梗 概
勇魚の浚い
「私」は雪の里山を歩き、紅い葉を一枚残した楓に行き合う。さくさくと雪を割りながら近づき、木肌に手を触れようとした時、正面から風が強く吹いた。
ざっと吹きあがった粉雪は高さ30mに達し、私があっけにとられていると垂直に立ち上った白い風は楓を包み込み、葉をもぎ取ると空高く持ち上げてゆく。
山にいる私には知る由もないことだが、この風は遥か洋上で無数の波が重ね合わさった突発性の大波、フリーク波が発生したのと同時に吹き上がっていた。またこの時、大波は一頭の鯨を水面から30mの高さまで持ち上げようとしていた。
私は舞い上がる紅い楓の葉を真っ白な世界の中で見上げるうち、ふと鯨の鳴き声を聴く。体の芯に響くようなその音を浴びた時、私は唐突に正気を取り戻した。
私は里山を歩いていたのではなかった。熱塩循環が停止した結果、表層に淡水層を保ち続けている北大西洋の広大な氷海の中、死水のせいでプロペラが内部波を生じるばかりとなり、推力を失った船上でひとり、低体温症に伴う幻覚から故郷を思い出しながら漂流していたのだ。
そしてフリーク波も鯨もはるか遠くのどこかの話などではなく、確かにいま目の前で展開する光景だった。私を乗せた船は立ち上がる大波へ向けて10mの高さを滑り落ち、ビル四階分相当の頭上に見える鯨は大量の水を身に纏うようにして一気に落下してくる。海面を叩きつける大質量が船を底から吹き飛ばすのを感じながら、私は落ち過ぎて行く鯨の赤い目と、自分の目があったような気がする。その美しさに思わず手を伸ばした私の手のひらに、そっと紅い葉が乗る。
細かな雪の粒が、さあっと音を立てて降り落ちる。里山に佇む私は手の中の葉をしばらく見つめると、そのまま激しく自分の頬を叩く。空が見える。イマーションスーツを着ていたおかげか海中に沈むことはなかったが、あおむけで浮かんだまま、体はひどく冷えている。鯨の声が海を伝って体に響く。流れてきた船の残骸の中に火箭がある。どうにかそれを掴み、紐を引く。赤色の信号弾が先ほどの波よりも高く空に登る。何故かはわからないが、私の周囲を鯨が周遊している。
病室で目を覚ました私は駆けつけてきた同僚から、運よく母艇が呼んだ海難救助ヘリに拾われたことを告げられる。鯨を見なかったか尋ねるが、見ていないと言われる。病室の窓から楓の木が見える。私は鯨の鳴き声を思い出す。
文字数:986
内容に関するアピール
物書きとしての自分の武器について考え、「詩的な空想描写」が好きだ、と思いました。なので、今回はこれを中心に据えるよう心掛けました。「私」の視点が、楓と鯨をきっかけにしながら里山と海との間をだぶらせながら移り変わるような描写を本文ではより丁寧に書きたいと思っています。通常私が気ままに書いてしまうと、この稿の場合は楓の葉を手にした主人公がそのまま踵を返して終わり、という雰囲気になってしまいがちなのですが、詩ではなくて物語を、と意識して梗概をまとめました。
フリーク波を扱うアイデアはフランク・シェッツイング『知られざる宇宙 海の中のタイムトラベル』から。主人公を雪山に立たせ、また鯨に主人公を救わせたのは「浚いの風」という単語から、それぞれ想像を膨らませました。
文字数:331