作品プラン
《ちゃぶ台の前に座る老婆》ステートメント
夕暮れどきのジャスコやイオンのフードコートに行くと、老人が割引シールの貼られたお弁当をひとり食べている。自宅でわかしたお茶をペットボトルにつめ替えたものを大事そうに飲み、それをまた鞄にしまう。それを横目に見て私は特に強く具体的な感情がわき上がるわけでもなく、とはいえその映像は、月日がたってからも何度も頭の中で繰り返し流される。91年生まれの私は、小さいころから少子高齢社会という言葉を身近に耳にしながらも、だからといって特に危機感を持つこともなくぼんやり育ってきた。
日本の社会問題について何か言えと言われると心臓がばくばくしてくる。大学で美術を専攻して、より美術とふれるようになってから、美術家たるもの(そもそも大人たるもの)社会に対して問題意識、あるいはせめて社会の一員であるという自覚をもっていないとどうやらマズいことがいよいよわかり、昔からあったぼんやりとした気持ちが劣等感であることに気がついた。
誰かといるときにそういう話題になったときには、意識の低い感じがバレないように曖昧な相づちを打ちながら、出来る限り空気のような存在になれるよう過ごしてきた。どうにかしたいと思うのだが、どんなに頑張っても社会とやらのことを自分のこととして切実に考えることができない。国民としての自覚とかもない。
このことは、身体にできた超巨大なイボのように、人には見られたくないし、しかしその明らかさゆえに隠し続けることはできず、なんとか解消できないかと思いながらニュースで日本や世界で何が起こっていることを見ても、本を読んでも内容が脳みそまで届かない。この罪悪感と強迫観念から克服するための方法として、身の周りで起こっていることで、せめて作品をつくり続けてそれを並べたものを取っ掛かりにどうにか社会との関わりに繋げていけないだろうかという、言葉にすると随分甘く傲慢な気持ちと共に制作してきた。そしてこの絵もやっぱりその延長線上にある。
文字数:810