→(2011)→2016→2050

作品プラン

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震災後5年半、いわきに行くなら昔お世話になったお宅を訪ねたいと思い、まずはGoogle map検索したが出てこない。津波に遭われたと聞いたが、そろそろ仮住まいから戻られたのではないか…。この辺りと思う場所にストリートビューを落としたら何もなかった。実際行ってみたらその通りだった。(140字)

 

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いわきから各駅停車に乗り換えて3つ目に久之浜という駅がある。私が小学生の頃、この町で私たち家族はあるお宅の離れを借りて2回の夏を過ごした。日の光をいっぱいに浴びたこの土地の人は誰もがおおらかで明るかった。当時この地に住むという話もあったせいか、その後は縁がなくなってしまったがいつも心の中にあった町だった。数十年前ぶりに降り立った駅舎は驚くほどに記憶そのままにあった。駅前ロータリーも人の気配は無いが、佇まいは残っている。コンビニが1軒だけあり少しホッとする。意外に変わらない…訳はなかった。海に向かって直進すると、あったはずの駅前商店街は一軒も無く、歩き出した数メートルで空き地が目立ち民家もまばらになる。私の知らない町になっていた。

そのまま真っ直ぐ進むと、水平線が見えたはずの二つ目の十字路の先はヘラでなでられたような坂が防波堤の方から降りてきているだけの黄土色の世界だった。これが噂に聞く「嵩上げ」というものか。重機が1台孤独な作業をしていた。すぐそこが海のはずなのに、堤防までの道は工事中で閉ざされている。この景色が復興の現在進行形の現実と思うと愕然としてしまうが、そうではない。今何もないのは獲得した「0」なのだ。

3・11は、この町にも大きな爪痕を残した。津波とそれに続く町の中心部の火災で海沿いの地域の67%の家屋が大規模半壊以上死者68人という被害が出た。※① 加えて原発事故の影響で一時屋内退避指示も出ていた地域でもある。

この町の河口から南へ進む津波の被害のひどかった海沿いの地域は、土地区画整理事業・都市公園事業として県と市によって一体的に整備されることになった。区域内の土地は一度権利も集められ、この更地の一部はすでに元住民に再分配され始めている。他の部分は防災緑地して利用され、戻れない元住民には移住先も提供される。私が訪ねたかったお宅の場所はその防災緑地に指定されていた。おそらく知り合いは高台への移住を決意されたと思うが、たとえ津波のためであっても海と共に生きてきた住民が海を離れる選択をしなければならない心情について、ふらりと来た他所者が一時のノスタルジーで語るべきものは何もない。それでも被災したあの日から今日までこの地の人の日常(あるいは非日常)は連綿と続いてきたのであり、(それは誰でも同じことであるが)これからも続いて行く。

この地区の復興対策協議会がまとめた「復興グランドデザイン」※②というレポートではまちづくりの達成目標年度を2050年と設定している。途方もなく先のようにも思われるが、一つの町の生活が、住まいや防災面だけでなく、文化として産業として、再び次の時代へ渡せるようになるための再構築にはそれだけの時間が必要なのかもしれない。

防災緑地となるあたりには植林の準備が進んでいた。黒松の苗が植えられるそうだ。2050年、久之浜の堤防沿いは緑深い松林となっているだろうか。この松林が深く根付いて人々を守り、その物語が次の世代に語り継がれるように。

 

 

※①『被災状況と復興への取り組みについて「いわき市久之浜地区」』福島県いわき建設事務所www.pref.fukushima.lg.jp/uploaded/attachment/74690.pdf

※②『久之浜•大久地区復興グランドデザイン』久之浜•大久地区復興対策協議会・いわき市 平成26年7月http://www.city.iwaki.lg.jp/www/contents/1001000003638/simple/HisanihamaGD-digest.pdf#search=%27%E4%B9%85%E4%B9%8B%E6%B5%9C+%E5%BE%A9%E8%88%88%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%87%E3%82%B6%E3%82%A4%E3%83%B3%27

 

 

 

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