをざっくり「現実」と言い換えてみたとして、「現実」というものから突き抜けて剥離された表現がもし存在するとするならば、それは取りも直さずそのこと自体が、私たちの(あるいはその表現者の)現実をあらわしてしまっているとも言えるでしょう。
加えて、もしもこの世界と、その営みと体系、その一部である自分というものへの興味が「ほんとうに」露ほどもないと豪語する者がいるならば、そんなものは眉唾だと思います。
つまり私は言い換えるなら、高速でねじれながら推移していく運動から生まれる遠心力で吹き飛ぶ垢のような上皮の欠片たちが、水しぶきのように撒き散らされ、それぞれが透明と不透明との不規則な点滅を起こしながら、微かにきらきらとした輝き(実際のところ「輝き」などとは程遠い、静かで健気な励み)を放ち、そしてようやく各々に着地し、これらがおぼろげながら確かに堆積していくことによって浮かび上がる、複数の時間的なかたまり達の総体がおりなす様相に、溺水することなく入水し、これをたしかめ、概観し、更にこれを以ってなにかある形に整えてみせることの達成への、欲求と必要があるかともし聞くのならば、強くはっきりと頷くことが出来るのです。
さてひとまず何か自分に見えるもの(体感するもの)の描写のようなことをしてはみたものの、しかしここで、実はこの風景というものは、いつでもめくれ上がるようにひっくり返るリバーシブル構造体であることを発見します。つまりいつでもある拍子にこれは反転し、自分というものがこの世界自体を内包する袋のようなものにメタモルフォーゼするのです。
任務遂行のためには、この構造体のすばやい反転運動の狭間に一瞬だけみえる核に、なんとかして近づかなければなりません。そして、どうにか接近しようと執心するうちに、高速に往復運動をするやわらかな構造体が、ぺちぺちとこすり当てつけた体液の痕跡、集積が、今日私の絵となってあらわれているように思えるのです。
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<小ステートメント>
「社会を描いてみよう」。うーん、なんだか気がすすまない。
でも社会というものと絵の間に、分ちがたく結びつく性質を感じる。
そしてもし誰かが社会に対して一切興味がないなんて言うならば、それは嘘だ。
曖昧だがはっきりとしたこの景色のことを絵のかたちに整えることが出来たならどんなに素晴らしいだろう。
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