思い出たちの家

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思い出たちの家

 老人が慎重に腰を下ろして手に持っていた杖を手放すと、杖はオートジャイロで自立したまま、静かに揺れて次の出番を待った。パナマ帽を脱いでテーブルに置き、真っ白な髪とアゴヒゲを撫でつけながら椅子に座りなおして指を組む。それを確認した孫が向かいの椅子にそっと腰を下ろす。

昼下がりの光が、窓の外の木々の間からテーブルに影を作っているのを眺めながら、老人はしばらくじっと動かずにいた。ときおり、ブツブツ呟いたり、うなずいたりしている。

「タクシーはもうすぐ来るって。」

孫が務めて明るく言った後、ひとつため息をついて続ける。「…新しい目のことなんだけど…ホントによかったの。」闘病生活の末に視力を失ったとき、老人はひとつの選択をした。最新式の人工眼球の移植手術だ。若者にはひと昔前のレーシック手術並みに一般的になってきた技術とはいえ、彼のような年齢で手術に踏み切る例は多くはなかった。

「ああ…心配かけたなあ。」人工眼球自体が高価だ。手が届くのは予め広告やAIアプリがバンドルされ、削除ができない「広告・キャラクタあり」モデルだけだった。それでも、老人にはもう一度見たいものがあったのだ。「まあ、キャラクタは慣れると便利だけど…。」孫はブツブツいいながらタクシーを迎えに外に出ていった。 

 「キャラクタ」は様々なAIアプリの総称で、視野にアバターが直接重ね合わされているとのことだったが、老人には説明を聞いてもよくわからなかった。老人がため息をついて立ち上がると、視界の右上にヘルスケア用のキャラクタがポップアップし、「脈拍が上昇中です」と教えてくれる。

矢印が一瞬アニメーションして、外で待つタクシーまでの順路を示して消える。SNSのキャラクタがメッセージ着信のたびに光る。そのたびに律儀に対応していたが、ほとんどは広告だった。そのほか、老人の注意を引きたいが特に出番のないキャラクタたち(「おすすめ資産管理!」だの、「旅行のご案内」だのと書いてある)は、邪魔しないよう視界の端で控えながらも、時折揺れたり、動いたりしている。老人はどんなキャラクタもクローズしなかったので、その数は日を追うにつれて増えていった。キャラクタたちが、老人を取り巻いて移動する。

 自宅まではちょっとした小旅行だった。新しい視覚は、肉眼より遠くまでフォーカスが出来るものの、ピントを合わせたり、急な移動への追従性は低く、早く動くものを捉えるのに向いていない。それに加えて、様々な広告が次から次へとポップアップしていく。老人は、景色を見ることを諦めて目を閉じた。

「着いたよ。」

孫の声に目を覚ますと、再びキャラクタに満ちた視野が老人の目の前に開けてきた。ただその中心には、懐かしい我が家があった。

「おお…!」

タクシーを出た老人は、かつて何度も心に思い描いていた細部から、しばらく目が離せなかった。古道具で気に入って苦労して据え付けた鉄製の門扉にはヘンリーツタの茂みが繁茂して絡みつき、その先のエントランスに敷いた石畳と調和している。木造の外壁は、記憶にあるより古びて塗装がところどころ剥げている。

玄関ドアの隣には、かつて飼い猫がよく日向ぼっこをしていた木製のベンチ。

「…あそこによく丸まって、わしの帰りを待っていたなあ。」

「チャーちゃんでしょ。ほら。」孫が言うと、白に茶色いブチの猫がポップアップし、孫に向かって駆けてくる。孫はそれを抱き上げると老人に見せた。猫は老人に向かって目を細めると、甘えたように「ナー」と鳴き、前足を熱心に舐め始めた。飼い猫がいつもしていた仕草だ。ブチの色も位置も、記憶にあるとおりだ。

「チャーちゃん??」

一瞬視界が赤くなり、脈拍、血圧、呼吸、そのほか様々なキャラクタから一斉にアラートが鳴る。汗が吹き出して手が震え、杖が自律行動にシフトして身体を支えなければ、あやうくひっくりかえるところだった。あまりの反応に孫も唖然としていたが、「あ、ああ。びっくりしたかな。これはチャーちゃんのキャラクタだよ。ある程度ライフログ蓄積していれば再現できるって話、してたでしょ。」

「そうか…そうか…お前も戻ってきてたのか。」

老人の脳裏にこれまでに失ったモノたち、別れた人たちの記憶がよぎった。

ポン、ポン、ポン、ポン、ポン…視界の端に、無数のキャラクタがポップアップする気配を感じる。

そのとき後ろで、古いドアが軋んで開く音がした。

「あらあら…そんなところで何をしてるの?」面白がるような声だ。懐かしい声。

老人はゆっくり振り返り、家の中に入っていった。

「ただいま…帰ったよ。」

無数の思い出たちが待つ家に。

文字数:1884

内容に関するアピール

過剰な福祉や過剰な情報…などの連想から発想しました。

ARやVRなどが高度に発達し、常に無数のライフログが蓄積される時代になっていくと、

実物と記録の境目があいまいになっていき、我々の死生観さえも変わって行きそうな予感がします。

昔の写真や動画を見て懐かしむように、実物そっくりのAIが傍にいる…というのが、当たり前になるときがくるのでしょうか。そんなことを考えながら書きました。

文字数:187

課題提出者一覧